I LIKE YOU
「次ホチキス貸してー」
「ん、おっけ」
よし。
ぐっちゃんからホチキスが回ってくる算段が付いたので、僕は前を向いて紙を折る作業に戻る。
明日から夏休みだけど、2学期制のうちでは成績表が配られることも終業式をやることもない。
僕たちは小学校からそうだったから別に違和感はないけど、水原なんかは小4のときに転校してきて3学期制じゃないことにびっくりしてたっけ。そういやあいつ中学になってから会ってないな。
というか、僕は逆に夏休み前に成績表が配られるってのも一度経験してみたくはある。
夏休み前にちょっとしたイベントがあるってのは、きっと悪くない。
なんせ今日やることと言えば地獄のような暑さの体育館で校長先生の話と表彰が半分半分ぐらいの簡単な全校集会をやって、あとは夏休みのしおり作りだけ。
机の上に散らばる紙はでかいのが5枚と小さいのが1枚。それを片端から折っていって、下のページ数通りになるよう順々に挟んでいく。
あとはホチキスで留めれば完成だ。
手にとってみると小学校のよりいくらか薄くなっているし、大きさもえーっとB5だっけ? とにかく一回り小さくなっている。
外側の紙だけは水色で、そこに描かれているのはなんかめっちゃうまい絵だ。
セミの入った虫かごと、それを眺めている麦わら帽子の小さな男の子が描かれている。
最初は美術の後藤のクソババアが描いたのかと思ったけど、妹尾先生によれば八重先生が描いたらしい。
確かに八重先生のイニシャルである『M.Y』って描いてあるっぽいサインは隅っこのほうにあるけど、あの顔でこれを描いたかと思うと……人は見かけによらないもんだよなぁ。
「戸田ー」
トントンと肩を硬い何かに叩かれる。手を伸ばすと、相変わらず蒸し暑い教室の中で冷たい金属の手触り。
「お、ありがと」
後ろは振り向かずに、冷たさの源泉ことホチキスを掴んで手元に。
2箇所をがちゃこんと留めて、
「戸田くん次ちょうだい」
「あ、うん」
そのまま韮瀬にパス。
受け取った韮瀬は一度紙を整えて、それからホチキスでがちゃこんと――する前にもう一度整えなおして、それからようやく、と見せかけてさらに整えて
「そこまでする!?」
あまりのこだわり方に思わずツッコミが漏れた。
「え、駄目?」
「いや別に駄目じゃないけどさ、本当にそこまでしなくても」
こうやって話してる今も、きちーっと角と角を合わせようとしてるし。
「ウチ、ちょっとでもずれてるとすっごく気になっちゃうの」
「あーそうだよね、こだわるタイプ」
ノートにプリント貼る時もめっちゃ丁寧にやってるし。
「うん、なんか曲がってんの気に入らな……あ、きた!」
そう叫んで、そーっと慎重にしおりを机の上に置く。
ホチキスをこれまた慎重に手にとって、しおりの片側をそっと持ち上げて、がちゃこん。
あまりの集中っぷりに、僕も自然と息を詰めてしまう。
続いて反対側も持ち上げて、もう1箇所。最後に2つの針の真ん中に。
そこまでやって、ようやく韮瀬の集中が緩んだ。僕も大きく息をつく。
「いやいやお疲れ」
小さく拍手すると、ピースサインが返ってきた。
「疲れました」
「で、出来栄えのほうは」
その問いに自画像ほどではないけど、にやりと笑う韮瀬。
両手でどーんとしおりを見せてくる。
「どやー」
口で言うな。
確かに見せてきたしおりはめちゃくちゃ綺麗に上下左右が整っている。作り方の都合上中の紙はちょっとずつはみ出すことになるけど、それすら等間隔に見えるほどだ。
「……すげー」
思わず声が漏れる。あ、どや顔がさらに強化された。
「分かったからその顔やめよう」
「えー」
口では不満そうにしながらも、唇を尖らせてどや顔は解除された。
「せっかく職人芸を見せたのに」
「いや問題はそこじゃなくて顔」
「え、それめっちゃ失礼じゃない? 女子に向けて『顔が問題』とか」
あ、確かに。
けど他になんて言ったらいいんだ。
「ごめん」
後がめんどくさいのでとりあえず謝罪から入る。
本来は対今西用対処法だけど、こんなことしてるから今西にいつも負けてるんだろうか。
「やだ。許してあげない」
あれーなんか今西と同じパターンの匂いがするー。女子ってみんなこうなのか?
「ほんとすいませんでした」
「乙女に向かってブサイクとかチョーむかつくんですけどー」
「いやそこまで言ってないし」
それと口調どうした。
「でも問題があるって」
「大丈夫大丈夫。全然問題ない」
「えー、ほんと?」
うわー超悪い笑顔だわー。口の吊りあがり方がネコバスだわー。
「ほんとほんと」
「なら好きなだけ見てもいいのよ」
そして再びどや顔に。どうしてそうなった。
「いやいいです」
「今日でしばらく見納めなんだよー。プレミアだよー」
「はいはい」
そろそろウザくなってきたのでしっしっと手で追い払う。
「ひどーい……」
あれなんかしょんぼりした。ちょっと罪悪感。
けどまあ向こうも向こうだよね。
そう思ってスルーしていると、なんか強烈に視線を感じる。
「なんだよ」
「戸田くんはウチのこと見てくれないから、代わりにウチが戸田くんのこと見る」
なんだそれ。ていうかじっくり見られるの結構恥ずかしいんだけど。
「できれば勘弁してください」
「やだ」
職人芸の結晶であるしおりの上に突っ伏して、顔だけ傾けてこっちを見上げてくる。
もうなんか相手するのも疲れたので、今度こそ完全無視。
韮瀬も意地なのか、そのまま妹尾先生がホチキスを回収して話を始めてもずーっとそのままだった。
「ん、おっけ」
よし。
ぐっちゃんからホチキスが回ってくる算段が付いたので、僕は前を向いて紙を折る作業に戻る。
明日から夏休みだけど、2学期制のうちでは成績表が配られることも終業式をやることもない。
僕たちは小学校からそうだったから別に違和感はないけど、水原なんかは小4のときに転校してきて3学期制じゃないことにびっくりしてたっけ。そういやあいつ中学になってから会ってないな。
というか、僕は逆に夏休み前に成績表が配られるってのも一度経験してみたくはある。
夏休み前にちょっとしたイベントがあるってのは、きっと悪くない。
なんせ今日やることと言えば地獄のような暑さの体育館で校長先生の話と表彰が半分半分ぐらいの簡単な全校集会をやって、あとは夏休みのしおり作りだけ。
机の上に散らばる紙はでかいのが5枚と小さいのが1枚。それを片端から折っていって、下のページ数通りになるよう順々に挟んでいく。
あとはホチキスで留めれば完成だ。
手にとってみると小学校のよりいくらか薄くなっているし、大きさもえーっとB5だっけ? とにかく一回り小さくなっている。
外側の紙だけは水色で、そこに描かれているのはなんかめっちゃうまい絵だ。
セミの入った虫かごと、それを眺めている麦わら帽子の小さな男の子が描かれている。
最初は美術の後藤のクソババアが描いたのかと思ったけど、妹尾先生によれば八重先生が描いたらしい。
確かに八重先生のイニシャルである『M.Y』って描いてあるっぽいサインは隅っこのほうにあるけど、あの顔でこれを描いたかと思うと……人は見かけによらないもんだよなぁ。
「戸田ー」
トントンと肩を硬い何かに叩かれる。手を伸ばすと、相変わらず蒸し暑い教室の中で冷たい金属の手触り。
「お、ありがと」
後ろは振り向かずに、冷たさの源泉ことホチキスを掴んで手元に。
2箇所をがちゃこんと留めて、
「戸田くん次ちょうだい」
「あ、うん」
そのまま韮瀬にパス。
受け取った韮瀬は一度紙を整えて、それからホチキスでがちゃこんと――する前にもう一度整えなおして、それからようやく、と見せかけてさらに整えて
「そこまでする!?」
あまりのこだわり方に思わずツッコミが漏れた。
「え、駄目?」
「いや別に駄目じゃないけどさ、本当にそこまでしなくても」
こうやって話してる今も、きちーっと角と角を合わせようとしてるし。
「ウチ、ちょっとでもずれてるとすっごく気になっちゃうの」
「あーそうだよね、こだわるタイプ」
ノートにプリント貼る時もめっちゃ丁寧にやってるし。
「うん、なんか曲がってんの気に入らな……あ、きた!」
そう叫んで、そーっと慎重にしおりを机の上に置く。
ホチキスをこれまた慎重に手にとって、しおりの片側をそっと持ち上げて、がちゃこん。
あまりの集中っぷりに、僕も自然と息を詰めてしまう。
続いて反対側も持ち上げて、もう1箇所。最後に2つの針の真ん中に。
そこまでやって、ようやく韮瀬の集中が緩んだ。僕も大きく息をつく。
「いやいやお疲れ」
小さく拍手すると、ピースサインが返ってきた。
「疲れました」
「で、出来栄えのほうは」
その問いに自画像ほどではないけど、にやりと笑う韮瀬。
両手でどーんとしおりを見せてくる。
「どやー」
口で言うな。
確かに見せてきたしおりはめちゃくちゃ綺麗に上下左右が整っている。作り方の都合上中の紙はちょっとずつはみ出すことになるけど、それすら等間隔に見えるほどだ。
「……すげー」
思わず声が漏れる。あ、どや顔がさらに強化された。
「分かったからその顔やめよう」
「えー」
口では不満そうにしながらも、唇を尖らせてどや顔は解除された。
「せっかく職人芸を見せたのに」
「いや問題はそこじゃなくて顔」
「え、それめっちゃ失礼じゃない? 女子に向けて『顔が問題』とか」
あ、確かに。
けど他になんて言ったらいいんだ。
「ごめん」
後がめんどくさいのでとりあえず謝罪から入る。
本来は対今西用対処法だけど、こんなことしてるから今西にいつも負けてるんだろうか。
「やだ。許してあげない」
あれーなんか今西と同じパターンの匂いがするー。女子ってみんなこうなのか?
「ほんとすいませんでした」
「乙女に向かってブサイクとかチョーむかつくんですけどー」
「いやそこまで言ってないし」
それと口調どうした。
「でも問題があるって」
「大丈夫大丈夫。全然問題ない」
「えー、ほんと?」
うわー超悪い笑顔だわー。口の吊りあがり方がネコバスだわー。
「ほんとほんと」
「なら好きなだけ見てもいいのよ」
そして再びどや顔に。どうしてそうなった。
「いやいいです」
「今日でしばらく見納めなんだよー。プレミアだよー」
「はいはい」
そろそろウザくなってきたのでしっしっと手で追い払う。
「ひどーい……」
あれなんかしょんぼりした。ちょっと罪悪感。
けどまあ向こうも向こうだよね。
そう思ってスルーしていると、なんか強烈に視線を感じる。
「なんだよ」
「戸田くんはウチのこと見てくれないから、代わりにウチが戸田くんのこと見る」
なんだそれ。ていうかじっくり見られるの結構恥ずかしいんだけど。
「できれば勘弁してください」
「やだ」
職人芸の結晶であるしおりの上に突っ伏して、顔だけ傾けてこっちを見上げてくる。
もうなんか相手するのも疲れたので、今度こそ完全無視。
韮瀬も意地なのか、そのまま妹尾先生がホチキスを回収して話を始めてもずーっとそのままだった。
扉を開けると、そこは雪国だった。
――――は言いすぎだけども。
今日の保健室の温度は、いつもと明らかに違っていた。
思わず入口で立ち止まってその涼しさを存分に味わって
「あー早く入って! 外の暑さが来ちゃう!」
即座に飛んでくる今西の声。はいすいませんでした。
素早く扉を閉めて、椅子に座り改めて一息つく。
「クーラーもう切っちゃったんだから気をつけて!」
「いやほんとごめんなさい」
今西は割と本気で怒っている。そこまで本気にならなくてもとは思うけど、まあ校舎中どこも地獄のような暑さの中でこの快適さは何よりも貴重だもんな。
涼しさの原因は、今日の集会。
40度はあるんじゃないかと思うようなあの体育館、耐え切れなかった生徒達は保健室へとやってくる。
そして、そんな生徒が来たときだけ保健室に設置されているクーラーは稼動するのだ。
僕らはそのおこぼれというか、余波で涼んでいるってとこか。
この事実を知っている僕はあの体育館の中で倒れてやろうか真剣に迷った。
仮病を使うと2人にバレそうな気が猛烈にしたからやめておいたけど……あれ?
「田原先生は?」
「事務室に用があるってさっき出てった」
うわマジか。暑そうなのに。
「ところでだね戸田くん」
満面の笑顔で、今西がこっちを向く。
「断る」
「えー!」
で、そういう時は大体ろくでもないことを頼んでくるに決まってる。
「一応話ぐらいは聞いてくれてもいいと思う!」
「やだ」
「そこをなんとか!」
椅子を少し軋ませながら回転させて、こっちを向いた今西が勢いよく頭を下げる。
この態度、絶対何かあるな。
となればやることは一つ。
「うんまあ、話ぐらいなら聞いてもいいかなー」
今西相手に優位に立てそうな状況を精一杯楽しむことだけだ。
「マジすか!」
下げたのと同じぐらい勢いよく顔を上がった。なんか目が輝いてる。
「う、うん」
思わず気圧された。つーか期待に満ちすぎ。こっち見るな。
「いやーありがと!」
言うが早いか、今西は机の下に置いてある鞄を蹴りだしてきて、ファスナーを開けた。中からでかめの封筒が取り出される。
それをびしりと指差して、
「宿題やろうぜ!」
この笑顔である。
「やめとく」
うわ目がカッってなった。こええ。
「お願いお願い! ちょっとでいいから!」
なんか今西にしてはめちゃくちゃ下手に出てきていて、それが更に得体の知れない恐怖を煽る。
一体僕は何をやらされるんだ。
「宿題は他人に頼っちゃいけないだろ!」
「そこをなんとか」
「お断りします」
「あたしと戸田くんの仲でしょ!」
いや知り合ってから4ヶ月ぐらいなんですけど。
あーでも確かに一番話をしたのは今西かもしれない。ほぼ毎日だもんな。
……んー。
ちょっと考える仕草をしながら、今西を見やる。
すでに期待から圧力へと変わりつつあるその視線。
今日まで何度も何度もこの目に負けてきた。
だけど、だからこそ、懲りずに立ち向かう。
僕じゃまだ今西を越えていくことはできないから。
せめて対等にはなれるように、じーっと視線をぶつけ合う。
いつもならここで僕が折れちゃうところだけど、今日はそうは行かないぞ。なんてったって宿題を教える側に立つんだからな。
普段でも僕が答えをじらしてると睨まれたりするけど、今日はここまでするんだからよほどのはずだ。
いくらなんでもそこまで強気に出られるはずが。
はずが。
はず……が……。
なんか今西の眼力が止まることを知らないんですけど。どういうことなの。
いや耐えろ耐えろ耐えろ、ここでビビったら負けだ僕――――――
「戸田くん」
「はい」
睨み合いの最中にいきなり声をかけられて、びくっとなりそうな体を咄嗟に抑える。
てか思わずはいって言っちゃった。落ち着け僕。
さらに今西はずいっと身を乗り出してきた。椅子がギッと傾く。
まだクーラーが効いているはずの保健室で、まるで太陽が間近に迫ってきたみたいな熱さを感じる。背中がじっとりとし始めた。
「取引しましょ」
「え?」
「あたしに宿題教えてくれたら、あたしからも何か一つ戸田くんにしたげるから」
そう言って、僕の眼を再びまっっっすぐに見る。
黒目に映る僕すら見えそうなほどに。
――ああ、
「お、おっけ」
やっぱり駄目だ。
僕はまだまだ今西に勝てそうにない。
「で、何教えてほしいの?」
筆箱を机の上に転がし、机に頬杖ついて今西が分からないという宿題を待ち受ける。少し冷たくなった背中が気持ち悪い。
「これこれ」
今西が封筒から取り出してきたのは、たった1枚のプリント。
「他の宿題はなんとかなりそうだったんだけど、これだけもう意味不明すぎ」
え、そんな凄いのあったっけ?
