五月某日。午後八時十一分。某アパート二〇二号室にて。
これは、どこの誰だかわからない、社会人になりたての女性とその上司の女性の会話です。
「ここです! どうぞどうぞ! あがってください」
「どうぞどうぞってさぁ……あんた……」
「なんですか?」
「これって不法侵入じゃないの? 人の部屋に勝手に入ってさぁ……」
「いいんです! 勇次から合鍵をちゃんと貰っていますから……」
「いやいや、そういう問題じゃないでしょうが……まあ、私も同罪か……」
「いいじゃないですか! 彼女が彼氏の部屋に入って何か問題でもありますか?」
「うーん……デリカシーがないというか……何と言うか……とりあえず、そのー……勇次君だっけ? 私はその子に同情するよ」
「細かい事はいいのです」
「かわいそうな勇次君……」
「そんな事、言いながら篠原主任ちゃっかりソファーに座っているじゃないですか?」
「だって、疲れたもの……」
「やれやれです」
「お! 灰皿あるじゃない。ラッキー! ここはタバコ吸っても大丈夫なのね……」
「ちゃんと、窓開けてくださいよ! すぐ服とかに臭い付くんですからね! まったく!」
「はいはい……」
「……」
「……」
「……」
「ぷはー! 仕事明けの一服はたまんないね!」
「はあ、これだからアラフォーは……」
「うるさい。……で、なんで、わざわざ私をこんな所まで呼び出したの? 男の部屋なんて十年ぶりくらいよ……」
「……あのー……実はですね……。相談したい事がありまして……」
「ん? 相談?」
「はい!」
「相談ねえ……てか、ここで相談する必要はないんじゃないの?」
「ここでじゃなきゃダメなんです!」
「はあ? 意味が解らないなぁ。居酒屋行こう! 居酒屋! 『なんちゃっ亭』! そこで話を聞こう! あそこの『つぼきゅー』が美味いんだよなぁ……これが! そして、私に中生を呑ませなさい! 中生を!」
「あー……。冷蔵庫に缶ビールあるんじゃないかなぁ……たしか……」
「あ、そうなの? じゃあ……まあ、それでもいいか。早速、持ってきて!」
「えー! 勇次に怒られちゃいます~」
「それこそ『細かい事はいいのです』じゃないの?」
「う~」
「……」
「……」
「じゃあ、私帰ろうかな? お酒が呑めないんじゃ話にならないし。一人で『なんちゃっ亭』行くし。別にあんたがいなくてもお酒は呑めるしね」
「あ~! もう! 解りましたよ! ちょっと待っていてください!」
「解ればよろしい! 解れば! あ、コップもね! 二つ!」
「……」
「……」
「……」
「おお、お酒だ! お酒だ! エブスビールかぁ! いいねえ! 若者のくせに高いビールを呑みよってからに!」
「あ~あ。なんて言い訳しよう……」
「大丈夫、大丈夫! 私が勇次君に言ってあげるから! ガツンと!」
「ホントですか?」
「私が部下に対して一度でも嘘を吐いたことがありますか?」
「……ないです」
「でしょうに! ほらほら、つべこべ言ってないで、早くコップに注ぐ! 注ぐ!」
「う~……失礼します……」
「おお、いいね、いいねえ!」
「……」
「おっとっと……。どれどれ、じゃあ、次は私が池内の分を注いでやろう」
「あ、私は結構です! ありがとうございます」
「おいおい、釣れないなぁ。そんなんじゃ、ウチの会社でやっていけないよ?」
「いや、ここはプライベートの場ですし……」
「あ! そうですか、そうですか。……じゃあ、私が一人で全部呑んじゃうぞ!」
「どうぞ、ご自由に」
「では、遠慮なくいただきます」
「……」
「んく……んく……」
「……」
「ぷは~! たまんないねえ~!」
「はぁ~。親父臭」
「馬鹿! 私は女です! 淑女って呼びなさい! 淑女って!」
「はいはい、了解です!」
「解ればよろしい! ……んく……んく……ぷは~! ……で?」
「はい?」
「な~に? 相談って?」
「あ~、そうでした。そうでした。」
「忘れるなよ!」
「だって、篠原主任のペースに翻弄されて……」
「ほら、そうやって、またすぐ人のせいにする! そういうのはよくないよ」
「う~。申し訳ありません」
「解ればよろしい! で、何? お姉さんに何でも言ってみなさい!」
「はい、実はですね……」
「うんうん」
「……」
「……」
「あ~、ダメだぁ~! やっぱり、恥ずかしくて言えない!」
「ちょっと! ちょっと! 何? ここまで来て言わないわけ?」
「あ~。もう、なんて言ったらいいか判りません!」
「……んく……んく……んく」
「……」
「は~。いいよいいよ。何があったか知らないけど……。心の準備が出来てからでいいよ」
