第二夜 非情あるいは無情
公園の隅、電灯の光も届かぬ茂みの中で、ホームレスの男はダンボールを布団の代わりにして寝そべる。
ぼうっと暗闇を見つめていると、小さな何かが四つ、不気味に光る。ホームレスは驚きながらもその何かを凝視した。
――目。四つの目、人間の目だった。二人の人間が、ホームレスの男を見つめている。
しかし、人間の目はこのように光るものだっただろうか。それに、目に気づくまで気配をまったく感じなかった。不思議に思いながら、ホームレスはその目の主に恐る恐る声をかける。
「何なんだ、あんたら」
カサリ、と茂みが少し揺れる。
「あんたの血を吸いにきた」
返ってきたのは若い男の声。血を吸いにきた? どういうことだろうか。ホームレスは返答の意味を理解できず、首をかしげる。
「あんた、他のホームレスの中でも嫌われているんだろう。今夜、突然いなくなろうが、誰も気にとめない」
「……どういうことだ」
ホームレスがそう返すと、間髪入れずに若い男の両手が伸びてきた。そしてホームレスの肩を押さえつけると、そのまま馬乗りになる。
「ありったけ血を吸わせてもらう。申し訳ないがあんたは多分死ぬ」
次に若い男はホームレスの頭を掴み、頬が地面に擦りつくような形で押さえつける。そして空いた手を使ってホームレスの首をティッシュで拭いた。
人間とは思えない力強さで頭を押さえられ、ホームレスは逃げることができない。バタバタと手足を動かすが、みぞおちを殴られておとなしくなった。
「さあ、涼子。お前から吸うんだ」
若い男はもう一人いる仲間に声をかける。
「無理だよ潤……私にはできない」
涼子と呼ばれた女性は首を横に振って拒否する。
「やらなきゃいけないんだよ! お前の限界が近いのは分かってる。そのままだと死ぬんだ!」
若い男――潤は涼子を怒鳴り付けた。
「そうだ、お前たち二人はそのまま死ぬんだ」
別の男の声。潤は瞬時にホームレスから離れると、涼子の腕をひっぱり驚異的な瞬発力でその場から離脱する。その直後、涼子がいた場所を木製の杭が薙いだ。
「ちっ。やるじゃん」
杭を振った男は体勢を整えると潤と涼子に向き直る。そして杭の切っ先を前に向けるようにして構え、二人を見据える。
が、杭を持った男はその体勢のまま動きを止めた。二人を見つめながら、ピクリともしない。
「逃げるぞ! 目の力も長くは持たない。全力疾走だ」
潤は涼子の腕をひくとそのまま異常な速度で駆け出し、逃げていく。
少しして、杭を持った男は身体が自由になった。
「ちくしょう、やられた」
杭を地面に叩きつけると、携帯電話を取り出す。
「俺だ。目にやられて逃げられた。ああ、今から追いかける。そっちは掃除屋を呼んでくれ。場所は――」
電話を終える。
「おい、おっさん。危ないからここから動かないでくれ」
ホームレスに対しそう言うと、男は杭を拾いなおし、潤と涼子が逃げた方へと駆けていく。
呆然としながらも、ホームレスは言われた通りにその場にとどまり続けた。そもそも他に行く場所がないからでもあるが。
しばらくして、黒いスーツを纏った男が現れる。
「あんたはなんだ? どうなってんだよ」
ホームレスは黒スーツに問う。だが、それに答えることなく、手をホームレスの頭に置いた。
「で、結局逃げきられたのか」
「面目ない」
無精髭を生やした三十代半ばの男が、デスクチェアに足を組んで座りながら、頭を下げる青年に言う。
青年は、昨夜ホームレスを助け、杭を武器に二人の吸血鬼に立ちはだかった男だった。
「魔眼にはあれほどきをつけろと言ったはずだ」
無精髭の男は語調を強めて言った。
ほとんどの吸血鬼は自らの瞳を介して超能力にも似た力を使うことができる。それは潤が使用したような相手の動きを止めるものから、魅了したり苦痛を与えたりと、さまざまな種類がある。それは魔眼と呼ばれていた。
「面目ない」
青年は同じ言葉を繰り返し、ただ謝る。
「でもよ、あの後もう一度見つけることはできたんだって」
下げていた頭を勢いよく起こすと、青年は必至に言い訳をする。
「じゃあ、なんでその時殺せなかった」
「それは……またやつと目があってしまったというか……」
「かーっ。学習しろよお前」
無精髭の男は顔を手で覆うと首を後ろにもたげた。
「でもよ、使える武器が微妙すぎる。拳銃くらい使わせろよ。杭じゃきついって」
「駄目だ。拳銃を使うまでの仕事じゃないし、そもそもお前銃器に関しては素人だろう」
「でも……」
「まあ、銃器の扱い方に関してはおいおい教える。でも今回は今の装備のままだ。いいな」
「わかったよ」
しぶしぶと、青年は返事をした。
「それで、最後に逃げられた場所はどこだ?」
「それは――」
青年はその時の場所、状況を詳しく説明する。
「となると、隣の市に逃げた可能性が高いな」
「ってことは……」
「ああ。俺らの担当区域じゃなくなるわけだ」
「じゃあ俺の仕事はこれで終わりなのか?」
「本来ならそうなる。だが」
無精髭の男はメモ用紙を取り出すと、ボールペンを走らせる。
「それはちょっともったいない。お前にはここできっちりと経験を積んでもらいたい」
メモに何かを書き終えると、それを青年に手渡す。
「ここに書いてある場所に行け。隣の区域を担当してるやつの事務所だ」
「分かった」
「粗相のないようにしろよ。お前は俺の唯一の部下なんだ。俺に恥をかかせるなよ」
「まかせとけよ」
そう言って青年は親指を立てると、荷物を持って部屋を後にする。
「行ってこい、横矢」
「おう」
扉が閉じる。
青年――横矢がいなくなると、無精髭の男は携帯電話を取り出し、ボタンを数回プッシュする。
「もしもし、葉子か。久しぶりだな。ああ、ちょっと頼みごとがあってだな――――」
ぼうっと暗闇を見つめていると、小さな何かが四つ、不気味に光る。ホームレスは驚きながらもその何かを凝視した。
――目。四つの目、人間の目だった。二人の人間が、ホームレスの男を見つめている。
しかし、人間の目はこのように光るものだっただろうか。それに、目に気づくまで気配をまったく感じなかった。不思議に思いながら、ホームレスはその目の主に恐る恐る声をかける。
「何なんだ、あんたら」
カサリ、と茂みが少し揺れる。
「あんたの血を吸いにきた」
返ってきたのは若い男の声。血を吸いにきた? どういうことだろうか。ホームレスは返答の意味を理解できず、首をかしげる。
「あんた、他のホームレスの中でも嫌われているんだろう。今夜、突然いなくなろうが、誰も気にとめない」
「……どういうことだ」
ホームレスがそう返すと、間髪入れずに若い男の両手が伸びてきた。そしてホームレスの肩を押さえつけると、そのまま馬乗りになる。
「ありったけ血を吸わせてもらう。申し訳ないがあんたは多分死ぬ」
次に若い男はホームレスの頭を掴み、頬が地面に擦りつくような形で押さえつける。そして空いた手を使ってホームレスの首をティッシュで拭いた。
人間とは思えない力強さで頭を押さえられ、ホームレスは逃げることができない。バタバタと手足を動かすが、みぞおちを殴られておとなしくなった。
「さあ、涼子。お前から吸うんだ」
若い男はもう一人いる仲間に声をかける。
「無理だよ潤……私にはできない」
涼子と呼ばれた女性は首を横に振って拒否する。
「やらなきゃいけないんだよ! お前の限界が近いのは分かってる。そのままだと死ぬんだ!」
若い男――潤は涼子を怒鳴り付けた。
「そうだ、お前たち二人はそのまま死ぬんだ」
別の男の声。潤は瞬時にホームレスから離れると、涼子の腕をひっぱり驚異的な瞬発力でその場から離脱する。その直後、涼子がいた場所を木製の杭が薙いだ。
「ちっ。やるじゃん」
杭を振った男は体勢を整えると潤と涼子に向き直る。そして杭の切っ先を前に向けるようにして構え、二人を見据える。
が、杭を持った男はその体勢のまま動きを止めた。二人を見つめながら、ピクリともしない。
「逃げるぞ! 目の力も長くは持たない。全力疾走だ」
潤は涼子の腕をひくとそのまま異常な速度で駆け出し、逃げていく。
少しして、杭を持った男は身体が自由になった。
「ちくしょう、やられた」
杭を地面に叩きつけると、携帯電話を取り出す。
「俺だ。目にやられて逃げられた。ああ、今から追いかける。そっちは掃除屋を呼んでくれ。場所は――」
電話を終える。
「おい、おっさん。危ないからここから動かないでくれ」
ホームレスに対しそう言うと、男は杭を拾いなおし、潤と涼子が逃げた方へと駆けていく。
呆然としながらも、ホームレスは言われた通りにその場にとどまり続けた。そもそも他に行く場所がないからでもあるが。
しばらくして、黒いスーツを纏った男が現れる。
「あんたはなんだ? どうなってんだよ」
ホームレスは黒スーツに問う。だが、それに答えることなく、手をホームレスの頭に置いた。
「で、結局逃げきられたのか」
「面目ない」
無精髭を生やした三十代半ばの男が、デスクチェアに足を組んで座りながら、頭を下げる青年に言う。
青年は、昨夜ホームレスを助け、杭を武器に二人の吸血鬼に立ちはだかった男だった。
「魔眼にはあれほどきをつけろと言ったはずだ」
無精髭の男は語調を強めて言った。
ほとんどの吸血鬼は自らの瞳を介して超能力にも似た力を使うことができる。それは潤が使用したような相手の動きを止めるものから、魅了したり苦痛を与えたりと、さまざまな種類がある。それは魔眼と呼ばれていた。
「面目ない」
青年は同じ言葉を繰り返し、ただ謝る。
「でもよ、あの後もう一度見つけることはできたんだって」
下げていた頭を勢いよく起こすと、青年は必至に言い訳をする。
「じゃあ、なんでその時殺せなかった」
「それは……またやつと目があってしまったというか……」
「かーっ。学習しろよお前」
無精髭の男は顔を手で覆うと首を後ろにもたげた。
「でもよ、使える武器が微妙すぎる。拳銃くらい使わせろよ。杭じゃきついって」
「駄目だ。拳銃を使うまでの仕事じゃないし、そもそもお前銃器に関しては素人だろう」
「でも……」
「まあ、銃器の扱い方に関してはおいおい教える。でも今回は今の装備のままだ。いいな」
「わかったよ」
しぶしぶと、青年は返事をした。
「それで、最後に逃げられた場所はどこだ?」
「それは――」
青年はその時の場所、状況を詳しく説明する。
「となると、隣の市に逃げた可能性が高いな」
「ってことは……」
「ああ。俺らの担当区域じゃなくなるわけだ」
「じゃあ俺の仕事はこれで終わりなのか?」
「本来ならそうなる。だが」
無精髭の男はメモ用紙を取り出すと、ボールペンを走らせる。
「それはちょっともったいない。お前にはここできっちりと経験を積んでもらいたい」
メモに何かを書き終えると、それを青年に手渡す。
「ここに書いてある場所に行け。隣の区域を担当してるやつの事務所だ」
「分かった」
「粗相のないようにしろよ。お前は俺の唯一の部下なんだ。俺に恥をかかせるなよ」
「まかせとけよ」
そう言って青年は親指を立てると、荷物を持って部屋を後にする。
「行ってこい、横矢」
「おう」
扉が閉じる。
青年――横矢がいなくなると、無精髭の男は携帯電話を取り出し、ボタンを数回プッシュする。
「もしもし、葉子か。久しぶりだな。ああ、ちょっと頼みごとがあってだな――――」
「名前は?」
「横矢俊介」
「一人でこの仕事するのは今回が初めてなんだって?」
「そうだ」
とある高級マンションの一室で、葉子の問いに横矢は淡々と答える。
「だけど、ひよっこでまだ一人じゃ仕事をこなせないから、私たちにサポートしろと」
「はあ? おやっさん、あんたにそんなこと言ったのか?」
心外だ、とばかりに横矢は声を荒げる。おやっさんとは、横矢の上司の男のことだろう。
「大体そんなもんだろう。とにかく、今から仕事だ。私の指示通りに動いてもらうよ」