どれどれ――あぁなるほど。
問題文を見て納得する。これは確かに今西には難しそうだ。
「どう、戸田くんできそう?」
「任せとけ」
親指びしり。
「さすが戸田くん!」
ぱちぱちぱちぱち。
「じゃ早速やろうか」
「はーい先生」
僕も自分の分を鞄から取り出して、この宿題を改めて眺める。
さて、実際のところこれはそんな難しいものじゃない、はず。
プリントに書かれているのは、『1 1 1 1 =10』から始まって、『=10』だけが共通で『2 2 2 2 =10』のように数字が一つずつ大きくなっていく式が縦に9個。
そして『夏休みということで、ちょっと遊びを加えた問題! +-×÷とカッコだけを使って、この数式を完成させてみよう!』という問題文。
なるほど、今西が混乱するわけだ。こんなの習うわけないもんな。
えーっと。
「とりあえず『11-1×1=10』でしょ」
さらさらと僕のプリントに書き込む。
「え、お、おおー!」
一瞬間を置いて、今西の理解が追いついた。
ちなみに今西は2桁×1桁の暗算でもかなり時間がかかる。しかも2桁の数が30以上だと筆算に走り始める。
同じように答えを書いた後、期待に満ちた視線が僕に向く。
ふふふ任せろ。既に考えてある。
「次は『2×2×2+2=10』と『3×3+3÷3=10』」
あ、フリーズした。
目がプリントを見て、上を向いて、またプリントに目を向けて、と慌しく動いている。
「戸田くーん」
「ん?」
「あたしにはこの3の奴の答えが4にしか見えないんだけど……」
うわ、思ってたよりバカだ今西。
「計算の順番ってあったでしょ?」
「あ」
それでようやく理解したらしい。
というか僕がマイナスの計算教えるときに一度教えなおした気がするんだけどこれ。
「つ、次お願いします」
バツの悪そうな顔で続きをせがんでくる。
と、よく考えたら僕まだこれ考えてないじゃん。
「ちょっと待って」
えーっと、4×4……じゃ駄目そうだな。4+4なら、あーだめだ。あと1個4があればいいのに。
あれ、これ地味に難しくないか。
隣から不安そうな視線を感じる。大丈夫だから。多分。
指先が僕の意思と独立してペンを回し始める。今西の興味が徐々にそっちへと移っていくのが悲しい。
そうやって1分ぐらいが経過したところで、来た。
ペンがぴたっと止まって、そのまま答えを書き込む。
『44-4÷4』。
「どや」
改心の出来に思わず韮瀬式でどや顔。
「これカッコつけなきゃ駄目じゃない?」
あ。
慌てて修正。あーどや顔し返された。
こほん。
仕切りなおし。
「で、5は簡単でしょ」
こっちは正直考えるまでもない。『5+5+5-5=10』だ。
「おーさすが先生」
うんまあ面目は保ったってことで。
で、問題はこの後だ。
僕はもう4を作る途中で8の答えを思いついている。けどその間の6と7が問題だ。
このふたつはまだ全く思いついていない。さてどうするか。
「で、次は?」
せっつかれる。ついでに脇腹もシャーペンでつつかれたので身をよじって抵抗。あーどうしよ。
悩んでいると、保健室のドアががらがらと音を立てた。
「あら、まだいたの?」
意外そうな顔をしながら田原先生が席に着く。
「ちょっと戸田くんに宿題教えてもらってるんです」
「お昼時なんだからあんまり遅くなっちゃ駄目よ」
そう言われて時計を見てみると、12時半に差し掛かっていた。
確かに思ったより時間が経ってるな。
よし。
「じゃ、次は8ね」
「え、6と7は?」
「ぶっちゃけまだ考えてない」
ちょっと速度重視で行こう。
今度はカッコを忘れずに、『8+(8+8)÷8=10』。
「っと、あーできてる」
ちょっと混乱したらしいけど、今西も納得できたみたいだ。
さて、残るは6、7、9。
6と7はさっぱり検討がつきそうにないから、先に9かな。
要は9を3つ使って1が作れればいいわけだし。
てことはえーっと、最後を『÷9』として。
そうやって色々考えてみたけど、全く思いつかない。
また右手が僕を無視して遊び始めたけど、さっぱりだ。
てことは最後を『÷9』にしていた発想が間違ってたのか。まあよく考えたら9を2つで9にするなんて無理が――あ。
閃きが、来た。
右手のコントロールを取り戻して、力強く答えを書き込む。
「できた!」
思わずそんな声が漏れてしまう。
さっきのどや顔を今に持って来たいぐらいの答えは、『(9×9+9)÷9=10』。
「終わったの?」
「あ、いやまだです」
田原先生に勘違いされたけどそんなこと関係ないぐらいテンションが上がっている。
やばい、今ならあと2つもさくっと解けそう。
と、思ったのに。
それから5分も経つと、テンションはすっかり元に戻っていた。
なんだこれ。できる気がしない。
6と7を交互に考えてみてるけどお手上げだ。
わざわざ宿題にするぐらいだから解けるんだろうけど、それでも答えが存在するのか疑いたくなってしまう。
じーっと数式とにらめっこ。答えが浮かんでこないかと――うっ。
今西がまた脇腹をつついてきた。なんだよ、人が考えてるときに邪魔するなよ。
しかも僕が反応しなかったのが気に入らないのか、何度もつついてくる。
「あーもう何だよ!」
堪えきれなくなって、今西のほうを向く。なんか思いつきそうだったのに!
「ねえ、これさ」
そう言って今西がペンで指したのは4の答え。
「何、間違いあった?」
そんなわけないけど。
「もしかして全部の式に同じの書けばいいんじゃない?」
「え?」
全く予想もしなかった一言に、頭が空っぽになる。
え、えーっと『(44-4)÷4=10』だから試しに6に入れて、『(66-6)÷6=10』。
あれ?
恐る恐る7に入れてみると、『(77-7)÷7=10』。
2回計算しなおしてみたけど、合ってる。
今西を見ると、それはもう輝くような笑顔を浮かべていた。
「合ってる? ねえ合ってる?」
反射的に頷く。
次の瞬間、今西が伸びた。
「いやったぁー!」
凄い勢いで立ち上がってガッツポーズ。
声がだいぶ上から降ってくるから恐ろしい。横を見ると脇腹のあたりだし。
そのちょっと上はあえて見ない。悲しくなりそうだから。
「しかしあれだなー、これは戸田くんいらなかったなー」
「いやそれはおかしい」
僕がいなかったらまず4の答え思いついてなかっただろ。
「えーでもどうかなー」
あー腹立つ。てか僕の頭をガシガシすんな。身長差を悪用しやがって。
「はいはい、2人とも終わったんなら帰ったら?」
パンパンと手を叩いて、田原先生が止めに入ってくる。
時計を見ると、12時50分。確かにそろそろお腹も空いてきた。
「んー」
今西は僕の頭から手を離して、
「外超暑そうだし、1時まで涼んでってもいいですか?」
そのまま手を挙げて田原先生に質問。
「まあいいけど、ちゃんと1時には帰ってね」
「はーい。戸田くんどうする?」
ん。
どうしよっかな。
この涼しさは捨て難いけど、さっさと帰らないと姉ちゃんが僕のご飯をつまみ食いしだすころなんだよな。
前にオムライスが隠す気0で削られてたこともあったし、あとアイスがなくなる可能性もある。
うーん。
でもまあ、いっか。
「じゃあ僕もそうする」
アイスならまた明日からも食べられる。
それなら、韮瀬じゃないけどプレミアの今西とあと10分過ごすのも悪くないだろう。
「そっか」
今西が隣に座りなおす。椅子がまた軋んだ。
そういや、僕がこのいい椅子に座るようになったのもほんの1ヶ月ぐらい前だっけ。
これは大きい変化だったけど、それを除けば僕たちは最初からほとんどやってることが変わってないなと、ふと思った。
勉強教えて、つまんないことを話して、たまに戦って。
ほとんど僕が負けて、は不本意だけど。
そんな関係がどれくらい続くんだろうか。
できれば、教室で同じようにふざけあいたいなとは思う。
そしたら他のみんながいて、もっと楽しくなるかもしれない。
でも今西がそれを望まないなら、別にこれだって全然構わないのだ。
今西のほうをちらりと見る。目が合って、お互いちょっと笑う。
何故か僕も今西も口を開こうとはしなかった。
もうすっかり慣れてしまった薬の匂いと、少しぬるくなってきた気がする空気と、窓越しのセミの鳴き声。
それらが僕達を取り巻いて、不思議と満ち足りた気持ち。
保健室とも今西とも今日から40日ほどお別れだ。
名残惜しくないって言えば嘘になるから。
もう少し、このまま。
――――は言いすぎだけども。
今日の保健室の温度は、いつもと明らかに違っていた。
思わず入口で立ち止まってその涼しさを存分に味わって
「あー早く入って! 外の暑さが来ちゃう!」
即座に飛んでくる今西の声。はいすいませんでした。
素早く扉を閉めて、椅子に座り改めて一息つく。
「クーラーもう切っちゃったんだから気をつけて!」
「いやほんとごめんなさい」
今西は割と本気で怒っている。そこまで本気にならなくてもとは思うけど、まあ校舎中どこも地獄のような暑さの中でこの快適さは何よりも貴重だもんな。
涼しさの原因は、今日の集会。
40度はあるんじゃないかと思うようなあの体育館、耐え切れなかった生徒達は保健室へとやってくる。
そして、そんな生徒が来たときだけ保健室に設置されているクーラーは稼動するのだ。
僕らはそのおこぼれというか、余波で涼んでいるってとこか。
この事実を知っている僕はあの体育館の中で倒れてやろうか真剣に迷った。
仮病を使うと2人にバレそうな気が猛烈にしたからやめておいたけど……あれ?
「田原先生は?」
「事務室に用があるってさっき出てった」
うわマジか。暑そうなのに。
「ところでだね戸田くん」
満面の笑顔で、今西がこっちを向く。
「断る」
「えー!」
で、そういう時は大体ろくでもないことを頼んでくるに決まってる。
「一応話ぐらいは聞いてくれてもいいと思う!」
「やだ」
「そこをなんとか!」
椅子を少し軋ませながら回転させて、こっちを向いた今西が勢いよく頭を下げる。
この態度、絶対何かあるな。
となればやることは一つ。
「うんまあ、話ぐらいなら聞いてもいいかなー」
今西相手に優位に立てそうな状況を精一杯楽しむことだけだ。
「マジすか!」
下げたのと同じぐらい勢いよく顔を上がった。なんか目が輝いてる。
「う、うん」
思わず気圧された。つーか期待に満ちすぎ。こっち見るな。
「いやーありがと!」
言うが早いか、今西は机の下に置いてある鞄を蹴りだしてきて、ファスナーを開けた。中からでかめの封筒が取り出される。
それをびしりと指差して、
「宿題やろうぜ!」
この笑顔である。
「やめとく」
うわ目がカッってなった。こええ。
「お願いお願い! ちょっとでいいから!」
なんか今西にしてはめちゃくちゃ下手に出てきていて、それが更に得体の知れない恐怖を煽る。
一体僕は何をやらされるんだ。
「宿題は他人に頼っちゃいけないだろ!」
「そこをなんとか」
「お断りします」
「あたしと戸田くんの仲でしょ!」
いや知り合ってから4ヶ月ぐらいなんですけど。
あーでも確かに一番話をしたのは今西かもしれない。ほぼ毎日だもんな。
……んー。
ちょっと考える仕草をしながら、今西を見やる。
すでに期待から圧力へと変わりつつあるその視線。
今日まで何度も何度もこの目に負けてきた。
だけど、だからこそ、懲りずに立ち向かう。
僕じゃまだ今西を越えていくことはできないから。
せめて対等にはなれるように、じーっと視線をぶつけ合う。
いつもならここで僕が折れちゃうところだけど、今日はそうは行かないぞ。なんてったって宿題を教える側に立つんだからな。
普段でも僕が答えをじらしてると睨まれたりするけど、今日はここまでするんだからよほどのはずだ。
いくらなんでもそこまで強気に出られるはずが。
はずが。
はず……が……。
なんか今西の眼力が止まることを知らないんですけど。どういうことなの。
いや耐えろ耐えろ耐えろ、ここでビビったら負けだ僕――――――
「戸田くん」
「はい」
睨み合いの最中にいきなり声をかけられて、びくっとなりそうな体を咄嗟に抑える。
てか思わずはいって言っちゃった。落ち着け僕。
さらに今西はずいっと身を乗り出してきた。椅子がギッと傾く。
まだクーラーが効いているはずの保健室で、まるで太陽が間近に迫ってきたみたいな熱さを感じる。背中がじっとりとし始めた。
「取引しましょ」
「え?」
「あたしに宿題教えてくれたら、あたしからも何か一つ戸田くんにしたげるから」
そう言って、僕の眼を再びまっっっすぐに見る。
黒目に映る僕すら見えそうなほどに。
――ああ、
「お、おっけ」
やっぱり駄目だ。
僕はまだまだ今西に勝てそうにない。
「で、何教えてほしいの?」
筆箱を机の上に転がし、机に頬杖ついて今西が分からないという宿題を待ち受ける。少し冷たくなった背中が気持ち悪い。
「これこれ」
今西が封筒から取り出してきたのは、たった1枚のプリント。
「他の宿題はなんとかなりそうだったんだけど、これだけもう意味不明すぎ」
え、そんな凄いのあったっけ?
