10. ちゃんが取れた日
10. ちゃんが取れた日
それから三ヶ月間――
僕はNASAの研究機関に詰めるかたわら、たくさんたくさん勉強した。
ミヤちゃんのご両親の承諾も(ちょっと早いけど)もらえた今、僕はそれなりの男にならなきゃいけなくなったのだ。
といっても、院長を継ぐのは僕ではない。
ひとつのクリニックの院長になるなら、少なくとも医師免許は絶対いる。
僕は医学部卒ではないから、医師免許を手に入れるためには、まずは大学に入りなおさなければならない。医学部生生活は多忙を極めるため、仕事との両立は確実に不可能。
しかしそうなると、長い間現場を離れなければならない。
通訳を必要とする人たちが、そこにいるというのに。
こうしてNASAに数ヶ月間来ることも、心が痛むくらいだ。なのに何年もなんて。
しかし僕の悩みはミヤちゃんによって吹っ飛ばされた。
「カノンはお婿さんになるんだからいいの!
院長には、あたしがなるから。
カノンはガンガン働いて、勤務年数稼いで福祉とか介護の資格いろいろとって、あたしを助けてくれればいいの。
カノンはすっごいチカラがあるんだから。でもって優しいから、みんなカノンが大好きだもの。誰もモンクは言わないわ!」
それを聞いた翌日、母さんはうちから料理本を発掘して持ってきた。
そんなわけで僕は資格試験の勉強のかたわら、花婿修行(?)に励んだ。
自室は自炊のできる部屋にしてもらって、日本から持ってきた本やネットの情報を頼りに、料理を作ったり、自力で掃除をしたり、ボタン付けやズボンの裾上げをしてみたり、いままで考えてもみなかったほどいろいろなことにチャレンジした。
研究チームの人たちとも、へたくそながらに会話して、英語を教えてもらったり、料理を交換しあったりした。
そんなこんなで、ドタバタの日々があっという間に過ぎ去った。
研究は一定の成果を見たようだった。
文系の僕には詳しいところはわからなかったが、脳の数箇所に分散して、そうしたことをつかさどる領域があるらしい。
今後はボランティアさんによる実証段階にうつるので、僕は晴れて国に帰っていい、ということになった。
帰国の前日、仲良くなったみんながサヨナラパーティーを開いてくれた。
飲んで食べて肩を組んで歌って、泣いてくれちゃう人もいて。
研究はまだ続く。だから、また必ず会えるよね。
僕らはそういいあって、友達用のメルアドを交換し、いっぱい写真を撮った。
そして今、僕はここにいる。
ナルダ空港、入出国ゲート。
たしかミヤちゃんたちが、迎えに来てくれるはずだ。
心の耳を澄ます。
すると聞こえてきた。ちょっぴり子猫のような、あの可愛らしくて優しい<声>が。
<カノン、来たよ! どこにいるの?>
<ここだよ! 入出国ゲートのすぐそば!>
すると向こうの方で、麦藁帽子に白いワンピース、切りそろえたばかりと思しき漆黒のショートボブの女の子が、くるっとこちらを向いた。
「いたー! カノン!!」
「ミヤちゃん!」
彼女はぶんぶん手を振りながら走ってくる。
僕も走った。
数秒後、僕たちはしっかりと抱き合っていた。
「お帰り……おかえりカノン!!」
<会いたかったよ。
すごくすごく会いたかった!!