「分かってる」
横矢の顔つきが真面目なものになる。仕事、という一言で気持ちをしっかりと切り替えたのだ。
「カップルの吸血鬼だっけ。ある程度居場所は絞れるよ。さっそくあんたら二人に殺しにいってもらう」
「二人?」
この部屋には俺とあんたの二人しかいないじゃないか。横矢がそう言葉を続けよとしたところで、「了解した」と別の男の声が背後から聞こえた。
横矢は振り返る。少し先に黒革のソファ、そしてそこに擬態しているかのように、黒衣の男が寝そべっていた。年齢は二十代半ばといったところだ。
「ユウだ」
横矢の視線に気づいたのか、ユウは目をつむったまま名乗る。
「今回の仕事はユウと二人で行ってもらうよ」
「俺一人じゃないのか?」
「当たり前だ。あんたは二回もしくじってるんだろう。被害が出ないうちに殺らなきゃいけないんだ。新人研修に付き合ってあげるだけありがたいと思いな馬鹿」
葉子にまくしたてられ、横矢は少しひるむ。何か言い返してやろうかと考えるが、葉子の行っていることは正論だということを理解していたため、無言のまま頷く。
「それに、あんた一人じゃ返り討ちにあうかもしれないからね。さっきも言った通り被害を出すのはよろしくない。民間人も、身内も、ね」
葉子は横矢とユウの二人を見回し、ニィと笑った。
「葉子さん、口は悪いけど良い人だな」
横矢は横を歩くユウに向けて言う。
葉子の指示に従い、二人はターゲットの吸血鬼たちが潜伏している場所を探していた。
「すぐに手が出るような女が良い人か。前は灰皿を頭に投げつけられた」
「そいつは恐いね」
けらけら、と横矢は笑う。一方ユウは無表情だった。彼は表情の変化が乏しい。葉子に万年ポーカーフェイスと呼ばれるほどだ。
横矢もそれが気になったのか、話題を変える。
「あんた、いつも無表情だね」
「悪いか?」
「いいや。だが、せっかくのイケメンフェイスがもったいない。笑ったりしてみなよ」
「断る」
「減るもんじゃないだろ」
「できないんだよ。口元の筋肉を動かすことはできるけど、笑うことはできない」
ユウはそう言って、横矢に顔を向けると、口元を吊りあげた。だが、それだけ。他の箇所は何一つ笑っていない。
「よく分かった。しかし笑えないだなんて、不思議な人間もいるもんだ」
「俺も、そう思うよ」
「他の表情はできないの?」
「ほとんど無理だな。どうやら感情というものを紛失したらしい」
「他人事みたいな言い草だな。それに、中学生の好きそうな設定だよ」
「設定、ね」
ユウはあまり関心がなさそうに答えると、黙る。
それからも横矢は何かと口を動かし続けたが、ユウは適当に返事を続けていた。
「それでさ、その時おやっさんが――」
横矢の喋りを遮るように、携帯電話が鳴った。ユウの物だ。
「もしもし」
ユウは少しの間、電話の相手と言葉を交わすと、通話を切って言った。
「今から別行動だ。カップルを吸血鬼にした親元の反応があったらしい。俺はそっちを追う」
「じゃあ、カップルは俺一人で?」
「そうなるな。葉子はああ言ったが、お前もしっかり殺せるだけの技術はあるんだろ。だからお前の上司はお前一人に仕事を与えたわけだ」
ユウは携帯電話をポケットに戻す。
「しくじるなよ」
それだけ言うと、ユウは走ってその場を去る。横矢はただその後ろ姿を見続けていた。
日が暮れる。建物の明かりや街灯が街を照らしている。
「もう大丈夫だな」
ネットカフェの出入り口で外の様子を確認すると、潤は涼子の手を引いて歩きだした。
――その直後。
潤の真上から何者かが現れ、不意打ちで彼を地面に押さえつける。そして首に銀製のナイフを突きつけた。
「葉子さんの言うとおりだった。お前ら日が暮れるまでここで時間潰してたんだな」
潤を押さえつけているのは横矢だった。潤たち二人がネットカフェにいるのを葉子が探知し、横矢に待ち伏せするようにと指示を出していたのだ。
「すんなり店から出てきたってことは、中で問題は起こしてないみたいだな。口の中に血も見当たらない」
横矢は潤の口を無理やり開け、口内を確認して言った。
「俺たちを殺すのか」
潤は横矢を睨みつけながら問う。
「そういう仕事なんだ」
横矢は事務的に返答する。
それを聞いて潤は悔しそうに顔をゆがめると、糞が、と悪態をつく。そして涼子の方へと顔を向けて叫んだ。
「逃げろ涼子ォ!」
涼子はゆっくりと後ずさる。潤を見捨てられないという気持ちが残っているのだろう。中々走りだそうとはしない。
「無駄だよ」
横矢は潤にナイフを向ける右手とは別に、左手にもナイフを持って涼子に切っ先を向けていた。
「これ以上動いたら投げる。人さしであんたはお終いだ」
とは言ったものの、横矢にはナイフを必中させる自信はなかった。自分はまだ戦闘技能も未熟であると自覚しているからだ。実際、訓練中でも投げナイフの命中率はあまり良いとは言えないものだった。
しかし、脅しとしての効果は絶大だったようで、涼子はピタリと足を止める。そしてぼろぼろとその場で泣き始めた。
やりづらいな、と横矢は思う。まず彼には対峙する二人の吸血鬼が悪者とは思えなかったからだ。だが、この仕事は相手が悪者かどうかなど関係なく、吸血鬼を問答無用に殺すというものなのだ。横矢はそれを理解して、この仕事に挑んでいる。
さらに、目の前で女性が泣いている、という状況だ。泣かせたのは自分である。男ってのはやっぱり女の涙に弱いものなんだなあ、と横矢は思った。
だが、仕事は仕事である。横矢はまず潤にとどめを刺そうとナイフを握る右手に力を入れた。
「なあ、最後のお願いだ」
自分はすぐに殺される。そう悟ったのか、潤は横矢に弱気な口調で語りかけた。
「俺を殺すのは構わない、降参だ。だけど涼子だけは助けてやってくれないか」
「恋人だけは助けたいってか。素晴らしい愛だ」
「……涼子は俺の恋人じゃないよ。幼馴染なだけだ」
「照れるなよ」
「涼子には昔から好きな人がいる。涼子には昔から大きな夢がある。知ってるんだ、俺は幼馴染だから。あいつをずっと見てきたから」
「…………」
「俺たちは恋人同士じゃないけど、俺はあいつを愛してる。だから、俺はあいつに幸せになってもらいたい。夢を叶えてもらいたい」
「……もし俺が逃がしたところで、彼女は本当に幸せになれるのか?」
「なってほしいんだ」
「なってほしいじゃない。なれるのかどうかだ!」
いつの間にか、横矢はむきになって答えていた。
「彼女は吸血鬼だ。陽の当たる場所を歩くことはできない。人の血を吸わなければいずれ死ぬ。それに、常時俺のような狩人に狙われることになるんだ。どこへ逃げても、だ。それでも幸せになれるのかよ!」
「じゃあ、言わせてもらうけどな」
一方、潤も横矢とのやり取りで頭に血が昇り始めていた。
「幸せになれそうにないから今ここで殺しますって言われて、納得できると思うか? できるわけねえだろ! まだ幸せになる努力もしてないのに殺されるんだぞ。希望はまだどこかに転がっているかもしれない。それを探すこともできないまま殺されるなんて、納得できるわけねえ。ふざけんな糞野郎」
潤は叫ぶ。いつのまにか、三人の周りには人だかりができていた。
「ネットで調べたんだ。遠くの街にだが、吸血鬼から人間に戻す手術をしている人がいるらしい。嘘か本当かは分からない。だから、確かめにいくつもりだったんだ。俺はこの場で死ぬとしても、涼子には行ってもらいたい」
「関係ない。これは……」
仕事だ。横矢はその一言がどうしても言えなかった。
このままナイフを指してお終いじゃないか。どうしてそれができない。横矢は自問するが答えは出ない。ナイフを持つ右腕は僅かに震えている。
「おい、ナイフをしまえ!」
第三者の声で、横矢は我に帰る。声の主は警官だった。野次馬の中の誰かが通報したのだろう。
「くそっ」
横矢は左手で地面を叩く。そして潤から離れると、警官から逃げるようにして、その場を去った。
「横矢俊介」
「一人でこの仕事するのは今回が初めてなんだって?」
「そうだ」
とある高級マンションの一室で、葉子の問いに横矢は淡々と答える。
「だけど、ひよっこでまだ一人じゃ仕事をこなせないから、私たちにサポートしろと」
「はあ? おやっさん、あんたにそんなこと言ったのか?」
心外だ、とばかりに横矢は声を荒げる。おやっさんとは、横矢の上司の男のことだろう。
「大体そんなもんだろう。とにかく、今から仕事だ。私の指示通りに動いてもらうよ」
「分かってる」
横矢の顔つきが真面目なものになる。仕事、という一言で気持ちをしっかりと切り替えたのだ。
「カップルの吸血鬼だっけ。ある程度居場所は絞れるよ。さっそくあんたら二人に殺しにいってもらう」
「二人?」
この部屋には俺とあんたの二人しかいないじゃないか。横矢がそう言葉を続けよとしたところで、「了解した」と別の男の声が背後から聞こえた。
横矢は振り返る。少し先に黒革のソファ、そしてそこに擬態しているかのように、黒衣の男が寝そべっていた。年齢は二十代半ばといったところだ。
「ユウだ」
横矢の視線に気づいたのか、ユウは目をつむったまま名乗る。
「今回の仕事はユウと二人で行ってもらうよ」
「俺一人じゃないのか?」
「当たり前だ。あんたは二回もしくじってるんだろう。被害が出ないうちに殺らなきゃいけないんだ。新人研修に付き合ってあげるだけありがたいと思いな馬鹿」
葉子にまくしたてられ、横矢は少しひるむ。何か言い返してやろうかと考えるが、葉子の行っていることは正論だということを理解していたため、無言のまま頷く。
「それに、あんた一人じゃ返り討ちにあうかもしれないからね。さっきも言った通り被害を出すのはよろしくない。民間人も、身内も、ね」
葉子は横矢とユウの二人を見回し、ニィと笑った。
「葉子さん、口は悪いけど良い人だな」
横矢は横を歩くユウに向けて言う。
葉子の指示に従い、二人はターゲットの吸血鬼たちが潜伏している場所を探していた。
「すぐに手が出るような女が良い人か。前は灰皿を頭に投げつけられた」
「そいつは恐いね」
けらけら、と横矢は笑う。一方ユウは無表情だった。彼は表情の変化が乏しい。葉子に万年ポーカーフェイスと呼ばれるほどだ。
横矢もそれが気になったのか、話題を変える。
「あんた、いつも無表情だね」
「悪いか?」
「いいや。だが、せっかくのイケメンフェイスがもったいない。笑ったりしてみなよ」
「断る」
「減るもんじゃないだろ」
「できないんだよ。口元の筋肉を動かすことはできるけど、笑うことはできない」
ユウはそう言って、横矢に顔を向けると、口元を吊りあげた。だが、それだけ。他の箇所は何一つ笑っていない。
「よく分かった。しかし笑えないだなんて、不思議な人間もいるもんだ」
「俺も、そう思うよ」
「他の表情はできないの?」
「ほとんど無理だな。どうやら感情というものを紛失したらしい」
「他人事みたいな言い草だな。それに、中学生の好きそうな設定だよ」
「設定、ね」
ユウはあまり関心がなさそうに答えると、黙る。
それからも横矢は何かと口を動かし続けたが、ユウは適当に返事を続けていた。
「それでさ、その時おやっさんが――」
横矢の喋りを遮るように、携帯電話が鳴った。ユウの物だ。
「もしもし」
ユウは少しの間、電話の相手と言葉を交わすと、通話を切って言った。
「今から別行動だ。カップルを吸血鬼にした親元の反応があったらしい。俺はそっちを追う」
「じゃあ、カップルは俺一人で?」
「そうなるな。葉子はああ言ったが、お前もしっかり殺せるだけの技術はあるんだろ。だからお前の上司はお前一人に仕事を与えたわけだ」
ユウは携帯電話をポケットに戻す。
「しくじるなよ」
それだけ言うと、ユウは走ってその場を去る。横矢はただその後ろ姿を見続けていた。
日が暮れる。建物の明かりや街灯が街を照らしている。
