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短編/新訳 メリーさん/藤子・G・不ニ子

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 右を見ても左を見ても来る夏期休暇の気配に夢を馳せては脳味噌をとろとろに溶かした卵豆腐のような笑みが浮かぶ部室の隅で、今まで黙り込んでいた内田がそっと口を開いた。
「絶対にダメだよう。あの方法はマジでやばいよう」
 一睡もできていないのだろう。目はひどく充血し、疲れ切った表情でぐったりと肩を落としている。
 そんな内田の言葉を聞いて、遠藤がわざとらしそうに身を乗り出した。
「てことは、来たのか?」
「うん、来たんだよう。メリーさんが本当に来たんだよう……なあ、どうしよう。俺、もうダメなのかな。殺されるのかなあ。まだ大学も卒業してないし、就職も決まってないのに死ぬのはやだよう」
 今にも泣き崩れそうな内田と、今にも吹き出しそうな遠藤の間に俺は何とも表現し難い視線を泳がせる。腹を抱えて笑ってやりたいような、でもちょっと同情してやりたいような、複雑な気持ちだった。
 皆さんは「メリーさん」を御存知だろうか?
 人々の間で滾々と語り継がれてきた有名な都市伝説の一つである。
 話の源流をたどっていけば、少女が引越しの際に古くなった外国製の人形、「メリー」を捨てた事がきっかけで発生する怪奇談となっている。
 その夜、メリーから電話がかかってきて「あたしメリーさん。今ゴミ捨て場にいるの……」と悲しげな声とともに電話が切れる。しかし、またすぐにかかってくる。 「あたしメリーさん。今、公園の角にいるの……」そしてついに「あたしメリーさん。今あなたの家の前にいるの」という電話がくる。
 少女は思い切って玄関のドアを開けたが、誰もいない。やはり誰かのいたずらかと思った直後、またもや電話が鳴る。
「あたしメリーさん。今、あなたの後ろにいるの」

 ◆

 俺の意中である佐藤眞由美ちゃんが蜜柑水のように清涼な笑みを浮かべ「おつかれさまでしたぁ」と部室を後にした。
 我々は無線通信サークルという、大学の中でもかなり小規模で無需要なサークルに属しており、むさ苦しく汗臭い芋男子数人と一人の美女により構成されている謎の組織となっている。
 佐藤眞由美ちゃんが我々のサークルのドアを叩いた時は部室を間違えたのだろう、と誰もが察し「テニスサークルは上階ですよ」と親切にアドバイスを送ったのだが、あろうことか彼女は「無線通信サークル入部希望です」と胸を張って答えた。正直、この娘は変な娘だと部員全員がそう感じて息を呑んだだろう。
 当時の彼女は入学したてほやほやの一回生であり、先代の部長が恐る恐る入部の理由を問うたところ、「携帯を持つより、無線に秘められた可能性を紐解きたい」と胸を張って答えたので、部室からは尊敬と称賛の拍手が巻き起こった。「携帯なんかいりません。これから持つ気もありません!」と彼女が言いきったその日に俺は携帯電話を半分に折り夜の海へ放り投げた。携帯を持つ自分が急に恥ずかしくなったことを今でも覚えている。したがって俺は大学四回生にもなって携帯を所持していない。
 俺と遠藤は涙を浮かべる内田など二の次にして彼女の残り香を追った。
 ふと部室の外で彼女の声がする。友人と落ちあい、何か楽しげに話しながら弾む声が遠くなっていく。
 友人と何を話しているのであろうか。正直、内田の命乞いよりも佐藤眞由美ちゃんが夏休みに何をするのか、これからどこへ行くのか、バイトは何をしているのか、どこに住んでいるのか、どんな食べ物が好きなのか、どんな映画が好きなのか、どんな男が好きなのか、何色の下着を身につけているのか、彼氏はいるのか、彼氏はいるのか、彼氏はいるのか等が気になって仕方がなく、そのままフラフラ帰ってやろうと思っていたが、ふと気付いた時には内田が遠藤に掴みかかっていて俺は思わず席を立った。
「なあ遠藤! 助けてくれよ! これ絶対やばいって!」
「落ちつけって! 夢でも見たんだろ!」
「夢じゃない! たしかに公衆電話から携帯にかかってきたんだって! 絶対に夢じゃない!」
「わかったから! 信じるけどさ、お前が怖がる必要なんてないだろ! メリーさんに何かされたのか? あの方法はメリーさんを呼ぶ方法であって、それ以上何かされるわけじゃないのはお前も知っているだろう。一か月前の小山の話、お前も聞いたろ? あいつもメリーさんが来た! 殺される! って泣き叫んでたけど、今は普通にピンピンしてるだろ」
「……そうだけどさ」
「おまけにその後、小山に彼女ができた。全く面識のない後輩からいきなりコクられたんだぜ? きっとメリーさんは恐怖を運ぶ化け物じゃなくて、幸せを運ぶ妖精か何かなんだよ」
「そうかな」
「そうとも。お前はラッキーボーイなんだよ。メリーに選ばれし勇者なんだ。勇気を持て。メリーの恩恵を温かく迎えよ。そうだ、俺達もメリーさん呼んでみようかな。幸せをお前に一人占めされるのは気に食わんからな。なあ?」
 遠藤が俺の方を見て小さく頷いて見せた。なんとなく彼が内田を安心させてもやりたいが、もう少しからかってやりたい思いがあるように思える。俺は遠藤が何を言いたいのかをなんとなく察し、「オッケー。今夜は俺が試してやる。彼女ゲットだぜ」と内田の肩に手を置いた。
 内田は震えながら「ありがとう、ありがとう」と泣いた。内田よ、君は本当に素直でいいやつだ。と思った。

