手を離してもなお頬を上気させたまま、りんごはにこにこしていた。
「君が見込み通りの人間で本当によかったよ」
「そりゃどうも」
そこまで嬉しそうにされると照れてしまう大封である。
「それで」
そして、言った。
「俺以外には何人に声をかけたんだ?」
いかにも冷静に、和気藹々とした空気で、笑顔のまま彼は、そんな台詞をりんごに突き立てた。
「……どういう意味かな?」
「まさか」
目の色が変わる。
「俺を正義感だけのアホだ、とか思ってねえだろうな?」
彼は机の上にばら撒かれた資料を人差し指でコンコンと叩いた。
「今テメエと握手したが……二人とも手の平はさらさらだった。あんまり手に汗を掻かない体質なんだろうよ、お互いに。だがこの資料はどうだ、ところどころしわしわになっている部分がある。まるで――手に掻いた汗がしみ込んだみたいにな。俺でもテメエでもないとすれば、誰がこの資料を触ったってんだ?」
畳みかけるように大封は続けた。
「それに東条よ、テメエケーキも紅茶もほとんど口をつけてねえよな。あんなに旨そうに食うくせに。目の前に俺がいたからって遠慮するような玉でもねえだろよ。まあ、腹がいっぱいだってんなら仕方ねえが、昼食はもう四時間も前の話だぜ?」
それはつまり、何を意味するのか。
「大体だ、客が一人もいないこの店で、入店直後からマスターが皿を洗っていた、というのも俺にはかなり不自然に思える。そのパウンドケーキが乗ってるのとおんなじ大きさの皿をな」
言って、りんごの目を見る。まっすぐ大封を見つめるその目を、見つめ返す。
「今日は土曜日で半ドンだったてのに、待ち合わせ時間が四時ってのも……まあ、それ単体では不自然じゃあないが、こうなってくると気になってくる。一二時から四時までの間、テメエは一体どこで何をしていた?」
「……」
緊迫した空気に縛られて、刹那二人は静止する。
「……大した洞察力だよ」
先に動いたのはりんご。
「大正解さ。んー、本当は秘密にしとこうと思ったんだけど、ここまで言われちゃ言い逃れはできないね」
彼女は手の平を上に両手をあげて、アメリカンに肩をすくめる。
「君を入れて全部で八人。内訳をいうと、ビビったのかここに来なかったのが五人、見え透いた下心から来たやつが一人、最後の最後で協力を断った意気地無しが一人。そして無鉄砲な男の子が一人、ってとこかな」
「……そんなにいたのか。昨日の時点で俺だけじゃあないだろうとは思ってたが」
彼は半分唖然とした。
「その話だけ聞くとテメエがただの遊び好きの女に見えてくるぜ」
「それはあながち間違ってないかも。その資料の口止めにデート要求してくる馬鹿もいたからね。まあ引っぱたいてやったけど」
「どうして隠してたんだ」
大封は咎める。
「別にい? 言ったら君の気を悪くするかと思ってね。君こそどうしてこんなこと気にするのさ。さっき言ってたことは確かに結論からいえば筋は通るけど、状況証拠ばっかりだし、ヘタすりゃただの妄想じゃん。違う?」
「いや、違わねえさ」
言って彼は人差し指を立てた。
「ただ、とりあえず言いたいことが一つあっただけだ」
「言いたいこと?」
「これから本当に協力するってんなら、お互い腹の探り合いはなしだ、ってこと。言うべきことはすべて言ってもらう。俺は信用できない奴と組むつもりはないし、俺を信用しない奴と組むつもりもない。隠し事はこれでおしまいにしてもらう」
「……おーけー」
無言の圧力を感じて、りんごは頷く。
「わかったよ、もう隠し事なんかしない。今の調子だとしてもばれちゃいそうだし」
頷いて、へらへらと笑った。
「……それじゃあ盤石な信頼関係が築けたところで、さっさと本題に入ってもらおうか」
「本題?」
「とぼけるな」
大封は片手で机を叩く。
「ぉぅっ! びっくりするじゃんばかぁ! カッコ驚きカッコ閉じ!」
「こんな無価値な資料だけで情報提供したと言い張るつもりか」
「む」
「単純な話、この資料は試食だろ。さっきテメエも自分で言ってたが、この情報は全体のほんの一部。信用出来るかどうか、協力するかしないかもわからん奴に、本当ウマい情報を食わせるはずがない」
つまり。
「まだあるはずだ、ここで俺に見せるべき情報ってのが。さらに言えば、そのために今まではずっと俺を試していた、とかな。どうだ?」
「……正直な話、君の反応次第で見せるのはやめようかとも思ってたんだけどね」
りんごは口だけで笑った。
「期待以上だよ、大封君」
その含みある底の知れない笑みに、大封は何故かゾッとする。
「御託はいい、さっさと見せろ」
その感情を打ち消そうとするように、やや食い気味で彼が言い、そして言うが早いか、りんごはバッグからノートパソコンを取り出していた。それを開いて、大封に向ける。