「もう大丈夫だな」
ネットカフェの出入り口で外の様子を確認すると、潤は涼子の手を引いて歩きだした。
――その直後。
潤の真上から何者かが現れ、不意打ちで彼を地面に押さえつける。そして首に銀製のナイフを突きつけた。
「葉子さんの言うとおりだった。お前ら日が暮れるまでここで時間潰してたんだな」
潤を押さえつけているのは横矢だった。潤たち二人がネットカフェにいるのを葉子が探知し、横矢に待ち伏せするようにと指示を出していたのだ。
「すんなり店から出てきたってことは、中で問題は起こしてないみたいだな。口の中に血も見当たらない」
横矢は潤の口を無理やり開け、口内を確認して言った。
「俺たちを殺すのか」
潤は横矢を睨みつけながら問う。
「そういう仕事なんだ」
横矢は事務的に返答する。
それを聞いて潤は悔しそうに顔をゆがめると、糞が、と悪態をつく。そして涼子の方へと顔を向けて叫んだ。
「逃げろ涼子ォ!」
涼子はゆっくりと後ずさる。潤を見捨てられないという気持ちが残っているのだろう。中々走りだそうとはしない。
「無駄だよ」
横矢は潤にナイフを向ける右手とは別に、左手にもナイフを持って涼子に切っ先を向けていた。
「これ以上動いたら投げる。人さしであんたはお終いだ」
とは言ったものの、横矢にはナイフを必中させる自信はなかった。自分はまだ戦闘技能も未熟であると自覚しているからだ。実際、訓練中でも投げナイフの命中率はあまり良いとは言えないものだった。
しかし、脅しとしての効果は絶大だったようで、涼子はピタリと足を止める。そしてぼろぼろとその場で泣き始めた。
やりづらいな、と横矢は思う。まず彼には対峙する二人の吸血鬼が悪者とは思えなかったからだ。だが、この仕事は相手が悪者かどうかなど関係なく、吸血鬼を問答無用に殺すというものなのだ。横矢はそれを理解して、この仕事に挑んでいる。
さらに、目の前で女性が泣いている、という状況だ。泣かせたのは自分である。男ってのはやっぱり女の涙に弱いものなんだなあ、と横矢は思った。
だが、仕事は仕事である。横矢はまず潤にとどめを刺そうとナイフを握る右手に力を入れた。
「なあ、最後のお願いだ」
自分はすぐに殺される。そう悟ったのか、潤は横矢に弱気な口調で語りかけた。
「俺を殺すのは構わない、降参だ。だけど涼子だけは助けてやってくれないか」
「恋人だけは助けたいってか。素晴らしい愛だ」
「……涼子は俺の恋人じゃないよ。幼馴染なだけだ」
「照れるなよ」
「涼子には昔から好きな人がいる。涼子には昔から大きな夢がある。知ってるんだ、俺は幼馴染だから。あいつをずっと見てきたから」
「…………」
「俺たちは恋人同士じゃないけど、俺はあいつを愛してる。だから、俺はあいつに幸せになってもらいたい。夢を叶えてもらいたい」
「……もし俺が逃がしたところで、彼女は本当に幸せになれるのか?」
「なってほしいんだ」
「なってほしいじゃない。なれるのかどうかだ!」
いつの間にか、横矢はむきになって答えていた。
「彼女は吸血鬼だ。陽の当たる場所を歩くことはできない。人の血を吸わなければいずれ死ぬ。それに、常時俺のような狩人に狙われることになるんだ。どこへ逃げても、だ。それでも幸せになれるのかよ!」
「じゃあ、言わせてもらうけどな」
一方、潤も横矢とのやり取りで頭に血が昇り始めていた。
「幸せになれそうにないから今ここで殺しますって言われて、納得できると思うか? できるわけねえだろ! まだ幸せになる努力もしてないのに殺されるんだぞ。希望はまだどこかに転がっているかもしれない。それを探すこともできないまま殺されるなんて、納得できるわけねえ。ふざけんな糞野郎」
潤は叫ぶ。いつのまにか、三人の周りには人だかりができていた。
「ネットで調べたんだ。遠くの街にだが、吸血鬼から人間に戻す手術をしている人がいるらしい。嘘か本当かは分からない。だから、確かめにいくつもりだったんだ。俺はこの場で死ぬとしても、涼子には行ってもらいたい」
「関係ない。これは……」
仕事だ。横矢はその一言がどうしても言えなかった。
このままナイフを指してお終いじゃないか。どうしてそれができない。横矢は自問するが答えは出ない。ナイフを持つ右腕は僅かに震えている。
「おい、ナイフをしまえ!」
第三者の声で、横矢は我に帰る。声の主は警官だった。野次馬の中の誰かが通報したのだろう。
「くそっ」
横矢は左手で地面を叩く。そして潤から離れると、警官から逃げるようにして、その場を去った。
コンビニの外、駐車場のパーキングブロックに腰かけながら、横矢はユウを待っていた。
警察の目に止まり、ターゲットを逃がす形になってしまった。と、ユウにそう連絡を入れた。
横矢と別行動をして、カップルを吸血鬼にした親元を探していたユウだが、完全に気配を断たれて見つけようがなくなったため、横矢と合流することにしたのだ。
空は暗い。横矢はぼうっと月を見上げている。すると、ユウが現れた。
「立て。休んでいる暇はない。奴らの場所は分かっている」
ユウは来るなり、横矢を急かした。
言われた通り横矢は立ち上がるが、その表情からは覇気をまったく感じることができなかった。迷っているな、とユウは察する。
「迷っているみたいだが、そんな暇はない。被害が出る前に奴らを殺さねばならない」
「それは、仕事だから殺すんだよな……」
俯きながら、横矢は言った。
「当たり前のことを言うな」
「相手がどんな人であろうと、吸血鬼であるなら殺すんだよな……」
「だからどうした」
「本当にそれが正しいのか、俺には分からな――」
言葉を言いきる前に、ユウはナイフを手に取ると横矢の胸に突き付けた。
「そのような問答は今必要ない」
ユウは今までと変わらぬ語調で、淡々と言う。
「俺とお前に与えられた仕事はターゲットの吸血鬼を殺すこと。自分からその仕事を選んだのなら、今はそのことだけを考えろ」
「……ッ」
横矢は歯をかみしめる。ユウの言うとおりなのだ。俺は自分でこの仕事を選んだ。
「分かった。行こう」
ユウは返事を聞くとナイフを懐にしまう。
「来い。こっちだ」
ユウは風のように軽々と、そして素早く走りだす。横矢も、置いていかれないようついていく。
「なあ」
横矢は走りながら、眼前のユウに問う。
「あんたはどうしてここまで非情になれるんだ」
「前に言っただろう。俺は感情を失くしたと」
ちょっとした冗談だと、最初この話をされたとき、横矢はそう思っていた。だが、どうやら本当みたいだ、と思い直す。
「それに――」
「それに?」
「俺はこの仕事をする以外の生き方はできない」
横矢はどう返していいのかが分からなくなる。ユウは本気で言っていることは分かった。この人は何かがあって精神が壊れているのではないか、とも思い始めた。
「涼子、逃げろ」
警察から逃げ、二人は小さな公園にいた。
この夜の間にどこへ逃げるか。それを話しあっている最中に、潤は突然涼子に言った。まるで何かを感じ取ったかのように。
「どうしたのいきなり」
「聞こえるんだよ、足音が。それも、ものすごく速い。こちらに向かってきてる」
そこで涼子も自分たちを追う狩人のことなのだと察する。
「でもどうしてそんなこと分かるの?」
「分からない。でも聞こえるのは確かなんだ。どんどん大きくなってる」
吸血鬼になってから時間が経ち、二人の身体は徐々に人間以上の身体能力、知覚能力を持つ化物へと変化していた。とりわけ、潤はその変化の速度が速かったのだ。
「早く逃げろ。なるべく人ごみがいい。急げ!」
「でも潤はどうするの!?」
「大丈夫。追ってきているのは今日襲ってきたやつだろう。さっきあいつは俺の言葉で殺すことをためらっていた。説得できるかもしれない」
「でも……」
「頼むよ」
潤の真剣な表情に、涼子は頷かざるを得なくなる。
そして潤が指さす足音とは逆の方向へと、涼子は駆け出した。
「すぐに追いつくから」
その後ろ姿を見ながら潤は言う。しかし聞こえてはいないだろう。涼子もまた吸血鬼としての変化が大きくなってきている。常人とはけた違いの速さでいなくなった。
それから一分も経たないうちに、ユウと横矢が潤の目の前に現れた。
ユウはあたりを見回すと、潤に問う。
「女はどこに行った」
「俺たちを見逃してくれるなら教えてやるよ」
横矢だけなら説得できるのではないかと思っていた潤だが、ユウの存在に戸惑う。果たしてこの男には説得が通じるのだろうか、と。
横矢はこの場に来てもなお、自分がどうするべきなのかを悩んでいた。
自分でこの仕事を選んだのにも関わらず、彼は殺すべき相手に情けをかけてしまった。ただ殺すだけの相手のことをあれこれ考えるなど、殺すという仕事に関して最も不要なことなのだ。
ユウとは違う、まっとうな人間としての感情、思考が横矢を苦しめた。
「なあ、なんで俺たちは殺されなきゃいけないんだよ。吸血鬼だからって、なんで――」
潤は説得の途中で思わずその場から飛び退く。すると、先ほど彼が立っていた場所に銀製のナイフが刺さった。
「仕事だからだ。お前にどんな事情があろうと俺はお前を殺すよ」
もう一本懐からナイフを取り出すと、ユウは潤をしとめるべく飛びかかる。しかし、そう簡単にはいかなかった。潤は吸血鬼だ。ただの人間であるユウと違って身体能力は人間のそれを大きく上回る。
必死に、ただ殺されないことだけを考えて潤は回避を続ける。一度、反撃を試みたがユウはすぐさまそれに反応し、カウンターをとらんと迎え撃つため、潤は反撃を中断。逃げに徹する。
「あんた……本当に人間かよ」
しかしユウは答えない。
一方、横矢は戦闘の様子をぼうっと見つめていた。自分はどちらの側につけばいいのか。仕事をこなすのならもちろんユウにつくべきなのだが、潤を殺したくないという気持ちが強くなってきた今、選択できなくなっていた。どうするべきか、どうするべきか――――
「おい横矢!」
ユウの呼びかけで横矢は我に返る。
「ぼうっとしていないで手伝え」
だから、どちらを手伝えばいいか迷っているんだ。と、横矢は思わず叫びそうになる。だが、そんなこと叫べる口できない。横矢はぎゅっと拳を握りしめていた。
「あんたら、吸血鬼を殺すのが仕事なら」
潤は回避行動を続けながらユウに話しかける。
「俺たちを吸血鬼にしたやつも殺すんだろう」
その発言に、声には出さないがユウは反応する。それを潤も感じ取ったのか、話を続ける。
「そいつについて知っていることを全部あんたに話す」
「だから、見逃せと?」
「そういうことだ。俺たちなんかよりそいつのほうがよっぽど危ないぜ」
「俺がその話にのったと仮定しよう。そうだとして、俺がお前を見逃すとおもうか?」
ユウは冷たく言い放つ。
「俺は情報を貰った時点でお前を殺すよ」
「くそがっ」
潤は思わず悪態を吐く。
「つまりだ。お前から得られる程度の情報は必要ないし、お前を生かすつもりも絶対にない」
「この野郎……!」
「隙ができたぞ」
ユウの言葉に怒りを覚えた潤の僅かな隙を、ユウは見逃さない。ナイフを心臓目がけて投擲する。――が、ナイフは狙い通りの場所へ届く前にはじかれて明後日の方向へ飛んでいく。
「……横矢」
ユウは動きを止めて横矢の方を見た。
「わるい。俺はどうしてもこいつらを殺せない」
横矢は自分もナイフを投擲して潤を助けたのだ。
「おい、俺がユウを止める。お前は逃げろ!」
潤に向かって横矢は叫ぶ。
「自分がやっていることが分かっているのか」
「分かってるよ。俺はあんたと違って非情になれない」
「ならば、俺から言うことは何もない」
ユウは横矢に急接近。横矢は慌てて構えるが、横矢の片腕を拳の素早い一撃で弾く。そして空いたスペースから腹部目がけて拳を叩きこむ。
ユウの鍛え抜かれた身体から繰り出された拳撃は、同じく身体を鍛え上げているであろう横矢を数発で地面に沈める。
