16.おまえがいるから俺は走れる
鐘が鳴った。終業のチャイムだ。
秋も暮れ始め、すでに太陽は地球の反対側へと戦いに赴きかけている。
鮮血色のバカでかい恒星を給水塔から眺めているのが空奈は好きだった。
眼下にはジオラマのように小さくなった街が一面に広がっている。
何のしがらみもなく、ずっとこの迫ってくるような光景の中に埋もれていたい。
馬場天馬が行方をくらましてから、一月が経とうとしていた。
去ってゆくものあれば訪れるものもある。
とんとんとん、と梯子を軽快によじ登ってきた少年を見て、空奈はため息をついた。
「またあなたですか。私の聖域に入ってこないでください。しっしっ」
足で蹴落とそうとする空奈に――学ランの左袖をぷらぷら揺らしながら雨宮秀一が抵抗した。
「ちょっ、やめ、あぶなっ」
天馬がいなくなった直後に雨宮は復学した。
腕をなくし、だいぶ痩せた彼を見て誰もが――弟の竜二や自称恋人のイツキも含めて――帰還を喜び祝いあったが、当の本人は以前ほどの暴君ぶりを発揮することもなく、最近では天馬の代わりとばかりに生徒会室で白垣真と麻雀に興じているばかりだ。
そんな彼が放課後、用もないくせに空奈の元を訪れてはだべって帰っていく。
「友達にでもなったつもりでしょうが、お断りです、あなたみたいなダメ人間は」
「そりゃどうも。俺だって嫌だね、てめえみたいな根暗」
「ねっ――最近は、口数も増えてきたって褒められるんですよ、これでも」
「世の中にはお世辞ってものがあるんだ」
「このっ――」
「だから危ない! 回し蹴りって何? この距離で回し蹴りって何っ?」
天馬だったら落ちてたな――と雨宮は額に浮かんだ冷や汗を拭った。
そうして何事もなかったかのようににやっと笑う。
「ふっふっふ」
「気持ち悪い」
「何、今日で一月ちょうどだと思ってさ」
もちろん天馬が消えてから一月、という意味だ。
空奈は案外淡白に答えた。
「そうですね」
「おや、そろそろ意地を張るのもやめるかと思ったが、まだ信じてるのか?」
「ええ」
空奈が頷くと、黒い水のような髪が肩を流れる。
「あなたの思惑と違って、天馬は帰ってきます。必ず」
「約束ってのは破るためにあるもんだ。そろそろ悟れよ」
「いやです」
即答だった。
「いやァ送り出す方もどうかと思うぜ。シマと外国に麻雀しにいくっておまえそれ恋人に駆け落ちしますって宣言してったんだぜ? あいつバカじゃね? 刺しとけよ。ぶすっと」
「ちょっと考えましたけど――」
「やっぱりな」雨宮が重々しく頷く。
それをじろりとねめつけてから、けだるそうに空奈は前髪をかき上げた。
「どうせがんじがらめに縛ったって、天馬はすぐにヘタレていくだけですから」
「ほう――」
「生きているんだか死んでるんだかわからない人と生きていくなんて、ぞっとしませんから、送り出すしかありませんでした」
「はっはっは、まァ気を落とすなよ。失恋ってのも悪くないぜ、思い出になっていく過程がやるせないのさ。いざとなったら俺に鞍替えしちまえ」
「いやです」
「やっぱり」
「私は――」
給水塔から下ろした両足が交互に宙を蹴る。
「天馬の生きようとしている横顔が好きでした。でもあの人は、普通の人とは違った燃料で動く人だった」
「燃料――?」
「そう、平穏とか金銭とか名誉とか正義とか家族とか、他の人たちが心のよりどころにするものの一切が、彼は自分の原動力にできない人でした。ただ、自分の心の奥から湧き上がってくる強烈な感情だけが彼を動かしていた――」
「怒りとも憎しみともつかない――あれか」
「あれです。雨宮にもわかりますか」
「ああ。本当になんなんだろうな、あれは。メラメラギラギラするくせに、相手を恨もうとも、不幸を呪おうとも思えない。ただ自分と相手、二つの生命がぶつかりあった時の熱波――そういうものなのかね。何にしても――妖しいくれえに綺麗なんだよな、あれは」
遠い眼差しを雨宮は燃え上がった地平線へと向ける。
その横顔に空奈は問いかける。
「でも私、あなたは天馬やシマとは違うと思います」
「へえ」
「私と同じで、あの人たちを眺めている方が好きなんじゃないですか?