 ◆

 俺と遠藤は西日につつまれる蒸し暑い坂道を滝のような汗を流しながら歩いた。
 ほんの数歩先が暑さで霞んで見えほど、気温は異常なまでに上昇を続けている。遠藤のつけている、なんだか甘いような辛いような香水の匂いを嗅いでいると頭がぼんやりしてきた。
 たまに、東に建ち並ぶ公団から吹きぬけてくる風が唯一の癒しとなり、俺はできるだけ日陰に入るように歩きシャツの中へ風を送り込んだ。
「まあ、明日お前が内田に言ってやれよ。メリーさんが来たって」
 俺は遠藤の方を見る事無く言った。
「ああ、そうする。さすがに可哀想だ」
「お前のメリーさん役がハマりすぎてたんだって。お前の責任だぜ」
「計画したのはお前だろ。小山の時はまだ面白かったが、内田はマジで信じるタチだからな。部活に来なくなったらどうするよ」
「ははは。ま、今夜にでも内田を俺の部屋に呼びつけて手製のカレーでも振舞ってやるさ。そのまま一晩一緒に過ごしてやるつもりだ。そして明日、お前もメリーさんが来た! とひと騒ぎ起こしたところでネタばらし。どうだ?」
「了解した」
 ちょうど二手に道が分かれているところで俺と遠藤は立ち止まった。
 塀の上を今にもくたばりそうに歩く黒猫を見送ってから、俺は大きく息を吐いた。
「そろそろ就活せにゃな。何やってんだ俺ら」
「まあそう言うな。今を楽しめ」
「そうせざるを得ない」
「じゃあな。明日はメリーさんが来たって言うんだぜ?」
 そう言って別れる間際、遠藤がニヤリ顔で「本当にメリーさんが来たかどうかは別として」と俺の肩を突いた。
「電話機を持っていない俺にメリーは来んよ」と遠藤を笑い飛ばし、そのまま焼けたアスファルトの角を右に折れた。
 塀の上を歩いていた黒猫が俺の方をじっと見つめている。つまらん男だ、とでも思っているのだろうか。