「ここで休んでいるといい。俺は仕事を続ける」
ユウはそう言うと、すでに逃げていた潤を追いかけて闇夜に消えていく。
追いかけようにも、横矢は苦痛のあまり立ち上がることができなかった。
苦痛はわりと早く引いていき、横矢は数分で動き回れるようになった。まだ鈍い痛みが残るものの、急いで潤とユウが向かった方向へと走っていく。
横矢はまだ潤が生きていることを祈った。と同時にここまであの吸血鬼二人に肩入れしている自分を笑いたくもなった。自分がここまで情にもろい人間だとは思っていなかった。
しかし、潤がまだ生きていたとして、自分はどうすればいいのだろうかと走りながら考える。ユウは絶対に仕事をやめない。殺すことをやめない。二人を救うにはユウを殺すしかない。だが、横矢はそれだけの理由でユウを殺そうとは思えない。
どうすれば――――
答えが出るよりも先に、横矢は街灯に照らされてたたずむ黒コートの男を見つける。ユウだ。そしてその足元には――衣服とアクセサリー、銀ナイフ。そして灰。
横矢は、自分がここにくるまでの必死の葛藤や思考が全て無駄になったことを悟り、冷たい夜に吠えた。
警察の目に止まり、ターゲットを逃がす形になってしまった。と、ユウにそう連絡を入れた。
横矢と別行動をして、カップルを吸血鬼にした親元を探していたユウだが、完全に気配を断たれて見つけようがなくなったため、横矢と合流することにしたのだ。
空は暗い。横矢はぼうっと月を見上げている。すると、ユウが現れた。
「立て。休んでいる暇はない。奴らの場所は分かっている」
ユウは来るなり、横矢を急かした。
言われた通り横矢は立ち上がるが、その表情からは覇気をまったく感じることができなかった。迷っているな、とユウは察する。
「迷っているみたいだが、そんな暇はない。被害が出る前に奴らを殺さねばならない」
「それは、仕事だから殺すんだよな……」
俯きながら、横矢は言った。
「当たり前のことを言うな」
「相手がどんな人であろうと、吸血鬼であるなら殺すんだよな……」
「だからどうした」
「本当にそれが正しいのか、俺には分からな――」
言葉を言いきる前に、ユウはナイフを手に取ると横矢の胸に突き付けた。
「そのような問答は今必要ない」
ユウは今までと変わらぬ語調で、淡々と言う。
「俺とお前に与えられた仕事はターゲットの吸血鬼を殺すこと。自分からその仕事を選んだのなら、今はそのことだけを考えろ」
「……ッ」
横矢は歯をかみしめる。ユウの言うとおりなのだ。俺は自分でこの仕事を選んだ。
「分かった。行こう」
ユウは返事を聞くとナイフを懐にしまう。
「来い。こっちだ」
ユウは風のように軽々と、そして素早く走りだす。横矢も、置いていかれないようついていく。
「なあ」
横矢は走りながら、眼前のユウに問う。
「あんたはどうしてここまで非情になれるんだ」
「前に言っただろう。俺は感情を失くしたと」
ちょっとした冗談だと、最初この話をされたとき、横矢はそう思っていた。だが、どうやら本当みたいだ、と思い直す。
「それに――」
「それに?」
「俺はこの仕事をする以外の生き方はできない」
横矢はどう返していいのかが分からなくなる。ユウは本気で言っていることは分かった。この人は何かがあって精神が壊れているのではないか、とも思い始めた。
「涼子、逃げろ」
警察から逃げ、二人は小さな公園にいた。
この夜の間にどこへ逃げるか。それを話しあっている最中に、潤は突然涼子に言った。まるで何かを感じ取ったかのように。
「どうしたのいきなり」
「聞こえるんだよ、足音が。それも、ものすごく速い。こちらに向かってきてる」
そこで涼子も自分たちを追う狩人のことなのだと察する。
「でもどうしてそんなこと分かるの?」
「分からない。でも聞こえるのは確かなんだ。どんどん大きくなってる」
吸血鬼になってから時間が経ち、二人の身体は徐々に人間以上の身体能力、知覚能力を持つ化物へと変化していた。とりわけ、潤はその変化の速度が速かったのだ。
「早く逃げろ。なるべく人ごみがいい。急げ!」
「でも潤はどうするの!?」
「大丈夫。追ってきているのは今日襲ってきたやつだろう。さっきあいつは俺の言葉で殺すことをためらっていた。説得できるかもしれない」
「でも……」
「頼むよ」
潤の真剣な表情に、涼子は頷かざるを得なくなる。
そして潤が指さす足音とは逆の方向へと、涼子は駆け出した。
「すぐに追いつくから」
その後ろ姿を見ながら潤は言う。しかし聞こえてはいないだろう。涼子もまた吸血鬼としての変化が大きくなってきている。常人とはけた違いの速さでいなくなった。
それから一分も経たないうちに、ユウと横矢が潤の目の前に現れた。
ユウはあたりを見回すと、潤に問う。
「女はどこに行った」
「俺たちを見逃してくれるなら教えてやるよ」
横矢だけなら説得できるのではないかと思っていた潤だが、ユウの存在に戸惑う。果たしてこの男には説得が通じるのだろうか、と。
横矢はこの場に来てもなお、自分がどうするべきなのかを悩んでいた。
自分でこの仕事を選んだのにも関わらず、彼は殺すべき相手に情けをかけてしまった。ただ殺すだけの相手のことをあれこれ考えるなど、殺すという仕事に関して最も不要なことなのだ。
ユウとは違う、まっとうな人間としての感情、思考が横矢を苦しめた。
「なあ、なんで俺たちは殺されなきゃいけないんだよ。吸血鬼だからって、なんで――」
潤は説得の途中で思わずその場から飛び退く。すると、先ほど彼が立っていた場所に銀製のナイフが刺さった。
「仕事だからだ。お前にどんな事情があろうと俺はお前を殺すよ」
もう一本懐からナイフを取り出すと、ユウは潤をしとめるべく飛びかかる。しかし、そう簡単にはいかなかった。潤は吸血鬼だ。ただの人間であるユウと違って身体能力は人間のそれを大きく上回る。
必死に、ただ殺されないことだけを考えて潤は回避を続ける。一度、反撃を試みたがユウはすぐさまそれに反応し、カウンターをとらんと迎え撃つため、潤は反撃を中断。逃げに徹する。
「あんた……本当に人間かよ」
しかしユウは答えない。
一方、横矢は戦闘の様子をぼうっと見つめていた。自分はどちらの側につけばいいのか。仕事をこなすのならもちろんユウにつくべきなのだが、潤を殺したくないという気持ちが強くなってきた今、選択できなくなっていた。どうするべきか、どうするべきか――――
「おい横矢!」
ユウの呼びかけで横矢は我に返る。
「ぼうっとしていないで手伝え」
だから、どちらを手伝えばいいか迷っているんだ。と、横矢は思わず叫びそうになる。だが、そんなこと叫べる口できない。横矢はぎゅっと拳を握りしめていた。
「あんたら、吸血鬼を殺すのが仕事なら」
潤は回避行動を続けながらユウに話しかける。
「俺たちを吸血鬼にしたやつも殺すんだろう」
その発言に、声には出さないがユウは反応する。それを潤も感じ取ったのか、話を続ける。
「そいつについて知っていることを全部あんたに話す」
「だから、見逃せと?」
「そういうことだ。俺たちなんかよりそいつのほうがよっぽど危ないぜ」
「俺がその話にのったと仮定しよう。そうだとして、俺がお前を見逃すとおもうか?」
ユウは冷たく言い放つ。
「俺は情報を貰った時点でお前を殺すよ」
「くそがっ」
潤は思わず悪態を吐く。
「つまりだ。お前から得られる程度の情報は必要ないし、お前を生かすつもりも絶対にない」
「この野郎……!」
「隙ができたぞ」
ユウの言葉に怒りを覚えた潤の僅かな隙を、ユウは見逃さない。ナイフを心臓目がけて投擲する。――が、ナイフは狙い通りの場所へ届く前にはじかれて明後日の方向へ飛んでいく。
「……横矢」
ユウは動きを止めて横矢の方を見た。
「わるい。俺はどうしてもこいつらを殺せない」
横矢は自分もナイフを投擲して潤を助けたのだ。
「おい、俺がユウを止める。お前は逃げろ!」
潤に向かって横矢は叫ぶ。
「自分がやっていることが分かっているのか」
「分かってるよ。俺はあんたと違って非情になれない」
「ならば、俺から言うことは何もない」
ユウは横矢に急接近。横矢は慌てて構えるが、横矢の片腕を拳の素早い一撃で弾く。そして空いたスペースから腹部目がけて拳を叩きこむ。
ユウの鍛え抜かれた身体から繰り出された拳撃は、同じく身体を鍛え上げているであろう横矢を数発で地面に沈める。
「ここで休んでいるといい。俺は仕事を続ける」
ユウはそう言うと、すでに逃げていた潤を追いかけて闇夜に消えていく。
追いかけようにも、横矢は苦痛のあまり立ち上がることができなかった。
苦痛はわりと早く引いていき、横矢は数分で動き回れるようになった。まだ鈍い痛みが残るものの、急いで潤とユウが向かった方向へと走っていく。
横矢はまだ潤が生きていることを祈った。と同時にここまであの吸血鬼二人に肩入れしている自分を笑いたくもなった。自分がここまで情にもろい人間だとは思っていなかった。
しかし、潤がまだ生きていたとして、自分はどうすればいいのだろうかと走りながら考える。ユウは絶対に仕事をやめない。殺すことをやめない。二人を救うにはユウを殺すしかない。だが、横矢はそれだけの理由でユウを殺そうとは思えない。
どうすれば――――
答えが出るよりも先に、横矢は街灯に照らされてたたずむ黒コートの男を見つける。ユウだ。そしてその足元には――衣服とアクセサリー、銀ナイフ。そして灰。
横矢は、自分がここにくるまでの必死の葛藤や思考が全て無駄になったことを悟り、冷たい夜に吠えた。
街灯と月明かりが照らす歩道で、横矢はユウを見やる。遅い時間だからか、周りに他の人間はいない。
ユウは何事もなかったかのような表情で電話をしている。携帯を持つ手と反対の手には淀んだ赤色をした肉塊――吸血鬼の核が握られていた。潤のものだ。
思わず横矢は潤に飛びかかる。が、ユウを殴り付ける直前で動きを止めた。
ユウは携帯をしまうと同時にナイフを取り出し、横矢に向けて刃をつきだしたのだ。
「怒っているのか」
横矢は答えない。拳は握られたままだ。
「なぜ怒っている。俺がこの吸血鬼を殺したからか」
横矢は答えない。どう答えていいものか、分からなかったからだ。
「まあいい。お前の仕事はこれで終わりだ」
ユウはナイフをしまうと、今度は小瓶を取り出す。そして中に核を入れる。
それと同時に横矢は拳を振りぬく。しかし、ユウの眼前でそれは空を切った。
「避けるんじゃねぇ」
「お前が俺を殴ったところでどうなる。俺がお前に謝るか? 俺が考えを改めるか? この男が生き返るか? 全部ノーだ」
「くそがっ……」
ユウを殴りそこない、怒りが行き場をなくして横矢の身体を駆け巡る。
「それに、誰だって痛いのはごめんだ」
「ふざけやがって。そういうことじゃねえだろ……!」
「じゃあなんだ。こいつを生かすことが正解なのか? 俺はそう思わんがね」
「感情がないからそんなこと言えるんじゃないのか」
「もしここで俺がこの男と女を逃がしたとしよう。そうすれば二人はこの先人間の血を吸う。本能だからだ。どんなに拒んでも、動物の血でしのいでも、最終的には逆らえなくなる。
そうすれば、血を吸われた人間が吸血鬼化する可能性がある。そうしたら、どうなるか。また他の人間を襲うんだ。吸血鬼になれば人間の頃よりも凶暴性が高くなる。当たり前のように死人が出るんだ。
この先起こりうる悲劇を考えて、お前は俺を咎めているのか?」
横矢は答えられなかった。ユウの言っていることを理解しているからであり、そしてそれを理由に潤の死を認めたくなかったのだ。
「まあ、俺にとってこれは建前みたいなものだがな。仕事だから殺す、それに理由はいらない。というのが持論だ」
ユウは小瓶をしまうと、横矢に背を向けた。
「無駄なお喋りもここまでだ」
「無駄って……お前――」
