十一．二つの戦い
「何を待っているんだ？」
玄関で荷物を待つ緑谷がビクンと肩を震わせた。振り向くと、そこに御代の姿があった。緑谷は戦慄し、逃げようとした所を御代が手を掴んで止めた。
「逃げなくてもいいだろう。何を待っているのか聞いただけだぞ」
俺は心の底から歓喜した。御代は救出を諦めた訳ではなかったのだ。しかしそれはある意味、分かりきった事だった。
「か、帰ったはずじゃ……」
率直な疑問を述べた緑谷に、御代は率直な解答を返した。
「私が隆志を置いて帰るはずないだろう」
御代が微笑んでいる所を、俺は今初めて見た。
「絵本に入っていたメモを読んで、結花が私と阿竹を離そうとしているのはすぐに分かった。メモにはこう書かれてあった」
『あなたが絵本のタイトルを思い出せなかった事、お兄様は大変失望していましたわ』
先ほどの場面を思い出す。阿竹の「それはどんな絵本だったか」という質問に対して、御代はタイトルが出てこなかったゆえに色々な情報を阿竹に渡した場面だ。が、失望も何も忘れている事は想定の上だった。だからメモは完全に、結花の揺さぶりに他ならない。
「このメモの意味する所は二つある。一つはもちろん、私が『覚えていなかった』という傷をつき、心を痛めつける事。もう一つは、私に隆志への疑いを抱かせる事」
御代は緑谷に説明しつつ、どこかで見学しているであろう俺にも言う。
「『絵本のタイトルが思い出せなかった場面』を、結花が知っているとしたら、今の状況はどうあれ結花は隆志の許可を得て私と阿竹のゲームを見学していたという事になる。何せあの時点では、緑谷、お前もゲームの途中参加者だった訳だからな。それに、阿竹はお前と幼馴染だし、お前を疑うのは至難の技だろう。
だが、お前は傍受装置を使って私達の会話を聞いていた事を告白した。あの時は、話の流れ上仕方なかった事だがな、でも私にはそれで十分だった」
これはあくまでも推測だが、緑谷が傍受装置を告白したタイミングは、ちょうど結花は俺の部屋に侵入を試みている時だったはずだ。一時的に、結花は緑谷から情報を得る事が出来なかった空白の時間という事になる。つまり、緑谷が傍受装置の事をバラした事を、結花は知らなかった。という事になる。
それが絵本に仕掛けられたトラップを引き出す事になった。そして悪いと思えるほど俺に絶対的信頼を寄せるこの御代という少女は、瞬時に緑谷を疑う事が出来た。つまり、裏切りに気付いたのだ。
「それから、私が取れる選択肢も二つあった。一つは、緑谷が怪しいという事を阿竹に伝え、意地でも阿竹と離れない方法。これなら結花の仕掛けたトラップは無駄になり、むしろ結花の狙っている事は難しくなる。しかし同時に、結花は更に別の罠を打ってくるだろう。とにかくそういうのが得意だからな。だから、もう一つの選択肢を選ぶ事にした」
それが『騙されたフリ』だったという訳だ。
「きっと、結花もあれだけで私が諦めるとは思っていなかっただろう。だからこそそれをする価値があった。私を予想以上に簡単に排除出来た結花に、油断が出来ると踏んだ」
何せ結花は天才だ。人に勝つ事に慣れている。しかしそれは逆に言えば、自分の策にまんまと嵌った人間を軽視する性質でもある。
「これは一つの賭けだった。どうやら、賭けには勝てたようだがな」
緑谷は観念したように、その場に崩れた。御代はその類稀なる気付きの力と、俺に寄せる全幅の信頼と、そして少しでも良い可能性にかける度胸によって、水際で勝利を収めた。両手が動くならば、拍手してやりたいくらいだ。
地上で決着がついたのと同時に、地下で動きがあったようだ。
「ずっと黙ってるだけじゃ、面白くないわね」
そんな結花の声色からして、また邪な事を考えているのが察せるのは何も肉親だからではない。誰が聞いたって、裏がある言い方だ。
「なら、あなたの本当の目的を教えて」
阿竹はカマをかけにいった。やはり、実の妹が兄を改造するのは現実的ではないという考えが未だ捨てられなかったらしい。それプラス、こうして地下で二人になりたかった理由も、見当がついていない。どっちにもとれる尋ね方なのが、阿竹らしいといえばらしい。
