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第十二話 飼い主の狼狽

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第十二話 飼い主の狼狽

 その日は、普通に始まり、普通に終わる筈だった。
 いつも通りに日が昇り、露が落ち、風が吹き、埃が舞い、服の擦れる音がし、鳥
の囁きが聞こえ、CDの回る音がし、藤原の歌声が響き、ペンを軽やかに走らせる
細い音がし――
 れいんにとっても、そんな「当たり前の日」として過ぎ去るはずの一日だった。
 その日は日曜日。

 夕方。
「ただいまー」
 れいんは部屋に入ってすぐに、雄一が中にいないことに気付いた。いつもの靴が
ないとか、玄関横に掛けてあるコートがないとか、そういうことを自然と見て判断
したのだった。
「どこ行ったんだろう。今日はカツ丼なのに」
 れいんは頬をぷくっと膨らませた。それから洗面所で手を洗いうがいをしてから、
軽やかな足取りで居間へ入った。
 テーブルの上に、一枚の書き置きがあった。
 最初は、ただ「どこへ行ってる」だの「何時に帰る」だのといったことが書かれ
ているだけだとれいんはぼんやりと思っていたが、紙を手に取ってすぐ、顔色が変
わった。
「れいんへ――」

  れいんへ。
  ある人に呼ばれたので出掛けてくる。
  晩飯までにはなんとか帰ってくるから。

  雄一

「…ある人?」
 もやもやが残る文章に、れいんは霧に包まれたような心情になっていた。その時、
呼び鈴が響いた。
「ありす?」
 戸を開けたら、そこにはありすがいた。
「お……ねえ、ちゃん……」
 れいんは何も言わずに、ありすの手を握った。
「あっ」
「こうされると、安心して話せるんでしょ? 美貴もそうしてたから」
「う、うん……あ、ありがとう」
「どう致しまして。それより今日はどうしたの?」
「きょ、今日来たのはね、おねえちゃんに言わなくちゃならないことがあって……」
「言わなきゃならないこと?」
「…………」
 ありすは何かを言おうとしているが、なかなか口には出せずにいるようだった。表
情はどんどんと狼狽の色を強めていっていた。
「…とりあえず、中入ってよ」
 れいんは助け舟を出した。

 同時刻。
「…なんだって?」
 雄一は、相沢サーカス団本社ビルの社長室で、相沢勝と対峙していた。
 そこで聞かされたことは、雄一にとって信じ難く、また、そうなって欲しくはない、
そうなるはずはない、と心の中で無意識の内に打ち消してきた事についてだった。
「嘘だ、そんなこと……」
「覚えはないのかね?」
 雄一は、何も言えなかった。
「…たった一回なのに……」
「れいんという子は、君のなんなのだね」
「…れいんは俺の同居人で……大事な人……」
「そう言い切れるのか?」
「当たり前ですよ!」
「しかし、君は困惑しているように見える」
「してません」 
 雄一は、力なく否定した。
「本当に、その子を愛しているのかな? 
「だから――」
「若いうちは、愛情をはき違えている者が多い。性欲や、容姿の好みが勘違いを誘発
させるということだよ」
「…おっさんの意見だ」
「彼女の妊娠という厳然たる事実を突き付けられた途端、君はどうだ? まるで腑抜
けじゃないか! 本当に愛しているというなら、ショックなど受けず前向きに受け止
められる筈だ。自分の愛する人が自分の子供を産んでくれるという喜びで身が震える
ことはあっても、それは笑顔を伴ったものである筈だ。そんな暗い顔であるというこ
とはあり得ない」
「…経済的な問題もあるでしょうよ。それに、俺はまだ16で……」
「ほら」
 相沢は、心なしか嬉しそうな声でそう言った。そして机に手をつき立ち上がって、
すぐ前の椅子に座っている雄一の傍まで来た。
「君は、結局自分のことだけしか気にしていないのだよ」
「そんなことは……」
「この年で子持ちになって、一生それに縛られたくないと、思っているのさ、雄一君」
「違う……」
「…おっと、そろそろ日も暮れる。車を出そう」
「いや、いいです、歩いて帰ります」
 そう言って、雄一は立ち上がり、相沢に背を向けた。
「…れいんという子が――」
「まだ何か?」
 うんざりだ、という声で、振り返らずに雄一は言った。
「――言い出せないようだったからね。代わりに教えてあげたのだよ」
 雄一は、ちら、と首を回し相沢を睨むように見て、またすぐに首を正面に戻して、
その場を立ち去った。

 れいんは、怒りに震えていた。
 ありすが、れいんに手を握られながら、必死の思いで吐き出した、決して歓迎でき
ない事柄。
「あたしがここから出て行かないと、ありすをクビにするって?」
「…う、うん……」
「…ロクでもない人間が、あの中にはいるんだね」
 れいんは、ありすを怖がらせないように怒りを出来るだけ外に出さずに籠もらせて
言ったが、ありすの体は敏感だった。激しく震えながら、ありすは言った。
「ご、ごめん……で、でも、あ、あた、い、いま、あい、ざわサーカス団から、出さ
れ、たら……み、美貴、おねえちゃ、んが、い、いないと、あた、あたし……」
 見る見るうちにぽろぽろとこぼれてくる涙。れいんは近くにあったティッシュ箱か
ら三枚取り出し、ありすの顔に当ててやった。
「…分かってるよ。あたしも、あんたが可愛いんだ。可愛くて、守ってあげたくてし
ょうがないよ」
「お、ねえ、ちゃぁん……」
 ありすは、れいんに抱き付いた。
「あーもー、あたしよりでっかいのに……」
 ありすは、ごめん、ごめん、と何度も繰り返しながら、れいんの胸で泣いていた。
 れいんは、笑顔だったが、目の奥は決して笑ってはいなかった。
「あたしが、なんとかしてあげる」
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