「今日、ここで灰となった男のことは忘れろ。今日、うだうだと考えていたことも全て忘れろ」
「……できるかよ」
「命令だ」
「は?」
「今回の仕事において、俺はお前の上司みたいなもんだ。上司命令。お前のためを思って言ってやってるんだ」
「感情がないやつに他人を思いやることなんかできるかよ」
横矢はユウの背中を睨みつけながら、吐き捨てるように言った。
「そうだな」
ユウは否定しない。
「掃除屋<スイーパー>を呼んでおけ。後片付けが必要だからな」
「あんたはどこに行くんだ」
「決まってるだろう。女の方を始末してくるのさ」
そう言うと、ユウはすぐさまその場から駆け出し、あっという間にいなくなった。まるで、これ以上横矢の言葉を聞きたくないとばかりに。
黒服の男たちが灰や戦闘の跡を綺麗に掃除する。横矢はその様子を黙って見ていた。
灰を片付け、潤の衣服や装飾品、ユウのナイフを回収。そして全ての後始末が終わると、黒服の中の一人が横矢に報告。そしてすぐさま車に乗って消えていった。
横矢は冷静だった。
またユウを追いかけたところで止めることはできない、そう理解しているからだ。
「これは賭けだ」
ポケットから携帯電話を取り出す。そしてボタンを数回押し、通話をかける。
『もしもし、どうした』
「なあ葉子さん、あんたに頼みがあるんだ」
電話の相手は葉子だった。
『……言ってみな』
横矢はごくり、と唾を飲み込むと、話し始めた。
「それじゃあ」
横矢は葉子との通話を終える。
「……よしっ」
携帯電話をポケットにしまうと、横矢は思わずガッツポーズをとった。
「いや、喜ぶのはまだ早いか。あとは彼女が俺を信じてくれれば」
再び気持ちを落ち着かせ、冷静になった横矢はもう一度ポケットから携帯電話を取り出す。さきほど葉子にかけたときの物とは違う携帯電話。
ぎこちない操作で通話履歴を見る。そして糸川涼子という名前を見つけ、ボタンを押す。
コール。数秒の間をおいて、相手が出た。
『もしもし? 潤? 生きてる? 逃げ切れたの?』
出るや否や、涼子は矢継ぎ早に質問を投げかける。しかし、彼女に電話をかけたのは潤ではなく――
「悪いね。俺はあんたの友達の潤じゃない」
涼子の息をのむ声が、電話越しに横矢の耳へと入る。
『……あなた、私たちを殺そうとした……』
「その通りだ。だけど、今は違う」
『潤は!? 潤はどうなったの!? 殺したの!? ねえ!』
ヒステリック気味に、涼子は叫んだ。
耳をつんざくようなその声に、横矢は少し顔を歪める。そして努めて冷静に言う。
「あんたの友達は、俺の同僚に殺された」
言いきったと同時に、涼子の声が聞こえなくなる。まさにショックで言葉を失った状態にあるのだろう。
「俺の同僚は、今もあんたを殺そうと探しまわっている。あんたの大体の居場所は割れているから見つかるのも時間の問題だ」
『どうして……』
「だが、今の俺はあんたの味方だ。あんたを助けたいと思っている」
『なんで、なんでなんでなんで! なんで私たちがこんな目に合わなくちゃいけないの!』
「だから、あんたを助けるって言ってるだろう。今から俺が言うことを聞いてくれ」
『私どうすればいいのよ! 潤を殺して私も殺すんでしょ! なんでよ! もうわけわかんない! もう嫌――』
「聞け!」
横矢が一喝。あまりの迫力に涼子は思わず黙り込む。
「いいか。俺はあんらを助けたい」
『嘘……』
「嘘じゃない。時間がないんだ。死にたくなかったら俺を信じろ」
『無理よ……信じられない』
「頼む。いつあんたが俺の同僚に見つかって殺されてもおかしくない状況なんだ」
『だって、あなたも私を殺そうとしたじゃない』
横矢は言葉を詰まらせる。確かに自分は仕事として彼女を殺そうとした。今更助けるといったところ信用してもらえないだろう。
だが、涼子は態度を一変させた。
『まって……あなたの同僚はどんな格好をしているの……?』
焦燥感を感じさせる声に、まさか……と横矢は思う。
「黒いコートを纏って背中には木の杭が入った袋を背負っている」
『いた……あなたの同僚。あきらかに他の人と違う雰囲気。すごくきょろきょろと周りを見回してる……』
涼子の跳ね上がった知覚がユウを捉えたのだ。
「あんたは今どこに?」
横矢は焦る。今ユウに見つかったらお終いだ。
『潤が人ごみに紛れてろって言うから、○○町の歓楽街に』
横矢は考える。どれくらいの速さで○○町に行くことができるか。涼子が見つかるよりも先に、ユウを妨害できるか。
……厳しい。と結論を出す。
「いいか。目立たないようにその場を離れろ」
『う、うん』
「今から俺が言う場所に行くんだ。そこならお前を匿ってくれる」
そう言って、ジュンは葉子が事務所にしている高級マンションの住所を伝えた。
「そこの九〇九号室だ。行き方は分かるか?」
『だいたいの場所は分かる。マンションの特徴を教えてもらえると助かるんだけど』
「三角形に近い形をした変わったマンションだ。見ればすぐ分かると思う」
『分かった。今から向かう』
「ああ、信じてくれてありがとう」
横矢は良かった、と思う。ユウとニアミスしたのは危険だが、おかげで涼子は横矢を信用したのだ。
「念のため、通話したままにしておいてくれ。状況が少しでも変わったらすぐに俺に伝えられるように」
『うん……。今のところ大丈夫。うまく別の路地に行けた』
横矢はほっと胸をなでおろす。この調子なら問題なく事務所行けるだろう。
改めて葉子さんにお礼を言わないとな。横矢はしみじみと思った。
『……言ってみな』
「今追っている吸血鬼の女を助けたい。手を貸してほしい」
横矢はあの時、葉子に涼子を助けるように電話で頼んでいた。
『あんたそれ、本気で言ってるの?』
葉子の反応は当然のものと言えた。吸血鬼を殺す仕事をしている人間が、その上司に当たる人間に吸血鬼を殺すなと言っているのだ。
横矢もこのような反応が返ってくるのは分かり切っていた。だから、さらに説得を続ける。
潤が話した事情を、そして自分の思いを、必死に伝え続ける。
『確かにね、あんたが言うとおり悪さをしてない人間を吸血鬼だから殺すっていうのは、少し残酷かなと私も思う。けどね、そういう仕事なんだ』
「こんなの、絶対おかしいだろ! 頼むよ葉子さん……」
これ以上言っても変わらない。この懇願が最後のチャンスだ。横矢はそう感じ取り、思いを込めて頼み込んだ。
『……しょうがないね』
葉子の口調が少し優しいものに変わった。
『あんたの上司には内緒にしておきな』
「あ……ああ! おやっさんには何も言わねえ」
横矢の表情がほころぶ。やっぱり葉子さんはいい人だったんだ。嬉しさで携帯を握る手に力が入った。
『それで、どうするつもりなの』
「女の方に事務所の住所を教えて、そこに行くよう指示する。俺のことを信じてくれるか分からないけど、必ず説得してみせるつもりだ」
『分かった。早くしなよ、ユウに見つかる前にね』
「ありがとう葉子さん。本当にありがとう……!」
横矢は惜しみない感謝の気持ちを言葉に込めた。
ユウは何事もなかったかのような表情で電話をしている。携帯を持つ手と反対の手には淀んだ赤色をした肉塊――吸血鬼の核が握られていた。潤のものだ。
思わず横矢は潤に飛びかかる。が、ユウを殴り付ける直前で動きを止めた。
ユウは携帯をしまうと同時にナイフを取り出し、横矢に向けて刃をつきだしたのだ。
「怒っているのか」
横矢は答えない。拳は握られたままだ。
「なぜ怒っている。俺がこの吸血鬼を殺したからか」
横矢は答えない。どう答えていいものか、分からなかったからだ。
「まあいい。お前の仕事はこれで終わりだ」
ユウはナイフをしまうと、今度は小瓶を取り出す。そして中に核を入れる。
それと同時に横矢は拳を振りぬく。しかし、ユウの眼前でそれは空を切った。
「避けるんじゃねぇ」
「お前が俺を殴ったところでどうなる。俺がお前に謝るか? 俺が考えを改めるか? この男が生き返るか? 全部ノーだ」
「くそがっ……」
ユウを殴りそこない、怒りが行き場をなくして横矢の身体を駆け巡る。
「それに、誰だって痛いのはごめんだ」
「ふざけやがって。そういうことじゃねえだろ……!」
「じゃあなんだ。こいつを生かすことが正解なのか? 俺はそう思わんがね」
「感情がないからそんなこと言えるんじゃないのか」
「もしここで俺がこの男と女を逃がしたとしよう。そうすれば二人はこの先人間の血を吸う。本能だからだ。どんなに拒んでも、動物の血でしのいでも、最終的には逆らえなくなる。
そうすれば、血を吸われた人間が吸血鬼化する可能性がある。そうしたら、どうなるか。また他の人間を襲うんだ。吸血鬼になれば人間の頃よりも凶暴性が高くなる。当たり前のように死人が出るんだ。
この先起こりうる悲劇を考えて、お前は俺を咎めているのか?」
横矢は答えられなかった。ユウの言っていることを理解しているからであり、そしてそれを理由に潤の死を認めたくなかったのだ。
「まあ、俺にとってこれは建前みたいなものだがな。仕事だから殺す、それに理由はいらない。というのが持論だ」
ユウは小瓶をしまうと、横矢に背を向けた。
「無駄なお喋りもここまでだ」
「無駄って……お前――」
「今日、ここで灰となった男のことは忘れろ。今日、うだうだと考えていたことも全て忘れろ」
「……できるかよ」
「命令だ」
「は?」
「今回の仕事において、俺はお前の上司みたいなもんだ。上司命令。お前のためを思って言ってやってるんだ」
「感情がないやつに他人を思いやることなんかできるかよ」
横矢はユウの背中を睨みつけながら、吐き捨てるように言った。
「そうだな」
ユウは否定しない。
「掃除屋<スイーパー>を呼んでおけ。後片付けが必要だからな」
「あんたはどこに行くんだ」
「決まってるだろう。女の方を始末してくるのさ」
そう言うと、ユウはすぐさまその場から駆け出し、あっという間にいなくなった。まるで、これ以上横矢の言葉を聞きたくないとばかりに。
黒服の男たちが灰や戦闘の跡を綺麗に掃除する。横矢はその様子を黙って見ていた。
灰を片付け、潤の衣服や装飾品、ユウのナイフを回収。そして全ての後始末が終わると、黒服の中の一人が横矢に報告。そしてすぐさま車に乗って消えていった。
横矢は冷静だった。
またユウを追いかけたところで止めることはできない、そう理解しているからだ。
「これは賭けだ」
ポケットから携帯電話を取り出す。そしてボタンを数回押し、通話をかける。
『もしもし、どうした』
「なあ葉子さん、あんたに頼みがあるんだ」
電話の相手は葉子だった。
『……言ってみな』
横矢はごくり、と唾を飲み込むと、話し始めた。
「それじゃあ」
横矢は葉子との通話を終える。
「……よしっ」
携帯電話をポケットにしまうと、横矢は思わずガッツポーズをとった。
「いや、喜ぶのはまだ早いか。あとは彼女が俺を信じてくれれば」
再び気持ちを落ち着かせ、冷静になった横矢はもう一度ポケットから携帯電話を取り出す。さきほど葉子にかけたときの物とは違う携帯電話。
ぎこちない操作で通話履歴を見る。そして糸川涼子という名前を見つけ、ボタンを押す。
コール。数秒の間をおいて、相手が出た。
『もしもし? 潤? 生きてる? 逃げ切れたの?』
出るや否や、涼子は矢継ぎ早に質問を投げかける。しかし、彼女に電話をかけたのは潤ではなく――
「悪いね。俺はあんたの友達の潤じゃない」
涼子の息をのむ声が、電話越しに横矢の耳へと入る。
『……あなた、私たちを殺そうとした……』
「その通りだ。だけど、今は違う」
『潤は!? 潤はどうなったの!? 殺したの!? ねえ!』
ヒステリック気味に、涼子は叫んだ。
耳をつんざくようなその声に、横矢は少し顔を歪める。そして努めて冷静に言う。
「あんたの友達は、俺の同僚に殺された」
