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 僕を除く世界は、いつも白いのだと思う。
 以前までは僕も白い世界の人間だった。しかしいつからか、僕を取り巻く環境は大きく変わっていき、気がつけば僕の世界は濁っていた。
 正確には、濁ったのではない。深く、深海のように光が差し込まない場所までもぐってしまったのだろう。
 頑張れば浮上は出来る。ただ、浮上するまでにはもう少しだけ時間が必要だと、僕にとってターニングポイントとなったあの日、思った。

 春の恒例行事も終わり、ようやく授業が始まるという日だった。
 目覚ましの音で起床し、制服に着替えてリビングで朝食を食べた。
 母は既にパートの仕事に出掛け、兄は自室で豚の様に眠りこけ、父は朝食を済ませ、三階の書斎にあるパソコンでトランプゲーム『ソリティア』をしている。いつもの事だ。
 僕はトーストを食べ終えると歯を磨いて家を出た。春らしい温もりを帯びた風が吹きつけてきた。
 僕の高校へはここから徒歩で十分ほどかかる。他の生徒と比べれば、割と近い方だろう。
 近所の公園には二つ入り口があり、ここを通り抜けるのが近道だった。桜が舞い落ちる景色はもう見慣れたが、やはり綺麗だ。
 公園を出ると近くに狭い路地があり、そこを抜けるといつもの通りに出る。そこで見知った顔と出会った。
 三年間クラスメートの西村だ。
 彼はメガネをかけ、知的な雰囲気を漂わせる男子生徒で、女性にモテる奴だった。
 僕達は目があると互いに忌々しげに舌打ちをした。
「相変わらず貧乏神を髣髴とさせる顔つきをしてるな」
「黙れ」
 そこで会話が止まり、僕らは並んで歩き始めた。僕らの関係は、いつもこんな感じだ。
「今日はユリカちゃんとは別々なのかい」
「あぁ、今日は陸上部の朝練らしい」格好つけた様子で西村が答えた。
 ユリカとは西村の妹だ。僕は西村とその妹が一緒に登校しているところによく遭遇する。彼は重度のシスターコンプレックスの為、二人きりの登校を邪魔されると鬱陶しそうな表情をするのである。
 僕らの会話は止んだ。どちらも話さなかった。何も話すことがなかった。
 僕と西村の間には基本的に沈黙が満ちている。僕はこういう普通の人なら気まずく思う沈黙が嫌いではない。それは西村も同じ様だった。
 しばらく歩くとそこに僕らの通う高校があった。緩やかな坂を上りきり、校門を通り抜ける。抜けたらすぐそこに昇降口があった。昇降口では学年別、クラス別に靴箱が用意されている。僕らは三年六組なので一番右側の靴箱となっていた。
「またか……」不意に西村が言った。見ると彼の靴箱から封筒が数枚零れ落ちていた。少しこじゃれている、可愛らしい封筒だった。
「ラブレターかい」
 僕は尋ねた。もちろん嫉んでなどいない。
「ふん、古典的で下らんね。俺はこういうのが嫌いなんだ」
 西村は靴箱に入っていた洋封筒を全て手に持つと近くにあったゴミ箱に捨てた。毎度の事だった。何故か、手紙を書いた女子が彼に文句を言うことはこれまでに無かった。
「不公平だよね。こういう人の好意をゴミ箱に捨てる人間の屑がモテるんだから。どうせなら自分がゴミ箱に入れって感じだよね」僕はその様子を見ながら言った。
「顔と人徳と知性と運動能力が総合して生み出した結果、俺はモテているだけだ。そしてさらに言うとお前にはそれが全て欠如している。結果的に、モテるのはお前でなく俺になる」
 僕は舌打ちをして靴箱を開けた。するとそこに手紙があった。西村のもらっていた物よりずっと綺麗な、美しい封筒だと僕は感じた。僕は手紙を人差し指と中指で挟むと西村に見せた。
「どうだい、糞の糞から産まれたような君とは違って僕だってきちんとこう言う物を貰えるんだ」