「君は鼠小僧からの予告状を見たことがある?」
「あるわけねえだろ」
「じゃあ今存分に見るといいさ」
文庫本を二つ並べた程度の小さな画面に映ったのは、メールの受信ボックス。
「? メールじゃねえか」
「これが予告状だよ。もちろん全部バラバラのアドレスから送られてるし、発信元の特定なんてできないけどね」
言われてよく見れば、メールは全部で一六件あり、件名には犯行予告時間と思しき数字が入力されている。そしてどれも本文はなし。
「……肝心の場所と獲物がねえぞ」
りんごが裏から器用に一つキーを押すと、一番上のメールの添付ファイルが開いた。建物の屋根のような画像が表示されている。
「一部しか写ってないけど、この写真が一応犯行予告ってことみたいだよ」
この画像から場所を特定するということらしい。
「……そこまで親切設計じゃないってわけか」
大封はアドレスに何か暗号でもあるのではと考えたが、さすがに守護者もそこまで馬鹿ではないだろう。そんなものがあれば気付いているはずだ。と思いなおす。
「で、この予告状がなんだってんだ」
「ま、せいぜい驚かないように心の準備をしておくことだね」
意味深な笑顔のまま、りんごはポケットから何かを取り出す。
「はい、これなーんだ」
「……メモリー?」
りんごがその手に持つのは、指で押し潰せば壊れてしまいそうなほど薄くて小さい、一枚のメモリー。彼女の笑みに、大封は不吉な予感を覚える。
「そう、でもただのメモリーじゃないんですねー、これが」
そして未だかつて彼が見たこともないような悪人面でほくそ笑むと、声を低めてりんごは呟いた。
「次の予告状――盗んできちゃった」
「!?」
大封は耳を疑った。
「守護者に届く前に回線をジャックして、無理やりダウンロードしちゃいました」
「……じゃあ、そのメモリーはまさか」
「そのまさかでーす」
あまりにも軽い返答に驚愕のまま、彼は声を荒げる。
「おい! 資料を無断で持ち出したくらいなら子供のいたずらで済まされるかもしれないが、そんなことをすれば十分立派な捜査妨害とデータの不法侵犯に」
「だから何?」
ピシャリと言い返すりんごの表情は、まだ口元に笑みを浮かべたまま、怖いほどに冷たかった。大封は思わず言いかけた台詞を飲み込む。
「まさかまだそんなこと怖がってるの? そんなわけないか。君は君の正義に従うだけ、そう言ったものね」
「だ、だが」
「私はとっくに覚悟なんて出来てるよ。本気なのさ。嫌ならここから逃げ出して、守護者に通報でもすればいいじゃない。ま、そんなことが君に出来ればの話だけど」
「ッ……!」
冷汗が一筋、彼の頬を伝う。
「……はっ」
だが彼もひるまない。
「素晴らしいじゃねえか。やるならこれくらいしてくれないと白けちまうぜ」
今この瞬間から、俺は共犯者なのだ。
大封は、改めて覚悟を決める。
「そう、それならいいんだけどね」
平らな声で言いながらりんごは、メモリーをパソコンへと差し込んだ。いくつかの雑多な画面が過ぎ去っていくと、そこに表示されたのはまたしても一件のメール。
「タイトルは53101200――五月三十一日の深夜十二時ってことか」
「大正解」
りんごの声を耳にしつつ、大封はファイルをダブルクリックする。表示されたのは薄汚れた壁と、積み上げられたコンテナ。
「……なんだ? どっかの倉庫か?」
「君の最初の任務はそれがどこだか探すこと」
「は?」
「今日は二十七日なので、あと三日で探してもらうことになるかな。ファイト!」
「おいおいちょっと待て、こんな画像だけを手掛かりに探せっつーのか?」
「そ。文句ある? まあ、あっても受け付けないけどね」
「……」
頭を抱えかけて大封はある事に気づく。
「あれ?」
メールの本文画面横に、スクロールバーがついていることに。
このメールには存在しているのだ。
今までは存在していなかった『本文』が。
「……!」
夢中で画面を下へ下へと送り続け、彼はついに発見した。
「あぁ……?」
合成ドラッグ。
「ごうせいどらっぐぅ?」
大封は首をひねって考えを巡らせる。
麻薬の事か? 麻薬を保管してる倉庫ってことだろうか。しかし何故今回のメールにだけヒントがついているのだろう。
「そんでさあ」
しかしりんごはそんな彼の様子など気にも留めない。
「ん、どうした」
「んー、まあ、ね。ちょっと貸して」
パソコン回して自分向きにすると、彼女はキーボードをカチカチと叩き始めた。
「さっき見せたじゃん、予告状全部」
「ああ」
「んじゃまあ、ちいとばかしこれをご覧よ」
りんごは再びパソコンを大封に向ける。
「……!?」