 ◆

 薄らと辺りに闇が落ち始めた頃、俺は下宿へと戻った。
 大学から徒歩五分、駅まで十分という「あかつき荘」は絶好の物件であるが、家賃は月々二万八千円という破壊価格である。
 一応は二階建てであるが、二階へ続く階段が先日の豪雨で流され、今や二階に住むアジア諸国からの留学生は梯子を利用して自分の部屋へ戻っているという。
 一階にある俺の部屋に行くには、まず駐輪場でもありゴミ捨て場でもあり野良猫の会議場でもある中庭を抜け、野草が生え散らかした細い石畳の廊下を渡って101号室に辿り着く。
 ここまで話せば何故この物件が破壊的価格であるか見当がつくだろう。むしろ俺は二万八千円は高すぎるとさえ思っている。
 101号室のドアを開け、豆電球のスイッチを入れて「やれやれ」と敷きっ放しの布団に倒れ込む。扇風機のスイッチを手探りしているうちに汗が噴出し、喉がヒリヒリしてくる。
 夏の熱気をはらみにはらんだ俺の部屋はトルコ式サウナに匹敵するほどの湿度を含み、共同で生活をしているネズミでさえ最近姿を見せなくなった。きっと、この環境に耐えきれなくなり一家総出で夜逃げをしたのだろう。実に寂しいことだ。
 ようやく見つけた扇風機のスイッチを入れ、中庭に面したドアを開け放つと、少しだけ夜風が入ってきて暑さが和らいだ。今夜は俄か甘い夜の匂いが混ざっている。今夜は雨が降るな、と思った。
 俺は大きく深呼吸を繰り返し、煙草をくわえて受信機の前に腰をおろした。絡まったプラグコードの埃を手で丁寧に落としてからそっとスイッチを入れた。
 赤いランプが灯り、短い電子音がいくつか入って来る。俺は紙を手に取りさらさらとペンを動かした。
「ふむ、暗号通信か……音声通信のテストをする? 最近の高校生は優秀だなぁ」
 我が下宿付近の高校にも無線通信クラブがあり、うちとも何かと交流が盛んである。
 延々続く坂道の天辺に進学校はあり、見晴らし良好、居心地良好の立地に開放的なグラウンド、緑豊かな中庭、その片隅にぽつんとプレハブが建っている。そこに彼らの住処があるのだが、電波状況が極めて良い。
 我々が高度な技術を提供する代わりに、彼らは我々に場所を提供してくれる。先日は一晩中プレハブを開放してくれ、我々は通信機そっちのけで酒を呑みゲロを吐いて泣きじゃくった。
 部屋の豆電球がちらちらと点灯するなか、俺はそんな事を思い出しながら受信機の横に設置されている送信機に暗号を打ち込み返信を送った。
 するとすぐに返事が返ってきて、受信機からクラシック音楽が流れ始めた。
「コンナ アツイヨルニハ ピアノソナタヲ」
 粋な計らいをしてくれる、と煙草に火を点じ、ごろりと横になった。
 窓から入ってくる風に、雨の香りが一層濃くなってきた。しばらく優雅な旋律に耳を傾けていると、受信機から雑音が鳴り始める。
 妨害電波? 誰だこんな時に。
 俺はチャンネルを合わせようと受信機に手を伸ばそうとした。その時、ピアノの旋律に交じってはっきりと電子暗号通信が聞こえた。
「ワタシ メリイ イマ コウエン」
 一瞬「まさか」とは思ったが、すぐに誰の仕業か見当がついた。
 こんなことをするのは遠藤しかいない。いや、もっと言えば、こんなことができるのは遠藤しかいないのだ。
 そもそも俺の受信チャンネルを知るのは部活の身内か、今ピアノソナタをテスト送信している彼らしかいない。
 なんでこんなすぐバレるネタを仕込む、と半ば呆れ気味に煙草の煙を吐き、再び横になって目を閉じた。
 それから定期的にメリーさんからの暗号通信が続いた。
「ワタシ メリイ イマ ウミナリヒロバ」
「ワタシ メリイ イマ スーパーナカイ」
 なんでスーパに寄ってるんだ。そうか。酒でも買ってきてやるというメッセージか。
「ワタシ メリイ イマ アカツキソウ」
 おお、近くまで来た。
「ワタシ メリイ イマ ダイガク」
 通り過ぎたぞ。そっちじゃないぞメリーさん。
「ワタシ メリイ イマ」
 遠藤よ、頑張れ。
「ワタシ メリイ イマ エキマエヒロバ」
 メリーさん、かなり迷ってるな。