「読んでみたらどうだ」西村が真顔で言った。顔が引きつっているのは僕の気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。きっと彼は自分の無価値さを今やっと理解し、これまでの自分の愚行を思い返しているのだろう。
「おそらくこの手紙には僕に対する好意、そして付き合って欲しいと言う想いが綴られているんだ。当然僕は彼女の気持ちを無駄にしたりはしない。書き手の気持ちって言うのは大事だからね。それに君と違って人の子だからね。そして僕は晴れて『彼女がいる男』と言う高校生が重要視する勲章が貰えるんだ。一方君は『モテるけど所詮彼女もいない残念な男子生徒』という勲章を着けたままになる。そこで僕らの格はしっかり別れてしまうわけだね」僕は封を開けながら言った。
 僕は四つ折りにしてある手紙を開いた。そこには、西村君の様なスポーツも勉強も出来るハンサムで将来有望な青年に僕の様な貧乏人であり気持ちの悪い、生きている価値の無い平凡な男子生徒が近づかないで欲しい、と言う意味の書き手の想いが綴られていた。さらに言うと西村君のラブレターを無断で捨てているあなたは人間の屑ですとも書かれていた。酷い言いがかりだ。
 僕は手紙を元の通りに折るとゆっくりと封筒に戻した。そしてポケットに偶然入っていたマッチを取り出すとそれを擦り、手紙に火をつけた。ゆっくりと炎が上がる。僕は手紙が燃え尽きるのを見届けた後、灰を何度も何度も踏み、上履きに履き替えた。
「さぁ、早く行こう」僕は言った。
「手紙に書かれた想いは無駄にしないんだろう?」西村は少し口の端を吊り上げて言った。忌々しい。
「そういう綺麗事ばかり言ってるから駄目なんだよ」
 冷静な口調で僕は言った。
 教室に入ると僕は自分の席に鞄を置いた。西村は僕の隣の席に座る。
 僕の席は入学して始めて席替えをした時以来ずっと窓際の一番後ろの席だった。そして何故か隣はいつも西村だった。更に僕の高校は一類、二類と別れていて、二類にはクラス替えが無い。そして僕のいる六組は二類だったのでこの高校生活の間、僕はほぼずっと西村と隣の席と言うことになる。なんとも不愉快な話である。
 西村が席に座るといつも一分と経たないうちに人が集まった。そして彼は僕に見せるような歪んだ笑顔ではなく、なんとも朗らかな表情で会話を始めるのだ。教室でクラスメートと会話する彼の姿は先ほど手紙をゴミ箱に放り込んでいた彼とは別人の様だった。
 僕はなるべく自分を目立たせたくなかったので机に突っ伏して眠ることに決めた。目を瞑ると視界が闇に覆われ、周囲の騒ぎ声が徐々に心地の良い子守唄の様に感じ、僕は眠りについた。
 夢を見た。
 教室で僕を見た英語の教師が、「東はまた眠っているのか、東、起きろ、お前が答えろ」と呆れ顔で僕を起こす。僕は「馬鹿な、完全に気配は消したはずなのに」と呟きながら起床する。僕が起床したのを確認した教師は僕に二ページ分の教科書の英訳をさせる。予習なんて全くやっていない僕はとりあえず適当に頭の中で考えた適当な文章をそのまま述べてみる。すると教師は特に文句も言わず「まぁ、合ってるな」と言いまた授業を進める。そんな夢だ。
「それは夢じゃない」
 昼休みになり、僕が夢の内容を西村に説明したところ、彼はそう答えた。僕達は一年生の教室がある西校舎に向かって歩いていた。西村の妹のユリカちゃんに弁当を渡すためである。周囲には食堂へと向かう生徒達がうるさく騒いでいた。
「夢じゃなかったら何だと言うんだい」
「現実しかないだろう」
 そんな馬鹿な。適当に浮かんだ文章がバッチリ合ってるなんて事あるもんか。そう思ったが、実を言うと適当に浮かんだ答えが正解だったという事は昔からよくあった。高校受験の時も全くの無勉強だったのに何故か合格してしまった。おそらく天性の才能なのだろうと僕は思う。