どれどれ――あぁなるほど。
問題文を見て納得する。これは確かに今西には難しそうだ。
「どう、戸田くんできそう?」
「任せとけ」
親指びしり。
「さすが戸田くん!」
ぱちぱちぱちぱち。
「じゃ早速やろうか」
「はーい先生」
僕も自分の分を鞄から取り出して、この宿題を改めて眺める。
さて、実際のところこれはそんな難しいものじゃない、はず。
プリントに書かれているのは、『1 1 1 1 =10』から始まって、『=10』だけが共通で『2 2 2 2 =10』のように数字が一つずつ大きくなっていく式が縦に9個。
そして『夏休みということで、ちょっと遊びを加えた問題! +-×÷とカッコだけを使って、この数式を完成させてみよう!』という問題文。
なるほど、今西が混乱するわけだ。こんなの習うわけないもんな。
えーっと。
「とりあえず『11-1×1=10』でしょ」
さらさらと僕のプリントに書き込む。
「え、お、おおー!」
一瞬間を置いて、今西の理解が追いついた。
ちなみに今西は2桁×1桁の暗算でもかなり時間がかかる。しかも2桁の数が30以上だと筆算に走り始める。
同じように答えを書いた後、期待に満ちた視線が僕に向く。
ふふふ任せろ。既に考えてある。
「次は『2×2×2+2=10』と『3×3+3÷3=10』」
あ、フリーズした。
目がプリントを見て、上を向いて、またプリントに目を向けて、と慌しく動いている。
「戸田くーん」
「ん?」
「あたしにはこの3の奴の答えが4にしか見えないんだけど……」
うわ、思ってたよりバカだ今西。
「計算の順番ってあったでしょ?」
「あ」
それでようやく理解したらしい。
というか僕がマイナスの計算教えるときに一度教えなおした気がするんだけどこれ。
「つ、次お願いします」
バツの悪そうな顔で続きをせがんでくる。
と、よく考えたら僕まだこれ考えてないじゃん。
「ちょっと待って」
えーっと、4×4……じゃ駄目そうだな。4+4なら、あーだめだ。あと1個4があればいいのに。
あれ、これ地味に難しくないか。
隣から不安そうな視線を感じる。大丈夫だから。多分。
指先が僕の意思と独立してペンを回し始める。今西の興味が徐々にそっちへと移っていくのが悲しい。
そうやって1分ぐらいが経過したところで、来た。
ペンがぴたっと止まって、そのまま答えを書き込む。
『44-4÷4』。
「どや」
改心の出来に思わず韮瀬式でどや顔。
「これカッコつけなきゃ駄目じゃない?」
あ。
慌てて修正。あーどや顔し返された。
こほん。
仕切りなおし。
「で、5は簡単でしょ」
こっちは正直考えるまでもない。『5+5+5-5=10』だ。
「おーさすが先生」
うんまあ面目は保ったってことで。
で、問題はこの後だ。
僕はもう4を作る途中で8の答えを思いついている。けどその間の6と7が問題だ。
このふたつはまだ全く思いついていない。さてどうするか。
「で、次は?」
せっつかれる。ついでに脇腹もシャーペンでつつかれたので身をよじって抵抗。あーどうしよ。
悩んでいると、保健室のドアががらがらと音を立てた。
「あら、まだいたの?」
意外そうな顔をしながら田原先生が席に着く。
「ちょっと戸田くんに宿題教えてもらってるんです」
「お昼時なんだからあんまり遅くなっちゃ駄目よ」
そう言われて時計を見てみると、12時半に差し掛かっていた。
確かに思ったより時間が経ってるな。
よし。
「じゃ、次は8ね」
「え、6と7は?」
「ぶっちゃけまだ考えてない」
ちょっと速度重視で行こう。
今度はカッコを忘れずに、『8+(8+8)÷8=10』。
「っと、あーできてる」
ちょっと混乱したらしいけど、今西も納得できたみたいだ。
さて、残るは6、7、9。
6と7はさっぱり検討がつきそうにないから、先に9かな。
要は9を3つ使って1が作れればいいわけだし。
てことはえーっと、最後を『÷9』として。
そうやって色々考えてみたけど、全く思いつかない。
また右手が僕を無視して遊び始めたけど、さっぱりだ。
てことは最後を『÷9』にしていた発想が間違ってたのか。まあよく考えたら9を2つで9にするなんて無理が――あ。
閃きが、来た。
右手のコントロールを取り戻して、力強く答えを書き込む。
「できた!」
思わずそんな声が漏れてしまう。
さっきのどや顔を今に持って来たいぐらいの答えは、『(9×9+9)÷9=10』。
「終わったの?」
「あ、いやまだです」
田原先生に勘違いされたけどそんなこと関係ないぐらいテンションが上がっている。
やばい、今ならあと2つもさくっと解けそう。
と、思ったのに。
それから5分も経つと、テンションはすっかり元に戻っていた。
なんだこれ。できる気がしない。
6と7を交互に考えてみてるけどお手上げだ。
わざわざ宿題にするぐらいだから解けるんだろうけど、それでも答えが存在するのか疑いたくなってしまう。
じーっと数式とにらめっこ。答えが浮かんでこないかと――うっ。
今西がまた脇腹をつついてきた。なんだよ、人が考えてるときに邪魔するなよ。
しかも僕が反応しなかったのが気に入らないのか、何度もつついてくる。
「あーもう何だよ!」
堪えきれなくなって、今西のほうを向く。なんか思いつきそうだったのに!
「ねえ、これさ」
そう言って今西がペンで指したのは4の答え。
「何、間違いあった?」
そんなわけないけど。
「もしかして全部の式に同じの書けばいいんじゃない?」
「え?」
全く予想もしなかった一言に、頭が空っぽになる。
え、えーっと『(44-4)÷4=10』だから試しに6に入れて、『(66-6)÷6=10』。
あれ?
恐る恐る7に入れてみると、『(77-7)÷7=10』。
2回計算しなおしてみたけど、合ってる。
今西を見ると、それはもう輝くような笑顔を浮かべていた。
「合ってる? ねえ合ってる?」
反射的に頷く。
次の瞬間、今西が伸びた。
「いやったぁー!」
凄い勢いで立ち上がってガッツポーズ。
声がだいぶ上から降ってくるから恐ろしい。横を見ると脇腹のあたりだし。
そのちょっと上はあえて見ない。悲しくなりそうだから。
「しかしあれだなー、これは戸田くんいらなかったなー」
「いやそれはおかしい」
僕がいなかったらまず4の答え思いついてなかっただろ。
「えーでもどうかなー」
あー腹立つ。てか僕の頭をガシガシすんな。身長差を悪用しやがって。
「はいはい、2人とも終わったんなら帰ったら?」
パンパンと手を叩いて、田原先生が止めに入ってくる。
時計を見ると、12時50分。確かにそろそろお腹も空いてきた。
「んー」
今西は僕の頭から手を離して、
「外超暑そうだし、1時まで涼んでってもいいですか?」
そのまま手を挙げて田原先生に質問。
「まあいいけど、ちゃんと1時には帰ってね」
「はーい。戸田くんどうする?」
ん。
どうしよっかな。
この涼しさは捨て難いけど、さっさと帰らないと姉ちゃんが僕のご飯をつまみ食いしだすころなんだよな。
前にオムライスが隠す気0で削られてたこともあったし、あとアイスがなくなる可能性もある。
うーん。
でもまあ、いっか。
「じゃあ僕もそうする」
アイスならまた明日からも食べられる。
それなら、韮瀬じゃないけどプレミアの今西とあと10分過ごすのも悪くないだろう。
「そっか」
今西が隣に座りなおす。椅子がまた軋んだ。
そういや、僕がこのいい椅子に座るようになったのもほんの1ヶ月ぐらい前だっけ。
これは大きい変化だったけど、それを除けば僕たちは最初からほとんどやってることが変わってないなと、ふと思った。
勉強教えて、つまんないことを話して、たまに戦って。
ほとんど僕が負けて、は不本意だけど。
そんな関係がどれくらい続くんだろうか。
できれば、教室で同じようにふざけあいたいなとは思う。
そしたら他のみんながいて、もっと楽しくなるかもしれない。
でも今西がそれを望まないなら、別にこれだって全然構わないのだ。
今西のほうをちらりと見る。目が合って、お互いちょっと笑う。
何故か僕も今西も口を開こうとはしなかった。
もうすっかり慣れてしまった薬の匂いと、少しぬるくなってきた気がする空気と、窓越しのセミの鳴き声。
それらが僕達を取り巻いて、不思議と満ち足りた気持ち。
保健室とも今西とも今日から40日ほどお別れだ。
名残惜しくないって言えば嘘になるから。
もう少し、このまま。
「おー淳平久しぶりー!」
そんな声と共に、今日何度目かの肩を叩かれる感触。
振り返るとジャッキー(4年のときジャッキー・チェンの真似をしてエアコンの室外機を殴って骨を折った)が立っていた。
「おっわジャッキー! やばい超懐かしい!」
またひとり久しぶりに会う顔に、僕のテンションはさらに上昇していく。
今日は近所のお祭りの日。
祭って言ってもこの辺では一番でかい公園のグラウンド部分で小規模にやるだけだけど、他に大きいお祭りをやらないこの辺の住宅地では貴重な夏成分で、僕にとっては小学校の友達と一気に会える機会でもある。
普段からたまに遊んでた俊やもっちー達とは夏休みに入って以来ほぼ毎日俊の家にスマブラやりに行ってるけど、やっぱり他の奴らの顔も見たくなる。
つい半年前まで飽きるほど見てたのに、いざ離れると恋しくなるもんだ。
逆に中学校の奴らはもう2週間ほど会ってないのにそれほどでもない。
うーん不思議。
そんなことを考えながら、2人でなんとなくお互いの右手にぶら下がる水ヨーヨーを何とかぶつけ合おうと苦戦する。
15秒ほど叩き付け合って、ようやくヒットしてバシュッと音が鳴った。
「で、どうよそっちの学校ー? 彼女できたー?」
「その質問セットでされんの今日だけで4度目なんだけど」
こいつらにはひねる気がないのか。
「いやだって気になるじゃんよー。で、実際どうなの? モテてんの? モテてんでしょ?」
ジャッキーが僕の肩を抱いて顔を寄せてくる。暑いわ。
「モテてねーよ!」
「ええっ!?」
思い切り驚いた表情を作るジャッキー。なぜそんなにオーバーリアクションなんだ!
「どう考えてもモテるわけないだろ僕が!」
いやまあ韮瀬の一件があった……ってあれも別にモテてたわけじゃないしな。
姉ちゃんに「あんたはモテない」って言われたときのダメージはよく覚えている。
怒り返したら「じゃあ父さんがモテると思うか」って言われて、父さん似の僕はもう何も言えなかった。
「えーじゃあ何? アレ? まだ野口のこと好きなん?」
「いやいやいやいや」
即否定。半年前散々繰り返した流れだから淀みなし。
「お、やっぱり違う環境で新たな恋を見つけた系?」
「だからまず僕は野口のこと好きじゃねーっての」
そしてやっぱりお決まりの否定。
正直なんでバレたのか未だにわからない。普通にしてたと思うのに。
「うわー、まだそれ言ってんのー? 正直もう学校違うんだしバラしちゃっていいじゃん」
「ないって」
恥ずかしくて言えるか。墓まで持ってく。
「本気で言ってる?」
「当たり前だろ!」
「じゃあ野口んとこ行こうぜ」
「えっ」
しまった、つい声が出た。
「ほらそのリアクションー」
「いやだって気軽に会いに行こうとか言われたら普通びっくりすんじゃん。どこいるか分かんの?」
「みんな水道んとこ集まってっから多分いるだろ。最悪携帯あるし」
うわマジか。それ早く知りたかった。こっそり見にいけたのに。
もうこうなっては後に引けない。ジャッキーに連れられて、屋台が出てる辺りから離れて遊具のほうへ。
たまにおもちゃと携帯の光が見えるぐらいで、下手をすれば近くの人の顔も判らないぐらいの暗さの中、人ごみを掻き分けて歩く。
「おーい、淳平来たぞー」
ジャッキーが声を上げると、その場にいた10人ちょっとの視線が一斉にこっちを向いた。
そこに向けて歩いていくと、小さな歓声が上がる。
女子にまで僕が来たことを喜ばれてるのは、別にモテてるわけじゃないにしてもまあちょっと嬉しい。
「うっわ淳平だ! 淳平だ!」
「超懐かしー! あたし覚えてる?」
そしてベタベタ触られる……なんか珍獣扱いされてないか?
「みんな久しぶりー……雄介いつまで触ってんだよ!」
なぜか僕の背中をさすり続ける雄介を振り払うと、笑いが起きた。
「いいじゃんよー別に。つーかそっちの学校で彼女できた?」
なんていうかもうすげーわこいつら。同じ教育を受けてきたからか?
「うわ雄介ないわー。ないわー」
「は? いきなりなんだよジャッキー」
「それ淳平今日だけで、何回だっけ?」
「5回目」
「そう5度目!」
どや顔で開いた手のひらを見せ付けるジャッキー。
「てかお前も聞いたんだろーよ!」
「うっせ!」
さっきとは違って、今度はお互いの胴体を狙った水ヨーヨーの戦いが始まる。
そしてそれを僕らが見逃すはずがなかった。
何せ、なぜこの歳にもなって水ヨーヨーを男子がみんな持ち歩いているかといえば武器として活用するためである。
ルールは例え割れても恨みっこなし。たちまち男子は戦闘モードに入った。
一斉にジャッキーと雄介に四方八方から水ヨーヨーが襲い来て、後頭部や背中にばしゃばしゃと音を立てながらぶつかる。
「てめーらぁ!」
素早く2人も振り返って、所構わずめちゃくちゃに振り回し始めた。僕達もそれに応じて、敵も味方も分からない乱戦が始まる。
毎年恒例の光景なので、女子たちも心得てちょっと距離を取ってこの騒ぎを観戦している。
この戦いが終わるのは最終的な勝者が決定したとき、つまり――ああっ!
