現れたのは吸血鬼ハンター。
狩人――ユウがナイフを構えるのと浩介がテーブルの上のノートパソコンを掴むのはほぼ同時だった。
一瞥して狙うべき獲物を把握したユウは浩介に向けてナイフを投擲。しかしそれはノートパソコンに弾かれて浩介に命中することはなかった。
「せっかく邪魔者が全部消えたのに……」
浩介は顔色一つ変えずに次のナイフを用意しているユウを睨みつける。
「悪いがあんたらの都合はどうでもいい」
ユウはそう言うや否やナイフを逆手に持って浩介に襲いかかる。
ナイフと渡りあえる武器を手にしなければならない。浩介はすぐそばにあったテーブルを片手で持ち上げると、それを前方に蹴り飛ばしてユウにぶつけようとする。
大きな面の攻撃でユウは回避こそできなかったものの左腕でそれを受け止める。さほどダメージはなかったが動きを止められ、さらに視界も一瞬だが奪われた。
その隙を生かして浩介は大きく跳躍、空中で身体を翻してから天井を蹴ってユウの後方へと着地した。そしてそのままキッチンへと駆け込む。
浩介は求めていた武器、包丁を手に取る。買ってからほとんど使われていないと思われる銀色の刃が綺麗に光る。
再びユウと対峙。互いに刃物を構えて様子を伺いあう。
最初に動いたのはユウだった。左腕を動かしたかと思うと手元が一瞬光る。と同時に銀色の閃光が浩介に向かって飛んでいった。
目にもとまらぬ速さでの投擲。浩介は何とか包丁で叩き落とすことができたが、ユウの接近を許してしまった。
ナイフを弾く動作の後の僅かな硬直で包丁での防御が間に合わない。浩介はとっさにバックステップで距離をとりナイフのリーチから外れようとする。身体はナイフの攻撃範囲から外れることができたが、ユウの狙いは最初から浩介の身体ではなかった。
ナイフの一閃。同時に浩介の右手の感覚が消失した。右手首から先が包丁を握ったまま宙を舞う。遅れて鮮血が切り口から吹き出した。
切断による激痛が痛覚を走り抜けるよりも早く、浩介は行動を起こしていた。無事だった左手でユウの右手を裏拳の要領で弾く。ナイフがユウの手を離れていく。
浩介は激痛をこらえながら突進、肩からユウの胴体にぶつかる。だが、手ごたえを感じることができず困惑を覚える。直後に浩介の体勢が前方に崩れた。
しまった……。そう思ったときにはすでに身体がふわりと宙に浮いていた。そして巴投げのような形で吹き飛ばされた。
床を転がり、窓ガラスにぶつかる。浩介が起き上がる頃には、既にユウもナイフを拾い上げて体勢を整えていた。
「強すぎる……」
全身の感覚を研ぎ澄まし、限界を超えた集中力と人外の身体能力をもって戦闘に臨んでいた浩介だったが、こうしていとも簡単に投げ飛ばされている。今浩介が対峙している相手は以前戦った狩人とは比べ物にならない戦闘力を有していた。
しかし、ユウを倒さなければ美菜子とまた一緒になることは叶わない。相手が自分よりも強かろうが、諦めたらそこで終わりだ。
浩介は再び眼前の敵に集中する。ユウがナイフを構えるのを視認し、自分も戦闘態勢に入ろうとした……その時だった。
「殺して!」
甲高い声が室内に響き渡った。
「誰か知らないけど早くあいつを殺してよ!」
声の主は美菜子。そして彼女の言葉はユウへと向けられていた。自分の恋人だった男を殺してくれ、と。
集中が途切れ、この部屋に入ったときのような困惑が浩介の頭を、心を揺さぶる。
困惑しているのはユウも同じだった。浩介ほどではないが彼女の言葉で一瞬動きを止めていた。とは言っても反応したのは言葉の内容ではなく、ただ単に突然大きな声を発せられたからのようだった。
「どうしてだよ」
信じようと思った矢先のことだった。浩介の戦意が徐々に失われていく。彼の関心は目の前の敵から美菜子に移っていた。
「どうしてなんだよ!」
浩介は激しい怒声を美菜子にぶつける。あまりの形相に美菜子は悲鳴を上げて身体を大きく震わせた。
ユウは自分が戦闘中だということを完全に失念している浩介に止めをさすべく行動を再開。……したはずだったが、右足に重みを感じ、その場から動けなくなる。
足元を見ると、美菜子が泣きながらしがみついていた。「助けて!」「早く殺して!」と怯えながらしきりに叫んでいる。
「おい邪魔だ。離れろ」