 するとその考えを見抜いたように西村が言った。
「日常の運を全て無駄な場所に使用している、だから人望も金も知性も無い」
「黙れ」
 そうしているうちに僕らはユリカちゃんの居る教室に到着した。西村が教室のドアを開ける。教室の中にいた後輩達の視線が一気に集中して、僕は逃げ出したくなった。
「おい、ユリカ、弁当忘れただろ」
 西村が言うと、恐らくこの教室では一番美人と言える少女が小走りで近づいてきた。
「あ、ごめんお兄ちゃん。ありがとう。いやぁ、もう弁当が無いって気付いた時はどうしよ、って思っちゃったよ」
 ユリカちゃんはそう言うと朗らかに笑った。笑った顔も可愛らしい。どうしてこの気持悪い偏屈メガネとこの様な美少女が兄妹なのか不思議に思った。
「ふふっ、まったくオッチョコチョイだなお前は。ほら、ネクタイ曲がってるぞ。それに髪も少し跳ねてる。手間のかかる奴だ」
「あ、ごめん、ありがと」
 西村は柔らかな微笑を浮かべると妹のネクタイを直し、彼女の髪を手櫛で整えた。ただ、僕はその光景を、シスコンの兄による、妹への気持ち悪い行為としかとらえることが出来なかった。
 西村の家は彼と妹の二人暮らしだ。彼らの両親は西村が中学の時に亡くなったらしい。親戚もいない西村に残ったのは妹と、家と、給料の良かった両親が残した莫大な遺産だけだった。だから西村は母に替わって毎日家で家事をしなければならない。自称運動も勉強も出来る彼がどこの部活にも所属していないのにはそういう理由があった。
 そんな西村家だからこそ、兄妹仲が良くなるのは必然なのかもしれない。
 しかし僕は莫大な遺産を相続している彼ら兄妹に全く同情などしていなかった。人間金があれば生きていけると、そう思う訳なのだ。
「待たせたな。さぁ、飯でも食べるか」
 約二十分間妹とじゃれ合った西村は真顔で戻ってきた。仕方が無いので僕は彼に言った。
「もう昼休み終わるね」
 チャイムが鳴った。
2, 1

  

 一日の授業もようやく終わり、ホームルームの時間となった。一日のうち、教室が最もうるさくなるのはこの時間だと思う。僕は空に浮かぶ雲を眺めながら、担任の教師が話していることを聞いていた。
「そうだ、皆に言っておかなければならないことがある」
 もったいぶった口調で担任が言った。だが教室のざわめきが収まることは無かった。
 拳が黒板を叩く音と、担任の骨が折れた音が響いた。教室は静かになった。
「明日な、転校生が来るんだ」
 苦悶の表情で先生が息も絶え絶えに言った。
「えぇ、本当?」その言葉を聞いた途端に再び教室に喧騒が戻ってきた。先生はその様子を見て満足げにうなずいていた。ただその間にも彼の中指は尋常じゃないくらい腫れていた。
「先生、どんな子ですか?」女子の一人が尋ねた。
「それはな、明日のお楽しみだ。じゃあ今日は解散!」
 皆が苛立たしげに舌打ちをしながら教室を出て行った。
 僕は教室から人がいなくなるのを見計らって帰ることにした。いつもそうしている。その方が静かに帰れる為だ。
 どうやらそれは西村も同じ様で、彼はいつも一緒に帰ろうと言うクラスメート達の誘いをやんわりと断って校内が静かになるのを待ってから帰っていた。
 校内が静かになるのを確認して僕らは立ち上がった。特に会話をするでもなく一緒に歩き、靴を履き替えた。まだ空は明るかったが、吹奏楽部の練習する様子や、サッカー部の蹴るボールの音、野球部が硬球を打つ音や陸上部の掛け声が夕方を思わせた。
「そう言えば今日は姉ちゃんの家に行くんだ。君も来るかい」
 僕は西村に尋ねた。彼は以前一度姉の家に遊びに来たことがあり、姉に気に入られていた。