こんなさびしいならアメリカなんか行かせるんじゃなかったって、何度も何度も思ったんだから……>
いつも元気なミヤちゃんが、ぽろぽろ涙をこぼしていた。
僕はそんな彼女がいとおしくて、細くちいさな身体をぎゅっと抱きしめていた。
「ごめんねミヤちゃん。
もう、中長期プロジェクトなんかいかないよ。
僕も、……」
<君に逢えない間すごくさびしかった。もう離れたくないよ>
するとミヤちゃんは、大きな目に涙を宿したまま、それでもイタズラっぽい顔で僕の鼻をぴん、とはじいた。
「そんなこと言って。
カノンは優しいから、困ってるって言われたら断れないでしょ。
だから、そうね……
婚約はもうしてるし、指輪は買ってもらってもまだつけてけないし。
今日からミヤって呼んで。ちゃんはなし!」
「え!」
「なによ、英語では“ちゃん”とかないでしょ? あたしのこと、チームのみんなになんていってたの?」
「えっと、だから、Miss. Miya……」
「いっつも?」
「いや、それはその………」
そのとき気づいた。僕は彼女に遊ばれている。
よし、じゃあたまには反撃だ。
あとで言おうと思ってた言葉、今この場で言ってやろう。
僕は大きく息を吸い込んだ。
「愛してる、ミヤ!」
すると彼女が顔を寄せてきて。
僕のくちびるが、優しくやわらかくふさがれた。
――これが、僕とミヤとの馴れ初めだ。
ミヤはあれから、猛勉強して見事、大検取得、医大に進学。
(いや、最初は僕も英語の勉強とか見てあげてたんだけれど、ミヤちゃんの頭脳は天才的で、ほとんど一度聞けば覚えるくらいの勢いだった。すごすぎる!)
今は花の女子大生……といいたいところだけれど、医学部生活の忙しさは、文系の、なおかつ人付き合いもろくにせず過ごしていた僕とは大違いで、ほとんど遊びにいったりもできないでいる。
それでも、大学でできた人間の友達と、メール交換したり、時間のある帰り道にはアイスクリーム屋さんによっておしゃべりしたりと、できるかぎりの方法で楽しんでいるようだ。
もちろんうちに帰ってきたら、まっさきに中庭に直行、猫たちをなでなでぎゅっして幸せそう。
ほら、いまもかばんを芝生に放り出して、猫たちと遊んでる。
僕はその姿を確認すると、そっと窓辺を離れ……
「カノン!!」
……られなかった。
どんな方法で移動してきたのか、僕の首にはすでにがっちりと、ミヤの腕が回されている。
こうなるともう抵抗はできない。
「もう、どこいくのよ! みんな待ってるんだよ?
さっ遊ぼ! きょうはネコキック1000本ノックだよ♪」
「ま、待ってミヤ! それ死ぬから!! 僕死ぬから!!」
「だ~め死なせない。未来の院長命令♪ さ、いくわよカノン!」
「そんなあ!」
庭に出ると猫たちが駆け寄ってきて僕たちを囲んだ。
<おおい! カノン遅いぞ~> ミーが白黒ぶちの身体をすりつけてきた。
<早く遊んで~> ナーナは僕の足に茶トラ模様の前足をかけ、今にものぼりださんばかり。
<ねえミヤ。いっそのこと院長にかけあってカノンの一番の仕事、あたしたちと遊ぶことにしておくれよ。ミヤと結婚するまでの間でいいからさ> アメショのアメ姐さんは僕の足をしっぽでぺしぺししながらのたまう。
<あ、そうねそれいいわね♪>
「そんなあ~~!!」
こんなカンジで今も僕は、猫と猫少女に遊ばれている。
けれど。
遊びつかれて芝生にねころぶ、猫たちのわき腹の毛と、ミヤちゃんの細い髪の毛がふわふわきらきら、風と日差しに透けるところを見ていると今日も、心の底から幸せだ、と思うのだ。
そうしてしばらく寝転んでいると、聞き覚えのない<声>がとびこんできた。
<猫ちゃんだ……かわいい……>
顔を上げると、中庭へと続く窓から、ホシカワさんと、線の細い中学生くらいの少年がこっちを見ていた。
そうだ、あの子は確か。
僕はさっそく<声>で話しかけた。
<触ってみる?
みんな優しいよ>
彼は大きな澄んだ瞳を見開いて、僕をみた。
そして、一歩一歩慎重に、こちらに歩み寄ってきた。
<おわり>