 ◆

 遠藤はそれからそれなりに頑張ってメリーを演じた。最初の方はまだネタとして面白かったが、後半から「ワタシ メリイ」どころか「ワタシ クリステイ マーガレット」といった意味不明な人物が登場したり「イマ カレイ ツクッテル」などほとんどやけくそなネタが続出し苛々してきた。
 しばらく遠藤のメリーさんごっこに付き合ってやったが、いい加減面倒臭くもなり腹も減って来たので、こちらからメリーさんに丁寧な返信をしてやることにした。
「オツカレサマ」と。
 しかし、遠藤はまだ遊び足りないのか、用意したネタをあくまで全て披露したいのか、どうでもいいことばかりを送信してきて、挙句「テストハンイ オシエロ」などと要求してきた。
 アホだな、と思いつつも彼が飽きるまでせめて見守ってやろうと俺はトイレでうんこをすることにした。
「ワタシ メリイ イマ コウエン」とまだ続いている。メリーさん、元の場所に戻ってるじゃないか、と少し笑ってしまった。今のはちょっと面白かったぞ、遠藤よ。
 まぁ、よくよく考えてみれば方向音痴でおっちょこちょいな娘も悪くない。俺の妄想ではメリーさんはおかっぱ頭の美少女であった。そんな美少女が俺の部屋を訪れようと一生懸命になって手に余る大きな地図を広げ、うんうんと唸り、夜道に少し不安になりながらも暗号通信を打ち込む姿を想像した。まさにロマンスである。中身が遠藤であるとわかっていながらも、甘美な妄想が頭の中いっぱいに広がり濃厚な脳汁が汚い便所を桃色に染めていった。メリーさんが俺の部屋にようやく辿り着き、俺の姿を見た瞬間、彼女は俺の胸に飛び込んでくるだろう。安堵で可愛らしい顔がぐしゃぐしゃに歪んで涙と鼻水をいっぱい俺のシャツに沁み込ませながらえんえんと泣くだろう。ならば温かいシチューでも作って彼女を待っていてやるのが待たれ人として当然の行いではないか。甘き夜はそこから始まる。
 うんこを終えてもまだメリーさん通信は続いていた。今度は少しずつ俺の部屋に近づいてはいるが、もう本当にそろそろ飽きてきたので俺は遠藤に直接会って「もうつまらんからやめろ」と引導を渡してやることにした。
 ここから徒歩三分。目と鼻の先にあるボロアパートまで走り、105号室の木戸を蹴り開けると遠藤と内田が小さなちゃぶ台を囲ってカレーを食っていた。
 内田は「なに? なにっ?」と慌てふためき、スプーンをくわえたままモゴモゴしてる。俺が冷ややかに「もういいよ」と言ってやると、遠藤は「いやあ、すまんすまん。実は俺も途中から苦しかった」と頭をかいた。
「高校の同志たちから音声のテスト通信を受けているんだ。邪魔するな」
「そうか、そりゃすまんかった。でも、途中からやめているだろ?」
「途中からって、どこから?」
「テスト範囲教えてあたりから」
「嘘付け。まだ続いているぞ」
「はあ? それ俺じゃないよ」
「じゃあ誰だ」
「知らんよ」
 遠藤はそう言ってまたカレーを食い始めた。内田は状況が把握できぬまま、申し訳なさそうにらっきょうを突いている。
 あくまでとぼけようとする遠藤が妙に腹立たしく、妙に旨そうなカレーが更に俺を腹立たせた。
「とにかく、もういいからな」
 俺は力強くドアを閉め、ぷんぷんと怒りながら「あかつき荘」へと戻った。
 すると。
 受信機に大量の暗号通信が送られてきているのが確認できた。
 その時ようやく、背筋にぞくぞくと冷たいものが走った。
 どうやら、本当に遠藤じゃないらしい。
 俺が遠藤と接触している間にも、この暗号通信は送られ続けている。奴が呑気にカレーを食っている間にも、ずっと通信が送られてきていたのだ。
 さすがに鳥肌が浮いた。じゃあ、誰の仕業だ? と根本的な疑問がまずわからない。遠藤でもなく、高校の同志でもない。まだピアノソナタは流れ続けている。
 俺は怖くなって受信機の電源を落とそうとした。
 その時――。
「ワタシ メリイ イマ アナタノ ヘヤノ マエ」
 ドン ドン ドン
 と、ドアを叩く音がした。
「ヒッ」と上ずった声が思わず出て肝を冷やす。
 誰か来た。
 そしてまた。
 ドン ドン ドン
 と、ドアが叩かれた。
「だ、誰だ!」
 返事がない。
「誰かいるのか」
 耳を澄ます。
 遠くで救急車のサイレン音が響いている。心拍数が急激に上がり、部屋に広がるピアノソナタの旋律がバラバラと崩れていくように聞こえる。