振り回されすぎて脆くなった僕のヨーヨーのゴムが、ぶつりとちぎれた。
宙を舞う風船は脱落者の証。つまり僕が第1号だ。
えー。えぇー。
「お、お、淳平の死んだ!」
俊がテンション高く叫んで、額にヨーヨーを喰らう。ナイスヒット。
っと、見てる場合じゃない。さっき飛んだ僕のヨーヨー拾いに行かないと
「はい」
思って踏み出した足が止まる。
足元まで転がっていったらしいそれを拾い上げて、僕へと手渡してくれたのは、確かに何ヶ月ぶりかの野口だった。
正直言えば卒業アルバムの写真を何度か眺めたけど。
「ありがと」
「残念だったねー」
そう言って小さく笑うその顔には、見覚えのない眼鏡がかかっていた。でもやっぱりフレームが赤系なのは変わっていない。
他にも、髪が少し長くなってたり、身長が僕より高く――なってるのはミュールのせいか。
そんな風にちょっとずつ僕の知らない野口になっていて、不思議な気分になる。
それでも、この笑い方は僕の好きな――
あれ?
受け取って、まだ戦いを続けている奴らのほうを向いて、気付く違和感。
久々に会えて、ほんの少しだけど会話して、なのに。
どうして、僕はこんなに普通でいられるんだろう。
卒業式の4日前、教室でちょっとだけ話したときはありえないほどに気分が躍ったのに。
どきどきを感じていないわけではない。のにそれが弱くなってるんだ。
それだけと言えばそれだけなのに、ものすごい衝撃が僕を襲う。
ちらりと野口のほうを見る。
そこにいるのは確かに僕の好きな人。大切なところは何も変わってない。
なのに、この気分はなんなんだ。
どうして、好きだって気持ちにほんの少しだけ疑問が生まれてるんだ。
嫌いになったわけじゃない。もちろん今も好きなままなのに。
『野口だけが好き』って言えないのは。
つまり。
そこまで考えて、僕は考えるのをやめた。それ以上は考えちゃいけない気がして。
思わず、手に力が篭る。
手に持ったヨーヨーが握りつぶされかけてぎちっと音を立てた。
それをそのまま、既に脱落していた亮へと投げつける。
予想外のところから攻撃を喰らった亮は、それが僕によるものだと分かると自分も切れたヨーヨーを投げつけてきた。
僕はそれをかわして逆に拾い上げ、投げ返す。
他のリタイア組もこの動きを察知して、第2回戦が始まった。
あんまりやりすぎるとまた気分が悪くなるかもしれないけど、そんなことはどうでもよかった。
今この『もしかしたら』って考えを頭から振り払えるなら、なんでもいい。
そんな声と共に、今日何度目かの肩を叩かれる感触。
振り返るとジャッキー(4年のときジャッキー・チェンの真似をしてエアコンの室外機を殴って骨を折った)が立っていた。
「おっわジャッキー! やばい超懐かしい!」
またひとり久しぶりに会う顔に、僕のテンションはさらに上昇していく。
今日は近所のお祭りの日。
祭って言ってもこの辺では一番でかい公園のグラウンド部分で小規模にやるだけだけど、他に大きいお祭りをやらないこの辺の住宅地では貴重な夏成分で、僕にとっては小学校の友達と一気に会える機会でもある。
普段からたまに遊んでた俊やもっちー達とは夏休みに入って以来ほぼ毎日俊の家にスマブラやりに行ってるけど、やっぱり他の奴らの顔も見たくなる。
つい半年前まで飽きるほど見てたのに、いざ離れると恋しくなるもんだ。
逆に中学校の奴らはもう2週間ほど会ってないのにそれほどでもない。
うーん不思議。
そんなことを考えながら、2人でなんとなくお互いの右手にぶら下がる水ヨーヨーを何とかぶつけ合おうと苦戦する。
15秒ほど叩き付け合って、ようやくヒットしてバシュッと音が鳴った。
「で、どうよそっちの学校ー? 彼女できたー?」
「その質問セットでされんの今日だけで4度目なんだけど」
こいつらにはひねる気がないのか。
「いやだって気になるじゃんよー。で、実際どうなの? モテてんの? モテてんでしょ?」
ジャッキーが僕の肩を抱いて顔を寄せてくる。暑いわ。
「モテてねーよ!」
「ええっ!?」
思い切り驚いた表情を作るジャッキー。なぜそんなにオーバーリアクションなんだ!
「どう考えてもモテるわけないだろ僕が!」
いやまあ韮瀬の一件があった……ってあれも別にモテてたわけじゃないしな。
姉ちゃんに「あんたはモテない」って言われたときのダメージはよく覚えている。
怒り返したら「じゃあ父さんがモテると思うか」って言われて、父さん似の僕はもう何も言えなかった。
「えーじゃあ何? アレ? まだ野口のこと好きなん?」
「いやいやいやいや」
即否定。半年前散々繰り返した流れだから淀みなし。
「お、やっぱり違う環境で新たな恋を見つけた系?」
「だからまず僕は野口のこと好きじゃねーっての」
そしてやっぱりお決まりの否定。
正直なんでバレたのか未だにわからない。普通にしてたと思うのに。
「うわー、まだそれ言ってんのー? 正直もう学校違うんだしバラしちゃっていいじゃん」
「ないって」
恥ずかしくて言えるか。墓まで持ってく。
「本気で言ってる?」
「当たり前だろ!」
「じゃあ野口んとこ行こうぜ」
「えっ」
しまった、つい声が出た。
「ほらそのリアクションー」
「いやだって気軽に会いに行こうとか言われたら普通びっくりすんじゃん。どこいるか分かんの?」
「みんな水道んとこ集まってっから多分いるだろ。最悪携帯あるし」
うわマジか。それ早く知りたかった。こっそり見にいけたのに。
もうこうなっては後に引けない。ジャッキーに連れられて、屋台が出てる辺りから離れて遊具のほうへ。
たまにおもちゃと携帯の光が見えるぐらいで、下手をすれば近くの人の顔も判らないぐらいの暗さの中、人ごみを掻き分けて歩く。
「おーい、淳平来たぞー」
ジャッキーが声を上げると、その場にいた10人ちょっとの視線が一斉にこっちを向いた。
そこに向けて歩いていくと、小さな歓声が上がる。
女子にまで僕が来たことを喜ばれてるのは、別にモテてるわけじゃないにしてもまあちょっと嬉しい。
「うっわ淳平だ! 淳平だ!」
「超懐かしー! あたし覚えてる?」
そしてベタベタ触られる……なんか珍獣扱いされてないか?
「みんな久しぶりー……雄介いつまで触ってんだよ!」
なぜか僕の背中をさすり続ける雄介を振り払うと、笑いが起きた。
「いいじゃんよー別に。つーかそっちの学校で彼女できた?」
なんていうかもうすげーわこいつら。同じ教育を受けてきたからか?
「うわ雄介ないわー。ないわー」
「は? いきなりなんだよジャッキー」
「それ淳平今日だけで、何回だっけ?」
「5回目」
「そう5度目!」
どや顔で開いた手のひらを見せ付けるジャッキー。
「てかお前も聞いたんだろーよ!」
「うっせ!」
さっきとは違って、今度はお互いの胴体を狙った水ヨーヨーの戦いが始まる。
そしてそれを僕らが見逃すはずがなかった。
何せ、なぜこの歳にもなって水ヨーヨーを男子がみんな持ち歩いているかといえば武器として活用するためである。
ルールは例え割れても恨みっこなし。たちまち男子は戦闘モードに入った。
一斉にジャッキーと雄介に四方八方から水ヨーヨーが襲い来て、後頭部や背中にばしゃばしゃと音を立てながらぶつかる。
「てめーらぁ!」
素早く2人も振り返って、所構わずめちゃくちゃに振り回し始めた。僕達もそれに応じて、敵も味方も分からない乱戦が始まる。
毎年恒例の光景なので、女子たちも心得てちょっと距離を取ってこの騒ぎを観戦している。
この戦いが終わるのは最終的な勝者が決定したとき、つまり――ああっ!
振り回されすぎて脆くなった僕のヨーヨーのゴムが、ぶつりとちぎれた。
宙を舞う風船は脱落者の証。つまり僕が第1号だ。
えー。えぇー。
「お、お、淳平の死んだ!」
俊がテンション高く叫んで、額にヨーヨーを喰らう。ナイスヒット。
っと、見てる場合じゃない。さっき飛んだ僕のヨーヨー拾いに行かないと
「はい」
思って踏み出した足が止まる。
足元まで転がっていったらしいそれを拾い上げて、僕へと手渡してくれたのは、確かに何ヶ月ぶりかの野口だった。
正直言えば卒業アルバムの写真を何度か眺めたけど。
「ありがと」
「残念だったねー」
そう言って小さく笑うその顔には、見覚えのない眼鏡がかかっていた。でもやっぱりフレームが赤系なのは変わっていない。
他にも、髪が少し長くなってたり、身長が僕より高く――なってるのはミュールのせいか。
そんな風にちょっとずつ僕の知らない野口になっていて、不思議な気分になる。
それでも、この笑い方は僕の好きな――
あれ?
受け取って、まだ戦いを続けている奴らのほうを向いて、気付く違和感。
久々に会えて、ほんの少しだけど会話して、なのに。
どうして、僕はこんなに普通でいられるんだろう。
卒業式の4日前、教室でちょっとだけ話したときはありえないほどに気分が躍ったのに。
どきどきを感じていないわけではない。のにそれが弱くなってるんだ。
それだけと言えばそれだけなのに、ものすごい衝撃が僕を襲う。
ちらりと野口のほうを見る。
そこにいるのは確かに僕の好きな人。大切なところは何も変わってない。
なのに、この気分はなんなんだ。
どうして、好きだって気持ちにほんの少しだけ疑問が生まれてるんだ。
嫌いになったわけじゃない。もちろん今も好きなままなのに。
『野口だけが好き』って言えないのは。
つまり。
そこまで考えて、僕は考えるのをやめた。それ以上は考えちゃいけない気がして。
思わず、手に力が篭る。
手に持ったヨーヨーが握りつぶされかけてぎちっと音を立てた。
それをそのまま、既に脱落していた亮へと投げつける。
予想外のところから攻撃を喰らった亮は、それが僕によるものだと分かると自分も切れたヨーヨーを投げつけてきた。
僕はそれをかわして逆に拾い上げ、投げ返す。
他のリタイア組もこの動きを察知して、第2回戦が始まった。
あんまりやりすぎるとまた気分が悪くなるかもしれないけど、そんなことはどうでもよかった。
今この『もしかしたら』って考えを頭から振り払えるなら、なんでもいい。
「……あ」
ソファーからがばりと起き上がって、カレンダーを見る。
夏休みにどっぷり浸かりすぎて曜日が思い出せなかったけど、やっぱり今日は8月5日。
「しまったぁぁぁぁ!」
慌てて階段を駆け上がって、僕の部屋にダッシュ。
なんてこった。ああなんてこった。こんな大切なことを忘れていたなんて。
机の上の財布をひっつかんで、ついでに机の横のコルクボードに張ってある予定表を確認。
「うわ……」
これは大変だ。事態は僕の想像をはるかに超えている。
とにかく、一刻も早くあそこへ向かわなくてはならない。
階段を今度は駆け下りて、「うっさい!」姉ちゃんが怒鳴ってくるけど無視!
「ちょっと出かけてくる!」
そう叫んで僕しかいないリビングのクーラーを切ると、靴を履いて地獄のような暑さの外へ。
太陽が痛いほど照りつけてきて、くじけそうになるけどそれでも進む。
なんせ、僕は既に大変な失敗を犯してしまっているのだ。
信じられるだろうか、この僕が――ジャンプの単行本の発売日を忘れていたなんて!
僕の家の周りには本屋がない。
というか、スーパーとコンビニ、あと駄菓子屋を除けばほとんど何もない。
一応僕ん家のあたりは住宅街だけど、ちょっと歩けば一面の田んぼだったり一年中日の差さない雑木林だったりする。
小学校の頃はここに田植えに来たり学校の裏の畑で芋掘りをしたり、自然に関する授業なら何でもこの辺で済ませていた。
図工の時間に大量のどんぐりを拾いに行ったのが一番楽しかったかな。
そんなわけで、僕たちの学校では漫画の単行本を買おうと思ったらちょっと遠出しなくちゃいけない。
既にいろんな人が立ち読みしてダメージを受けたやつならコンビニでも買えるけど、やっぱり品質にはこだわりたいし。
向かうのはここから歩いて20分ぐらいの、ちょっと大きめの本屋。
僕は学区の端だからそっちへ行くけど、大抵の奴らは僕ん家からだと遠いジャスコの本屋に行くみたいだ。
ちなみに、本屋への道はほとんど中学の通学路。おかげで僕は最初からスムーズに中学に行けた。
もう通いなれた、だけど久しぶりの道を歩いていく。
こっちのほうはだいぶ街っぽい雰囲気で、心なしかセミの鳴き声もうちの周りより小さい。
けど代わりに日差しを遮るような大きな木も少なくて、こうやって歩いてるとそれはちょっとマイナスかな。
うーん、やっぱり自転車乗れるようになるべきか。
そんなことを考えながら、公園の中に入っていく。
この公園は3ヶ所から入れるようになっていて、ここを突っ切るのが(学校では禁止されてるけど)一番の近道になる。
遊具の隣を突っ切っていって、
「あ」
「あ、戸田くん!」
近道の反対側から公園に入ってきたのは、部活帰りか体操服姿の不破。
2人同時に相手に気付いたみたいで、リアクションが重なった。
「久しぶりー」
軽く挨拶、お?
なぜか不破は小走りでこっちに近寄ってくる。しかも割と真剣そうな顔で。
「ちょうどよかった。戸田くんさ、環奈どうしちゃったのか知らない?」
「……え?」
思いもよらなかった質問にぽかんとなる。
「え、やっぱり戸田くんも何あったか知らない系?」
「いやいや、まず何言ってるか分かんないんだけど僕」
というかなんで僕が韮瀬のことなんか知ってると思ってるんだ。どう考えても不破のほうが詳しいだろ。
「え、だって彼氏じゃないの?」
まだその誤解解けてなかったのかよー!
「いやだから違うんだっての!」
「うそうそ、卓球部だと完全カレカノってことになってるんですけど」
「はぁ!?」
それってつまりクラス外に漏れてるってことか!
「うわ、ちょ、てかなんで韮瀬否定しないの!」
黙って言いたい放題言われてるような奴じゃないだろあいつ!