「そんなつまらない事はどうでもいいでしょ」
と、攻撃が全く効かないのが結花なのだ。
「それよりも、私があなたの事について教えてあげるわ」
「私の事？」
「ええ。少し話しただけで、私相手の事が分かってしまうの。すごいと思わない？」
「思わないわね」
阿竹の反撃はまたも空しく空振りして、結花は勝手にご高説を垂れる。
「あなたはとても自己中心的な人間ね。目的の為ならば、平気で他人を利用する。お兄様もあなたにとっては、人生をより豊かにする為の一つのパーツに過ぎないんでしょう。ほら、図星」
しばらく間を置いて、阿竹が答える。
「……そうかもしれないわね」
「『かもしれない』じゃないわ。まさにそうなのよ。負けず嫌いなのね。そのままを当てられているのに、大人のフリをして同意しておいて語尾を濁すのがその証。自己中心的で、負けず嫌いな人間はプライドが高い。将来、あなたと結婚する人は毎日大変ね」
結花の笑い声が地下に響く。だが、阿竹は声色を変えない。
「一ノ瀬君の心配をしてくれているならどうもありがとう」
「精一杯、って感じかしら。まあ、言うだけはタダよね」
俺が思った以上に、阿竹は善戦している。というよりも、結花の攻撃はかなりぬるい気がする。まだ阿竹という人間を測りきれていないのか、あるいは別の狙いがあるのかは分からないが、阿竹は怒りもしていなければ負けを認めてもいない。冷静沈着という言葉が良く似合う。
「結花ちゃん」まるで義理の妹に話しかけるような丁寧さと気軽さで阿竹は言う。「私の事を教えてくれてありがとう。お礼に、私もあなたの事を教えてあげるわ」
「やり返してくるとは思っていたけど、そのまま返したんじゃ芸がないんじゃ……」
結花の言葉を遮って、阿竹は続ける。
「あなたは一ノ瀬君の妹だけあって、やっぱり天才。それと同時に、異常者でもある。優希を手なずけて私を裏切らせたのだけでもすごい事だし。ましてやあの一ノ瀬君を出し抜いた訳だしね。普通の人間の発想じゃないわ。だけどあなたはそれだけじゃない。というより、もっと大事な部分を私は今まで見落としていたわ」
結花が「なぁに？」と馬鹿にした調子で返すと、阿竹はきっぱりと言い放った。
「あなたは極度のブラコン。実の兄の事が好きで好きでしょうがない」
その瞬間、盗聴器越しでも異様な空気が察せた。結花の胸の奥底に眠る何かに、阿竹は触れたのだ。
「考えてみれば当たり前の事だわ。わざわざ兄の為に留学までして、飛び級して、医者の免許まで手に入れて、策を練って追い込んだ。並大抵の愛で出来る事じゃない」
「別に、これくらい私にとってはお遊びよ」
「あなたも負けず嫌いだから、素直に認める訳が無いわね。失礼したわ。でもこれだけは何度だってはっきりと言ってあげる。あなたは兄である一ノ瀬君にコンプレックスを抱いている。それがつまり、破壊衝動と求愛行動の源になってるのよ。まあ、過去に何があったかは……」
「黙れよ」
遮ったその声は、本当に結花の物なのか疑いたくなる程にどす黒く濁っていた。今までずっと被っていた仮面がはがれ、結花の本当の顔が見えた瞬間だった。俺はそれ自体に驚愕すると共に結花すらも自分のペースに引き込んで論破する阿竹の実力に、ある種尊敬の念を抱いた。
また、長い沈黙が始まったかと思うと、結花はすぐにいつもの調子を取り戻して言った。
「あなたの言ってる事は大体正しいけれど、一つだけ間違っているわね。私は負けず嫌いじゃない。ただ単に、負けるのに慣れすぎただけよ」
この言葉の意味がいまいち分からないのは、俺が俺だからなのだろうか。
「大体、あなたの事が分かったわ」
結花のやけに清々しい口調。少なくとも何かを企んでいる、という様子は無い。
「梯子を上ってごらんなさい。もう開いているはずよ」
事実上それは、結花の敗北宣言だった。
阿竹と結花が家から表に出てきた。そこで意気消沈した緑谷と、それを見張る御代と合流する。
やがて、荷物を運ぶトラックがやってきた。これで一安心、と肩をなでおろすと同時に、俺はある違和感を覚えていた。