私もあなたも――彼らとは違う燃料で動いているのですから」
「つまりてめぇはこう言いたいわけだ。俺じゃあやつらと同じ場所には立てない」
「ええ」
「なめられたもんだぜ」
ぐしゃ、と雨宮は右手で艶やかな黒髪をかき乱した。顔をしかめ、吐き戻すように喋る。
「――確かに俺は、もういい、って思う時がある。闘うのなんかごめんだ、ラクになりてぇってな。
だが今じゃ、ちょっとばかし考え方が変わってよ。
諦めそうになる自分を殺し続けること――それが俺の、雨宮秀一の闘いってやつなんだと思う。
やつらとはベクトルが正反対なんだが、地球は丸いからな、ずっと向かってりゃあ、いつかはぶつかる」
「みんなそうやって自分の道をひたすら突き進んでいけば、いつか、ぶつかり合うんでしょうか」
「かもな。ただそこまでいくには長い時間と強い精神が必要だ。運も技術も才能も努力も。何もかもがな。
いつか反対側から向かってきた誰かと出会ったとき――恥ずかしい闘いだけはしたくねえな」
「ええ――そう思います、私も」
だから、と空奈は続ける。
「私、負けません。シマにも。誰にも。
あの人と一緒にいられるのは、私だけですから」
とうとう雨宮が大声で笑い始めた。
「何かおかしいですか?」
「いやいや。なるほどね。シマに天馬を持ってかれても負けねえんだから心配はいらねえってわけか」
「はい」
「強くなったな、おまえ――」
眩しいものを見つめるように雨宮は目を細めた。
「勝算はありますよ。聞きたいですか」
「おう」
「仕方ないですね。――シマも天馬も同じ燃料で動いています。だったら、その燃料が足りなくなったら、きっと奪い合う」
「――――」
「共存なんてできっこないんです、あの二人は。いつまで経っても同胞で、戦友でしかない。パートナーにはなれない。だから私は負けません」
「わからんぜ。いつか、おまえが反対側へ向かったとき、天馬に出くわすかもしれない。そん時ァどうするつもりだ?」
「その時は」空奈の眼差しは昇ったばかりの朝日のように澄んでいた。
「私が勝ちます」
よっこらしょ、と雨宮が立ち上がり、制服の尻をパンパンと叩いた。
「そんだけ元気がありゃあ心配いらねえな。もっとへこんでるかと思ってたが」
「なめんなこんにゃろう、です」
「へっ、誰の真似だそりゃ。――ほらよ」
ぽいっと、借りてた消しゴムでも返すような気楽さで、雨宮は小さな何かを放り投げた。
空奈はぱしっとそれを胸元で捕まえる。
小さな箱だった。
「これは――」
「届け物だ。じゃあな」
とんとんとん、と雨宮は片手で器用に降りていった。
ぽつん、と日の落ちた給水塔に取り残された空奈は、そおっとその箱を開けてみた。
きらり、と何かが光った。
指輪だった。
美しい宝石なんてあしらわれていなかった――代わりに、鋼でできた馬の蹄がくっついていた。
薬指にはめてみるとピタリとはまった。最初からそこにあるべきものだったとでも言うかのように、それはあっという間に指に馴染んだ。
その無骨な蹄を額に押し当てるようにして、
空奈はほんの少しだけ、声を押し殺して泣いた。
しかしそれもすぐに治まるだろう。
彼女はもう、閉じ込められた鳥ではないのだから。