「あ、その話なんだけど」
そう言って、不破の表情が引き締まりなおす。
「夏休み入ってから、環奈部活出てきてないの」
「え?」
「メールしても『別になんでもないから』って返ってくるんだけど絶対なんかあったパターンじゃん? だから戸田くんなんか知らないかなーって」
「いや、まず僕夏休みなってから韮瀬に会ってないし」
他にも色々言いたいことはあったけど、真っ先に口から出てきたのはそれ。
「あれ、まさかメアド知らない系?」
教えるけど、と言いながら鞄の中から携帯を取り出す不破、っておい。
なんで入ってるんだ。いや学校に持ってきちゃ駄目とかじゃなくて、部活行くのに一切必要ないだろ。
「いやまず携帯ない」
「えー!」
そんなびっくりするとこか。確かに周りの奴らも半分ぐらいは持ってて、卒業式であっちこっちからアドレスねだられたけど。
「うわー知らなかったー。じゃあ環奈のこと何も知らないのかぁ」
肩を落とす不破。申し訳ない気持ちになるけど、僕じゃどうしようもない。
でも、
「――なんか心当たりないの?」
何も話を聞かずに諦めるのは、ちょっと早すぎる。
もしかしたら僕に分かることがあるかもしれないから、まずは話を聞きたい。
「心当たりっても……最近環奈がなんか傷つくとかあるとしたら、明らか戸田くん関係じゃん」
「でももうクラスだと言われなくなったじゃん。なんかあるとしたら卓球部でバラしたせいっしょ」
「あ、うー……」
黙り込む不破。足がパタパタと地面を叩いている。
「ほら、それなんじゃん? それで誰かがメールして、卓球部から聞いたってなって、部活行きづらいとか」
「いやそれは多分ない」
「え、なんで」
「だって――」
そこでハッと何かに気付いたように口ごもる不破。
「ん、何?」
「あー、うーん、これどうしよ」
レンズ越しの目が泳いで、何かを考えてる風。
しばらく足のパタパタと一緒にそれが続いた後、視線が僕を向いて定まる。
「いいや、話しちゃう」
後ろめたさと、心配と、誰かに秘密をバラす時のあの楽しさを少し、が混ざった顔で。
「あのね、環奈前にひとり女の子を不登校にさせた、みたいな感じになっちゃったことがあるんだけど……」
不破は、爆弾を投下した。
ソファーからがばりと起き上がって、カレンダーを見る。
夏休みにどっぷり浸かりすぎて曜日が思い出せなかったけど、やっぱり今日は8月5日。
「しまったぁぁぁぁ!」
慌てて階段を駆け上がって、僕の部屋にダッシュ。
なんてこった。ああなんてこった。こんな大切なことを忘れていたなんて。
机の上の財布をひっつかんで、ついでに机の横のコルクボードに張ってある予定表を確認。
「うわ……」
これは大変だ。事態は僕の想像をはるかに超えている。
とにかく、一刻も早くあそこへ向かわなくてはならない。
階段を今度は駆け下りて、「うっさい!」姉ちゃんが怒鳴ってくるけど無視!
「ちょっと出かけてくる!」
そう叫んで僕しかいないリビングのクーラーを切ると、靴を履いて地獄のような暑さの外へ。
太陽が痛いほど照りつけてきて、くじけそうになるけどそれでも進む。
なんせ、僕は既に大変な失敗を犯してしまっているのだ。
信じられるだろうか、この僕が――ジャンプの単行本の発売日を忘れていたなんて!
僕の家の周りには本屋がない。
というか、スーパーとコンビニ、あと駄菓子屋を除けばほとんど何もない。
一応僕ん家のあたりは住宅街だけど、ちょっと歩けば一面の田んぼだったり一年中日の差さない雑木林だったりする。
小学校の頃はここに田植えに来たり学校の裏の畑で芋掘りをしたり、自然に関する授業なら何でもこの辺で済ませていた。
図工の時間に大量のどんぐりを拾いに行ったのが一番楽しかったかな。
そんなわけで、僕たちの学校では漫画の単行本を買おうと思ったらちょっと遠出しなくちゃいけない。
既にいろんな人が立ち読みしてダメージを受けたやつならコンビニでも買えるけど、やっぱり品質にはこだわりたいし。
向かうのはここから歩いて20分ぐらいの、ちょっと大きめの本屋。
僕は学区の端だからそっちへ行くけど、大抵の奴らは僕ん家からだと遠いジャスコの本屋に行くみたいだ。
ちなみに、本屋への道はほとんど中学の通学路。おかげで僕は最初からスムーズに中学に行けた。
もう通いなれた、だけど久しぶりの道を歩いていく。
こっちのほうはだいぶ街っぽい雰囲気で、心なしかセミの鳴き声もうちの周りより小さい。
けど代わりに日差しを遮るような大きな木も少なくて、こうやって歩いてるとそれはちょっとマイナスかな。
うーん、やっぱり自転車乗れるようになるべきか。
そんなことを考えながら、公園の中に入っていく。
この公園は3ヶ所から入れるようになっていて、ここを突っ切るのが(学校では禁止されてるけど)一番の近道になる。
遊具の隣を突っ切っていって、
「あ」
「あ、戸田くん!」
近道の反対側から公園に入ってきたのは、部活帰りか体操服姿の不破。
2人同時に相手に気付いたみたいで、リアクションが重なった。
「久しぶりー」
軽く挨拶、お?
なぜか不破は小走りでこっちに近寄ってくる。しかも割と真剣そうな顔で。
「ちょうどよかった。戸田くんさ、環奈どうしちゃったのか知らない?」
「……え?」
思いもよらなかった質問にぽかんとなる。
「え、やっぱり戸田くんも何あったか知らない系?」
「いやいや、まず何言ってるか分かんないんだけど僕」
というかなんで僕が韮瀬のことなんか知ってると思ってるんだ。どう考えても不破のほうが詳しいだろ。
「え、だって彼氏じゃないの?」
まだその誤解解けてなかったのかよー!
「いやだから違うんだっての!」
「うそうそ、卓球部だと完全カレカノってことになってるんですけど」
「はぁ!?」
それってつまりクラス外に漏れてるってことか!
「うわ、ちょ、てかなんで韮瀬否定しないの!」
黙って言いたい放題言われてるような奴じゃないだろあいつ!
「あ、その話なんだけど」
そう言って、不破の表情が引き締まりなおす。
「夏休み入ってから、環奈部活出てきてないの」
「え?」
「メールしても『別になんでもないから』って返ってくるんだけど絶対なんかあったパターンじゃん? だから戸田くんなんか知らないかなーって」
「いや、まず僕夏休みなってから韮瀬に会ってないし」
他にも色々言いたいことはあったけど、真っ先に口から出てきたのはそれ。
「あれ、まさかメアド知らない系?」
教えるけど、と言いながら鞄の中から携帯を取り出す不破、っておい。
なんで入ってるんだ。いや学校に持ってきちゃ駄目とかじゃなくて、部活行くのに一切必要ないだろ。
「いやまず携帯ない」
「えー!」
そんなびっくりするとこか。確かに周りの奴らも半分ぐらいは持ってて、卒業式であっちこっちからアドレスねだられたけど。
「うわー知らなかったー。じゃあ環奈のこと何も知らないのかぁ」
肩を落とす不破。申し訳ない気持ちになるけど、僕じゃどうしようもない。
でも、
「――なんか心当たりないの?」
何も話を聞かずに諦めるのは、ちょっと早すぎる。
もしかしたら僕に分かることがあるかもしれないから、まずは話を聞きたい。
「心当たりっても……最近環奈がなんか傷つくとかあるとしたら、明らか戸田くん関係じゃん」
「でももうクラスだと言われなくなったじゃん。なんかあるとしたら卓球部でバラしたせいっしょ」
「あ、うー……」
黙り込む不破。足がパタパタと地面を叩いている。
「ほら、それなんじゃん? それで誰かがメールして、卓球部から聞いたってなって、部活行きづらいとか」
「いやそれは多分ない」
「え、なんで」
「だって――」
そこでハッと何かに気付いたように口ごもる不破。
「ん、何?」
「あー、うーん、これどうしよ」
レンズ越しの目が泳いで、何かを考えてる風。
しばらく足のパタパタと一緒にそれが続いた後、視線が僕を向いて定まる。
「いいや、話しちゃう」
後ろめたさと、心配と、誰かに秘密をバラす時のあの楽しさを少し、が混ざった顔で。
「あのね、環奈前にひとり女の子を不登校にさせた、みたいな感じになっちゃったことがあるんだけど……」
不破は、爆弾を投下した。
「……え?」
さっきと同じリアクション。
だけど、今度の驚きは桁が違う。
「あ、違うの。えーっと、なんていうか、環奈がわざとやったとかそういうのじゃなくて、」
不破は慌てて韮瀬をフォローしてるけど、それよりも先に聞かなくちゃいけないことがある。
「その女の子の名前は?」
「え? ――あー、戸田くんも聞き覚えあるでしょ。今西さん。いつも朝名前だけ呼ばれるあの子」
やっぱりか。やっぱりなのか。
今まで気になっていたけど聞けなかったことがこんなに簡単にわかってしまって、すごく不思議な気分だ。
この日差しのせいではなく、頭が変な熱を帯びている気がする。鼓動も早い。
「いやあのね、そんな顔しないで。ほんと戸田くんが考えてるのと違うから」
おろおろと言われたけど、一体僕は今どんな表情をしているんだろう。
そして、僕は今何を考えているんだろう。
色んな疑問が渦を巻いているのに、妙に冷静でもある。
いや、冷静とは違うな。それにしちゃ頭が回らない。むしろ、ぼんやりとしている感じだ。
意識ははっきりと、でもぼんやり。
矛盾しているとしか思えない、この状態から抜け出すために。
「……その話、もうちょっと聞いていい?」
もっと話を聞くため、僕はベンチを指差した。
「えっと、ね」
鞄を置いて一息ついて、不破が口を開く。
公園のベンチはあるかないかの木陰に辛うじて覆われていて、僕と不破が日差しを避けるとスペースの都合上、鞄は太陽に晒されてもらうことになったようだ。
「うちの学年にね、朝鷺ちゃんていう女の子がいたの」
ぱた、ぱたと不破の足は地面をゆっくり叩いている。癖みたいだ。
「この子、背が小さかったのね。で、今西さんって凄くでっかかったの。見たことないだろうけど、あたしたちと頭一つ以上違うの。ほんと」
知ってる、なんて言えるはずもない。
僕はただ頷くだけ。
「今西さんね、昔から大きかったけどそんなに目立って大きい、って訳じゃなかったの。背の順で後ろから2番目か3番目、みたいな感じで」
へぇー。
想像してみようとするけど、どうもあの今西が誰かより小さいという状況が想像できない。
「なんだけど、小5の冬かな。一気に伸び始めて、あっという間に160台になっちゃったの。で、男子が『デカ女』とか『トーテムポール』とか呼び始めて。あ、トーテムポールって分かる? うちの校門のとこになんかあった変な顔がいっぱい積んであるやつ」
……想像できない。
僕の頭の中ではモアイがいっぱい積み重なった。で、一番上に今西の顔。
「で、奈美――あっと、今西さんが怒ってね、『デカいのだけ差別するのはおかしい!』って言ってさ。『一番ちっちゃいさぎちゃんもなんかあだ名つけてよ!』なんて」
足のぱたぱたが、今西を名前で呼んだときだけ止まった。
「それで朝鷺ちゃんもなんか色々あだ名つけられるようになっちゃって。今西さんもそれに乗ってさ、あだ名考えたりしてたの。けど、朝鷺ちゃんて結構そういうの嫌がるタイプだったのね。なのに溜め込んじゃって」
そこでふう、と息を吐いて、不破は目に入ろうとしている汗を指で拭う。
「不登校、にはならなったのかな。けど、夏休み明けたら転校しちゃってたの」
レンズ越しに、不思議な目の色。
僅かに揺らぐその意味は、僕にはよく読み取れない。
「で、ね」
また、言葉がちょっと切れる。
不破の足は動きを止めていて、僕達の間の沈黙を埋めるのはセミと車の音。
風が少し吹いて僕らの頭上の影が揺れた。
そして、その風が収まった頃、不破がようやく口を開く。
「環奈、今西さんを責めちゃったわけよ。それもみんなの前で」
すごかったんだから、と軽く疲れた笑みを浮かべて、
「最初は教室の隅っこのほうで言い争ってたんだけどさ、だんだんヒートアップしてきて。最後クラスの半分ぐらいが参加してたんだけど、大体が奈美責めちゃう感じで」
また今西を名前で呼んだけど、今度は気付く様子がない。
「ふたりとも仲良かったんだけど、環奈って自分の許せないことは許せないタイプなのね。で、時々『そういうのやめなよ』みたいなこと言ってたんだけど、奈美悪乗りしちゃってて。逆に環奈もニラニラ呼ばれるようになっちゃって。とにかく色々環奈も溜まってたんだと思う」
訂正が一向にされないのは、完全に喋ることに集中しているのか、それとも。
わざと距離を置くように喋ってただけで、実際はそうでもないってことなのか。
「で、それからは、うん。いじめ、だったと思う」
ぱたん、と1回だけ足が動いた。
「それ、あたしも参加してたわけなのよ」
ちら、とこっちを見てくる。
「……別に、だからって引いたりとかは、ないけど」
「ありがと」
口元だけで笑って続ける。
「何やったかとかはさ、言わないけど。今思い出してもそれなりにひどかったと思う」
でもね、と呟いて
「環奈は、何もしてなかった。それは本当。むしろすっっごい後悔してた」
もう一度本当だから、と繰り返す不破。
そんなに言わなくても、その表情を疑えるわけがないのに。
「奈美が学校来なくなるまでずっとあたし達にやめようって言ってたし、来なくなってからもすっごい落ち込んでた。『メール返事くれない』って泣きそうになってたの覚えてる」
そう話す不破の目も、少し潤んできている。
「で、長くなっちゃったけど。環奈ってそんなとこからも立ち直っちゃえた子なの。ちょっと変なこと言われたぐらいで、部活来なくなるわけない」
そう言いきって、不破は息をついた。
……さて。
どうしたらいいんだ、僕。
色んなことがあんまりに一気に襲い掛かってきて、整理が追いつかない。
