なんとか赤点も無く期末テストを乗り越え、指折り数えるぐらい寝起きすれば夏休みになる。
もうすぐ夏休みだというのだから、夏も少しは休んでくれればいいのに。こうも暑くてはたまらない。
そんな事を考えながら、四時限目を終えるチャイムと同時に、昼食持参で三人で科学室に向かった。
目的地に着いた俺達は声を出さずに驚いた。まさか、本当に科学部での『成果』を見る機会が来るとは。
しばらくしてから目の前に差し出されたビーカーから醸し出されている香ばしい匂いが空気に香り付けしていた。
「どうぞ」
笑顔のまま先程のビーカーの横に置かれたのも、またビーカー。今度は黒々とした液体が入っている。
タイムマシンという非科学的な物を少しでも信じていたのかどうかは解らないが、八代さんは科学部に入った。
出会ったあの日のやり取りはきっかけに過ぎず、元から科学に興味があったらしい。
そういう部活があると知った時から入部を考えていたそうだ。
呼び出された生活感のない、理路整然と備品が並べられた清潔感のある白い壁の科学室で、白衣を着た彼女は思いもしない入部した『結果』を持って現れた。
「……これは?」
ビーカーを満たしている『それ』が、入部してからの集大成だと彼女は言い切った。
「酵母菌を育てるところから――」
科学部っていうのは何かを作る部なんだろうけど、在るのかどうか知らないけど、それは料理部がするべき活動じゃないだろうか。
料理部で出されたなら何の抵抗もないような気がするが、目の前にある科学部で作られたパンとコーヒーには抵抗がある。
でも、
「じゃあ……」
断りにくいじゃないですか。
せっかく作ってくれたのだから、両手を合わせて、いただきます、と珍しく作法を守って口に放置込んだ香ばしい塊は、紛れも無くパンだった。
「……どうですか?」
「うん、美味しいよ」
ビーカーに入ってなかったらもっと美味しいはずだ。
「良かったぁ」
安堵の表情を浮かべて、胸を撫で下ろす仕草がとても愛らしい。
八代さんと俺を黙って見ていた二人――陽介と折笠は身の安全を確認出来て安心したのか、俺に続いてパンを食べ始めた。……こいつら、人を生け贄にしやがったな。
少量のパンを三人掛かりで軽く平らげ、持ってきた昼食をそのまま摂りながら、今まで何度か話していた小さな頃の話に花が咲いた。
「ポケモンは……ほら、ルビーだっけ? あれはやったよ」
女の子だし、年齢的には得てしてそんなものだと思う。けれど、俺はヒノアラシ至上主義だ。
「金銀でもおかしくないはず」
「いいや、赤と緑からやるのが礼儀だ」
それはお前だからだろ。
「遙歌はゲームとかあんまりやらなかったの?」
「私はあまりやってないですね。あっ、でもお父さんが古いゲームが好きなので……名古屋打ち? とか知ってますよ」
温泉街にあるような見下ろし型の古い筐体の前に一人で座っている八代さんを思い浮かべてしまい、必死に笑いを噛み殺している俺を置いて、話題が変わっていく。
「――小さい頃と言えば、やっぱ探検だよな」
「あー、やったね。校区からどれだけ離れられるか、とか」
誰でも経験した事のあるような、行動範囲の狭い冒険記についての話を振られた八代さんがぽつぽつと話し始める。
「私は知らない場所は苦手で……」
その話が、これまで解決の糸口さえ見えない『運命の人』に繋がるなんて、思いもしなかったんだ。
「小さい頃、電車でお母さんと出かけた時に迷子になった事があるんです――」
今度は紛れもなく過去だった。
少し前に出来たコンビニが見当たらないし、遠目に見える川原は整備されてない。それに目と地面の距離が近い。けれど、そんな風景も俺は視る事しか出来ず、喋る事も、体を動かす事も出来ない。
有り体に言ってしまえば……またあの夢だな。
「どうして泣いてるの?」
やはり小さな女の子に喋りかけた。
女の子はまた何も答えず、しゃがんだまま顔を両手で覆っている。
「泣いてるだけじゃ何も分からないよ」
