五.絵本と引きこもり
「一つ、確認しておきたい」
御代はそう言って、阿竹を見た次にカメラ越しに俺を見た。俺は促すでもなく止めるでもなく沈黙を守る。すると御代は阿竹に向き直り、続ける。
「私達が決めたルールの確認だ。片方が質問をして、答えが返ってくるまで相手は質問できないが、質問をする制限時間は特に決められていない」
御代が阿竹に視線を送り、同意を求めた。阿竹は若干不審がりながらも答える。
「ええ、制限時間は無いわね」
「ならば質問以外の行動は、自らの質問の機会を消費した事にはならないと捉えて構わないか?」
なるほど、御代は良いところに気がついた。阿竹はまだ真意に気づいていない。
「まあ、そうなるかしら」
「では、今から私が取る行動に何か問題があれば、」御代が再び俺を見た「隆志が止めてくれ」
止めるつもりはない。ルールを後から加えるのは俺の主義ではないからだ。
阿竹はまだ御代が何をするのか分かっていない様子だった。すぐに御代は行動に移ったから、わざわざ俺の方から説明してやる事もないだろう。
御代は立ち上がり、パソコンの前に座った。そしてマウスを動かすと、待機状態が解除されてデスクトップの画面が復活した。
「な……」
絶句する阿竹。何も俺は、相手のみから情報を得るべきだ、とは二人に言っていない。部屋の中にある物なら、何を使おうが勝手だ。
「私はあんまり機械が得意ではないんだがな。さっきお前が取った行動の意味くらいは分かる」
先ほど、阿竹がエロ探索の為に出した検索ボックスを御代は出し、キーワードを打ち込む。もちろんそれは、
『緑谷優希』
砂時計が回転して、やがて画面に現れたのは、先ほどと同じ白紙だった。
今回は実らなかったが、やはり御代の『気づき』は大きな武器になる。策を練り、相手を出し抜くという才能においては、阿竹の後塵を拝す物の、直感や閃きと言った点では御代に軍配が上がるだろう。これがより重要な場面、勝負の分かれ道で、雌雄を決する事は十分ありえる。
「ふふ、残念だったわね」
無論、表向き阿竹は余裕の微笑みを見せるものの、実情は紙一重といった所だ。御代が緑谷優希の情報を俺のパソコンから見つけていたならば、あっという間に阿竹は有利を失う事となった。
が、ここで決して諦めないのが御代だ。
パソコンは起動したまま、阿竹の方を見ず、四つ目の質問をする。
「パソコンの中のメールを見る方法は?」
方向転換か、『緑谷優希』を追いかけるか、二つの選択肢どちらかで言えば、後者の方を選んだ事になるだろう。
俺が御代に感心するのは、実に柔軟な発想を持っているという点だ。そして決断力に優れている。
今度は阿竹がカメラの方を見て、「これはセーフなの?」と問いかけてきたが、俺は沈黙で答える。セーフも何も、常套手段だろう。ただでさえ、ヒントは部屋の中にある物とまで言っているし、そもそも最初にパソコンの電源を入れたのは他の誰でもない阿竹だ。
「……良いみたいね。それじゃ、メールを見るわよ」
阿竹が御代にどくようにジェスチャーした。素直にそれに従う御代。何も解答は言葉だけではない。横からあれこれ言うくらいなら、阿竹が操作した方が早いと二人とも判断したのだろう。相手が理解出来ていない解答を返すという事は、質問に「答えた」事にはならない。屁理屈を言えば、スワヒリ語の分からない相手にスワヒリ語で答えるのと同じだ。それに阿竹も、メールを見る事によって、何か新しい情報が得られるかもしれないくらいの考えは浮かんでいるだろう。付け加えて、どの道御代の質問には正直に答えなければならない。ほんの束の間復活した共同戦線といった所だろうか。
阿竹が電子メールソフトを立ち上げ、二人はアドレス帳の名前一覧を見る。
そこに緑谷優希の名前があった。当然の事だ。俺と緑谷優希は、会った時以外、パソコンのメールでしかやりとりをしない。なぜならば、俺も緑谷優希も、いまどき携帯電話を持っていないからだ。
「これが一ノ瀬君が送信したメール。で、こっちが緑谷優希から受信したメールね」
とはいえ、そこまで沢山のメールがあった訳ではない。数にして二十通程度。二人はそれらのメールに順番に目を通していっているようだが、モニター越しでは、今見ているメールの正確な内容は分からないので、この行動によって御代が得る新たな情報について簡潔にまとめてみよう。
まず緑谷優希という人物についてはおおよそ掴めるはずだ。
緑谷は、極度の『引きこもり』である。