ユウは右足を動かして自分から離れるよう美菜子に促すが、同じ言葉を繰り返すばかりで足をがっしりと掴んだまま離さない。
「お前が離さないと殺そうにも殺せないだろう。お前まで死にたいのか」
脅すようにしてナイフを美菜子の顔に突きつける。ひっ、と声を上げて美菜子はユウの右足から離れていった。
「もういいだろう。抵抗はやめておとなしく死んでくれ」
ユウは困惑したまま立ちつくす浩介に言葉を投げかける。
「うるさい。あんたは黙ってろッ……引っ込んでろォ!」
浩介の左腕の血管が隆起し、震える。硬化した爪が異様な早さで伸びていく。浩介はそれを武器にして、ユウへ飛びかかった。指先の凶器で切り裂こうとするが、ユウは右手にナイフを持ったまま背負っていた杭を取り出して盾にして受け止めた。
その爪がユウに届くことはなかったが、並の吸血鬼以上の膂力で押されて体勢が崩れそうになる。
ユウは両手を使うことで攻撃を受け止められているが、対する浩介はまだ右手が自由に使える状態だ。
浩介は既に血が止まった右手をユウの左腕に叩きつけようとする。その瞬間、ユウは右手と杭の間に挟んでいたナイフを下に落とし、柄を蹴って前方に飛ばす。
銀の刃が浩介の右手首の切断口に突き刺さる。浩介は絶叫して攻撃を止め、そのまま大きくのけ反った。
追い打ちをかけるべくユウは杭を両手でバットのように持ち、大きく踏み込んでフルスイング。浩介の頭に叩きつけて地面に沈み落とした。
「やった!」
この戦闘において何もしていない美菜子がいの一番の歓声を上げる。「早く! 早く止めをさしてよ!」とユウに向かって再び叫ぶ。
「美菜子!」
彼女の声を遮るほどの声で、浩介が叫んだ。頭部を杭で殴られながらも意識はそれなりにはっきりしているようで、頭を押さえながらも上体を起こした。
「さっきの言葉も嘘だったんだな……。そして、僕にその嘘を信じろって……」
「当たり前でしょ! 誰があんたみたいなやつを本気で好きになるもんか!」
初めて美菜子の口から直接拒絶の言葉を受けて、浩介は言葉が出せなくなる。分かっていたことなのに、それを実際に言葉にされるだけで心が受けるダメージはけた違いだった。
「あんた、いい年して童貞だし根暗だしブッサイクだし、そんな奴とこの私が本気で付き合うと思う? 自分で変だと思わなかったの? 本当おめでたい頭してるわ。最初からあんたを騙すために近づいたに決まってるでしょ! あんた最初から私たちの玩具だったのよ」
美菜子の口から濁流のように真実が明かされる。
「あの夜のことだって最初から決まってたんだから。あんたみたいなクズが絶望する様を楽しむために一ヶ月も嫌々付き合ってあげたのよ! 動画を撮ったのだってそう。動画サイトにアップロードした。大好評だったわ。良かったわね、あんたネットで大人気よ。私のおかげで有名人よ。それに私と一ヶ月も恋人関係になれたんだから合わせて私に感謝して欲しいくらいよ。それなのに他の男たちをみんな殺しちゃってさ。本当もうありえない……!
ほら、これでいい? あんたの知りたいことは全部話した。満足でしょこのピエロ! おとなしく死んで私の目の前から消えて! ほら、死ねッ……死ねッ!」
美菜子は壊れたように笑いながらそう言いきると、床に散乱している小物を浩介に向けて投げた。
「…………だ」
浩介は目に涙を浮かべながらぼそぼそと何かを口にする。
「何だったんだよ。僕のこの復讐は……」
浩介は涙で歪んだ視界に移る眼前の女に向けて言う。最愛の女性だった彼女が、今はもう汚物にしか見えなかった。この世のどんな物よりも汚くて醜い何か――
この汚物のために人間を辞め、怪物に成り下がった自分の命をかけてまで得るものなどない復讐に走っていた自分の愚かさがあの夜以上の絶望感となって浩介の頭の中を埋め尽くす。彼女のために全てを捨てた復讐。その果てに待っていたのは救われない現実だった。
もう、どうしようもないことを浩介は理解していた。それでも何かしなければ壊れてしまいそうだった。何も意味がないと分かっていても、目の前の女を殺さなければ気が済まない。自分は化け物なのだ。ならば理性を捨てて思うがままに暴れ狂ってもいいだろう。
浩介は頭を上げ、大きく口を開く。絶叫に近い咆哮と共に美菜子へ向かって突進する。一秒にも満たない時間で美菜子に肉薄。左手の爪が彼女の首を抉ろうとする。
