テーブルを挟んで向かいに座る彼女は、こちらを真っ直ぐに見つめ優しい微笑を湛えている。今日初めて顔を合わせた僕は少し躊躇いと恥じらいを感じながら、彼女の顔を遠慮がちにチラチラと伺ってみるが、彼女は瞬き一つせず、こちらに無垢な瞳を向けている。
「ははは……、なんだか照れますね」
ぽつりと呟くが、彼女は口角を柔らかく上げた表情を崩さず、こちらをじっと見つめているだけだった。
彼女――美雪さんは本日をもって僕の妻となった女性である。そして、彼女はとても美しい女性だった。新雪のような白く透き通る肌。仄かに甘い香りを放つ艶やかな黒髪。つぶらな瞳をうっすら細め、口元を薄く微笑ませている。その微笑はどこか気品に満ちていて、深窓の令嬢、という形容に相応しい雰囲気に包まれていた。
美雪さんは黙って僕をじっと見つめていた。しかし、彼女とは決して目が合うことはなかった。彼女の視線は僕の顔に向けられているのだが、その瞳はどこか遠いところを見ているようで僕には焦点があっていない。なぜならそう――彼女はダッチワイフだからだ。
「ご趣味はなんですか?」
お見合いごっこをしてみた。美雪さんがいくら人形、つまりダッチな妻だからといって、いきなりベッド上に引きずり回すような真似をしては、とても円満な夫婦生活を築けるはずがないと思ったからだ。だからまずは焦らず、お互いのことを良く知っておく必要がある。
「御花と御茶を少々」
僕の脳内に美雪さんの美しい声が響いた。流石は高貴な令嬢思わせる美雪さん、彼女に相応しいご趣味だった。僕の趣味はネットサーフィン、ネトゲー、エロゲー、アニメ鑑賞とおよそ誇れるような趣味はなかったから、スノーボードを少々と見栄を張ってみた。勿論スノーボードはおろかスキーすら一度経験したことがないのだが。そんな僕の薄っぺらな見栄に美雪さんは、是非今度ゲレンデに連れて行ってくださいねと優しく微笑んでくれた。美雪さん、いつ連れていけるかわかりません。
「妹さんと、関係がよろしくないと」
「はい……」
紆余曲折あって、僕はなぜか美雪さんに妹との不仲について相談していた。きっと、彼女の僕のような醜い男でも優しく包み込んでくれるような温かい人柄、陰鬱した僕の心の闇を温かく照らしてくれる彼女の美声に絆されてしまったからであろう。
「ここ数年、妹に露骨に避けられるようになったんですよね……」
高校を卒業してから、つまり僕が引き篭もりのニートになってからというもの、妹の態度は激変した。
いつも僕を家畜か何かでも見るような冷たい目で見下ろし、ゴミクズカスドブ呼ばわり、話しかけてもニートが伝染るから死ねと言うのだ。それに、僕が入った後の風呂にもニートが伝染るからと言って入らなくなり、洗濯物もニートが伝染るからと言って一緒に洗わなくなったのだった。
「でも、昔は……」
そう、こんな妹でも昔は可愛いところもあったのだ。お兄ちゃんお兄ちゃんと呼び慕い、いつも僕の後ろに着いて回っていたのだ。それに、今でも少し優しいところはある。いつだか、化粧品などが入ったポーチが廊下に落ちていたのを僕が拾って妹に返そうとしたところ、そのポーチをなんと僕にくれたのだ。最初は悪いよと言って断ったのだが「いらねーって言ってんだろうが!」となぜかキレだす始末。そんなに僕にポーチをプレゼントしたかったのだろうか? ちなみにそのポーチは今でも大切に保管してある。
「きっと、妹さんは少し照れているだけなんですよ」
僕の話を聞いていた美雪さんが微笑んだ表情を変えずにゆっくりと話はじめた。
「妹さんはもう高校生です。昔のようにお兄ちゃんお兄ちゃんと接しているのに少し恥じらいを覚えるようになったんですね。だから、照れ隠しで少しキツくあたってしまうだけだと思うんです。高校生という少し複雑なお年頃のせいで、決して悪気はないと思うんですよ。だから、怒らないであげてください」
僕は暫くの間、口をぽかんと間抜けに開き放心してしまった。美雪さんはなんと素晴らしい人格者なのだろうかと。僕のような男はおろか人間としても出来損ないのヤツが、このような全人類を無償の愛で包み込むような仏のような女性を妻として迎え入れるのに相応しい男なのかと。
僕が放心して美雪さんの顔に見入っていると、彼女は小首を傾げ微笑んでいるだけだった。ああ、僕は今ものすごい幸せだ。
「そうだ、私にいい考えがあります」
と、美雪さんは何を思いついたのか両手を胸の前でぽんと合わせた。
風呂から上がり部屋に戻ると、美雪さんはベッドの上にちょこんと座り微笑んでいた。ああ、やはりどの角度から見ても美しい方だなぁと思い、美雪さんの横顔に見とれているとあることに気がついた。美雪さんは私服のままではないか。早急に着替えさせねばいけない。
しかしよく考えてみると、当たり前のことだが、僕はネグリジェはもちろん、女性用のパジャマすら持っていない。だからといって僕の薄汚いスウェットを着せるわけにもいかない。しょうがないので、とりあえず僕の高校時代のワイシャツで急場を凌ぐことにした。下はやむを得ないので、パンツ一丁で我慢してもらう。ちなみに言っておくが、これは決して僕の趣味ではないぞ。断じて否である!