話を聞いているうちに頭は少し普通に戻ってきたけど、考えるべきことが多すぎる。
韮瀬のこともだけど、今西のことも。
あいつが今まで僕に見せてこなかった色んな所を、一気に知ってしまって。
次会うときに、どんな顔をしたらいいか僕にはわからない。
「なんかごめんね。変な話しちゃって」
「いや、大丈夫。むしろ感謝してる」
それと、少しだけ後悔も。
「……感謝?」
「あ、ほら。今西、さんの話ってなんかタブーみたいな空気あったから」
危うく呼び捨てにしかけたけど、なんとかこらえる。
「あー」
なるほど、という顔をする不破。
「確かにねー、まだみんなそんな感じだもんね」
ん。
「あれ、不破は違うの?」
すかさずその発言を拾う。
もしかして、今西が教室に戻る足がかりになるかもしれないから。
「やっぱさー、環奈見ちゃったから。多分、今でも不登校になっちゃってるのすっごい気にしてると思うし」
「……そう、なんだ」
韮瀬は今西が保健室に来ているのを知っているんだろうか。
「何通も『不登校にだけはならないで』ってメール送ったらしいんだけど。まあ奈美も自分いじめたっぽい相手の話なんて聞かないよね」
環奈のこと嫌いなのかなー、と呟いて、不破はまた足をぱたぱたさせた。
韮瀬の話題はどうしても付き合ってる云々になっちゃうから一度も出してないけど、正解だったのかもしれない。
けど実際に不登校ではなくて、
――――あ。
そこまで考えて、ようやく気付いた。というか、繋がった。
今西が絶対に譲らなかった、『保健室登校』という肩書き。
理由を聞いても、「不登校はやなんだもん」とだけ言っていて、「やってなんだよ」って何回か追及したけど、結局答えてくれなかった。
その理由は、つまり。
「不破!」
「え、何!?」
いきなり立ち上がった僕に、不破が驚いた視線を向ける。
「ちょっとさ、韮瀬のアドレス見せてくれない?」
「え? あ、うん、いいけど」
鞄から携帯を取り出して、軽く操作すると僕に渡してくる。
「ちょっと覚えるから時間かかるけどいい?」
「う、うん」
そう言って、ちょっと体の角度を変えて一心不乱に画面を眺めるふり、をしながら。
こっそりと、画面を操作する。
携帯は持ってないけど、姉ちゃんのをこっそりいじくったことがあるから少しだけ操作は出来る。あの時の蹴りは痛かったなぁ。
それを生かして、アドレスの一覧に戻って。
『今西奈美』と書かれたところを開く。
そして、今度こそ宣言したとおりに、携帯に穴を開けかねない勢いで、脳に刻み込む。
今西に繋がる、11桁の番号を。
――よし、完璧だ。暗唱できる。
あとは、
「あ!」
あたかも、操作に慣れていないふりをして。
「ご、ごめんなんか画面消えちゃったんだけど」
リラックマがこっちを向く待ち受けに戻して、不破に返すだけ。
「ん? あ、大丈夫大丈夫」
不破もなんの疑いもなく、受け取ってくれた。
「じゃ、僕帰るから」
「え」
「今日はありがとねー!」
返事を待たずに、影を抜けて太陽の下を家に向かって小走りで進みだす。
汗がすぐに吹き出てきたけど、構わない。
今僕の体に残すべきは水分じゃない。この電話番号だけだ。
さっきと同じリアクション。
だけど、今度の驚きは桁が違う。
「あ、違うの。えーっと、なんていうか、環奈がわざとやったとかそういうのじゃなくて、」
不破は慌てて韮瀬をフォローしてるけど、それよりも先に聞かなくちゃいけないことがある。
「その女の子の名前は?」
「え? ――あー、戸田くんも聞き覚えあるでしょ。今西さん。いつも朝名前だけ呼ばれるあの子」
やっぱりか。やっぱりなのか。
今まで気になっていたけど聞けなかったことがこんなに簡単にわかってしまって、すごく不思議な気分だ。
この日差しのせいではなく、頭が変な熱を帯びている気がする。鼓動も早い。
「いやあのね、そんな顔しないで。ほんと戸田くんが考えてるのと違うから」
おろおろと言われたけど、一体僕は今どんな表情をしているんだろう。
そして、僕は今何を考えているんだろう。
色んな疑問が渦を巻いているのに、妙に冷静でもある。
いや、冷静とは違うな。それにしちゃ頭が回らない。むしろ、ぼんやりとしている感じだ。
意識ははっきりと、でもぼんやり。
矛盾しているとしか思えない、この状態から抜け出すために。
「……その話、もうちょっと聞いていい?」
もっと話を聞くため、僕はベンチを指差した。
「えっと、ね」
鞄を置いて一息ついて、不破が口を開く。
公園のベンチはあるかないかの木陰に辛うじて覆われていて、僕と不破が日差しを避けるとスペースの都合上、鞄は太陽に晒されてもらうことになったようだ。
「うちの学年にね、朝鷺ちゃんていう女の子がいたの」
ぱた、ぱたと不破の足は地面をゆっくり叩いている。癖みたいだ。
「この子、背が小さかったのね。で、今西さんって凄くでっかかったの。見たことないだろうけど、あたしたちと頭一つ以上違うの。ほんと」
知ってる、なんて言えるはずもない。
僕はただ頷くだけ。
「今西さんね、昔から大きかったけどそんなに目立って大きい、って訳じゃなかったの。背の順で後ろから2番目か3番目、みたいな感じで」
へぇー。
想像してみようとするけど、どうもあの今西が誰かより小さいという状況が想像できない。
「なんだけど、小5の冬かな。一気に伸び始めて、あっという間に160台になっちゃったの。で、男子が『デカ女』とか『トーテムポール』とか呼び始めて。あ、トーテムポールって分かる? うちの校門のとこになんかあった変な顔がいっぱい積んであるやつ」
……想像できない。
僕の頭の中ではモアイがいっぱい積み重なった。で、一番上に今西の顔。
「で、奈美――あっと、今西さんが怒ってね、『デカいのだけ差別するのはおかしい!』って言ってさ。『一番ちっちゃいさぎちゃんもなんかあだ名つけてよ!』なんて」
足のぱたぱたが、今西を名前で呼んだときだけ止まった。
「それで朝鷺ちゃんもなんか色々あだ名つけられるようになっちゃって。今西さんもそれに乗ってさ、あだ名考えたりしてたの。けど、朝鷺ちゃんて結構そういうの嫌がるタイプだったのね。なのに溜め込んじゃって」
そこでふう、と息を吐いて、不破は目に入ろうとしている汗を指で拭う。
「不登校、にはならなったのかな。けど、夏休み明けたら転校しちゃってたの」
レンズ越しに、不思議な目の色。
僅かに揺らぐその意味は、僕にはよく読み取れない。
「で、ね」
また、言葉がちょっと切れる。
不破の足は動きを止めていて、僕達の間の沈黙を埋めるのはセミと車の音。
風が少し吹いて僕らの頭上の影が揺れた。
そして、その風が収まった頃、不破がようやく口を開く。
「環奈、今西さんを責めちゃったわけよ。それもみんなの前で」
すごかったんだから、と軽く疲れた笑みを浮かべて、
「最初は教室の隅っこのほうで言い争ってたんだけどさ、だんだんヒートアップしてきて。最後クラスの半分ぐらいが参加してたんだけど、大体が奈美責めちゃう感じで」
また今西を名前で呼んだけど、今度は気付く様子がない。
「ふたりとも仲良かったんだけど、環奈って自分の許せないことは許せないタイプなのね。で、時々『そういうのやめなよ』みたいなこと言ってたんだけど、奈美悪乗りしちゃってて。逆に環奈もニラニラ呼ばれるようになっちゃって。とにかく色々環奈も溜まってたんだと思う」
訂正が一向にされないのは、完全に喋ることに集中しているのか、それとも。
わざと距離を置くように喋ってただけで、実際はそうでもないってことなのか。
「で、それからは、うん。いじめ、だったと思う」
ぱたん、と1回だけ足が動いた。
「それ、あたしも参加してたわけなのよ」
ちら、とこっちを見てくる。
「……別に、だからって引いたりとかは、ないけど」
「ありがと」
口元だけで笑って続ける。
「何やったかとかはさ、言わないけど。今思い出してもそれなりにひどかったと思う」
でもね、と呟いて
「環奈は、何もしてなかった。それは本当。むしろすっっごい後悔してた」
もう一度本当だから、と繰り返す不破。
そんなに言わなくても、その表情を疑えるわけがないのに。
「奈美が学校来なくなるまでずっとあたし達にやめようって言ってたし、来なくなってからもすっごい落ち込んでた。『メール返事くれない』って泣きそうになってたの覚えてる」
そう話す不破の目も、少し潤んできている。
「で、長くなっちゃったけど。環奈ってそんなとこからも立ち直っちゃえた子なの。ちょっと変なこと言われたぐらいで、部活来なくなるわけない」
そう言いきって、不破は息をついた。
……さて。
どうしたらいいんだ、僕。
色んなことがあんまりに一気に襲い掛かってきて、整理が追いつかない。
話を聞いているうちに頭は少し普通に戻ってきたけど、考えるべきことが多すぎる。
韮瀬のこともだけど、今西のことも。
あいつが今まで僕に見せてこなかった色んな所を、一気に知ってしまって。
次会うときに、どんな顔をしたらいいか僕にはわからない。
「なんかごめんね。変な話しちゃって」
「いや、大丈夫。むしろ感謝してる」
それと、少しだけ後悔も。
「……感謝?」
「あ、ほら。今西、さんの話ってなんかタブーみたいな空気あったから」
危うく呼び捨てにしかけたけど、なんとかこらえる。
「あー」
なるほど、という顔をする不破。
「確かにねー、まだみんなそんな感じだもんね」
ん。
「あれ、不破は違うの?」
すかさずその発言を拾う。
もしかして、今西が教室に戻る足がかりになるかもしれないから。
「やっぱさー、環奈見ちゃったから。多分、今でも不登校になっちゃってるのすっごい気にしてると思うし」
「……そう、なんだ」
韮瀬は今西が保健室に来ているのを知っているんだろうか。
「何通も『不登校にだけはならないで』ってメール送ったらしいんだけど。まあ奈美も自分いじめたっぽい相手の話なんて聞かないよね」
環奈のこと嫌いなのかなー、と呟いて、不破はまた足をぱたぱたさせた。
韮瀬の話題はどうしても付き合ってる云々になっちゃうから一度も出してないけど、正解だったのかもしれない。
けど実際に不登校ではなくて、
――――あ。
そこまで考えて、ようやく気付いた。というか、繋がった。
今西が絶対に譲らなかった、『保健室登校』という肩書き。
理由を聞いても、「不登校はやなんだもん」とだけ言っていて、「やってなんだよ」って何回か追及したけど、結局答えてくれなかった。
その理由は、つまり。
「不破!」
「え、何!?」
いきなり立ち上がった僕に、不破が驚いた視線を向ける。
「ちょっとさ、韮瀬のアドレス見せてくれない?」
「え? あ、うん、いいけど」
鞄から携帯を取り出して、軽く操作すると僕に渡してくる。
「ちょっと覚えるから時間かかるけどいい?」
「う、うん」
そう言って、ちょっと体の角度を変えて一心不乱に画面を眺めるふり、をしながら。
こっそりと、画面を操作する。
携帯は持ってないけど、姉ちゃんのをこっそりいじくったことがあるから少しだけ操作は出来る。あの時の蹴りは痛かったなぁ。
それを生かして、アドレスの一覧に戻って。
『今西奈美』と書かれたところを開く。
そして、今度こそ宣言したとおりに、携帯に穴を開けかねない勢いで、脳に刻み込む。
今西に繋がる、11桁の番号を。
――よし、完璧だ。暗唱できる。
あとは、
「あ!」
あたかも、操作に慣れていないふりをして。
「ご、ごめんなんか画面消えちゃったんだけど」
リラックマがこっちを向く待ち受けに戻して、不破に返すだけ。
「ん? あ、大丈夫大丈夫」
不破もなんの疑いもなく、受け取ってくれた。
「じゃ、僕帰るから」
「え」
「今日はありがとねー!」
返事を待たずに、影を抜けて太陽の下を家に向かって小走りで進みだす。
汗がすぐに吹き出てきたけど、構わない。
今僕の体に残すべきは水分じゃない。この電話番号だけだ。
無茶だった。
走り出した時はこのまま家までいけるかと思ったけど、何もかもが足りなかった。
5分もしないうちに頭がいつもの感覚でなくくらっときて、これはまずいとその辺の自販機でアクエリを買って飲んで(このせいで今月の小遣いまで漫画をフルで買えなくなった)、それでも家に帰る頃にはまた水が飲みたくて仕方がなくなった。
母さんが帰ってきていてクーラーがついてなかったら家に帰ってきた時点で死んでたかもしれない。
けど、そのせいでまた別の問題が発生した。
もう少し母さんが帰ってこないと思って今西の電話番号を覚えたのに、これじゃ電話をうかつにかけられない。
仕方なく麦茶を2杯とアイスを1本補給して、凄いことになってるTシャツを着替えてしばらく涼んでいるふりをして待ってみたけど、母さんは雑誌をめくり始めてリビングから動きそうにない。
困った。
明日以降に回せばいい、というのは分かってるんだけど心が言うことを聞かない。
何が何でも今日中に話をつけてしまいたい。
電話の子機があればいいんだけど、僕ん家のは去年充電器が壊れちゃって、直していないから使えない。
となると――――やっぱり、やるしかないのか。
もしかしたらいなくなるかも、という淡い期待を込めて少しソファーの上で他の案を考えながら待ってみたけど、どうしようもなくて。
覚悟を決めて、僕は階段を上り始めた。
クーラーをかけていると、上っている途中で明らかに空気の層が変わるのが分かる。
暑さに包まれながら上ってすぐにある扉をがちゃりと「ノックしろっつってんだろ!」姉ちゃんはスルーして開けて、漏れ出る冷気を感じながら中へ。
「なに淳平、クーラー消せって?」
うちの家ではクーラーは同時に2つまでしかつけちゃいけないってことになっている。しかもリビング優先って決まりがあるから、姉ちゃんは僕が部屋で涼みたくて来たと思ったらしい。