「いや、今日はやめとく。スーパーの買出しがあるからな」
「そう」
 その後僕らは無言のまま校門で別れた。
 姉の家は駅前にある新しく出来たアパートの一室だった。青く着色されたアパートの二階、廊下の突き当たりにある『東のぞみ』と言う表札を掛けた部屋がそれだ。
 僕はドアの傍に置いてある植木鉢を持ち上げるとその下に置いてある鍵を取り、ドアを開けた。中には誰もいない。どうやら仕事に行っている様だ。
 酷く散らかった部屋だった。床には雑誌や新聞、昨日食べたであろうコンビニ弁当やらが散乱している。
 僕は暇つぶしに部屋の掃除を始めた。雑誌類を簡単に整理し、ゴミ袋に床に落ちているゴミを詰め込んでいく。一通り片付いた辺りで掃除機をかけることにした。
 姉は今から一年半前、父に勘当されて家を出て行った。突然仕事を辞めて帰ってきた父に強く反発した結果だった。姉は家を出て、母は文句も言わずにパートを始めた。兄は徐々に外に出なくなった。
 現在僕の家では母が家計を支え、父親がニート、兄が引きこもり、僕が学生で、姉が勘当され一人暮らしをしている。僕の家がおかしくなってきたのは父がニートになったからだと僕は思う。
 父が仕事を辞めた理由はよく分からなかった。
「ただいま。あぁ、あんた来てたの」
 背後から声がしたので振り向くと黒いスーツ姿の姉が駅前のスーパーの袋とコンビニの袋を手に持って立っていた。時計を見ると五時半だった。仕事が終わったのだろう。
「お帰り。勝手に掃除してたけど」
「ご苦労ご苦労、苦しゅうない、座ってよいぞ」
 姉はそう言うと靴を脱ぎ部屋に入ってきた。僕は近くにあったソファに腰掛けた。
「何か食べる? お腹減ってるんじゃない?」
「別に」
 姉が出て行ってからも僕はこうして姉の家によく遊びに来ていた。時々尋ねてはこうして適当に掃除や洗濯だけして帰るのが僕の習慣になりつつあった。
 しばらくボーっとしていると部屋に香ばしい香りが漂い始めた。コーヒーの匂いだとすぐに気付く。見るとマグカップを二つ持った姉が傍に立っていた。
「ほい、コーヒー」姉は僕の向かい側に座った。
「どうも」
 砂糖とミルクの入ったコーヒーをゆっくり啜った。少し苦く、それでいて甘い味が口に広がる。
「母さん元気?」
「まぁあんまり変わりないかな。会ってないの? 以前までよく喫茶店で話してたのに」
「最近忙しいからね、なかなか会えなくてさ」
「そう」コーヒーを一口啜った。
「ところであんた学校はどうなの? 何か面白い事とかないの」
 姉の質問に僕は怪訝な顔をした。
「何だ世突然、やぶからぼうに」
「社会人してるとね、刺激とか事件とかに餓えるのよ。で、何か無いの」
「えーと、そうだ、今度転校生が来るんだって」
「へぇ。女の子?」
「分からない。でもたぶん男じゃないかな。女の子が転校してくるって思ってる時は大抵男が転向してきて落胆するんだよ。それで転校してきた子は気分を悪くするんだ」
「ネガティブね」
「失礼な。僕は事実を述べただけさ」
 僕はコーヒーを啜った。
「でも、もし女の子が来るとして、その子は美人かなとは考えるね」
「例え美人だとしてもあんたの手には届かないでしょうね」
「どうして」
「洗面所に行って鏡を見てみなさいよ。そこに理由があるわ」
 僕は洗面所に行って鏡を覗き込んだ。しかしそこには僕という美少年が一人映っているだけで、転校生が僕の手に届かない理由はわからなかった。
「美少年が映っただけだったよ」
「そう、お気の毒」姉が落胆した様子で首を振った。「転校生って結構ハードル高いのよね。期待通りの美人が転校なんてしてきたら競争率が高くなるから。あんたじゃ無理よ」
 姉の言葉にムッとしたが、僕は精神的に大人なのでコーヒーを飲んで落ち着くことにした。
