特別というものは意外にも普遍的に広がっているものなのかもしれない。
人それぞれにそれぞれの、十人十色の“特別”があるとすれば、そういう考え方もできるだろう。つまり“特別”という言葉が実はこの世界には溢れているのだ。希少である筈の言葉が意外にもすぐ傍にあるとは、また少し矛盾しているような気がしなくもないが……。
そしてそれはゆるりと、他の“特別”へと干渉して行く。
本人も知らぬ間に……。
それが一体どういった結果を残すのかはその“特別”同士の相性であり、それががちりと当てはまるのならばそれは何かしら好転していくだろう。
ならば、それがどこかすれ違ったり、あるいは完全に同極の磁石を近づけたように、反発したらどうなるのだろうか。
突き放してしまいたくなる程の存在が傍にいることで、人はどうなるのだろうか。
ふと僕は、彼女に「加納修二の考える特別」について説明している中で、そんなことをぼんやりと考えたのだった。
―アンダンテ&スタッカート―
―第六話―
あらかた、といっても彼の言っていた内容をそっくりそのままペーストしたようなものなのだが、とりあえず彼女に説明し終えた。
彼女はその間、じっとその赤縁の眼鏡越しにこちらを覗き込みながら耳を傾けていたようであった。何かしら反応をしてくれると多少なりとも、この居づらさを感じるような気持ちで説明をしないですんだかもしれない。だが彼女はそんな僕の気持ちも知らずに、ただ口を一文字に結び、動作もせずにただじっとそこに座っていたのだった。
「――ということだよ」
彼女はどのような反応をするだろうか。次に最初にする行動はなんなのだろうか。僕は彼女のメガネの奥に潜む小さな目を見つめてみる。
彼女はふう、と息を小さく吐き出すと、髪を撫でた。それが最初の行動だった。
「中々に面白い事を考える人がいるものね」
どうやら、面白みを感じ得た内容ではあったようで僕はほっとした。
「けれども、ならば特別という言葉は不思議なものになるわね」
不思議なもの。
僕は本を広げ、そちらに視線を動かしながら、坦々と口を動かす彼女を見て首を傾げてみる。
「それだけ人それぞれに特別があったならば、それは特別ではなくなってしまうのではないかしら。」
「特別が特別ではなくなる、か……」
「そういったものは得意というのではないかしら」
なるほど、と思いつつも、果たして彼が言いたかった内容はその「得意」が当てはまるものであるのだろうかと考えた。ならば彼はハッキリと得意という言葉を使った筈だ。あれだけ成績優秀な人材が「得意」という二文字を脳内にインプットしていないわけはないのだ。
「けれども、特別は特別なのかもしれないよ」
僕は彼女に反対するカタチで否定の言葉を返す。
「どういうことかしら?」
だが、否定しておきながらその先の言葉が中々出てこない。
「そうだね……。その、人それぞれが持つ特別っていうのは、するのが好きではなくて、それをしなくてはならないとか、そういった義務を感じてしまうことなのかもしれない」
ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた頭の中から必死に言語を掴みだしてそこに適当に羅列して行く。かろうじて言いたい事にはなった気がするが、それが彼女に伝わるかは正直怪しいものだ。
彼女は口の前で小さな両手を組み、視線を地に落とした。
沈黙。
いや思考している、と言った方が合っているのかもしれない。彼女は必死に僕の適当な言葉から意味を見出そうとしてくれているのだ。
彼女がすっかり黙り込んでしまったので僕はぼんやりと周囲を見回してみる。ずらりと並べられた机にはぽつりぽつりと人が座っていて、大抵がイヤホンとおぼしきコードを垂らし、横に数冊の分厚い本(目の前の彼女が持ってきた冊数に比べれば大した数ではないが)を積み上げ、ひたすらに何かを記入していた。大体図書館に来るものと言えば自習か、もしくは誰も知り合いがいなくて暇か、レポートの期限に追われているものくらいだ。というよりそれ以外に用途を感じる者はいない。
意外と大学の図書館は資料は揃っているが、揃っているだけでそこに面白みを感じることはあまりないのだ。学びたいと思ってやってきておきつつも、いざそこに目当ての資料が大量に存在すると人と言うのは大抵気が滅入ってしまうものだ。
