一面を真っ黒に塗り潰したキャンバスに光を帯びた鉄の塊を一つ一つ丁寧に描いてみたら、どのような絵が出来るのだろう。私はその完成された絵にタイトルを付けてみようと思う。その絵のタイトルはズバリ「都会」。都会の夜景はそんな感じではないかと思った。
次に、真っ白なキャンバスに無造作に真っ赤な絵の具を筆先に纏ったブラシを殴りつけたら、どんな絵が出来上がるのだろう。ふと、そんな事を考えながら私は自分の部屋にあるベッドの上に横たえていた。その真っ赤な絵の具の正体は‘人間の血’だ。そして、キャンバス上で真っ赤に痛めつけられた、その絵のタイトルは……。いけない。私は大変な事を考えてしまったみたいだ。 自分の部屋にあるテレビをつけるとニュース番組が放送されていた。どうやら、とある女性が何者かに殺されてしまったらしい。その女性はナイフで背中を刺されて死んでしまったそうだ。私はその悲劇を伝えるニュースを観終わると、テレビを消した。なぜ、その女性は殺されてしまったのだろう。私は当事者ではない。だから、いくら考えてもそれは解らないのだけれど。
たとえばの話、私がここで自分の母親を殺してしまったらどうなるのだろう。暗いニュースを聞いたせいなのか、そんな事を考えてしまった。殺人事件としてメディアに扱われるのだろうか。警察も殺人犯として、この私を追いかけ回すのだろうか。
そんなの嫌だ。私は自分の母親を殺める事が嫌なのではない。殺める事によって自分の大切な人生が台無しになってしまう事が嫌なのだ。他にも理由がある。血だ。血が嫌なのだ。自分のこの綺麗な手が、自分が一番嫌いな人間の汚らしい血によって染められる事が嫌なのだ。これが一番大きな理由なのかもしれない。ベッドの上で私は寝返りを何度も打つ。ベッドの上に綺麗に敷かれていた真っ白な布団のシーツがあっという間にくしゃくしゃになってしまった。
どうやら、私には真っ白なキャンバスに赤い絵の具を殴りつける事は出来ないようだ。その代わりその真っ白なキャンバスをくしゃくしゃに丸める事は出来るようだけれど。私にはもがく事しかできない。絵具も何も塗っていないブラシをあてもなく、徒にキャンバスの上で踊らせる事しかできない。ああ、どうすれば自らの手を真っ赤に染めることなく、あの憎き母親をこの世から抹消出来るのだろう。清廉潔白なままに伸び伸びと生きていく事が出来るのだろう。さらに、ベッドの上に敷かれたシーツは私の苦痛を代弁するかの如く、くしゃくしゃになっていく。
私が悶絶していると、ふいに窓がコンコンと二回鳴った。私はその音が聞こえる方に横たえた状態のまま顔を向けた。ノックの後に窓が大胆に開かれた。そして、ひょっこりとそこからアイツが挨拶もなしに私の部屋に入ってきた。隣家に住む私の幼馴染の男子だ。
「よお、暁美! 借りてたCD返しに来たぞ~」
私はぶっきらぼうに「あ、そう」と愛想のない返事をすると、アイツに背を向けた。
「どうした? 元気ないなぁ。なんか悩み?」
「別に……」
私はアイツに自分の弱い所は見せたくない。だから、自分の本音とは裏腹に少し強がってみた。
「ふ~ん……。そうか。だったらいいけど……」
私の部屋にCDケースが棚に戻される無機質なプラスチックの音が鳴る。そして訪れる沈黙。用がないなら、さっさと自分の部屋に戻れ。
「どっこいしょ!」
ベッドのスプリングが鈍く鳴る。どうやら、アイツが私のベッドに座り込んだみたいだ。
「アンタねぇ、用が済んだんなら、さっさと自分の部屋に戻りなさいよね! マジで邪魔なんですけど」
「まあ、そんな事言うなよ。ちょっと寛(くつろ)がせてくれよ」
アイツの不躾な態度に私は溜め息を漏らす。
もう夜の一時ではないか。良い子はもう寝る時間だ。
「なんかさぁ~……お前、どうせまた悩んだりしているんだろう……」
どうやら、私はこの男の子には嘘は吐けないみたいだ。すぐ見破られてしまう。私は観念して、アイツに全てを吐露した。黙って、私の話を聞いてくれるアイツはまるでどこかの宗教で崇拝されている偶像のような、そんな温かで柔和な表情をしていた。
「なんだ、お前、そんな事を考えているのか。怖い奴だな。母親を殺すとか、そんな事、俺は一度も考えた事無いぞ」
「私はアンタじゃないから」
「まあ、そうだよな。で、暁美は本当に母親を殺したいのか」
「うん……。でも自分の手をあの女の血で染めたくはないの」
「そうか……」
「うん」
「だったらさあ、別に血が流れる殺し方しなければいいじゃないか」
「たとえば?」
「う~ん……そうだなぁ……たとえば絞め殺すとか。うーん……ああ、そうだ! お前のじいちゃん、確か、立派な樫の木で出来た杖をついているじゃないか。その杖で盆の窪を思い切り突いてやるとか」
「ああ……なるほどなあ」
私はついつい納得してしまった。大きく頷いていた。コイツが突然、私の目の前に現れた救世主のように感じられてしまった。
私は突拍子もなく笑ってしまった。ああ、なるほどねぇ。きっと、宗教とかこんな感じで信仰するようになるんだなぁと思ってしまった。