 やがて姉の家の鳩時計が六時を知らせる鳴き声を上げたので僕は帰る事にした。玄関で靴紐を結んでいると姉が僕の背後に来て言った。
「そう言えば前日喧嘩した子が実は転校生だったって言うドラマあるわよね」
 僕は鼻で笑った。
「何言ってんの急に。そんな安っぽいドラマみたいな事が僕に起こるとでも言いたいの?」
「そうは言わないわよ。たださっきあんたが言ってた転校生って単語を思い出してふと思っただけ。もしそんなことが現実に自分に起こったとしたら、さぞかし安っぽい人間なんでしょうね」
「どうでも良いけど妙なプレッシャー与えないでよ。何か帰るのが怖くなるから」
「あはは、ごめんごめん。またおいで」
 僕は家を出た。
 空はまだ薄い明かりが残っていた。どこかの家から、煮物の様な良い匂いがする。
 階段を下りると我が家へと歩き出した。少し歩いたところで人の気配は完全に無くなった。道をはずれ、狭い路地を歩く。そしていつもの様に公園を通った。ここを抜けるとすぐ我が家に到着する。
 公園に入ると心なしか煙草の臭いがした。普段この公園で煙草を吸うような人はいない。気になって周囲を見渡すとベンチに座って憂いを帯びた表情をした女の子が目に入った。年は僕と同じ位だろうか。電灯に照らされた彼女の顔は美しく、清楚なお嬢様を彷彿とさせた。
 ただ僕はそれよりも彼女の足元に注目した。煙草が数本落ちていた。視線を上げると、手には火のついた煙草を持っていた。
 どうやら見た目ほど清楚なお嬢様ではないらしい。
 僕はゴミを捨てる人間が好きではない。自分の目の前でゴミを捨てられると不愉快になる。だから僕は彼女に近づいた。
「ポイ捨てはやめてくれないか」
 すると彼女は僕に向けて煙を吐いた。少しむせた。
「あんたには関係ないでしょ」
「不愉快なんだよ。いつも通ってる場所でポイ捨てされると」
 彼女は煙草を口に含み、大きく息を吸うと吸殻をその場に落とした。僕は信じられないという表情で彼女を見た。彼女は煙を口から吐き出す。
「屑だ……」
「うるさいわね。それより、邪魔だから消えてくれる?」
「ポイ捨てをやめたら帰ろうじゃないか」
「その歳でどっかのオッサンみたいな事言わないでくれる? ウザイのよ」
 僕は後ずさった。ウザいと言う言葉は僕の禁句ワードだったからだ。僕は中学の頃好きな相手にウザイといわれた事を思い出した。
「そんなにポイ捨てが嫌なら落ちているゴミを自分で拾ったら? そのほうが早く片付くわよ」
 僕は、それもそうだな、と考えを改めると地面に落ちている吸殻を拾うことにした。
「……信じらんない。まさか本当に拾うなんて。あんた馬鹿じゃないの」
 見ると彼女は汚物でも見る様な軽蔑した表情で僕を見ていた。仕方が無いので僕は言う。
「基本的に人の意見を取り入れることが美学と感じているんだ」
「それとこれとは別でしょ……気持ち悪い」
 彼女は立ち上がると逃げるようにして公園を出て行った。僕は気持ち悪いと言われた事で少し傷ついた。小学生の頃好きな相手に気持ち悪いと言われた事を思い出した。
「まぁ、こんな日もあるよね」とりあえずそう呟くと僕は気を取り直して吸殻を拾い、近くの灰皿に捨てた。右手が煙草臭くなったが、結果的に彼女がこれ以上煙草を吸うのを止めさせることは出来た。結果オーライだ。
 帰る時に、姉の言葉を思い出した。
 まさか本当に次の日転校してくるなんてないだろうな。
 家に帰るととりあえずリビングのソファに座った。母はキッチンで料理を作っていた。
「ただいま」
「おかえり」
 トントン、と母が何かを切る音が室内に響いていた。そういえば昔見たホラー映画のワンシーンにこんな場面があった気がした。母親との会話が進む中で事実と異なる矛盾した答えを母親が言い、野菜を切る音が止まるのだ。