僕だって入学したての頃はまだ背伸びをしていたし、実のある学校生活をなんて言っていた覚えがある。
今では影もカタチもないわけだが……。
「そうね――」
彼女がやっと口を開いた。
「確かに、私の調べるって気持ちも、目の前にふと転がってきたものを見ると「調べなくては、解決しなくては」って感覚になるから得意とは違うのかもしれない」
彼女は自分の言葉に頷くと、少しすっきりしたのか僕を見て少し微笑んだ。その表情に僕は少し心地よさを感じた。
「なんだか分かりにくい言葉で申し訳なかったよ」
自らの髪をかきまわしながら、僕は彼女にそう言った。彼女は首を横に振るともう一度心地よさを覚える微笑みを浮かべてくれた。
「いいのよ。そういうの、嫌いではないから」
「それは良かった」
どうやら僕の言葉が伝わりづらいということに対しては、彼女に異論はないようであった。少しだけ気を落としつつ、大分話しこんでしまったなという感覚を覚えて僕はそろそろ席を立とうかと思い始める。
「そういえば調べることがあったんだよね?」
「あなたの提示してくれば疑問のおかげですっかり興味がなくなってしまったわ」
そういって彼女は笑った。
「ねえ、折角だからお昼、付き合ってくれないかしら?」
そう言って彼女は時計を指差した。時針は十二に近いところを差していた。ああ、もう三時間近くも立っていたのかと思いつつ、僕も多少の空腹感を感じたのでそれに応じた。
―――――
「そういえば、名前教えてくれない?」
定食に手をつけようとしていたとき、向かいに座った彼女はそう言ってからラーメンを啜り始めた。女性がラーメンを啜っている姿というのは中々に新鮮なものだなと思いつつ、湯気で曇っている眼鏡をぼんやりと見つめた。
「名前」
「ああ、明良、って呼んでくれればいいよ」
僕は彼女の催促にそう返事を返した。苗字で呼ばれるのは苦手なのだと、その後につけたして僕は定食に取りかかり始める。
「私は雪咲朝。貴方が明良でいいというなら、私のことも朝でいいわ」
「君にこれからどれだけの間隔で会うのかは分からないけれどね」
僕はわるびれもなくそんな一言を彼女に対して言った。雪咲朝は少しだけ不機嫌そうな表情を浮かべた後、ふっと視線を窓へと向けてから一度大きく息を吐き出した。
正直なところ、彼女が一体何を考えているのか僕には全くもって分からなかった。突然であった相手と接触を図り、そればかりか、まるでこれからも互いに世話になる事があるかのような素振りで話を続けていく。
「明良君は授業は?」
「ああ、ないよ」
人を探すにしても時間が時間だ。修二はきっと授業を受けに行ってしまったと思うし、彩香なら連絡をとれば来てくれるかもしれないが、今彼女と何か有益な会話を交わせるとは思えない。
「私もないのよ。今日は」
朝はふふ、と笑みを浮かべると赤縁の眼鏡の位置を右手で整える。その言葉と彼女のもつ特別から察するにきっと早朝にふと思い浮かんだ疑問に対して、いてもたってもいられなくなり、学校の図書館へとやってきてしまったというところだろう。
「それで、朝は何を調べていたんだい?」
僕は最も疑問だったところにようやく触れる隙を手にし、そしてそれを正しい方法で使用した。
彼女は少しだけ目を見開き、そうしてからああ、と言葉を漏らした。
「失踪事件よ」
その言葉に、僕の胸がどきりと高鳴った。
「失踪、事件?」反芻するようにして僕は再度彼女に問いかけた。
「ええ、失踪者って意外と多いのよ。確か十万人程度は毎年出ているんだったかしら」
「それで、失踪者の何を?」
僕は一歩踏み込む。
彼女は無表情のまま僕をじっと見つめた後、まるで何の感情も抱いていないかのような機械的な声で返答を放った。
「失踪者の行く末、よ」
その返答に対して僕は一度だけ頷いた。多分彼女は僕の仕草から何かを掬い取っているだろう。関係はないにしても、ここ最近起こった失踪事件に関してなにかしらの興味や疑問を抱いているということを。
その辺りに対して触れてこない辺り、彼女も野暮だと思っているのだろう。単純に自らが調べたいことと逸れていれば彼女はあまり干渉をしようとしないようである。失踪者の行く末は気になるが、今現在起きている失踪については何の興味もわいていない。そんなところだろう。
