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第二話「桃の香り」

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「突然の出来事が予想の範囲内で起こったんですよ」
 そんな言葉を吐き出す彼女―川西彩香―を一度だけじっと見つめた後、すぐさまに授業へと意識を戻す。人というのは不意におかしな発言をしてしまうものだ。きっと彼女のこの発言もそうなのだろう。ここ数日でたっぷりと出された課題を見て現実逃避してしまいたくなったとして誰も責められるわけもない。
「信じてません?」
「ああ、その通りだよ。君の発言は信じる気もおきないくだらない代物だよ」
 ふくりと頬を膨らませながら彼女は僕のノートに丸っこい字で「ひどい」と書きこむとそれっきり授業に戻ってしまった。彼女が奇妙な発言をするのは今に始まったことではないし、多分今後も治る事のないちょっとした癖のようなものだろう。それが僕に面倒事をもってこないなら別にそれを修正させるつもりもない。
 僕はぼんやりとその丸い字を見つめた後、先日送られてきたあの手紙を思い出す。
――私は殺された。
 やけに硬質で、丁寧に記された文字。精密なまでの測定の末に書かれたのではないかと思うほどにバランスの整った文章。
 それは彼女のものとはとても思えなかったが、それでも“彼女に通じる何か”であることを感じさせたのは、多分その手紙に沁み込んだ香りからだろう。
――桃の香り。
 彼女からはよく桃の香りがしていた。それが香水の類なのか、はたまた使用していた洗剤、シャンプー、リンスによるものであるのかは僕にもわからないし、今後解明することのできないものだと思う。
 死人に口なし。
 けれどもその香りはやけに印象的であったから、今でもちゃんと覚えていた。
 それと全く同じ香りがしたのだ。この手紙からは。誰かを説得する為の理由としては多少弱いかもしれないが、僕自身が納得する為ならば十分過ぎる内容だと思う。というより、信じてみたくなるのだ。
 これはきっと何かが始まるのだ。
 そう思うと焦れったい板書もすらすらとできてしまうのだ。今僕に足りないのは刺激なのだろう。彼女と一緒にいた時に感じていたあの焦燥感、とでもいうのだろうか、とにかく胸が熱くなる感覚が欲しいのだ。
 踊らされるなら踊ってしまおう。僕はとんとんとペンを二、三度ノートの上で弾ませる。
 歩くだけなんてつまらないのだ。
 出来事というのは唐突に、そう跳ねるように始まるのだから。

―アンダンテ&スタッカート―
   ―第二話―

 緊張感の解けた教室の片隅で僕は一度大きく伸びをしてみる。つまらない授業というのは話がつまらないとか、言っている内容の意味が分からないというものではないような気がする。疲労感がまるで違うのだ。その授業内容を聞いていなくても自然と身体を重くさせ、心を暗く深いところへと沈みこませる。それがつまらない授業なのだと、少なくとも僕は思っている。
「さっさと食堂行きましょうよ。席まだあるかな」
 痕のついた額と普段よりも細くなっている目を周囲に披露しながら彩香は荷物を早々に仕舞うと気持ちよく伸びを行っていた僕の腕を掴み無理やりに立たせる。授業の終了時の楽しみを奪わないでくれと言おうとして、それがなんだかとてもくだらなく思えてやめた。ああくだらないと心の中で呟きながら僕は黙って荷物を手にした。

 結論から言うと、席なんてなかった。こうして今目の前にずらりと並べられた机達にはそれぞれ許容範囲一杯の生徒が落ち着いており、それに漏れた者達はうろうろと席が空くかもしれないという夢を抱いて周囲をうろついている。それがあり得るわけのないことだとしても、学生というのは食堂の二文字に惹かれてしまうものなのだろう。
「席、埋まってますね」彩香は残念そうに口をへの字に曲げる。
「また今日も購買でパンでも買うかな」
 僕がそう呟くと彼女はこれまた残念そうな顔をした後、数秒考えた後に一度頷いた。
 財布には幾ら入っていただろうか。流石にパン一つ買えるくらいは残っているだろうと踏んでいるのだが……。

「――」

 ふと、違和感を感じて周囲を見渡す。人ごみの中をふらりと視線を巡らした時に、何故か胸をぎゅうと思い切り掴まれるような感覚があったのだ。
 人。
 人。
 人。
 人。
 だが見回したって何もあるわけもなく、この違和感の正体も全く分からない。気のせいであったのだろうか。
 そうして意識を手元の財布に戻そうとしたときだった。