 俺はしばらく息を潜めて様子を窺った。冷たい汗が背中を伝っていくのがわかる。
「……猫がいるのかな」
 そっと立ち上がろうとしたと同時に、俺は聞いてしまう。
「あたし、メリーさん。いま、あなたのお部屋の前にいるの」
 女性の声だ。まだ幼さの残る、少女の声だった。
 そしてまた、ドン! とドアを叩かれ、舞い散る埃が豆電球に照らされゆらゆらと部屋が歪んで見えた。
「誰だ! け、警察を呼ぶぞ!」
 震える声で警告すると、それから物音ひとつしなくなった。
 受信機からはピアノソナタだけが流れ続けている。しばらく耳を澄ましてみたが、もう何も聞こえなかった。
 俺は恐る恐る玄関に忍び寄り、丸めた新聞紙を持ってドアノブに手をかけた。
 そして、そっと、ドアを開けた。
 ――。
 誰もいない。
「はぁ……」と思わず安堵の溜め息が出た。
 落ち付けよ、俺。メリーさんなんて作り話だろう。何怖がっているんだ、俺。
 濃紺の闇が覆う空はやけに重々しく、月さえも顔を出せないでいる。見上げた雲の隙間から雨粒がぽつぽつ落ち始めたので、俺はすぐに顔を引っ込めた。
「気味の悪い夜だな」 
 頭上に落ちた水滴を払い、ドアを閉めようとした時、ふいにグッと腕を掴まれて俺の心臓は停止寸前となった。
 人間というものは、本当に驚くと声さえも出ないらしい。
 ぎょろり、と大きな目をした女性が俺と対峙し、恐ろしいほどの笑みを見せていた。
「ばぁ! せんぱい! あたしですよ!」
 玄関からわずかに漏れる豆電球の灯りに照らされているのは、俺の意中である佐藤眞由美ちゃんその人だったと思われる。恥ずかしいことに、俺は瞬時にパニックとなり相手が誰であるかを把握するのにしばらくを要した。
 ようやく「意中の彼女」であることを怠惰に朽ちた脳が認識してから、「あ、ああ! 佐藤さん! おふふ、びっくり、びっくりしたよう」と情けなく言った。
「先輩、怖がりすぎっ! いつもポーカーフェイス気取ってる先輩のそんな顔見たの初めてです!」
「いやぁ、いやいや、暗闇からの不意打ちはさすがに驚くさ、へへっ」
 まだ手が震えている。恐怖の余韻と、至近距離に佐藤眞由美ちゃんがいる幸福感と。
「でも、なんで佐藤さんが」相当焦っていたのだろう。自分でも意識せぬうちに言葉が途切れることなく発せられる。そして自問し、自己解決をする。「あ、遠藤だな!」
「ピンポン! 正解です!」
「くそう! 奴め、悪趣味だ!」
「うふふ」
「まだ懲りないのか! 俺まで巻き込んで」
「あはは」
「……でも、待てよ。俺が遠藤の家に殴り込んだ時、一体誰が電子暗号を送信していたんだ?」
「先輩、まだパニックになっているんですか? 自分で買ってきた携帯端末をお忘れですか?」
 そう言って、佐藤眞由美ちゃんは鞄から携帯送信機を取り出した。
「これでちょちょいと暗号送信っ!」
「……一本取られたかな」
「ですね」
 俺はようやく張り詰めていた緊張の糸がゆっくりと解けいくのを感じ、緩い笑みを彼女と交わした。
 本来なら今すぐ遠藤を呼びつけて土下座させ、ズボンとパンツを脱いでそのまま頭上に尻を下ろしてやるところだが、遠藤の憎い悪戯も、なんだか今回だけは許してやってもいいと思った。佐藤さんをメリーの配役に選んだ辺り、彼の底知れぬ友情と脚本センスに敬礼を送ってやってもいい。
 外ではぱらぱらと雨脚が強くなってきており、彼女の額から雨粒が伝っていくのが見えた。
「雨が降って来た。傘は?」
「持っていないです。急いで支度して出てきたので」
「そうか。なら、入りなよ。雨宿りしていくといい。汚い部屋だけど」
「えっ?」
「いや、いやいや、変な意味は無いよ。そうだ。遠藤らも呼ぼう。なんだか爽快に騙されて清々しい。久々に飲もうじゃないか」
「でも」
「なんだい?」
 俺の脇から彼女が部屋を覗き込み、遠慮深そうに笑って後ずさりした。
「すみません。私、空気読めてなくて。彼女さん、ですよね?」
「へ?」
「後ろにいる人」
 その時、受信機から、はっきりと、鮮明に、音声通信が入ってきた。

「私、メリーさん。今、あなたの、うしろに、いるの」
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