「それで、大体は?」
「そうね、基本的に自身でどこかへと逃亡を図り、身分を変えて暮らしているか、誘拐されてそのままこの国から消え去るか、もしくは――」
その先の一言は大体予想ができていた。
「殺されて見つからないように処理されたか、かしら」
多分、僕の周りで起きている出来事は、後者なのだろう。
何故そんな考えが浮かんだのかは分からない。だがそんな気がするのだ。僕が関与している(といってもその出来事が僕に直接作用してくるかは不明だが)コレはきっと殺人にも繋がっていると。
「……さて、じゃあ私はもう少し色々と調べてみようかしら」
暫く手を組んでいた彼女は席を立つと鞄を背負った。
「興味がなくなったんじゃなかったのかい?」
「ええ、でも貴方の方の疑問も終わったし、特にすることもないから」
そう言うと彼女は軽く手を振り、背を向けて歩いて行った。
彼女とは確かに長い付き合いになるかもしれない。何故かといわれれば理由は何もないのだが、そんな気がした。
―――――
「やあ明良、こんな時間まで一体どうしたんだい? 君は今日授業はなかったと思うんだが」
食堂のテーブルで、一人ウォークマンを手に突っ伏している僕を見て、修二は笑った。
大方暇を潰していたのだろうと彼は今にも言いそうだった。
「授業は?」
「終わったよ。まあこれからレポートを作りに図書館に行くけれども」
「そうか、まあ顔を見れただけでも良かったよ」
「何か用だったのかい?」
修二は首を傾げる。が、僕は首を横に振った。特に用がないというのは本当だ。ここで嘘をついて彼を呼びとめるのもなんだか申し訳ない。
「単なる暇つぶしさ」
「思った通りか。どうだい? 暇は潰れたかい」
修二の問いかけに対し、僕は雪咲朝の姿を思い浮かべる。随分とまた不思議な特別をもった女性だったなとぼんやりと思う。
「……そうだな、まあ潰れたのかもな」
「それなら良かったよ」
そう言うと修二は行ってしまった。彼と何か会話をしようと思って来たのだが今日はもうする必要もないだろう。確かに僕の暇はすっかり潰れてしまった。このままゆらりと帰宅してベッドに飛び込んでしまうのが良いだろう。
そうしたら夕食は何にするべきだろうか、丼物が片付けもしやすくていいかもしれない。ならば肉でも買って、かつ丼でも作ろうか。
そんなことを思いながら席を立った時、ポケットに放り込まれていた携帯が一度、二度、三度と振動する。設定されている着信音からして多分電話だろう。僕は面倒くさそうに携帯をポケットから取り出すと画面を覗き込む。
「ユキヒトか」
通話のボタンを押し、耳にスピーカ部分を押しあてて暫く彼の声を待つ。
『――明良か?』
気のせいだろうか、ほんの少し声が上ずっているような印象を感じた。
「どうしたんだい?」
『ああ、単刀直入に言ってもいいかな?』
さっさと言え、と僕は返事を返す。いや、大体予測はついていたから、その答え合わせをしてかったのだと思う。彼はためらいがちに息を吐き出しながらも、数秒して口を開いた。
『三島奈々子が、遺体として見つかったんだ』
答え合わせは的中だった。
―――――
あの連絡の後、僕はすっかり食欲が失せてしまったのでそのまま帰宅した。腹部は空腹を訴えているが、多分今食べても一口か二口入るかくらいだろう。
別に彼女が死亡したことがショックではないのだ。
僕自身が出来事に関与している人物の一人であることがとてつもなく恐ろしいのだ。あの夜最も近くにいたのは僕なのだから、勿論僕にも聴取はくるだろう。
まるで僕が犯人であるかのように取り扱われるかもしれない。いや、そんなことはあり得ないのかもしれないが、そんな不安と恐怖がないかと言われれば、あるとしか答えようがないのだ。
ふう、と一息ついてから僕は自宅の扉を開いた。
ぱさり、と音を立ててそれはポストから地面に落ちた。
僕はそれを拾い上げ、差出人の名も見ずに端を縦に割いて中の三つ折りの紙を取り出した。前回と同じ封筒なのだ。大体予測はついている。
僕は宮下亜希子の手紙であろう“それ”の内容を覗いた。また機械的に印字されたその綺麗な文字に僕は少しだけ不安を覚えた。
――私は追われている。
どうやら、この“一連の出来事”は僕を輪の外に出すつもりはないらしい。
つづく