しかし、彼女の服を脱がせているところで重要な事に気がついた。美雪さんはブラジャーを着けていないかった。服を脱がされた彼女はその豊満な胸を惜しげもなく露わにしてる。まずい、このまま放置していては、美雪さんの美しく張りのあるたわわなお胸の形が崩れてしまうではないか。
「あ、あまりまじまじと見ないでください……。恥ずかしいです……」
美雪さんの声に僕ははっと我にかえった。あまりに綺麗な桜色の乳首だったためついまじまじと見入ってしまっていた。
「す、すいません! ちょっと待っていてください!」
僕は慌てて部屋から飛び出た。しかし、待てと言ったもののどうしたものか。僕はもちろんブラジャーなど持っているはずがなかった。顎に手を当て、僕は少し逡巡したあと、あまり気が進まなかったが、美雪さんのためにと行動にうつることにした。
「うーん、少しサイズが小さいですね」
「いえ、私のためにわざわざありがとうございます」
結局僕は妹のブラジャーを借りることにしたのだった。しかし、借りると言っても直接妹からブラジャーを借りたわけではない。脱衣所に脱ぎ捨てられていた妹の淡いピンク色のブラジャーをこっそり拝借してきたのだ。まあ、使用済みなら問題ないだろう。
悪戦苦闘しながら美雪さんにブラジャーを着け、僕のワイシャツを羽織らせたあと、よ
うやく美雪さんと一緒にベッドに入ることにした。
ドクンドクンと鼓動が早鐘を打つ。背中に美雪さんの柔らかい体温、耳に美雪さんの甘い吐息が当たり、僕はもはや気が気ではなかった。僕はこのまま煩悩、いや下半身の赴くままに美雪さんに襲い掛かってしまおうかと考えた。しかし、いくら美雪さんが僕の妻、ダッチなワイフだとしても、初夜にいきなりベッドの上に引きずり回すような真似をしては紳士たる者としてどうかと僕は思い、ぎりぎりところでなんとか踏みとどまった。
しかし、同じベッドで一夜を共に過ごそうというのに、何もしないというのも男としていかがなものか。
結局僕は、美雪さんの手をそっと握り、互いの体温に包まれながら安らかな眠りにつくという手段を選ぶことにしたのだった。しかし、そんな紳士たる決意とは裏腹に僕の愚息はパンツの中で縦横無尽に暴れ始めていた。くそぅ! 治まれ、治まれぃ! と念じても、愚息はパンツの中で屹立し立派なテントを築きあげてしまっていた。
そんな煩悩に悩まされ煩悶としていると、不意に美雪さんが僕の首もとにもたれ掛かってきた。美雪さん今はいけませぬぅ! そして、耳元にふわりと美雪さんの甘い吐息がかかった。
「いけない人……」
僕の理性は崩壊し、美雪さんをベッドの上に引きずり回していた。
明くる日、僕と美雪さんは運命の赤い糸ごっこして遊んでいた。運命の赤い糸ごっことはその名の通りお互いの小指を赤い糸で結び仲睦まじい夫婦関係を周囲の人間にアピールする遊びである。しかし、当然のことながらアピールする人間など一ここには一人もいない。しかし、そんな事は関係ない。僕と美雪さんの愛は、二人の世界だけで完結するラヴストーリーなのだ。
そんな幸せな午後を美雪さんと談笑しながら過ごしていると、不意にドアをノックする音が響いた。そして、返事をする間もなく扉が開き、
「ドブ、なんか届いていたぞ」
と妹が言い捨て、郵便物を投げ捨てていった。拾い上げると郵便物にはAmasonとでかでかと書かれていた。おお、どうやら昨日注文しておいたものが早くも届いたようだ。美雪さんを見ると「うふふ」と上品に可愛らしい顔で微笑んでいた。
さて、そろそろお腹も空いてきたことだし、カップラーメンでも食べようかと思い、運命の赤い糸ごっこを一時中断しようかと立ちがると、隣の妹の部屋から「ぎゃあああ!」という叫び声が聞こえてきた。美雪さんを見ると、深刻な顔で微笑みながらコクリと頷いた。僕は頷き返し妹の部屋へと急いだ。
妹の部屋に入ると、隅のほうで妹が縮こまり、わなわなと部屋の中央を指さしていた。見るとそこには触手をぴくぴく震わせているゴキブリがいる。
「ご、ごき、ゴキブリがぁ…………」
妹は半べそをかきながら、時折動くゴキブリに合わせて「ひぃ!」と悲鳴あげている。
正直、僕もあまりゴキブリは得意ではなかったのだが、やむ得ないので足元に転がっているファッション雑誌を拾いあげ、けたたましい雄叫びを上げながらゴキブリに飛び掛っいった。