言いきったと同時に、涼子の声が聞こえなくなる。まさにショックで言葉を失った状態にあるのだろう。
「俺の同僚は、今もあんたを殺そうと探しまわっている。あんたの大体の居場所は割れているから見つかるのも時間の問題だ」
『どうして……』
「だが、今の俺はあんたの味方だ。あんたを助けたいと思っている」
『なんで、なんでなんでなんで! なんで私たちがこんな目に合わなくちゃいけないの!』
「だから、あんたを助けるって言ってるだろう。今から俺が言うことを聞いてくれ」
『私どうすればいいのよ! 潤を殺して私も殺すんでしょ! なんでよ! もうわけわかんない! もう嫌――』
「聞け!」
横矢が一喝。あまりの迫力に涼子は思わず黙り込む。
「いいか。俺はあんらを助けたい」
『嘘……』
「嘘じゃない。時間がないんだ。死にたくなかったら俺を信じろ」
『無理よ……信じられない』
「頼む。いつあんたが俺の同僚に見つかって殺されてもおかしくない状況なんだ」
『だって、あなたも私を殺そうとしたじゃない』
横矢は言葉を詰まらせる。確かに自分は仕事として彼女を殺そうとした。今更助けるといったところ信用してもらえないだろう。
だが、涼子は態度を一変させた。
『まって……あなたの同僚はどんな格好をしているの……?』
焦燥感を感じさせる声に、まさか……と横矢は思う。
「黒いコートを纏って背中には木の杭が入った袋を背負っている」
『いた……あなたの同僚。あきらかに他の人と違う雰囲気。すごくきょろきょろと周りを見回してる……』
涼子の跳ね上がった知覚がユウを捉えたのだ。
「あんたは今どこに?」
横矢は焦る。今ユウに見つかったらお終いだ。
『潤が人ごみに紛れてろって言うから、○○町の歓楽街に』
横矢は考える。どれくらいの速さで○○町に行くことができるか。涼子が見つかるよりも先に、ユウを妨害できるか。
……厳しい。と結論を出す。
「いいか。目立たないようにその場を離れろ」
『う、うん』
「今から俺が言う場所に行くんだ。そこならお前を匿ってくれる」
そう言って、ジュンは葉子が事務所にしている高級マンションの住所を伝えた。
「そこの九〇九号室だ。行き方は分かるか?」
『だいたいの場所は分かる。マンションの特徴を教えてもらえると助かるんだけど』
「三角形に近い形をした変わったマンションだ。見ればすぐ分かると思う」
『分かった。今から向かう』
「ああ、信じてくれてありがとう」
横矢は良かった、と思う。ユウとニアミスしたのは危険だが、おかげで涼子は横矢を信用したのだ。
「念のため、通話したままにしておいてくれ。状況が少しでも変わったらすぐに俺に伝えられるように」
『うん……。今のところ大丈夫。うまく別の路地に行けた』
横矢はほっと胸をなでおろす。この調子なら問題なく事務所行けるだろう。
改めて葉子さんにお礼を言わないとな。横矢はしみじみと思った。
『……言ってみな』
「今追っている吸血鬼の女を助けたい。手を貸してほしい」
横矢はあの時、葉子に涼子を助けるように電話で頼んでいた。
『あんたそれ、本気で言ってるの?』
葉子の反応は当然のものと言えた。吸血鬼を殺す仕事をしている人間が、その上司に当たる人間に吸血鬼を殺すなと言っているのだ。
横矢もこのような反応が返ってくるのは分かり切っていた。だから、さらに説得を続ける。
潤が話した事情を、そして自分の思いを、必死に伝え続ける。
『確かにね、あんたが言うとおり悪さをしてない人間を吸血鬼だから殺すっていうのは、少し残酷かなと私も思う。けどね、そういう仕事なんだ』
「こんなの、絶対おかしいだろ! 頼むよ葉子さん……」
これ以上言っても変わらない。この懇願が最後のチャンスだ。横矢はそう感じ取り、思いを込めて頼み込んだ。
『……しょうがないね』
葉子の口調が少し優しいものに変わった。
『あんたの上司には内緒にしておきな』
「あ……ああ! おやっさんには何も言わねえ」
横矢の表情がほころぶ。やっぱり葉子さんはいい人だったんだ。嬉しさで携帯を握る手に力が入った。
『それで、どうするつもりなの』
「女の方に事務所の住所を教えて、そこに行くよう指示する。俺のことを信じてくれるか分からないけど、必ず説得してみせるつもりだ」
『分かった。早くしなよ、ユウに見つかる前にね』
「ありがとう葉子さん。本当にありがとう……!」
横矢は惜しみない感謝の気持ちを言葉に込めた。
異変はすぐに起きた。
電話越しに聞こえる、涼子に絡む男たちの声。
「おい、何があった」
すぐさま涼子に声をかける。
『ちょっと待ってください。変な人たちに声をかけられて――』
おいおい変なってどういうことだよ、と下品な男の声が聞こえる。ナンパの類か、こんなときに。横矢はイラつきながら、涼子に指示を出す。
「そいつらを無視してすぐに目的地に向かえ」
『分かりました……きゃっ』
涼子の小さな悲鳴、そして男たちの笑い声。
「おいどうした!」
返事はない。少ししてガタッという音。携帯を落としたのだろう。
涼子と男たちの揉める声が僅かに聞こえてくる。二回目の涼子の悲鳴、その直後に男の叫び声と、ごみ箱か何かが崩れる音が聞こえた。
嫌な予感が横矢の脳内に広がっていく。
男たちの怯えた声と足音。しかしそれらは次第に遠ざかって聞こえなくなる。
『ど、どうしよう』
慌てた涼子の声。携帯を拾ったようだ。
「早くそこから逃げろ。走れ!」
横矢は叫ぶ。深刻な事態なのだと察した涼子も指示に従いすぐさま走り出す。
「何が起きたんだ」
『ガラの悪い人たちに絡まれて……乱暴なことされて思わず反抗したら……』
「相手を逆にぶっ飛ばしちゃったわけか」
涼子は吸血鬼だ。身体能力はそこらの男よりも高い。絡んだ男が返り撃ちにあうのは必然といってもよかった。
『……どうしようっ』
「何がだ」
『後ろにいるのっ……追いかけてきた』
まさか……。冷や汗が横矢の頬を伝う。
『黒コートの男の人がっ……追いかけてくるっ』
ユウだ――。先ほどの騒ぎで気付かれたのだろう。
「落ち付け。今のあんたの身体能力なら問題ない。全力で走り続けろ」
『はいっ』
横矢は考える。この状況をどう切り抜けるか。
「ユウとの距離はどれくらいだ」
『た、多分三〇メートル以上は離れてる……きゃあっ』
「大丈夫か!」
『ナ、ナイフが……』
横矢はナイフの存在を失念していた。ナイフの投擲は銃器を使用しない仕事では基本戦術だ。自分の愚かさが嫌になる。
「この距離ならまず当たらないと思うがあいつは侮れない。もっと速く走るんだ。あんたならできる。距離を広げろ」
『もう……もう嫌……』
「生きたいんだろ。夢があるんだろ。死んだアイツの分も頑張ってくれ!」
『うん……うんっ……はぁっ……はぁっ』
電話越しに涼子の疲労感が横矢に伝わる。おかしいな、と横矢は感じた。吸血鬼ならこの程度の運動でここまで疲れないはずだ、と。
「あんた、まだ誰の血も吸ってないんだな」
『吸ってない……はぁっ……吸えるわけないっ』
涼子の早すぎる疲労の理由を知り、危機感と同時に少しの嬉しさが横矢の中に湧き上がった。
「今どこを走っている」
『えっと……大きなショッピングモールの裏手にある道を走ってる』
「よし、あと少しだ。そろそろ赤い外装の回転寿司屋が見えてくる。その手前の道を左折してくれ」
『うんっ……きゃっ』
またナイフを投げられたのか、悲鳴が聞こえた。涼子の疲労度からユウとの距離は縮まっているのではなか、と横矢は推測した。
「最後まで諦めるな」
『うんっ……はぁっ……』
横矢は祈る。間に合え、と。
涼子は今までにないくらい喉が渇いていた。さらに両足にちぎれそうな痛み、全身に激しい疲労感。それでも彼女は夜の街を走る。
教えられた場所はあと少しだ。潤のことを何度も頭に浮かべ、涼子は今にもくじけそうな自分を励ます。
何度も致死のナイフが身体をかすめた。何度も死の恐怖を感じた。それでも彼女は負けない。
電話越しに飛んでくる横矢の励ましも、涼子を支えていた。前まで自分を殺そうとしていた人間を信用しているなんて不思議な話だ、と少し笑いそうにもなる。
少しして目的地のマンションらしきものが見えてくる。確かに三角形みたいだ、と涼子は思う。
そこで少し安心してしまったからだろう。一瞬、足の力が抜けてしまう。慌ててバランスを取ろうとするが、疲労のためうまくいかない。
完全に転びきる前に地面に手をつき、立ちなおす。だが、その僅かな隙でユウは急速に距離を詰めた。その手に握られた銀製のナイフが街灯に照らされぎらりと光る。
ユウのナイフを投げようとするその姿をを見て、死神のようだ――と涼子は思った。
手を離れ、宙を舞うナイフ。動きの鈍い身体とは裏腹に、頭は普段の何倍もの速さで回転し、ナイフが自身に届くまでさまざまなことを考える。
最後にもう駄目かと悟り、思考することをやめようとしたその時、涼子の横を何者かが通り過ぎた。そして金属音が夜の闇に響き渡る。
「間に合った」
携帯電話と眼前から同時に聞こえる声。涼子は安堵のあまり涙を流す。
「さあ行け。俺がここで食い止める」
声の主――横矢はユウと同じ銀製のナイフを手に駆け出す。
涼子は立ち上がると、再び走り出す。
「ありがとう」
横矢に聞こえているかどうかは分からなかったが、涼子は何度もそう呟き続けていた。
横矢は走り続けていた。涼子が電話でユウが近くにいることを伝えてからずっとだ。
そして今、ユウの前に立ちはだかっていた。だがその息は荒く、肩で呼吸をするような状態だった。
だが、それはユウも同じだった。常人以上の速度で走る相手をずっと全力で追いかけていたのだ。どちらも疲弊しきった状態だ。
「また邪魔をするのか」
「邪魔だって? 勘違いしないでくれ」
横矢はユウの言葉を鼻で笑う。
「俺は不審者に襲われてる女の子を助けただけさ」
そしてナイフの切っ先をユウに向ける。
「つまらない挑発だな」
ユウはナイフをしまうと、素手で構えた。
「ナイフ相手に徒手空拳かよ。舐められたもんだ」
「仕事以外で殺しはしない主義なんだ」
「俺を相手にするのは仕事じゃないってか」
「あの女を殺すことが仕事であって、お前を黙らせることは仕事じゃないからな」
ユウはゆっくりと横矢との距離を詰めた。さすがに刃物も持つ相手には慎重にならざるを得ないのだろう。
同じく横矢も少しずつ前に歩み寄る。互いの攻撃が当たる位置まで近寄るとユウの左腕が動いた。掌底が横矢に迫る。がそれはフェイントだった。途中で腕の動きが止まる。横矢はそれに見事引っかかり、ナイフで空を突く。
ユウは隙をついてナイフを持った腕を掴もうとする。が、横矢の反対側の手に弾かれて失敗。
ナイフによる二度目の突きがユウに迫る。身体を横にのけぞらせて回避。しかし横矢は腕を少しだけ引き戻すと、すかさず横にナイフを薙ぐ。
ユウは手の甲でナイフを握る拳を受け止めると、身体を下にもぐりこませる。そして足払い。横矢は跳躍して回避。
横矢は空中からユウに向けてナイフを飛ばす。だがコートの裾を盾にしてそれを受け止めた。
地面に足を付けると同時にバックステップした横矢は、新たなナイフを取りだすか徒手空拳で戦闘続行するか、一瞬思考する。
限りなくゼロに近い時間での思考だったが、その刹那の隙をユウは逃さない。バネのように飛び、蹴りを放つ。運の悪いことに横矢はナイフを取り出すという選択をしていた。そのためガードが僅かに遅れ、片腕が弾かれる。もしも徒手空拳を選択していたら、ガードは間に合っていたはずだ。
ユウは弾かれた腕により空いた場所に追い打ちをかける。横矢はその攻撃を読み、片方の手で飛んできた拳を受け止めようとする。だが、横矢の読みは間違っていた。ユウは横矢がそう対応することをさらに読んでいたのだ。
ユウは指を開くと、受け止めようとした横矢の手を握る。そして思い切り引き引き戻す。横矢は前のめりに体勢を崩された。