けど、僕の目的はそれじゃない。
すたすたとベッドの上の姉ちゃんに歩み寄って、
がばりと。
「……何してんの?」
恥も誇りも捨てて、土下座した。
「頼みがある!」
「断る」
「そんな大したことじゃないから!」
「やだ」
背中にグリッとした感触。
姉ちゃんめ、僕の背中を踏んでやがる。
「土下座とか大したことあるの丸出しじゃん。そんなんに騙されるほどバカじゃないから」
背中をうりうりされる。
腹立たしいし踏まれてるところが暑いけど、土下座の姿勢は崩さない。
姉ちゃんも予め払われること前提の体重のかけ方をしてるけど、あえてそのまま。
「……あんた大丈夫?」
言いながら踏むんじゃない。
「だから、お願いがあるんだって」
顔を上げていないせいで、自分でも聞き取りにくい声だとは思う。
「ふーん」
しばらく背中の上で足が動いた後、
「ま、いいや。言ってみ」
かかっていた力がなくなった。
ここぞとばかりに、僕は顔を上げて
「携帯を貸してください!」
叫んで、再び土下座の姿勢。
「は?」
「ちょっとどうしても電話したいことがある! だから貸して!」
「え、いや、リビング使えよ」
「それはできない!」
「高らかに叫ぶな。――とりあえず、顔上げなよ」
がばっ。
「で、誰にかけんの?」
やっぱりそれは聞いてくるか。
けど、僕のほうが上手だ。
「いやそれは言えない」
「言わないと貸さない」
「じゃあ言ったら貸してくれる?」
ぐ、と言った顔の姉ちゃん。よし引っかかった。
「――分かった、貸すから教えて」
そして、ここが勝負。
じっくりと、悩むふりをして。
あの頃の気持ちを思い出しながら嘘をつく。
「野口に、なんだけど」
恥ずかしそうに見えてるといいんだけど。
色んな事でどきどきしながらちらりと姉ちゃんに視線をやると、その目はぎらんと輝いていた。
「何どういうこと!? 野口ってあの子っしょ、あんたの好きな!」
「声でかい!」
……思い出すのも恥ずかしい話だけど。
僕は入学式の前の日、なんというか小学校時代の思い出に猛烈に襲われて卒業アルバムを開いてしまったのだ。
それだけならまだしも、その、迂闊にも扉を開けてクラスのページを見ながら「野口……」と呟いていたら、それを絶妙なタイミングで部屋に忍び込んできた姉ちゃんに聞かれた。
それからはもう絶望しかなかったので忘れた、ことにしたい。
あの時は本当に死にたいと思ったけど、何が役に立つか分かったもんじゃない。
「え、え、つまりそれって、そういうこと?」
どういうことだよ。
心の中ではそう思いながら、とりあえず頷く。
「えー、わー、うひゃー!」
ベッドの上で悶え始める姉ちゃん。大丈夫か。
「オッケーオッケー分かった、そういうことなら貸す貸す! いやー、そうかぁー、あんたにも遂にねぇー、大きくなったもんだ」
なぜか年寄りじみた口調で、姉ちゃんが枕元の充電器から携帯を引っこ抜いて投げてくる。
慌てて膝立ちになってキャッチ。
なんか勘違いされてるのがちょっと悲しい気もするけど気にしない。
「あのさ……これ、僕の部屋でかけてもいい?」
そう言うと、姉ちゃんの笑みがいつかの今西みたいになった。滅茶苦茶楽しそう。
「あーいいよいいよ、好きにしなさい」
言ったな。
「んーいいねー若い子は。あたしぐらいになるともう電話くらいじゃ興奮しなくなって」
さらりと惚気るんじゃねぇ。
「電話ってあの写真の人と?」
「そーそー。毎日クラスでお弁当一緒に食べる関係よ」
何をどうやったんだそれ。
「じゃ、じゃあ借りてくから」
「分かってると思うけど電話以外のことしたら殺す」
「それはよーく分かってるって」
そんなことしてる余裕があるかも分からないし。
上機嫌で手を振る姉ちゃんを尻目に、ドアを閉めてまた蒸し暑い外。
そういえば、クーラー切るのも一緒に頼めば
「あ、クーラー切っといたからそっちで涼しくしなさい」
ドアが開いて、首だけの姉ちゃんがそう言うとすぐに引っ込む。
……これ、バレたら後が怖いかもしれない。
走り出した時はこのまま家までいけるかと思ったけど、何もかもが足りなかった。
5分もしないうちに頭がいつもの感覚でなくくらっときて、これはまずいとその辺の自販機でアクエリを買って飲んで(このせいで今月の小遣いまで漫画をフルで買えなくなった)、それでも家に帰る頃にはまた水が飲みたくて仕方がなくなった。
母さんが帰ってきていてクーラーがついてなかったら家に帰ってきた時点で死んでたかもしれない。
けど、そのせいでまた別の問題が発生した。
もう少し母さんが帰ってこないと思って今西の電話番号を覚えたのに、これじゃ電話をうかつにかけられない。
仕方なく麦茶を2杯とアイスを1本補給して、凄いことになってるTシャツを着替えてしばらく涼んでいるふりをして待ってみたけど、母さんは雑誌をめくり始めてリビングから動きそうにない。
困った。
明日以降に回せばいい、というのは分かってるんだけど心が言うことを聞かない。
何が何でも今日中に話をつけてしまいたい。
電話の子機があればいいんだけど、僕ん家のは去年充電器が壊れちゃって、直していないから使えない。
となると――――やっぱり、やるしかないのか。
もしかしたらいなくなるかも、という淡い期待を込めて少しソファーの上で他の案を考えながら待ってみたけど、どうしようもなくて。
覚悟を決めて、僕は階段を上り始めた。
クーラーをかけていると、上っている途中で明らかに空気の層が変わるのが分かる。
暑さに包まれながら上ってすぐにある扉をがちゃりと「ノックしろっつってんだろ!」姉ちゃんはスルーして開けて、漏れ出る冷気を感じながら中へ。
「なに淳平、クーラー消せって?」
うちの家ではクーラーは同時に2つまでしかつけちゃいけないってことになっている。しかもリビング優先って決まりがあるから、姉ちゃんは僕が部屋で涼みたくて来たと思ったらしい。
けど、僕の目的はそれじゃない。
すたすたとベッドの上の姉ちゃんに歩み寄って、
がばりと。
「……何してんの?」
恥も誇りも捨てて、土下座した。
「頼みがある!」
「断る」
「そんな大したことじゃないから!」
「やだ」
背中にグリッとした感触。
姉ちゃんめ、僕の背中を踏んでやがる。
「土下座とか大したことあるの丸出しじゃん。そんなんに騙されるほどバカじゃないから」
背中をうりうりされる。
腹立たしいし踏まれてるところが暑いけど、土下座の姿勢は崩さない。
姉ちゃんも予め払われること前提の体重のかけ方をしてるけど、あえてそのまま。
「……あんた大丈夫?」
言いながら踏むんじゃない。
「だから、お願いがあるんだって」
顔を上げていないせいで、自分でも聞き取りにくい声だとは思う。
「ふーん」
しばらく背中の上で足が動いた後、
「ま、いいや。言ってみ」
かかっていた力がなくなった。
ここぞとばかりに、僕は顔を上げて
「携帯を貸してください!」
叫んで、再び土下座の姿勢。
「は?」
「ちょっとどうしても電話したいことがある! だから貸して!」
「え、いや、リビング使えよ」
「それはできない!」
「高らかに叫ぶな。――とりあえず、顔上げなよ」
がばっ。
「で、誰にかけんの?」
やっぱりそれは聞いてくるか。
けど、僕のほうが上手だ。
「いやそれは言えない」
「言わないと貸さない」
「じゃあ言ったら貸してくれる?」
ぐ、と言った顔の姉ちゃん。よし引っかかった。
「――分かった、貸すから教えて」
そして、ここが勝負。
じっくりと、悩むふりをして。
あの頃の気持ちを思い出しながら嘘をつく。
「野口に、なんだけど」
恥ずかしそうに見えてるといいんだけど。
色んな事でどきどきしながらちらりと姉ちゃんに視線をやると、その目はぎらんと輝いていた。
「何どういうこと!? 野口ってあの子っしょ、あんたの好きな!」
「声でかい!」
……思い出すのも恥ずかしい話だけど。
僕は入学式の前の日、なんというか小学校時代の思い出に猛烈に襲われて卒業アルバムを開いてしまったのだ。
それだけならまだしも、その、迂闊にも扉を開けてクラスのページを見ながら「野口……」と呟いていたら、それを絶妙なタイミングで部屋に忍び込んできた姉ちゃんに聞かれた。
それからはもう絶望しかなかったので忘れた、ことにしたい。
あの時は本当に死にたいと思ったけど、何が役に立つか分かったもんじゃない。
「え、え、つまりそれって、そういうこと?」
どういうことだよ。
心の中ではそう思いながら、とりあえず頷く。
「えー、わー、うひゃー!」
ベッドの上で悶え始める姉ちゃん。大丈夫か。
「オッケーオッケー分かった、そういうことなら貸す貸す! いやー、そうかぁー、あんたにも遂にねぇー、大きくなったもんだ」
なぜか年寄りじみた口調で、姉ちゃんが枕元の充電器から携帯を引っこ抜いて投げてくる。
慌てて膝立ちになってキャッチ。
なんか勘違いされてるのがちょっと悲しい気もするけど気にしない。
「あのさ……これ、僕の部屋でかけてもいい?」
そう言うと、姉ちゃんの笑みがいつかの今西みたいになった。滅茶苦茶楽しそう。
「あーいいよいいよ、好きにしなさい」
言ったな。
「んーいいねー若い子は。あたしぐらいになるともう電話くらいじゃ興奮しなくなって」
さらりと惚気るんじゃねぇ。
「電話ってあの写真の人と?」
「そーそー。毎日クラスでお弁当一緒に食べる関係よ」
何をどうやったんだそれ。
「じゃ、じゃあ借りてくから」
「分かってると思うけど電話以外のことしたら殺す」
「それはよーく分かってるって」
そんなことしてる余裕があるかも分からないし。
上機嫌で手を振る姉ちゃんを尻目に、ドアを閉めてまた蒸し暑い外。
そういえば、クーラー切るのも一緒に頼めば
「あ、クーラー切っといたからそっちで涼しくしなさい」
ドアが開いて、首だけの姉ちゃんがそう言うとすぐに引っ込む。
……これ、バレたら後が怖いかもしれない。
まず、せっかく姉ちゃんからの年に一度あるかないかの好意に甘えてクーラーをつけて。
しっかり覚えておいた11桁の番号を押したところで、少し息を吸う。
エアコンのフィルターを掃除してないせいか、少し湿っぽいというかカビっぽい味。
最近は毎夜味わうその感触にちょっと顔をしかめて、覚悟を決めた。
よし、行こう。
いつもの僕なら一晩はベッドの上で考え込むところだけど、今日はそんなのなしだ。
きっと今電話をかけなければ、言いたいことは僕の体から零れていってしまうだろう。
電話番号と一緒にちゃんと覚えているうちに、ちゃんとやってやる。
ただ通話ボタンを押すだけのことにそんな大げさな覚悟を決めて、ようやく僕の親指に力が篭る。
携帯を耳に当てて、17コール。
『……はいもしもし?』
3週間ぶりに僕と今西は繋がった。
「もしもしー」
『うぇ!? え、え、戸田くん?』
電話越しの今西の声はいつもと違っていて少し新鮮。
「いえす」
『なんでケー番知ってんの!? てかこれ携帯からでしょ? 持ってないんじゃなかったの?』
「あ、携帯はちょっと借りた」
けど、大切なのはそっちじゃない。
「――で、番号は不破から聞いた」
名前を出すかちょっと悩んだけど、多分そこまで仲が悪かったことはないだろうということで出してみる。
あとは今西がどう反応するかだ。
もし万が一不破の名前ですら嫌がるようだったら、この後の話は相当難しくなる。
どきどきしながら耳に携帯を押し当てて待つ。
最初に聞こえてきたのは、微かに息を吐く音。
『……戸田くん、ともちゃんと仲良かったんだ』
「え?」
反応はまあ悪くない、けど最初にそこに言及されるとは思ってなかった。
「いやまあ、クラスの女子だと仲いいほうになるけど」
『ふーん』
「でも別にそういう仲とかじゃないし」
『へー』
あれ、なんで言い訳してるみたいになってるんだ。
「いやあのね、僕がしたいのはそんな話じゃなくて」
『まだ他に女の子いるの?』
だから違……わないなのか。
「うん、女の子の話」
『え、マジで』
電話口の今西が虚を突かれたような声を出す。
さあ、ここからだ。
「韮瀬環奈、って言うんだけどさ」
とだけ言って、再び反応を待つ。
ここでその話を拒絶されたら、もう僕にできることは多分ない。
だから、祈ろう。
僕の思ったとおりに事が運びますように。
たった3ヶ月の時間で僕が学んだ、今西奈美という女の子のこと。
そこから僕の導き出した答えが、100点満点の正解でありますように。
祈りを籠めた左手に力が入る。
少しずつ涼しくなっているはずの部屋の中、温まっていく体。
携帯を押し付けられた耳が特に熱い。
全てがゆっくり流れているような気がして、今西がずっと黙り込んでいるのか、それとも僕が長く感じているだけなのかが分からない。
そして、10秒とも10分とも思えるような沈黙の果てに。
『やっぱり、ぜんぶ聞いたの?』
ぼそりと呟かれた声は、今までになく小さかった。
「……うん」
そこは認めなくちゃいけない。この後の話をするために。僕と今西が友達であるために。
『そっか』
返ってきた声も、やっぱり小さい。
「けど、今したい話はそのことじゃない」
いや、いつだってしたくなんかない。
僕は今西が落ち込むのを見たくないから。
『……じゃあ何?』
「手伝ってほしいことがあるんだ」
『自由研究?』
なんでこの話の流れでそれが出てくるんだよ。
「韮瀬を家から引きずり出してほしい」
『え?』
驚く今西に、僕は不破から聞いた『すべて』の外側の話をする。もちろん、韮瀬との仲を疑われたのが僕だって事は伏せて。
「――ってことで、今韮瀬は部活サボり中らしい」
『で、あたしにどうにかしてほしいと』
「そういうこと」
『無理』
やっぱりそう言うよな。
けど、そこで引き下がる気は全くない!
