夕暮れ過ぎ。
上野駅から出て来た若い身だしなみを整えた女たちは、足早に湯島の歓楽街を目指して、歩いている。同様に、スーツ姿のサラリーマン達が、まだ酒を一口も飲んでいない内から騒々しくなっている。中央通りからサンクスを目印に、仲町通りに折れると、客になるサラリーマンよりも数が多いのではないかというくらいの呼び込みの男たちが立っていた。キャッチの男が、秋刀魚の群れに網を投入する漁師のような目つきで、獲物が網に引っかかるのを待っているのだ。
一人の男が動いた。
引きつった笑顔で両手をもみしだきながら、呼び込みの男はサラリーマンたちに声をかけた。
「旦那達!今日は何でしょう?お酒?女の子?オッパイ?それとも。。いいお店知っていますよ。裏コース
なんですがね、フィリピン人なんてのもいまして。上玉がそろっています。本番もできちゃいますし、あっしにまかせてくれたら、あっ!!旦那っ!ねえったら!」
まだ吟味したりないといった表情でサラリーマン達は呼び込みの男を手であしらった。
活気づく街を尻目に、仲町通りの路地からふらっと出てきた男が春日通り沿いにあるホンキドーテに向けてトボトボと歩いていた。身なりは酷くみすぼらしい。クタクタになった白黒のネルシャツに膝に大きな切れ目の入ったジーンズ。靴はボロボロの履き古したオールスター。髪の毛といったらボサボサの伸び放題で、もう半年。いや一年はそのままの状態でいたに違いなかった。顔付きを見るにまだ二十歳を折り変えす手前くらいであろう。たまに目に力が入り、ギョロッと辺りを見回すときだけ男は三白眼になった。
通りの向かい側から一人のまだあどけない顔つきの、肩と、胸を露わにしたピンクのドレス(この娘が着るにしては、ケバケバしすぎていた)を着た娘が足早に歩いてきた。男はムムっと顔を強張らせると、おもむろに吐き出すような調子で言った。
「やあ!!お嬢さん!そんなに道の先を見据えてどこにこれから行こうというのですか。」
娘は突然の大声で声を掛けられた事に驚いたのと、恐怖したのとがごちゃまぜになって少し動揺したが、急ぎ足を崩さずそのまま足早に立ち去ろうとした。
男は続けて、
「おや!おや!ここに!!人として生きる事の究極の目的が彼方からやってきたというのに!貴女は先を急ごうとしていらっしゃる!!あなたはわたしのことを画一化されたサービスの一つだと勘違いしていますよ!昨日ですね。ね。お嬢さん。デリーズへモーニングを食べにいったんですよ。へっへっ。599円でスクランブルエッグと。。あれは。。卵2個は使っているな。。うん。。それに、ちっこい、ベーコン1枚に。わたしはね。カリカリが好きなんですよ。鉄板がベーコンの脂を吸い取って干からびたようなやつがね!へっへっへ。いや。よそう。。話が脱線しちまったよ!へっへっへ。それでね。お会計をすませたんですよ!相手は、40歳くらいのお嬢さん。おっと、お嬢さんというのは、皮肉じゃありませんよ!!本当にもうこれが、今の若い連中ときたら、それこそ、みいんな精神が老いていると私は感じますな!…まあ、そう思うに到った根拠はまたおいおい話すとして。。とにかくっ!そのお嬢さんはハツラツとしているんです。会計を済ませるとね、まず最初ににこりと笑って「ありがとうございました。」と言ってくれるわけですよ。知っていますよ。。これは普通のことです。何処のお店でもまあこう言うでしょうね。それでもってね。わたしのほうも無感動に退店しようと思うとです。。お店の扉から半身、身を乗り出したのを見計らって「ありがとうございました」っと言うんです。ええっ?わかりますか?わからんでしょうな!その時、ああ、この人には心があるのだなと思うわけだ!そりゃ誰だって心は持っていますよ!ただ心ここにあらずというでしょう!?金に目がくらんで、金に身体、精神が縛られて!機械的に押し付けられた行動のみを取る人間の何たる多いことか!これはね。貴女。へっへ。私らサービスを受ける人間にも問題があるんですな!なぜならすっかりそんな環境に慣れきっちまって、無感動な人間にこっちまでなっちまってる!!その負の連鎖なわけだ!!へっへっ!あの2回目の「ありがとうございました」が無意識にわたしの待ち望んでいた事だとあなたにはわかりますか!?ビリビリっと脳天にイナズナが走って!またここに来よう!これを聞くために明日まで生きよう!と思うわけですな!・・・へっ。…でね。・・・今日」
男は少しさびしそうな顔をして、目をそばめると、言葉を続けようとして娘の方を向いた。娘は娘で、この男が何を言っているのかわかったような、わからないような変な感覚であった。周囲の人々は、そこに禁忌でもあるかのように、ジロジロ見る者や、あえて気づかないふりをする者だけで歩く速度を遅くする者はいなかった。娘は、頭がおかしいから立ち去らないと!とは思ったが、上京してきて初めて、一方的にではあるが、人間の生気のようなものをぶつけられたものだから、立ち止まってついつい話を聞いてしまっていた。そして、少しだけ、「今日」何があったのか続きを聞きたくなっていた。しかし男はこれほど一方的に話しておいて、予想外な事を男は言った。
「いや。よそう。。僕は1日でもこの出来事で、希望が持てたのさ!それを、現実はこうですよと、僕の体感したペースを早送りして君に伝えるのは心の毒だよ。。今日くらいは!一日幸せな気分で過ごして欲しい!続きはまた今度!!」男はそういうと、スタスタとホンキドーテの方へ歩いて行った。娘は5分程通りに立ち尽くしてしまった。