「う~。はい……」
「池内?」
「はい?」
「おかわり!」
「ええ! もう呑んじゃったんですか?」
「あ~、私は呑むのが早いからね~」
「冷蔵庫には一缶しかなかったです」
「え~! 嘘~?」
「もう、ないです」
「そうですかぁ~……じゃあ、買ってくるかなぁ~」
「え? 外、出ちゃうんですか? 篠原主任!」
「うん。だって、もうないんでしょ? ここにお酒は。だったら、買いに行くしかないでしょう? 私、呑み足りないから」
「え、今から……ですか?」
「はい!」
「え~」
「じゃあ、行ってくるわ!」
「待ってくださいよ~!」
「なんだよ! 私にお酒を呑ませろよ~!」
「待ってくださいって! ちょっとでいいので! 相談の内容を話しますから! それからにしてください! ね?」
「どんくらい待てばいいの? どんくらい話すの? 池内~!」
「五分もかからないですから! ね? 私が御馳走しますから」
「え? 本当に?」
「はい! 私が嘘を吐いたことありますか?」
「いや、それはわからん。あるんじゃないの? 嘘吐いたことぐらい」
「え? わかるんですか! 嘘吐いたかどうか? やばいなあ~」
「なんだ、嘘吐いてるじゃないか! この小娘! この!」
「痛い! 暴力ですよ! それ!」
「細かい事はいいのです」
「あ~……何だかなぁ……」
「ははは! まだまだ甘いよ! 池内」
「……」
「まあ、池内が言う相談のことなんだけど……」
「え?」
「だいたい、その内容はわかる!」
「え、本当ですか?」
「もっちろ~ん!」
「う~」
「池内!」
「はい」
「もしさ、私がその相談の内容を当てたらさ……」
「はい」
「エブスビール二本買ってね!」
「え~! あのビールって高いじゃないですかぁ~」
「さあ、どうする! どうする~?」
「……」
「う~ん?」
「……」
「うう~ん?」
「わかりました! いいでしょう!」
「お! いいね! いいね! 若者にはそれくらいの決断力は必要ですよ~! えらいぞ~池内! よしよし!」
「絶対わかりっこないですよ!」
「それは~どうかな~?」
「あ、当ててみろよ!」
「ほほう! 挑戦的な態度だね~! 嫌いじゃないよ。そういうの!」
「早く答えてくださいよ!」
「まあ、待て!」
「……」
「池内!」
「はい」
「お前は、さっきからずっとチラチラとある方向を見ている」
「……」
「ベッドの下だな? 違う?」
「う~。なんで、わかるんですか~」
「私の観察眼を舐めるな~」
「それだけで私の相談内容がわかるんですか?」
「まあ、待て!」
「……」
「……ふむふむ」
「……」
「池内!」
「はい」
「非常にデリケートな質問をしてもいいかな? 答えたくないなら答えなくてもいいよ」
「なんですか?」
「覚悟しろよ!」
「……」
「え~……オホン! ……池内さぁ、勇次君と最近セックスしたのはいつ?」
「……」
「……」
「……」
「もしかして、最近、勇次君とすっかり御無沙汰なんじゃない?」
「……」
「あ~、ごめんね! 本当にごめんなさい!」
「……」
「あ~ちょっと気分を害しちゃったかな? でも、これは非常に大切な質問なのですよ?」
「……どういう風に大切な質問なんですか?」
「う~ん……説明するのが難しいなぁ~。まあ、要するにセックス・レスなんでしょう?」
「……」
「そして! つまり……あのベッドの下にそのセックス・レスの原因となり得る産物が隠されていると……そういうことさ!」
「……」
「……」
「……」
「えい!」
「え?」
「う~んと……どこかなあ?」
「篠原主任! ダメですって! 勝手に漁ったらぁ~」
「う~んと……」
「……やだ……もう」
「……」
「……」
「お! 発見発見! 予想通りあったし! エロ本!」
「……」
「顔を真っ赤にするなって! 池内! どれどれ! 勇次君の御趣味はと……」
「……」
「……」
「……」
「……こ、これは……」
「……」
「……じゅ……熟女とな……」
「もう! 篠原主任! いいかげんにしてください! 怒りますよ! 本気で!」
「もう、怒ってるじゃないか」
「あ~! もう、わけわかんない! デリカシーなさすぎです! サイテー!」
「非礼については、あらかじめ詫びておいたつもりだけどね……」
「……ありえない!」
「まあ、そういうな!」
「……」
「まあ、しかし! 勇次君もいい御趣味をお持ちで!」
「それ以上言うなよ! 年増!」
「まあまあ、落ち着け! 本当に可愛いなぁ~。池内は……ははは」
「……」
「池内?」