随分大人っぽい物言いじゃないか、小さい俺。
「おーい、武史。もう帰るぞー」
振り返った小さな俺の目に映るのは、夢の中の俺よりもかなり大きく、今の俺よりも少し年上の高校生の姿。
何故高校生と分かったかといえば、それはうちの高校の制服を着てるからだ。
これは……流兄、か。今とは全然違う。髭は生えていないし、体も二回りほど細い気がする。制服姿がかなり懐かしい。
俺の名を呼びながら近づいてきた流兄に小さな俺が口を開く。
「でも……この子泣いてるよ?」
「ん? 友達か?」
「んーん。でも、ずっと泣いてる」
待てよ……何かがおかしい。
今夢の中で泣いてる小さな女の子はポニーテルではなく、少し茶色がかった髪を肩辺りで揃えている。
前にこの夢を見た時、今はどう思われてるか分からないけど、泣いているのはこの頃は友達と言い合える仲だった杏子のはずだ。
それを夢の中の小さな俺は即座に否定している。
そして、泣いている女の子が違うという事よりも気になる事がある。
前に夢に見た時には無かった既視感があり、小さな頃の夢を見ているという感覚があるのに、こんな子が居たという事を思い出せない事だ。
「どうしたんだい? そんなに泣いて」
流兄がかけた声で女の子が少し顔を上げる。
その顔は、見た事あるような――
「武史を見てると流君が高校生の頃を思い出すわね」
「おばさん、今は似てないですか?」
「流兄が髭面だから比べられないでしょ」
流兄が入学祝いという建前のお裾分けを持ってきてくれた日にそんな話をしたっけ……。
もしかして――
「上田ですが、流さんいらっしゃいますか?」
「おぉ、武史か? 俺だ。いきなり電話なんてしてきてどうした?」
「流兄にちょっと聞きたい事があるんだけど――」
ボタンを押した指先も、言葉を口にする唇も震えている。
「そういう事もあったかなぁ。……おまじない? んー……あぁ、あれか」
受話器の向こうからの反応に、思わず固唾を飲んだ。
俺が知っているおまじないなんて、せいぜい『オモイオモワレフリフラレ』や『夜空に星が瞬くように……』ぐらい、か。
「滅多にアニメは見なかったんだがなぁ、その時純と一緒に見てて泣いてる女の子がおまじないしてたのを――」
流兄の妹――純姉ちゃんが小さい頃好きだったアニメのおまじない。
そのおまじないを、今の俺とよく似てた流兄と小さな女の子が――
「そのアニメの女の子の笑顔が妙に印象的でな、泣き止ますのはこれしかないとその時は思ったんだよ」
「そう……。ありがとう、それじゃあ」
別れの挨拶を済ませて電話を切り、耳から入る音が無くなると、心音が喉の直ぐ下から体全体に響いているのが分かる。
『運命の人』についての新しい情報を得たのは、パンをご馳走になったあの日。
全然知らない街で母親と逸れた女の子が一人。
迷子のその子は疲れて足が痛くなっても、歩いて、探して。
それでも見た事ある人も風景も見当たらない。
遂には陽も落ち始めて、我慢していた涙が溢れ出した。
どうしていいのか分からない、涙を拭く手もびしょびしょに濡れていたそうだ。
途方に暮れていたその時、目の前に現れた、大きくて優しい人。
着ていた服、声、差し出された手……笑った顔。
彼女は鮮明に覚えているようだった。
でも、聞いた話には小さな男の子なんて居なくて、夢を見た直後、本当は俺の中で作られた物語りを過去の夢に置き換えて、見たではないかとさえ思っていた。
……電話で確認するまでは。
間違いない。夢に見た昔で泣いていたのは『八代遙歌』という女の子だ。
彼女が大事に持っていた多くの記憶と、俺がたまたま夢で思い出した記憶が、一つの過去を作り上げていた。
――ずっと、覚えてます!
出来上がった過去は分からない所なんて無くて、彼女がずっと探していた完成された過去。
――やっと見つけた。
その過去を知った時、彼女はどんな反応をするんだろうか。
――運命の人っ!
様々な感情を内包した思考は、また時間を奪っていった。