 宮下亜希子。

 確かにその姿が僕の瞳に映った。いや、そんなわけある筈はない。この世にいない人物は何があろうとここに戻ってくるわけはないのだ。彼女はちゃんと墓の下に小さくなっているし、それが突然焼かれた肉と共に再生するなんてことはあり得ない。
 幻覚を見ているのだ。いや、もしくは彼女に近しいなんらかの感覚を、僕“自身”が彼女だと思い切ってしまっているのかもしれない。
 僕は頭を左右に振った後、財布をすぐさまにポケットに叩きこみ、横の彩香をそのままに駈け出した。
 まるで障害物のように立ち臨む学生達を手で退けながらひたすらに前へと進んでいく。食堂はここまで広いものであっただろうかと錯覚を起こすほどにその作業は困難であったが、僕はようやく彼女のようなものを見た場所へとたどり着く。
「どうした明良?」
 驚いた顔を浮かべた金髪の男、加納修二を見て僕は脱力し、空気の抜けた風船のように床に膝をつけた。
「おいおい、突然走ってきたと思えばがっかりして脱力するなんて、俺はどう反応したらいいんだ?」
「ごめん、ちょっとした勘違いだったようなんだ」
 おどける修二に苦笑と謝罪を返し、僕は一度息を大きく吐き出してから立ちあがった。
 どうかしていたのだろう思う。
 彼女を錯覚として見ることなんて今までなかったから気が動転してしまった。どうやら僕は意外と三年前の飛び降りを意識してしまっているらしい。
「何か気分でも悪いのか?」
 修二は顔をしかめながらそう言って僕の肩に触れる。
 やけに派手な身なりをしておきながら性格はいたって温厚だから不思議な奴だと毎回思う。多分彼が目を細めたら大体は目を逸らして歩くのではないだろうか。そんな雰囲気を放つのにもかかわらず基本的には優等生タイプの成績であり、人とのつながりも広かったりするのだ。
 こういうのをギャップ感と呼ぶのだろうなとなんとなく思う。そして、この感覚に落とされている異性も幾人かいるのであろう。
「いや、別に大丈夫」
「それならいいんだが、やけに顔色が悪いからな」
 彼は購買で購入したのであろう昼食の袋と緑茶の缶を端に避け、隣の椅子を引く。座れ、ということなのだろう。今日はどこかうろうろと食事場所を探すことになりそうだと思っていた手前だったので正直、助かる。
 僕はその椅子に座ると一度伸びをした。先程中断させられてなんともいえない気持ちになっていたのだ。つっかえた感覚がするりと落ちていった気がして、それと同時に自然と頭もすっきりした気がする。
「授業はちゃんと出てるのか?」
「修二程真面目にではないけどな」
 僕が冗談交じりに言うと彼は乾いた笑いを上げた。
「まあ俺は“特別”だからな」
「特別?」
僕は言葉を繰り返す。
「俺はそういう方向に対しては特別なんだよ。人それぞれ何かしら特別できることってあるだろう?」
 なんとなく言いたいことは分かった。僕は一度頷いて彼の言葉を受け入れる。
 彼は続ける。
「というか、特別は特別なりに考えることがあるんだよ。そうでもしないとやってられないのさ」
 そう言うと彼はぐいと緑茶を呑み下して机に置いた。かつん、と空洞音が少しだけ周囲に蔓延して、それから暫くして缶は黙る。
「特別、か」
「君だって何かしらあるんじゃないかな? 何か特別と感じる出来事があるものがさ」
 それだけ言うと彼は携帯を開いて画面を数秒ほど眺めた後に昼食の袋をまとめて立ちあがる。授業があるから。彼はそれだけ言うと僕へと手を振って、それから食堂の人ごみへと消えていった。
「……」
 一人ぽつんと残された机の上に突っ伏してみる。冷えた感触が心地よく感じて、僕の心が少し和らいだ気がした。特に何もなかった気がするのに何故こんなにも疲労感を感じているのだろうか。
 いや、理由は解っている。
頭のどこかでひっかかっているのだ。亜希子からやってきた手紙が。
 単なるイタズラの手紙だったのならばそれでいいのだが、内容が内容であるだけに他人による行動とはまともに思えない。
 僕は鞄から例の手紙を取り出すと陽に透かしてみる。何か出てくる気配は全くない。
「私は殺された――か」
 そんなことを言われても信じられるわけがない。彼女は確かに僕の目の前で自らの手で命を捨てたのだ。あの出来事の中で誰かが介入できる余裕などあり得ない。
「僕に何をしろっていうんだ」

 不意に、頭を誰かが叩いた。
「先輩、なんで置いて行くんです?」
 ああそういえば忘れていた。僕は叩かれた頭を摩りながら彩香へと視線を移動させる。少しだけ顔を紅潮させた彼女の姿がそこにはあった。彼女は一息ついてから鞄を机に置くと僕と対面するように席に座る。
「……授業は?」
「休みます。」
「サボりはよくないぞ」
彩香は目を泳がせながら口を開く。
「先輩だってサボりじゃないですか」
 それもそうだ。僕だって本来ならば授業へと行かなくてはならない時間だ。けれども行く気がしないし、今は行くべきではない気がしてならないのだ。得体のしれない感覚が、まるで僕を呑みこむかのように蠢いている。
 勿論そんな感覚等僕のただの妄想に過ぎないし、それを他人に話してみたところで疎ましがられるだけだろう。
「先輩、今日は予定あります?」
 ああ、今日は――
 彩香の問いかけで、やっと僕が感じていた感覚の正体を思い出した。
「今日は、同窓会だったか……」
 群衆が放つざわめきを耳にしながら僕はぼんやりと呟いた。

   ―――――

 陽も随分と落ち込んできた頃、僕は息を吐き出してみる。白くはならなかったものの、随分とこの身から絞り出された空気は生暖かく、それだけ周囲が冷たいことを確かめさせてくれた。
「おう、明良久しぶりだな」
 やけに甲高い声を聞いて僕は、あの頃の気持ちを思い出した。

   つづく
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