やっぱり強いな。横矢がそう思うと同時に、掌打が顎に向かって放たれる。
だけど、これだけ時間を稼ぐことができれば十分だ。横矢は勝ち誇った表情をする。そして顎に衝撃。
――脳震盪。横矢の意識は、そこで途切れた。
床に落とされた衝撃で、横矢は意識を取り戻しはじめる。少しして頭に冷たい濡れタオルをかけられて、意識がはっきりとする。
「ここは……」
ゆっくりと身体を起こし、当たりを見回す。横矢はここが葉子の事務所の中だと理解する目の前にはユウが立っていた。
「あんたが俺をここまで運んでくれたのか」
ユウは返事をせずただ横矢を見下ろしている。
「肯定ってことでいいんだな。礼は言う、ありがとう」
そう言って横矢は事務所の奥へと進む。涼子の安否を確認するために。
扉を開けると、昼間と同じようにデスクチェアにふんぞり返るように座っている葉子がいた。手に持った資料らしきものに目を通してくれる。
「あら、目が覚めたの」
資料から目を離さずに横矢へ声をかける。
「あの子は無事ここまで着いたのか?」
「問題ないわ。しっかりとこの部屋に来た。しっかりした子だったね」
「それで、彼女はどこにいるんだ」
横矢は部屋中を見回しながら言う。事務所内には彼女らしきものは見当たらない。もう別の場所で匿っているのか、と考える。
「ここにいるよ」
葉子は引き出しから小瓶を取り出すと、卓上に置いた。中には淀んだ赤色の肉塊。吸血鬼が死んだ際に灰化せずに残る核。吸血鬼の証。
「おいおい、何の冗談だよ」
こんなところでふざけるなんて、この人はひょうきんだな。と横矢は無理やり考える。
「ユウ」
葉子はいつの間にかソファでくつろいでたユウに顎で指示をする。立ち上がったユウはテーブルに置いてある紙袋を持つと、横矢に投げた。
「なんだよこれ」
横矢は紙袋の中身を確認する。携帯電話や装飾品、見覚えのある衣服が綺麗に畳んだ状態で入っていた。
「手の込んだ冗談はやめろって……笑えねえよ」
「笑わせるつもりなんてないさ」
刺さるように冷たい声で、葉子ははっきりと言った。
「あの女は殺した。私が、この場で」
「どうしてだよ……あんた俺に協力してくれるって……」
「吸血鬼だから殺した。そもそもあんたに協力する気なんざハナからなかった」
「ふざけんなよ」
「ふざけてんのはそっちだろう。あんたは何のために私のところに来た」
「血も涙もねえ糞野郎め……!」
横矢は拳を振りかぶる。だが後ろからユウに腕を掴まれて葉子を殴ることは叶わなかった。
「離せ!」
横矢は振りほどこうとするが、自身の身体が疲れているのと、ユウの強すぎる握力でそれができない。
「葉子に頼んだ時点でお前は馬鹿だったんだよ」
ユウは淡々と言う。
「お前はいい人だと思ってたのかもしれないが、こと吸血鬼に関してこの女は誰よりも非情だ。憎し――」
「ユウ」
今まで以上に冷たく、どすのきいた声で葉子は言う。
「それ以上言うんじゃない」
その異常な殺気の迫力に、横矢は圧倒される。
「悪かった」
ユウも素直に謝り、横矢の腕を離すと葉子のデスクに押し飛ばした。
葉子はすかさず横矢の髪の毛を掴むと、顔を自分の方に向かせた。
「見ろ」
葉子は命令する。横矢はその言葉に抗えない。
「私の目を見ろ」
ゆっくりと、横矢は葉子に目を合わせる。目から何かが脳内に入り込むような感覚。横矢はその場に崩れ落ちた。
葉子は携帯で電話をかける。
『もしもし』
「私だ大藪」
『どうした。俺んとこのひよっこが何かしたか?』
電話の相手は横矢の上司だった。
「この子、この仕事向いてないよ」
『……駄目だったか』
まるでこうなることを少し予想していたかのような口ぶりだった。
「優しすぎるのは駄目だね。使えないよ。相手に情が移るなんざ、この仕事で一番あってはならないことだもの」
『そうか』
「あんたも歳とったね。使えない新人なんか育てて」
『そろそろ引退するべきかもな』
「そうしなよ。たんまり貯め込んでるんでしょ」
『お前ほどじゃねえさ』
「ははっ。同期に差をつけられた気分はどう?」
『くそったれ、だ。性悪ババア』
先ほどとは打って変わって、葉子の態度は穏やかなものだった。
大藪と話している時の表情はいつになく気楽そうだ。ユウはそんな彼女の表情をじっと見つめていた。
「それじゃあ、この子の処理はこっちで済ませておくわ」
『ああ、任せる』
「あんたはこの子に対して未練はないのね?」
『全て忘れた方が、きっとあいつは幸せさ』
「丸くなったね、ほんと」
『歳は取りたくねえな、お互い』
「私はいつだってピチピチだよ」
『ほざけ。それじゃ、任せたぜ』
「うん、了解」
通話を終える。それと同時にインターホンが鳴る。
ユウが玄関に行き、客人を迎え入れる。黒服の男たち。掃除屋<スイーパー>。
「毎度ご苦労さま。まずはこのごみを」
葉子は涼子だった灰が入っているごみ袋を投げ渡す。黒服一人がそれを受け取ると、一番玄関に近い仲間にそれを手渡す。渡された男はそれを持って事務所から出て行った。
「次に、ここで寝てる男の記憶の処理」
黒服のリーダー格の男が、仲間に戻っていいと指示を出す。そして横矢に近づくと、彼の頭に手を置いた。
「お疲れ様、横矢。久々に人間らしいやつと仕事ができたよ」
葉子は横矢を見ることなく、再び資料に目を通しながら言った。
ソファに寝転がりながら、ユウは言う。
「暇だ。仕事がないとすることがない」
葉子はいらいらしながらも答える。
「黙ってな。見つかったらすぐに知らせて、殺すまで不眠不休で働かせてあげるよ」
潤と涼子の血を吸った親元の吸血鬼が、当面のターゲットだった。しかし相手は普通の吸血鬼より一枚も二枚も上手なのか、葉子の“能力”でも中々見つけられなかった。
「いつになるんだそれは」
あくびをしながら、呆れたようにユウは言う。
「そんなこというなら、今ここであんたに仕事を与えるよ」
「あまりいい予感はしないな」
「お腹がすいた。コンビニ行ってきな」
「つまりパシリというわけか」
「ほら、働きたいんだろう。早くしな」
「しょうがないか。灰皿をぶつけられるのはごめんだ」
ユウはのそのそと起き上がると、玄関へと向かった。
コンビニまで徒歩十分。すれ違う人の中に吸血鬼はいないものかとユウは考えるが、彼らは日中屋外で行動できないので、すぐに考えるのをやめた。
しばらく歩き、目的のコンビニに入る。「いらっしゃいませ」という店員の声。どこかで聞いたことのある声だ、とユウは思う。
コンビニの中には客は数人。中には制服姿の高校生もいた。ユウは時計を見る。時刻は十六時を回っていた。
適当な飲み物とパン、おにぎり、スナック菓子をカゴに入れてレジで並ぶ。
ユウの前では、ヤマアラシのような黒髪の男子高校生がレジで会計をしていた。
「今日も頼んます」
「しょうがねえな雅樹。今俺しかレジにいないからできるんだからな。気をつけろよ」
「分かってますって。あざーっす、横矢の兄貴」
男子高校生は店員にお礼を言って店を出て行った。
「お待たせしました」
ユウはカゴをレジの上に置く。
「なあ、あんた。高校生に成人雑誌をいいのか」
「あちゃあ、見られちゃいましたか。お客さん、どうか内緒にしてもらえますかね。バレたらクビになっちゃうんですよ。まだ俺働き始めたばかりでさ」
店員は軽く頭を下げて頼み込む。
「安心しなよ。俺は別に誰にも言わんよ」
ユウは無表情で答える。
「それに、これくらいの頼みなら聞いてやってもいいさ。仕事じゃない」
「へ?」
「こっちの話だ」
店員は不思議そうな表情をしながらも、会計を進めていく。
「えー、全部で一八二〇円になります」
ユウはポケットから無造作に千円札を二枚出すと、それを差し出した。
店員はレジスターに数字を打ち込み、お釣りを用意。ユウに差し出す。
「ありがとうございました」
ユウはお釣りをポケットにしまうと、商品の入った袋を受け取った。
「あんた、日の当たる仕事の方が似合ってるよ」
レジから離れると同時に、ユウは言った。そして振り返ることなくコンビニから出る。
店員はぽかんとした表情をしながら、次の客の会計を始めた。
第二夜 END
電話越しに聞こえる、涼子に絡む男たちの声。
「おい、何があった」
すぐさま涼子に声をかける。
『ちょっと待ってください。変な人たちに声をかけられて――』
おいおい変なってどういうことだよ、と下品な男の声が聞こえる。ナンパの類か、こんなときに。横矢はイラつきながら、涼子に指示を出す。
「そいつらを無視してすぐに目的地に向かえ」
『分かりました……きゃっ』
涼子の小さな悲鳴、そして男たちの笑い声。
「おいどうした!」
返事はない。少ししてガタッという音。携帯を落としたのだろう。
涼子と男たちの揉める声が僅かに聞こえてくる。二回目の涼子の悲鳴、その直後に男の叫び声と、ごみ箱か何かが崩れる音が聞こえた。
嫌な予感が横矢の脳内に広がっていく。
男たちの怯えた声と足音。しかしそれらは次第に遠ざかって聞こえなくなる。
『ど、どうしよう』
慌てた涼子の声。携帯を拾ったようだ。
「早くそこから逃げろ。走れ!」
横矢は叫ぶ。深刻な事態なのだと察した涼子も指示に従いすぐさま走り出す。
「何が起きたんだ」
『ガラの悪い人たちに絡まれて……乱暴なことされて思わず反抗したら……』
「相手を逆にぶっ飛ばしちゃったわけか」
涼子は吸血鬼だ。身体能力はそこらの男よりも高い。絡んだ男が返り撃ちにあうのは必然といってもよかった。
『……どうしようっ』
「何がだ」
『後ろにいるのっ……追いかけてきた』
まさか……。冷や汗が横矢の頬を伝う。
『黒コートの男の人がっ……追いかけてくるっ』
ユウだ――。先ほどの騒ぎで気付かれたのだろう。
「落ち付け。今のあんたの身体能力なら問題ない。全力で走り続けろ」
『はいっ』
横矢は考える。この状況をどう切り抜けるか。
「ユウとの距離はどれくらいだ」
『た、多分三〇メートル以上は離れてる……きゃあっ』
「大丈夫か!」
『ナ、ナイフが……』
横矢はナイフの存在を失念していた。ナイフの投擲は銃器を使用しない仕事では基本戦術だ。自分の愚かさが嫌になる。
「この距離ならまず当たらないと思うがあいつは侮れない。もっと速く走るんだ。あんたならできる。距離を広げろ」
『もう……もう嫌……』
「生きたいんだろ。夢があるんだろ。死んだアイツの分も頑張ってくれ!」
『うん……うんっ……はぁっ……はぁっ』
電話越しに涼子の疲労感が横矢に伝わる。おかしいな、と横矢は感じた。吸血鬼ならこの程度の運動でここまで疲れないはずだ、と。
「あんた、まだ誰の血も吸ってないんだな」
『吸ってない……はぁっ……吸えるわけないっ』
涼子の早すぎる疲労の理由を知り、危機感と同時に少しの嬉しさが横矢の中に湧き上がった。
「今どこを走っている」
『えっと……大きなショッピングモールの裏手にある道を走ってる』
「よし、あと少しだ。そろそろ赤い外装の回転寿司屋が見えてくる。その手前の道を左折してくれ」
『うんっ……きゃっ』
またナイフを投げられたのか、悲鳴が聞こえた。涼子の疲労度からユウとの距離は縮まっているのではなか、と横矢は推測した。
「最後まで諦めるな」
『うんっ……はぁっ……』
横矢は祈る。間に合え、と。
涼子は今までにないくらい喉が渇いていた。さらに両足にちぎれそうな痛み、全身に激しい疲労感。それでも彼女は夜の街を走る。
教えられた場所はあと少しだ。潤のことを何度も頭に浮かべ、涼子は今にもくじけそうな自分を励ます。
何度も致死のナイフが身体をかすめた。何度も死の恐怖を感じた。それでも彼女は負けない。
電話越しに飛んでくる横矢の励ましも、涼子を支えていた。前まで自分を殺そうとしていた人間を信用しているなんて不思議な話だ、と少し笑いそうにもなる。
少しして目的地のマンションらしきものが見えてくる。確かに三角形みたいだ、と涼子は思う。