「頼む」
『だから無理だってば。あたしじゃ何も出来ない』
「いや、僕は今西しかできないと思ってる」
『……なんで?』
よくぞ聞いてくれた。
「今韮瀬が話を聞いてくれそうなのは、今西くらいだから」
不破や小峰や他の卓球部の面々が言って駄目なら、他の誰かが韮瀬の本当の気持ちを聞くなんて多分不可能だ。
例えば僕が聞いたところで、相手にもされないだろう。
だけど、今西なら。
不破は立ち直ったなんていっていたけど、きっと韮瀬は今西のことを心配し続けていて、今西もたぶん韮瀬のことを嫌ったり拒んだりはしていない。
だから、もしかしたらだけど今西になら話をしてくれるかもしれない。
というか、僕は今西と韮瀬の関係をもう一度昔みたいに戻してほしい。
これはそのための大きなチャンスに違いない。今ふたりが話せば、きっと何かが変わってくれる。
そんな可能性に賭けて今僕は電話をしている。
はっきり言って無茶苦茶な、僕の頭の中の思いつき。
けどやらずにはいられない。思いついてしまったらもう止まらない。
『嘘。環奈ならもっと他にいい人いっぱいいる』
「いないから言ってるんだよ」
『いるって』
「いないんだって!」
思わず声を荒げてしまった。
今西が気分を悪くしたらどうしよう、と冷や汗が流れる。
『てゆーか戸田くんが行けばいいじゃん』
「……それじゃ駄目なんだ」
『なんで。心配してるってことは仲いいんでしょ』
「っ、あのな、今僕がしたいのはそういう話じゃ――」
『わかってる』
また強くなりそうな僕の声を鎮めたのは、突き刺さるような今西の一言。
『戸田くんはさ、あたしと環奈に話をしてほしいんだよね。それも、ただ環奈に何があったか聞くだけじゃなくて、もっと昔の話まで』
今までに聞いたことのない重くて冷たい口調で、今西は僕に言葉を次々と投げてくる。
『なんとなくその気持ちは伝わってきて、戸田くんがあたしたちのこと心配してくれてるのもわかってさ。でも無理。無理なの』
そこで、言葉は溶けた。
『環奈が許してくれてたらって考えたこともあったけどさ、そんなん都合よすぎるじゃん!』
今までの冷たさから一転して、じわりじわりと隠しきれない何かが今西から漏れ出てきて、それが声に熱さを与えている。
『もしそうじゃなかったらって思うとさ、怖いの。環奈はまだ怒ってて、あたしが話しかけに言ったらも一度怒ってくるんじゃないかって』
少しずつ、呂律が怪しくなってくる。鼻をすする音が聞こえた。
『そしたらあたし、もうどうしたらいいかわかんないじゃない……』
そこまで言って、今西は喋らなくなった。
電話口からはもう何も聞こえないけれど、気配だけは伝わってくる。
まるで今西の滴が電話を伝って僕の頬を濡らしているかのような、悲しくて怖くてどうしようもない何かが。
その力に圧倒されて、僕も何も言うことができない。
けど。
僕の中で何かが暴れている。
渦を巻いてお腹の辺りからずるずると上がってきているそいつはやがて喉に達し、口に達し、僕の声を支配する。
「今西」
まずは、それだけ。
『……なに?』
今西の返事までは少し間があって、その隙にようやく頭に上ってきたそいつが僕に煮えたぎった感情をぶつけてくる。
そして僕はそいつの正体を理解した。
今僕の全身を支配しているのは、単なる身勝手な怒り。
僕からしてみれば今西の言ってることは要らない心配で、でも今西はそれに囚われて一歩も動けていない。
ただの石ころを巨大な壁だと言っているようなものなのに。
そんなもの、あの馬鹿でかい今西が越えられないはずがないのに。
つまり、僕の電話している今西は蟻のような大きさに違いない。
でもそれは僕の知ってる今西じゃないから、もう一度大きくしてやる。
なんせあいつは、僕が倒すべき、越えるべき目標なのだ。
勝手に縮んでんじゃねー!
「デートしようぜ」
『は?』
間抜けな今西の答え。まあ当たり前か。
「僕も一緒について行くから、韮瀬の家まで行こう」
『うぇ、え、ちょ、何言って』
「日時はそっちで決めていいから」
『まって落ち着いて戸田くん』
やなこった。
「集合場所は……学校でいい?」
『よくない! てゆーか行かない!』
「じゃあ僕から今西の家行って引きずり出すから」
『あたしん家知ってるの!?』
「いや、知らないけど。不破にでも聞く」
『やめてー!』
「やめてほしかったら韮瀬ん家まで来ること」
『それもう選択肢ないじゃん!』
「当然」
元から逃げ道なんて用意していない。ただただ追い詰めるだけだ。
今西、お前が僕によくやる方法だよ。
『やだ! 絶対行かない!』
「その場合は家のチャイム鳴らしてデートですってお家の人にご挨拶する」
『はあぁぁー!?』
冗談抜きでそうするつもりだ。手段は選ばない。
「さあ、どうする」
『だから、行きたくないって――』
「今西」
少し声が小さい。今が攻め時だ。
「絶対に、悪いようにはならない。僕を信じろ」
明確な根拠があるわけではないけれど、びしっと言い切る。
『……ホントに?』
「ああ、保障する」
『駄目だったら?』
「その時は、一生奴隷になってもいい」
再びためらいなく言い切った。
もう後のことなんて気にしない。僕の目の前にあるのは明るい未来だけだ。
さあ今西よ僕の前に折れろ。倒れる。騙されろ。
『……なら、付き合ったげる』
電話口からその声が聞こえてきた瞬間、思わず飛び上がりそうになった。
辛うじてガッツポーズに抑えたけれど、今なら昇竜拳だって撃てる。撃ったら倒れそうだけど。
「よし、じゃあいつにする?」
全力で声を普通に装いながら、最後の確認。
『んー、月曜の1時』
「1時? 1時な! 絶対忘れんなよ!」
『わかってるって』
月曜はいつも通り俊の家でスマブラの予定だったけど、もうそんなのどうでもいい。
頭と心のカレンダーに、『決戦の日』と深く刻み込んだ。
しっかり覚えておいた11桁の番号を押したところで、少し息を吸う。
エアコンのフィルターを掃除してないせいか、少し湿っぽいというかカビっぽい味。
最近は毎夜味わうその感触にちょっと顔をしかめて、覚悟を決めた。
よし、行こう。
いつもの僕なら一晩はベッドの上で考え込むところだけど、今日はそんなのなしだ。
きっと今電話をかけなければ、言いたいことは僕の体から零れていってしまうだろう。
電話番号と一緒にちゃんと覚えているうちに、ちゃんとやってやる。
ただ通話ボタンを押すだけのことにそんな大げさな覚悟を決めて、ようやく僕の親指に力が篭る。
携帯を耳に当てて、17コール。
『……はいもしもし?』
3週間ぶりに僕と今西は繋がった。
「もしもしー」
『うぇ!? え、え、戸田くん?』
電話越しの今西の声はいつもと違っていて少し新鮮。
「いえす」
『なんでケー番知ってんの!? てかこれ携帯からでしょ? 持ってないんじゃなかったの?』
「あ、携帯はちょっと借りた」
けど、大切なのはそっちじゃない。
「――で、番号は不破から聞いた」
名前を出すかちょっと悩んだけど、多分そこまで仲が悪かったことはないだろうということで出してみる。
あとは今西がどう反応するかだ。
もし万が一不破の名前ですら嫌がるようだったら、この後の話は相当難しくなる。
どきどきしながら耳に携帯を押し当てて待つ。
最初に聞こえてきたのは、微かに息を吐く音。
『……戸田くん、ともちゃんと仲良かったんだ』
「え?」
反応はまあ悪くない、けど最初にそこに言及されるとは思ってなかった。
「いやまあ、クラスの女子だと仲いいほうになるけど」
『ふーん』
「でも別にそういう仲とかじゃないし」
『へー』
あれ、なんで言い訳してるみたいになってるんだ。
「いやあのね、僕がしたいのはそんな話じゃなくて」
『まだ他に女の子いるの?』
だから違……わないなのか。
「うん、女の子の話」
『え、マジで』
電話口の今西が虚を突かれたような声を出す。
さあ、ここからだ。
「韮瀬環奈、って言うんだけどさ」
とだけ言って、再び反応を待つ。
ここでその話を拒絶されたら、もう僕にできることは多分ない。
だから、祈ろう。
僕の思ったとおりに事が運びますように。
たった3ヶ月の時間で僕が学んだ、今西奈美という女の子のこと。
そこから僕の導き出した答えが、100点満点の正解でありますように。
祈りを籠めた左手に力が入る。
少しずつ涼しくなっているはずの部屋の中、温まっていく体。
携帯を押し付けられた耳が特に熱い。
全てがゆっくり流れているような気がして、今西がずっと黙り込んでいるのか、それとも僕が長く感じているだけなのかが分からない。
そして、10秒とも10分とも思えるような沈黙の果てに。
『やっぱり、ぜんぶ聞いたの?』
ぼそりと呟かれた声は、今までになく小さかった。
「……うん」
そこは認めなくちゃいけない。この後の話をするために。僕と今西が友達であるために。
『そっか』
返ってきた声も、やっぱり小さい。
「けど、今したい話はそのことじゃない」
いや、いつだってしたくなんかない。
僕は今西が落ち込むのを見たくないから。
『……じゃあ何?』
「手伝ってほしいことがあるんだ」
『自由研究?』
なんでこの話の流れでそれが出てくるんだよ。
「韮瀬を家から引きずり出してほしい」
『え?』
驚く今西に、僕は不破から聞いた『すべて』の外側の話をする。もちろん、韮瀬との仲を疑われたのが僕だって事は伏せて。
「――ってことで、今韮瀬は部活サボり中らしい」
『で、あたしにどうにかしてほしいと』
「そういうこと」
『無理』
やっぱりそう言うよな。
けど、そこで引き下がる気は全くない!
「頼む」
『だから無理だってば。あたしじゃ何も出来ない』
「いや、僕は今西しかできないと思ってる」
『……なんで?』
よくぞ聞いてくれた。
「今韮瀬が話を聞いてくれそうなのは、今西くらいだから」
不破や小峰や他の卓球部の面々が言って駄目なら、他の誰かが韮瀬の本当の気持ちを聞くなんて多分不可能だ。
例えば僕が聞いたところで、相手にもされないだろう。
だけど、今西なら。
不破は立ち直ったなんていっていたけど、きっと韮瀬は今西のことを心配し続けていて、今西もたぶん韮瀬のことを嫌ったり拒んだりはしていない。
だから、もしかしたらだけど今西になら話をしてくれるかもしれない。
というか、僕は今西と韮瀬の関係をもう一度昔みたいに戻してほしい。
これはそのための大きなチャンスに違いない。今ふたりが話せば、きっと何かが変わってくれる。
そんな可能性に賭けて今僕は電話をしている。
はっきり言って無茶苦茶な、僕の頭の中の思いつき。
けどやらずにはいられない。思いついてしまったらもう止まらない。
『嘘。環奈ならもっと他にいい人いっぱいいる』
「いないから言ってるんだよ」
『いるって』
「いないんだって!」
思わず声を荒げてしまった。
今西が気分を悪くしたらどうしよう、と冷や汗が流れる。
『てゆーか戸田くんが行けばいいじゃん』
「……それじゃ駄目なんだ」
『なんで。心配してるってことは仲いいんでしょ』
「っ、あのな、今僕がしたいのはそういう話じゃ――」
『わかってる』
また強くなりそうな僕の声を鎮めたのは、突き刺さるような今西の一言。
『戸田くんはさ、あたしと環奈に話をしてほしいんだよね。それも、ただ環奈に何があったか聞くだけじゃなくて、もっと昔の話まで』
今までに聞いたことのない重くて冷たい口調で、今西は僕に言葉を次々と投げてくる。
『なんとなくその気持ちは伝わってきて、戸田くんがあたしたちのこと心配してくれてるのもわかってさ。でも無理。無理なの』
そこで、言葉は溶けた。
『環奈が許してくれてたらって考えたこともあったけどさ、そんなん都合よすぎるじゃん!』
今までの冷たさから一転して、じわりじわりと隠しきれない何かが今西から漏れ出てきて、それが声に熱さを与えている。
『もしそうじゃなかったらって思うとさ、怖いの。環奈はまだ怒ってて、あたしが話しかけに言ったらも一度怒ってくるんじゃないかって』
少しずつ、呂律が怪しくなってくる。鼻をすする音が聞こえた。
『そしたらあたし、もうどうしたらいいかわかんないじゃない……』
そこまで言って、今西は喋らなくなった。
電話口からはもう何も聞こえないけれど、気配だけは伝わってくる。
まるで今西の滴が電話を伝って僕の頬を濡らしているかのような、悲しくて怖くてどうしようもない何かが。
その力に圧倒されて、僕も何も言うことができない。
けど。
僕の中で何かが暴れている。
渦を巻いてお腹の辺りからずるずると上がってきているそいつはやがて喉に達し、口に達し、僕の声を支配する。
「今西」
まずは、それだけ。
『……なに?』
今西の返事までは少し間があって、その隙にようやく頭に上ってきたそいつが僕に煮えたぎった感情をぶつけてくる。
そして僕はそいつの正体を理解した。
今僕の全身を支配しているのは、単なる身勝手な怒り。
僕からしてみれば今西の言ってることは要らない心配で、でも今西はそれに囚われて一歩も動けていない。
ただの石ころを巨大な壁だと言っているようなものなのに。
そんなもの、あの馬鹿でかい今西が越えられないはずがないのに。
つまり、僕の電話している今西は蟻のような大きさに違いない。
でもそれは僕の知ってる今西じゃないから、もう一度大きくしてやる。
なんせあいつは、僕が倒すべき、越えるべき目標なのだ。
勝手に縮んでんじゃねー!
「デートしようぜ」
『は?』
間抜けな今西の答え。まあ当たり前か。
「僕も一緒について行くから、韮瀬の家まで行こう」
『うぇ、え、ちょ、何言って』
「日時はそっちで決めていいから」
『まって落ち着いて戸田くん』
やなこった。
「集合場所は……学校でいい?」
『よくない! てゆーか行かない!』
「じゃあ僕から今西の家行って引きずり出すから」
『あたしん家知ってるの!?』
「いや、知らないけど。不破にでも聞く」
『やめてー!』
「やめてほしかったら韮瀬ん家まで来ること」
『それもう選択肢ないじゃん!』
「当然」
元から逃げ道なんて用意していない。ただただ追い詰めるだけだ。
今西、お前が僕によくやる方法だよ。
『やだ! 絶対行かない!』
「その場合は家のチャイム鳴らしてデートですってお家の人にご挨拶する」
『はあぁぁー!?』
冗談抜きでそうするつもりだ。手段は選ばない。
「さあ、どうする」
『だから、行きたくないって――』
「今西」
少し声が小さい。今が攻め時だ。
「絶対に、悪いようにはならない。僕を信じろ」
明確な根拠があるわけではないけれど、びしっと言い切る。
『……ホントに?』
「ああ、保障する」
『駄目だったら?』
「その時は、一生奴隷になってもいい」
再びためらいなく言い切った。
もう後のことなんて気にしない。僕の目の前にあるのは明るい未来だけだ。
さあ今西よ僕の前に折れろ。倒れる。騙されろ。
『……なら、付き合ったげる』
電話口からその声が聞こえてきた瞬間、思わず飛び上がりそうになった。
辛うじてガッツポーズに抑えたけれど、今なら昇竜拳だって撃てる。撃ったら倒れそうだけど。
「よし、じゃあいつにする?」
全力で声を普通に装いながら、最後の確認。
『んー、月曜の1時』
「1時? 1時な! 絶対忘れんなよ!」
『わかってるって』
月曜はいつも通り俊の家でスマブラの予定だったけど、もうそんなのどうでもいい。
頭と心のカレンダーに、『決戦の日』と深く刻み込んだ。