「ずいぶん遅かったのね、どっか行ってたの?」
「姉ちゃんの家だよ」僕は答えた。
「お姉ちゃん、元気だった?」
「相変わらず」
「そう」
 僕はテレビを点けた。クイズ番組が放送されていた。
「あんた、今日はバイトあるの?」母が言った。
「ない」
「宿題は?」
「ない」
「人望は」
「ない」
「お金は」
「ない。……何言わせるんだよ」僕は思わず言った。
「別に」母はおかしそうな表情で答えた。「そろそろご飯だから、お父さん呼んで来て頂戴」
「お父さんって、あのただ飯ぐらいのハゲの事?」
「そう」母は神妙な顔で頷いた。
 僕は扉を開けると階段を上り、三階の父の部屋に入った。特にノックはしなかった。中に入るとパソコンに向かっている父が視界に入った。
「な、何、何か用?」少しあわてた様に父が言う。
「ご飯」僕は特に表情を変えずに言った。
「そ、そう、すぐに行くから」父の顔は強張っている。
「わかった。……どうでもいいけど、画面見えてるよ」僕は父が開いているアダルトサイトを、ゴミを見るような目で見つめながら言うと部屋を出た。
 ゴミの様な人間だな、と思う。一日パソコンをしていたのだろうか。仕事もせずに。
 再びリビングまで下りてくるとニコニコと笑った母がご飯の乗った盆を僕に差し出してきた。僕は無言で盆を受け取ると再び階段を上った。
 兄の部屋は僕の部屋の隣にあった。僕は扉をノックして盆を床に置く。
「何」兄のこもった声が聞こえた。その声を聞いて、兄が引きこもった時の話を思い出した。あの時も、こうしてドア越しに兄の声を聞いた。
 父が会社を辞めたあの日から、兄は徐々に外に出なくなって行った。大学も卒業間近だった兄は就職活動もせずに部屋にこもる事が多くなっていったのだ。
 兄の心境に一体何が起こったのかはわからなかった。ただ、兄は昔から内気な性格だった。苦手な人付き合いを無理して行い、いつも何かに疲れた様な表情をしていた。そんなある日、父親が仕事を辞めた。姉は父をしかり、口論となって出て行った。兄はもしかしたら誰かに相談したのかもしれない。そこで、何か酷いことを言われたのかもしれない。事実は一切わからないけれど、そう言った事が兄を部屋にこもらせた原因なんじゃないかと思う。何かが少しずつ、兄の心を削っていったのだ。
「ご飯、ここに置いとくから」短く僕は言った。
 兄の姿はもうずいぶんと長い間見ていない。ただ、声の様子から今の彼が太っていることは分かった。
 昔、家族で一緒にテレビを見ていたことを思い出した。あの時、どうして自分の家がこれだけ崩れるなんて予想しただろう。貧乏だとか、ひきこもりだとか、ニートだとか、全て自分とは全く関係の無い、テレビのドキュメンタリーやニュースの世界だけの事だと感じていた。
 いつまでこんな生活が続くんだろう。母のパート代と、母を心配して実家に仕送りをしている姉のお金で生活する日々が。たったそれだけの収入では家族四人が生活できるはずも無く、母から聞いたところによるとどこからか少し借金もしているらしい。
 だが、そんな話を聞いてもいまいち現実味を帯びてこない。しかし、毎日家でパソコンをしている父の姿を見るたびに、言葉では形容できない苦しみに襲われた。
 僕は階段を下りた。ドアを開けると父が既に椅子に座っており、テレビの番組と、母と父が会話している光景が目に入った。どれも一般的な家庭の風景だった。どこも問題の無い、ごく普通の家庭だと感じた。
 ただ、その光景と現実を照らし合わせるたびに、僕の心に悲しみが流れ込むような気がした。
「なにしてるの。早く食べなさい」母が言った。
 僕は首肯すると、リビングの扉を閉めた。
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