高校入学と同時に家に引きこもり、一年以上外に一歩も出ていない。だから、携帯も必要がない。緑谷は自らの部屋の中で一体何をしているのか、端的な答えを述べれば、それは『調べ物』である。緑谷は常に何かを調べている。それは国際社会におけるルーマニアの立ち位置から、美味しい豚の各煮を作るコツまで、ありとあらゆる物を、インターネットを使って常に調べている。そしてそれらを調べて一体何をするのかというと、ずばり『何もしない』。しかも、一度調べた事柄に関しては、一字一句暗記し、いつでも答えられるという超記憶力の持ち主である。俺のような人間がこういうのも難だが、かなりの変人であると同時に、天才であると言えるだろう。
緑谷は一応、俺と阿竹と同じクラスに所属している。とはいえ、その存在を知る者は数少ない。別のクラスである御代などは、まず知っている訳が無い。
そして、緑谷と俺を繋げた間接的接点が、何を隠そう阿竹宮子その人である。
阿竹の類稀なる自立的責任感から、同じクラスに引きこもりがいたのではクラス委員としての面目が立たないとの憤慨が巻き起こる。それにより、阿竹はどうにか緑谷の学校復帰を画策したが、重度の引きこもりを外に出すのは一筋縄ではいかないというのは最早常識である。
そしてここからが話の核となる部分。阿竹は一考し、変人には変人を、という理由で俺を引きこもり討伐へと誘った。が、真相は少しだけ違う。阿竹はこの時、ある『嘘』を俺についたのだ。だが、メールの中には御代がその嘘に気づけるような情報は無い。
緑谷はありとあらゆる知識を蓄積し、欲しい情報をその中から選りすぐれる。そして、俺に対して並々ならない興味を持っている。
こんな貴重な人物を、わざわざ学校などという場所に引きずり出すのは実にもったいない。俺は早々に引きこもり脱出の説得を中止した。阿竹は当然不服そうだったが、それも言いくるめた。実に簡単な話だ。緑谷に影響されて、俺も引きこもりたくなったなどと脅せば、阿竹は最早何も言えない。
それから、メールは最近の物へと移動する。最近の俺と緑谷とのメールのやりとりは、もっぱら隠しカメラの運用についてだ。俺は随分と前から、今まさに実行しているこのゲームを計画していた。実行するのには機材と専門知識が必要だった。そこで頼れるのが、緑谷という人物だった。
俺は緑谷の頭脳を利用し、効率的に準備を進められた。配線の配置から、機材の入手方法に至るまで、ありとあらゆる情報がメール一つで手に入れられたのだから、作業が捗るのは当然の事だ。その辺の事情に関しては、御代ならず阿竹も初耳だったようで、食い入るようにメールを覗き込んでいる。
そして、一番新しい受信メールを阿竹が開いた。とても短い文章だったので、ここからは画面が見えないが俺は覚えている。確かそこには、こう書かれている。
『私、一ノ瀬君の事が、好きです』
御代が短い悲鳴をあげた。驚きと嘆きの混じったような声だった。
隣で呆然としている阿竹に、御代が問いかけた。
「あ、阿竹。この緑谷優希という引きこもりは『ホモ』なのか?」
それを聞いて阿竹は即答。
「違うわよ! 緑谷優希は、『女』!」
一瞬、しまった、というような表情になった。驚きのあまり、質問に二連続で答えてしまったからだろう。
だが、阿竹にとってもそれくらい衝撃的だったのは間違いない。だがそれは御代の『またライバルが増えてしまった』という驚きとは違う、『あの緑谷優希が一ノ瀬君に告白できたなんて』という種類の驚きだろう。
しばらく二人は放心状態が続いた。その間に少し、俺自身の緑谷優希像について整理するとしよう。
緑谷は一見、ただの内気そうな少女に見える。眼鏡をかけ、短い髪を後ろに結わいていたが、顔立ちは幼く、中学生どころか小学校高学年と言っても通りそうな見た目だった。同じ年のはずだが、阿竹と比べるとどうしても歳の離れた妹に見える。御代と比べても似たような物だろう。
初めて家を訪れた時は、阿竹が先導して緑谷の部屋に入った。引きこもりではあったが、部屋に鍵をかけて篭城しているという訳ではないらしく、ただ両親の理解が一般家庭よりも度を越して深いだけだった。
「私達も心配はしているが、娘がどうしても行きたくないというのなら、無理矢理行かせる事はできない」
「一人で寂しがっているから、出来れば友達になってあげてね」
とは、緑谷の両親の言葉だ。優しいのか、甘いのか、それともそのどちらともなのか、まあ人の家庭の事情に突っ込む為の首を俺は持ち合わせてなどいないので、その場では適当に相槌を打っておいた。
緑谷は俺を見るやいなや怯えた様子で阿竹の後ろに隠れた。体がすっぽりと隠れていたが、顔と眼鏡だけを出して俺の事をじっと見ていた。外に出たくないタイプの人間にも好奇心はあるらしい、と、その時の俺は悟った。