そこで少し安心してしまったからだろう。一瞬、足の力が抜けてしまう。慌ててバランスを取ろうとするが、疲労のためうまくいかない。
完全に転びきる前に地面に手をつき、立ちなおす。だが、その僅かな隙でユウは急速に距離を詰めた。その手に握られた銀製のナイフが街灯に照らされぎらりと光る。
ユウのナイフを投げようとするその姿をを見て、死神のようだ――と涼子は思った。
手を離れ、宙を舞うナイフ。動きの鈍い身体とは裏腹に、頭は普段の何倍もの速さで回転し、ナイフが自身に届くまでさまざまなことを考える。
最後にもう駄目かと悟り、思考することをやめようとしたその時、涼子の横を何者かが通り過ぎた。そして金属音が夜の闇に響き渡る。
「間に合った」
携帯電話と眼前から同時に聞こえる声。涼子は安堵のあまり涙を流す。
「さあ行け。俺がここで食い止める」
声の主――横矢はユウと同じ銀製のナイフを手に駆け出す。
涼子は立ち上がると、再び走り出す。
「ありがとう」
横矢に聞こえているかどうかは分からなかったが、涼子は何度もそう呟き続けていた。
横矢は走り続けていた。涼子が電話でユウが近くにいることを伝えてからずっとだ。
そして今、ユウの前に立ちはだかっていた。だがその息は荒く、肩で呼吸をするような状態だった。
だが、それはユウも同じだった。常人以上の速度で走る相手をずっと全力で追いかけていたのだ。どちらも疲弊しきった状態だ。
「また邪魔をするのか」
「邪魔だって? 勘違いしないでくれ」
横矢はユウの言葉を鼻で笑う。
「俺は不審者に襲われてる女の子を助けただけさ」
そしてナイフの切っ先をユウに向ける。
「つまらない挑発だな」
ユウはナイフをしまうと、素手で構えた。
「ナイフ相手に徒手空拳かよ。舐められたもんだ」
「仕事以外で殺しはしない主義なんだ」
「俺を相手にするのは仕事じゃないってか」
「あの女を殺すことが仕事であって、お前を黙らせることは仕事じゃないからな」
ユウはゆっくりと横矢との距離を詰めた。さすがに刃物も持つ相手には慎重にならざるを得ないのだろう。
同じく横矢も少しずつ前に歩み寄る。互いの攻撃が当たる位置まで近寄るとユウの左腕が動いた。掌底が横矢に迫る。がそれはフェイントだった。途中で腕の動きが止まる。横矢はそれに見事引っかかり、ナイフで空を突く。
ユウは隙をついてナイフを持った腕を掴もうとする。が、横矢の反対側の手に弾かれて失敗。
ナイフによる二度目の突きがユウに迫る。身体を横にのけぞらせて回避。しかし横矢は腕を少しだけ引き戻すと、すかさず横にナイフを薙ぐ。
ユウは手の甲でナイフを握る拳を受け止めると、身体を下にもぐりこませる。そして足払い。横矢は跳躍して回避。
横矢は空中からユウに向けてナイフを飛ばす。だがコートの裾を盾にしてそれを受け止めた。
地面に足を付けると同時にバックステップした横矢は、新たなナイフを取りだすか徒手空拳で戦闘続行するか、一瞬思考する。
限りなくゼロに近い時間での思考だったが、その刹那の隙をユウは逃さない。バネのように飛び、蹴りを放つ。運の悪いことに横矢はナイフを取り出すという選択をしていた。そのためガードが僅かに遅れ、片腕が弾かれる。もしも徒手空拳を選択していたら、ガードは間に合っていたはずだ。
ユウは弾かれた腕により空いた場所に追い打ちをかける。横矢はその攻撃を読み、片方の手で飛んできた拳を受け止めようとする。だが、横矢の読みは間違っていた。ユウは横矢がそう対応することをさらに読んでいたのだ。
ユウは指を開くと、受け止めようとした横矢の手を握る。そして思い切り引き引き戻す。横矢は前のめりに体勢を崩された。
やっぱり強いな。横矢がそう思うと同時に、掌打が顎に向かって放たれる。
だけど、これだけ時間を稼ぐことができれば十分だ。横矢は勝ち誇った表情をする。そして顎に衝撃。
――脳震盪。横矢の意識は、そこで途切れた。
床に落とされた衝撃で、横矢は意識を取り戻しはじめる。少しして頭に冷たい濡れタオルをかけられて、意識がはっきりとする。
「ここは……」
ゆっくりと身体を起こし、当たりを見回す。横矢はここが葉子の事務所の中だと理解する目の前にはユウが立っていた。
「あんたが俺をここまで運んでくれたのか」
ユウは返事をせずただ横矢を見下ろしている。
「肯定ってことでいいんだな。礼は言う、ありがとう」
そう言って横矢は事務所の奥へと進む。涼子の安否を確認するために。
扉を開けると、昼間と同じようにデスクチェアにふんぞり返るように座っている葉子がいた。手に持った資料らしきものに目を通してくれる。
「あら、目が覚めたの」
資料から目を離さずに横矢へ声をかける。
「あの子は無事ここまで着いたのか?」
「問題ないわ。しっかりとこの部屋に来た。しっかりした子だったね」
「それで、彼女はどこにいるんだ」
横矢は部屋中を見回しながら言う。事務所内には彼女らしきものは見当たらない。もう別の場所で匿っているのか、と考える。
「ここにいるよ」
葉子は引き出しから小瓶を取り出すと、卓上に置いた。中には淀んだ赤色の肉塊。吸血鬼が死んだ際に灰化せずに残る核。吸血鬼の証。
「おいおい、何の冗談だよ」
こんなところでふざけるなんて、この人はひょうきんだな。と横矢は無理やり考える。
「ユウ」
葉子はいつの間にかソファでくつろいでたユウに顎で指示をする。立ち上がったユウはテーブルに置いてある紙袋を持つと、横矢に投げた。
「なんだよこれ」
横矢は紙袋の中身を確認する。携帯電話や装飾品、見覚えのある衣服が綺麗に畳んだ状態で入っていた。
「手の込んだ冗談はやめろって……笑えねえよ」
「笑わせるつもりなんてないさ」
刺さるように冷たい声で、葉子ははっきりと言った。
「あの女は殺した。私が、この場で」
「どうしてだよ……あんた俺に協力してくれるって……」
「吸血鬼だから殺した。そもそもあんたに協力する気なんざハナからなかった」
「ふざけんなよ」
「ふざけてんのはそっちだろう。あんたは何のために私のところに来た」
「血も涙もねえ糞野郎め……!」
横矢は拳を振りかぶる。だが後ろからユウに腕を掴まれて葉子を殴ることは叶わなかった。
「離せ!」
横矢は振りほどこうとするが、自身の身体が疲れているのと、ユウの強すぎる握力でそれができない。
「葉子に頼んだ時点でお前は馬鹿だったんだよ」
ユウは淡々と言う。
「お前はいい人だと思ってたのかもしれないが、こと吸血鬼に関してこの女は誰よりも非情だ。憎し――」
「ユウ」
今まで以上に冷たく、どすのきいた声で葉子は言う。
「それ以上言うんじゃない」
その異常な殺気の迫力に、横矢は圧倒される。
「悪かった」
ユウも素直に謝り、横矢の腕を離すと葉子のデスクに押し飛ばした。
葉子はすかさず横矢の髪の毛を掴むと、顔を自分の方に向かせた。
「見ろ」
葉子は命令する。横矢はその言葉に抗えない。
「私の目を見ろ」
ゆっくりと、横矢は葉子に目を合わせる。目から何かが脳内に入り込むような感覚。横矢はその場に崩れ落ちた。
葉子は携帯で電話をかける。
『もしもし』
「私だ大藪」
『どうした。俺んとこのひよっこが何かしたか?』
電話の相手は横矢の上司だった。
「この子、この仕事向いてないよ」
『……駄目だったか』
まるでこうなることを少し予想していたかのような口ぶりだった。
「優しすぎるのは駄目だね。使えないよ。相手に情が移るなんざ、この仕事で一番あってはならないことだもの」
『そうか』
「あんたも歳とったね。使えない新人なんか育てて」
『そろそろ引退するべきかもな』
「そうしなよ。たんまり貯め込んでるんでしょ」
『お前ほどじゃねえさ』
「ははっ。同期に差をつけられた気分はどう?」
『くそったれ、だ。性悪ババア』
先ほどとは打って変わって、葉子の態度は穏やかなものだった。
大藪と話している時の表情はいつになく気楽そうだ。ユウはそんな彼女の表情をじっと見つめていた。
「それじゃあ、この子の処理はこっちで済ませておくわ」
『ああ、任せる』
「あんたはこの子に対して未練はないのね?」
『全て忘れた方が、きっとあいつは幸せさ』
「丸くなったね、ほんと」
『歳は取りたくねえな、お互い』
「私はいつだってピチピチだよ」
『ほざけ。それじゃ、任せたぜ』
「うん、了解」
通話を終える。それと同時にインターホンが鳴る。
ユウが玄関に行き、客人を迎え入れる。黒服の男たち。掃除屋<スイーパー>。
「毎度ご苦労さま。まずはこのごみを」
葉子は涼子だった灰が入っているごみ袋を投げ渡す。黒服一人がそれを受け取ると、一番玄関に近い仲間にそれを手渡す。渡された男はそれを持って事務所から出て行った。
「次に、ここで寝てる男の記憶の処理」
黒服のリーダー格の男が、仲間に戻っていいと指示を出す。そして横矢に近づくと、彼の頭に手を置いた。
「お疲れ様、横矢。久々に人間らしいやつと仕事ができたよ」
葉子は横矢を見ることなく、再び資料に目を通しながら言った。
ソファに寝転がりながら、ユウは言う。
「暇だ。仕事がないとすることがない」
葉子はいらいらしながらも答える。
「黙ってな。見つかったらすぐに知らせて、殺すまで不眠不休で働かせてあげるよ」
潤と涼子の血を吸った親元の吸血鬼が、当面のターゲットだった。しかし相手は普通の吸血鬼より一枚も二枚も上手なのか、葉子の“能力”でも中々見つけられなかった。
「いつになるんだそれは」
あくびをしながら、呆れたようにユウは言う。
「そんなこというなら、今ここであんたに仕事を与えるよ」
「あまりいい予感はしないな」
「お腹がすいた。コンビニ行ってきな」
「つまりパシリというわけか」
「ほら、働きたいんだろう。早くしな」
「しょうがないか。灰皿をぶつけられるのはごめんだ」
ユウはのそのそと起き上がると、玄関へと向かった。
コンビニまで徒歩十分。すれ違う人の中に吸血鬼はいないものかとユウは考えるが、彼らは日中屋外で行動できないので、すぐに考えるのをやめた。
しばらく歩き、目的のコンビニに入る。「いらっしゃいませ」という店員の声。どこかで聞いたことのある声だ、とユウは思う。
コンビニの中には客は数人。中には制服姿の高校生もいた。ユウは時計を見る。時刻は十六時を回っていた。
適当な飲み物とパン、おにぎり、スナック菓子をカゴに入れてレジで並ぶ。
ユウの前では、ヤマアラシのような黒髪の男子高校生がレジで会計をしていた。
「今日も頼んます」
「しょうがねえな雅樹。今俺しかレジにいないからできるんだからな。気をつけろよ」
「分かってますって。あざーっす、横矢の兄貴」
男子高校生は店員にお礼を言って店を出て行った。
「お待たせしました」
ユウはカゴをレジの上に置く。
「なあ、あんた。高校生に成人雑誌をいいのか」
「あちゃあ、見られちゃいましたか。お客さん、どうか内緒にしてもらえますかね。バレたらクビになっちゃうんですよ。まだ俺働き始めたばかりでさ」
店員は軽く頭を下げて頼み込む。
「安心しなよ。俺は別に誰にも言わんよ」
ユウは無表情で答える。
「それに、これくらいの頼みなら聞いてやってもいいさ。仕事じゃない」
「へ?」
「こっちの話だ」
店員は不思議そうな表情をしながらも、会計を進めていく。
「えー、全部で一八二〇円になります」
ユウはポケットから無造作に千円札を二枚出すと、それを差し出した。
店員はレジスターに数字を打ち込み、お釣りを用意。ユウに差し出す。
「ありがとうございました」
ユウはお釣りをポケットにしまうと、商品の入った袋を受け取った。
「あんた、日の当たる仕事の方が似合ってるよ」
レジから離れると同時に、ユウは言った。そして振り返ることなくコンビニから出る。
店員はぽかんとした表情をしながら、次の客の会計を始めた。
第二夜 END