「なんですか? これ以上、変なこと言ったら課長に報告しますよ!」
「おうおう……怖い怖い!」
「……」
「あ~……オホン! つまり、池内の相談ってこういうことでしょ? 『勇次君が最近私を求めてきてくれない。これはおかしいな? どうしたんだろう? もしかして私に飽きちゃったのかな? おや、これは何? うわあ、エロ本だあ~! 勇次君……こんなのを読んでいるの? 私がいるのに……。年上の女の人が好きなの? 篠原主任みたいな……』……」
「最後の『篠原主任みたいな……』は余計です! そこまでは考えてないです!」
「あら、そう? それは残念! 私にもようやく春が来るかと期待したんだけどね」
「ふざけないでください!」
「あははははは! ごめん。ごめん」
「もう!」
「……」
「……」
「で、だいたいそんな感じなんだろう? お前の相談の内容って?」
「……」
「違うなら、違うと言いなさい」
「……」
「ん?」
「ちが……」
「ん?」
「……ちがくないです」
「ん? ちゃんと、はっきりと聞こえる声で言いなさい」
「……」
「あ~! もう! そうですよ! その通りですよ~!」
「おうおう! 素直でよろしい!」
「……」
「どうしたの? 池内泣いているの?」
「……」
「あ~よしよし! 私の胸を貸してあげよう」
「……」
「泣いちゃえ!」
「……う」
「……あ~……よしよし」
「……」
「……」
「……篠原……主任」
「ん? な~に?」
「やっぱり、私って飽きられちゃったのかなぁ?」
「さあ、それは勇次君に訊いてみないとわからないなぁ……そればっかりは私にもわらないよ。男の子の考えている事だもの……」
「……」
「ただね、池内」
「はい」
「たぶん、男の子ってそういう生き物なんだよ。あ~。これは、私の勝手な想像だけどね」
「そんなものなんですか?」
「まあ、少なくとも、私はそいうものとして割り切ってるよ」
「……はあ」
「私が、少し前まで付き合ってた彼氏もさ、なんかそれらしき本を読んでたよ」
「え~ホントですか!」
「うんうん! 本当だよ! 私も池内みたいにさ、最初はショックだったんだけど……」
「え~考えられない!」
「はは……私も一応、昔は女の子やってたんだよ!」
「あはは……」
「おいおい、笑うなよ。……んでさ、私が池内と違う所があってだな」
「え~怖~い。何かしたんですか? 彼氏さんに? ビンタしたとか!」
「馬鹿! 私は暴力は嫌いだ! ……私がした事は……」
「した事は?」
「……ライターでエロ本燃やしてやったよ」
「うわ~大胆!」
「そしたらさ……あいつ、ビビっちゃってさ。フフフ……今度は自分の身体がライターで焼かれるんじゃないかって、そんなアホな事を考えたのかな? 私がライターでエロ本を燃やした次の日に私の前からあいつは姿を消しちゃったよ……」
「それ……本当の話ですか?」
「本当だって! ……それでね仲直りしたわけだけど……セックスの後にね、一つの布団で一緒に真っ裸で寝てたんだけどね……私が起きたらあいついなくなってた……。で、それっきり……音沙汰なし」
「……」
「エロ本を隠れて読まれていた事よりも……そっちの方が寂しかったなあ。悲しかったなあ」
「……」
「……」
「……」
「池内?」
「はい? 何ですか?」
「今さ……ここで、このエロ本燃やしちゃう? ライターあるし……」
「……」
「どうする?」
「……やめときます! 縁起でもない!」
「……はは、そうだよね! ごめんごめん!」
「……ははは」
「……」
「……」
「池内……どうせならさ……このエロ本をベッドの上に出しっぱなしにしておかない?」
「ああ……それならいいかも! どんな反応するんだろう?」
「ははは……これは、見物だな!」
「そうですね!」
「じゃあ、勇次君が御帰宅なさる前に買い出しに行こうか! 奢ってくれるんだろう?」
「え? ……あ~……はいはい。そうでしたね」
「『はい』は一回でよろしい!」
「はい!」
「よし! つまみ代くらいは私が出すから!」
「ホントですか?」
「おお、何でも好きなの買っていいよ!」
「わあ~。ありがとうございます! ごちそうになります!」
「うむ! よろしい! その代り、エブスビール、三本買っていい?」
「え~、それはダメですよ~!」
「なんだい! ケチンボ! 食べちゃうぞ! このヤロー!」
「そんな事言ったら、課長に報告しますよ~! 『篠原主任にセクハラされました~』って」
「おお、それは勘弁! 勘弁!」
「どうしよかな~?」
「池内~!」
「……フフ。どうしようかな~?」