しかしその爪が柔らかい肉に達するよりも先に、美菜子の身体が浩介から見て左方に吹き飛んだ。浩介は美菜子が吹き飛んだ方と反対方向を見やる。眼前には杭を持ってたたずむユウがいた。彼が美菜子を蹴り飛ばして浩介の攻撃から逃したのだ。
ユウは間髪いれずに杭を浩介に向けて突き出した。不自然に筋肉が隆起している浩介の身体に杭が沈んでいく。先端が心臓に達し、浩介はその場に崩れ落ちた。
浩介は全身から力が抜けていくのを感じ取った。次に四肢の感覚の消失。最後の力を振り絞って首を動かし、自分の身体を見ると身体が灰化している最中だった。
自分が死へと近づいていることを認識する。一時間ほど前までは死ぬことなんて恐くなかった浩介だが、今は違った。美菜子を殺せなかったという未練から始まり、自分の人生を振り返る。
思えば美菜子と過ごしていた一ヶ月が自分の人生の中で一番楽しかった、と気付く。涙が目から零れて床に落ちていった。
復讐に走らなければ、あの一ヶ月を良い思い出にして何事もなく生きていくことができたのだろうか。
最後にそんな思いが浩介の頭をよぎった。
洒落た木製の扉を開き、ユウは喫茶店に入る。棚から新聞を手に取り、いつもと同じカウンター席に座り「ホット」とマスターに一言告げて新聞を開いた。
注文したものを待っている間ユウは活字に目を走らせていたが、奥の方にあるボックス席から聞こえる声が気になり、思わずそちらに目をやった。
若い女性が二人、大きな声で会話をしていた。やかましい声の主は彼女たちだった。
「お待たせしました」
マスターが淹れたてのホットコーヒーをカウンターに置く。
「今日はあのおっさんがいないのにやかましいな」
「あちらのお客様ですね……」
マスターも例の女性客には気付いていたようだった。申し訳なさそうな表情を浮かべながらボックス席の方へと顔を向ける。
「ここ最近来店されるようになったんですが……」
「あのおっさんほどうるさくはないから我慢はできるが」
そう言ってユウがカップに手を伸ばしたその時だった。入口のベルが鳴り、見なれた顔の男が入店してきた。
「噂をすればなんとやら、ですね」
小さく笑いながらマスターが言う。
「やれやれ、笑えないよ」
ユウは表情を変えずに小さくため息をつく。
「おう兄ちゃん。よく会うな!」
中年の男は嬉しそうにしながらユウの隣に座る。そして彼が読む新聞を覗きこんだ。
「お、またこの事件の記事か」
男が指差したのは以前も話をした三十年前の猟奇殺人事件の記事だった。捕まった犯人が被害者やその遺族を馬鹿にするような発言ばかりしているという旨の文章が書かれている。
「やっぱこいつは糞野郎だよ。俺が言った通り頭イカれちまってる。普通だったらこんな発言できねえだろう」
「またその話ですか。どうぞ」
マスターが注文されてもいないのにコーヒーを出す。男は常連でマスターとも懇意にしているため、注文せずともすぐにコーヒーが出てくるようだった。
「前も話したけど、世の中にはこいつみたいに頭イカれてて胸糞悪くなるほどの邪悪な人間ってのは平然と暮らしてるんだよ。俺はそれが納得いかねえ」
「過去に嫌なことでもあったんですか」
「おう、色々あったんだよ俺にも。この事件の犯人みたいな奴に嫌な思いをさせられたことだって数え切れないほどある。嫌になるよまったく」
男はコーヒカップ片手にユウの背中を叩く。振動でコーヒーが少し零れた。
「兄ちゃん、あんたもそう思わないか?」
前会ったときと同じ問い。以前は適当に答えたユウだったが、今回はすぐに返事をせず、ボックス席の方へとまた視線を向けた。
やかましく談笑を続ける女性の声がユウの耳に届く。
「あいつら三人とも連絡取れなくなっちゃったから困ってるんだ。色々奢ってくれるし、車も出してくれるし、こき使えて便利だったんだけどねぇ。
仕方ないから前に恋人ごっこやって上げてたダサ男にまた連絡とろうかな。ブサイクだしつまんないけどお金や車出してくれる点ではあいつらと同じだし」
手を叩いて笑う女性からユウは視線を戻す。
「どうした兄ちゃん、だんまりして。無視か?」
「いや……」
手に持った新聞を閉じて折りたたむ。
「俺もあんたと同意見だよ」
ユウは少し冷めたコーヒーを口にする。いつもより苦いな、と思いながらそれを流し込むようにして飲み干した。
第五夜 END