「俺の可愛い妹になにをしてくれてるんじゃー!」
グチャリとゴキブリがスクラップされる音が部屋に響いた。雑誌を裏返してみると、潰れたゴキブリが触手と手足をぴくぴくさせている。僕はもう一度雑誌を床に叩きつけた。
「死んだ……?」
妹は部屋の隅でまだぷるぷると震えあがっていたので、安心されるために、雑誌で圧死したであろうゴキブリを見せてやると「ぎゃあ!」と悲鳴をあげた。どうやら大丈夫だったようだ。
ふう、と一息ついて冷静な頭で考えるみると、自分がいま手にしているのは、妹の雑誌
だということに気がつく。まずいかもしれない。
「あー……、ごめん。お前の雑誌台無しにしちゃった」
流石に語尾に「てへ」と付けて、お茶目なお兄ちゃんをアピールする雰囲気ではなかったので素直謝った。すると僕の誠意が伝わったのか妹はもじもじしながら口を開いた。
「べ、別にいいよ、そんなの。…………あ、ありがとうね、お兄ちゃん」
「へ?」
てっきり怒られるものとばかり思っていた僕は拍子抜けして変な声をあげてしまった。
「そ、それより! それなに?」
妹は僕の足元を指さしていた。見ると、僕と運命の赤い糸で結ばれている美雪さんが床に突っ伏していた。ああ! 美雪さんすいません! 僕は慌てて美雪さんを抱きかかえた。
「この人は僕の妻の美雪さんだ。美雪さんとでもお義姉さんとでも気さくに話しかけてくれってさ」
「……お兄ちゃん。あんまりこういうこと言いたくないけどさぁ……」
「分かってる。僕もこの人を養わなくてはいけなくなったからな。いつまでも部屋に引き篭もっているわけにはいかないよな」
妹に言われるまでもなく僕は分かっていた。このままではいけないと。いつまでも自分の部屋引き篭もったままではダメだと。僕も、もういい年齢の男だ。これからは美雪さん、いや僕の妻のためにも勇気を持って社会の歯車にならないといけない。
「微妙にわかってねーよ……」
妹がぼそっと何か言ったような気がしたが、気にせず僕は「邪魔したな」と告げて、美雪さんをお姫様抱っこして妹の部屋から出て行こうとした。
「ちょ、ちょっと待って…………。そ、それ……」
すると、妹に呼び止められてしまった。まだなにかあるのか、なんて思いながら振り向くと妹が美雪さんを指さしてわなわなと震えている。なんだ美雪さんの可愛さに嫉妬したのか、などと呑気に考えながら美雪さんを改めて見やると、大変まずいことに気がついてしまった。
「そ、そのブラジャー…………」
そう美雪さんは昨夜の寝巻き姿のままだったのだ。つまり僕のワイシャツをはだけさせ、美雪さんの豊満な胸を窮屈に押さえつけているブラジャーが露わになっていたのだ。
「……ごめんなさい。少し借りさせてもらっていました。てへっ!」
「てへ! じゃねーだろうがあああああああ!」
その後、僕はボコボコにされながら、美雪さんにまで怒りの鉄拳制裁を振るおうとしている妹から逃げ延び、なんとか自分の部屋に戻ってきた。美雪さんは「私のせいでごめんなさい……」と言ったきり、その美しい顔を微笑ませながら俯き、すっかり押し黙ってしまった。ちなみに妹のブラジャーは美雪さんが着けたままである。
「み、美雪さんが気にするようなことではありませんよ! それに」
明日は三月十四日ホワイトデーである。美雪さんのアイディアで、妹との不仲を解消するためプレゼントをすることにしたのだった。
僕は部屋に転がっているAmasonのダンボール破り開けた。中には黒色の少し派手めな、大人の雰囲気を醸し出しているブラジャーが入っている。これも美雪さんの提案というか、美雪さんが妹からブラジャーを借りてしまったので、素敵なブラジャーをプレゼントしましょうと言って美雪さんが選んでくれたものだった。僕としては是非このブラジャーを美雪さんに着けていただきたいものなのだが。
「明日、このブラジャーをプレゼントしたら、今日のことなんて許してくれますよ!」
ブラジャーを美雪さんに見せてあげると、美雪さんはようやく俯いていた顔を上げ、いつもの素敵な微笑みを見せてくれた。
「はい、喜んでもらえるといいですね」
次の日、僕は再び妹にボコボコにされたのは言うまでもない。