当初、俺は緑谷にそれなりの興味を持っていた。引きこもり、という人種を間近で観察出来るチャンスは、一般的な人生においてそれなりの貴重度だと言えよう。
ところが、先に観察されていたのは俺だったのである。
と、ここで一旦回想を打ちやめ、御代と阿竹の動向に視線を戻そう。動きがあったようだ。
「さ、メールは教えたんだから、今度は私の質問の番よ」
阿竹が気を取り直してそう言った。かなりの驚きはあったものの、何せ緑谷の事は御代よりは詳しく知っている。勝負にならないと判断したのか、はたまた今は目の前のライバルに集中する決意をしたのかは分からないが、得体の知れない敵が突然増えた御代よりはいくらか持ち直すのが早かったようだ。
「それじゃ、私の四つ目の質問。幼稚園児の頃、あなた達がよく読んでいた本は、何?」
今日、阿竹と御代が俺の玄関の前に立ってから、約一時間の時が過ぎた。その間中、俺は驚きの連続だった訳だが、間違いなくこれまでで一番驚かされたのはこの質問である。まず、共通の遊びに絞ってきた狙いが正確な上に、そこにより正確で必要不可欠な質問を重ねてきたという事実が凄い。どの材料で阿竹がこれを判断したのか、今この場では俺にも理解しかねるレベル。執念なのか、はたまた運命じみた確率の悪戯なのか、それとも阿竹の持つ才能のなせる技なのか。
御代が答えるべきその答えは、キーワードに最も近い場所にある。
「……少し、時間をくれ」
御代は手を額にあてて、目線を落としている。阿竹がそれに対し何かしら文句を言うかと思いきや、意外と素直に、黙って御代の答えを待っているようだ。何せ幼稚園といえば、今から十年以上前の話になる。となれば、記憶があやふやでも仕方が無い。ここで横槍を入れるよりは、ただ待っていた方が良いと判断したのだろう。とにかく御代が阿竹の質問に答えるまでは、御代は新しく質問を振れない。慌てず騒がず、といった所か。
「すまないが、どうしてもタイトルが思い出せないんだ」
「私は、本のタイトルを尋ねたんじゃなくて、読んでいた本は何か、と尋ねたのよ?」
なるほど、曖昧な質問に対して決まった答えを返させるよりも、決まっているはずの答えに記憶という制限を加えて曖昧な情報を多く引き出させるという、いわば先ほどまでの質問の逆手を取った理屈だ。御代はこれで、絵本について分かっている事を何でも吐かなければいけない状態に陥った。分かっている事を意図的に隠す事はルール違反ではないが、嘘をついて相手を偽るのはルール違反。どこまで御代自身が分かっているかという事を、俺が分かっているかどうかは、御代自身は分かっていない。つまりどの道、嘘はつけない。もしかすると、ここから一気に詰みまで行くかもしれない。
「確か、舞台は森だった」
御代は懸命に思い出している。
「それで、登場人物はみんな動物達。いや、この場合人物とは言わないが……」
「よくある絵本ね」
「主人公は確か……パンダだった、と思う」
今、俺の手元には、その絵本がある。御代の言う通り、主人公はパンダだ。
「パンダが出てきて、何をするんだったか……」
「ちょっと、ちゃんと思い出してよ」
そう急かされ、深く頷く御代。ゲームとは別の所で、ただ単純に思い出したいという意識もあるのかもしれない。
「そうだ! 確か森にやってくる狩人達を騙すんだ」
「どうして騙すの?」
さりげなく、一問一答を破る追加質問二つ目。だがなんとも自然な流れでスルー。まあここで話の腰を折られても困るし、この質問も「何?」の範疇に含まれていればぎりぎりセーフと言った所か。
「森の他の動物達を守る為だ。友達のウサギや、小鳥なんかと協力して……」
そこまで言いかけて、御代が「あ!」と声をあげた。
「もうこれで、十分だろう? そういう話だ」
今更冷静を取り繕っても無駄だろう。たったこれだけの情報でも阿竹には十分すぎるほどだ。
「分かったなら、答えたら?」
と、阿竹がクマのぬいぐるみを指差した。答えがはっきりとしているなら、もうとっくに答えているだろうから、この行為は無意味なように見える。だが、これはむしろ御代の反応を見ているのだ。今の「あ!」が、黒いクマのぬいぐるみと繋がった音である事にあたりをつけて、その確認にきている。
だが挑発を受けた御代は、ただ黙って首を振る。しかしその目は確かに、記憶という引き出しの中から探し物を見つけた目だ。
「分からないみたいね。それじゃ、あなたの質問の番よ」
御代にとってはまだ情報が足りないのだ。阿竹にとってもそれは同じ事だが、その差はかなりあると言える。
御代の閃きは確かに的を得ている。しかしながら、それを一つの言葉に集約する作業の難易度は、いわずもがなである。