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夏休み〜ミクロ経済

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「わからない……全く思いつかない……」
 八月初旬、夏休みの昼下がり、僕は盛大に悩んでいた。
 経営学の課題レポートである。講義も全部出席して、ノートもきっちりと取ってあるのだが、三題で合計八千字という文字数指定と僕の文章構成能力のなさが複合して、恐ろしいほどの停滞を生み出している。もう一時間は書き出しては消す作業を繰り返している。
 不幸中の幸いは、提出期限まで一カ月以上あることだ。ゆっくりやろう。
 そのままうんうんと唸っていたが、しばらくして誰かが庭へと入ってくる気配がしたので、僕は玄関へ向かった。
 現在、僕は大学に通うために実家を離れて、母方の伯父夫婦の家に世話になっている。そして一家には娘さん――つまり僕の従妹もいて、今彼女が進学のための塾から帰ってきたのであった。小学生なのに大変だなあ。
「おかえり、糸子ちゃん」
 従妹の糸子ちゃん。いまどきのこどもの名前にしては随分と古風かもしれない。彼女はこくりと頷いてから
「――ただいま」
 とだけ言って、まずはカバンを置きにと、自分の部屋へ上がっていった。
 僕が台所で麦茶とおやつを用意している間に、すぐに糸子ちゃんはリビングに降りてきて、
「圭都」
 と僕を呼んだ。
「ん?」
「これ……教えて?」
 糸子ちゃんの方を向くと、彼女はなぜだか見覚えのある本を胸の前に掲げていた。タイトルは『大学生がミクロ経済』と読める。
 というか僕のだった。先日から行方が分からなくなっていたのだが、教授にいい枕だねと褒められるほどだったので、まあ新しい参考書を買えばいいやと思っていたのが――
「――え?」
 ……教えて?
「頑張って読んだけど、全然わからなかった……」
 悔しげに目を細めて僕を見つめる糸子ちゃん。かわいいなあ。
「……まあ、そうだろうね」
 僕だってわかってない箇所はかなりあるし、小学五年生では前提知識が全く足りなくて数式の意味を理解できるかも怪しいものだ。才媛の彼女でも、さすがに同様らしい。
「教えるのは構わないけどね……」
 ハードルは高い。だけど糸子ちゃんの従兄として、僕はこの期待にこたえる必要があると思った。そしてこの夏の挑戦はおそらく僕と彼女、お互いにとってなにかしら経験となるに違いない。
「やった」
 ようやく糸子ちゃんの顔がほころぶ。やっぱり笑顔が一番、僕も思わず口元がゆるむ。
 『大学生がミクロ経済』を受け取りながら、二人の学習計画を考える。教えるために、僕も理解を高めなければならない。
 まずは。
「でも、その前にやることがあるね」
「……宿題はあと天体観測だけだよ?」
「そうじゃなくてね……」
 ――座ったままでは、跳べないからね。
「ところで、急にどうしたの?」
「え?」
 勢いで講師を受けてしまったが――
「――こんなこと知りたがる小学生、あまりいないと思うけど」
 そう言うと、糸子ちゃんはみるみる顔を赤らめて僕から視線をそらしつつ、広げた手をぐるぐるわたわたし始めた。
「いいぃぃいいっいぃぃいいいぃっいいいぃ」
「い?」
 どうやら言うのが恥ずかしいみたいだが、それよりもこれほど動感豊かな糸子ちゃんを見たのは初めてだ……。びっくりした。
 しばらく逡巡していた彼女だったが、なんとか代わりの理由が思いついたようで
「っ! そう! 大学生って、どんな勉強、してるのかなって!」
 ときれぎれに言って、明らかにほっとした様子になった。
「なるほどね」
 ここは話を合わせておくか。あとで本当のところを教えてもらおう。
2, 1

  

「ミクロ経済学のミクロっていうのは小さいって意味でね」
 エアコンで少しずつ冷えてくるリビング、僕と糸子ちゃんはソファに隣り合わせで座っている。
「小さい経済学?」
 実は少し気にしなければならない問題がいくつかある……だから、今はさわりの部分を教えることした。
「そう。反対に大きいのは――」
「――マクロ?」
 と、僕より先に糸子ちゃんが答えた。
「あれ」
 なんで知ってるんだろう。
 彼女は僕の膝の上に乗っている『大学生がミクロ経済』をぺたぺた叩くと、
「本に書いてあったよ。社会経済学とか、マルクスっていうのも載ってた。いろいろあるのはどうして? 他にもあるの?」
 と捲し立てた。
「おお……」
 わからなかったと言ってはいたが、しっかり読んで覚えられるところはそうしていたのか。なるほど彼女の知識欲、探究心は本物だ。相変わらず知りたいことの本当の理由はわからないが、やはりというか、課題ははっきりわかった。
「研究のやり方とか、ルールが違うんだよ」
 僕は統計学、経営学や経済史など、僕が大学で前期に履修した講義について、糸子ちゃんに説明した。これらもいつか教えることになるのかなあ。
「だけど、目的はどの経済学でも同じだよ」
「たくさんお金を稼ぐこと?」
「それもあるけどね。答えは誰かを幸せにすること」
 なにそれ、と糸子ちゃんは苦笑いした。僕の楽観的な抽象化から胡散臭さを感じ取ったのだろう。
「教科書みたいに言うと、経済学は、人の欲求を満たすために、希少な資源をどう使うかを研究する学問」
 経済学に関する書籍ならだいたいはこんな感じのフレーズが記されているはずだ。
「それも書いてあったかも。……どうやって幸せにするの?」
「それでは例え話」
 『例示は理解の試金石』と前に読んだ本に書かれていたなあ。内容はさっぱりわからなかったけど。
「僕の先生が言っていたけど、人のすることはほとんど経済で説明できるんだって」
 すると糸子ちゃんはしばし思案顔をしてから、言った。
「……圭都のことも?」
「んん?」
 突然矛先が自分に向いたことに面食らった動揺した。なぜ僕なんだ……?
 糸子ちゃんは答えを待っているのだろう、むっと口を閉じながら僕を見上げている。親指で目尻を押す形でそっと頬に触れると、糸子ちゃんは顔を僕の手の平にこすりつけるようにして揺らした。
 無意識に何やってるんだ僕は。
「うん……多分ね」
 そう言うと、彼女の瞳がさっと輝いた、ような気がした。
 やがて無為な見つめ合いに飽きたのだろうか、
「とあっ」
 と、糸子ちゃんは僕に向かって跳ねた。僕は彼女の脇の下辺りをつかんで、勢いそのままに腕の中へ引き込んだ。僕の腿の上にアヒル座りさせる。
 ふとパイルドライバーをするイメージが湧き出た。無視した。
 ……それにしても。
「こんなにくっついてくるのも久しぶりかな」
 出会った当初くらいなものだ。あれはいつ頃だったか。
「……だめ?」
「まさか」
 彼女の首傾ぎで上目遣いなお願いを、僕が断れるはずがない。照れで俯く仕草も最高だ。
 ――しかし。
「塾で、なにかあった?」
 心配する。僕たち二人は若くして痩せの出不精なので、まず思いつくのは先ほどまでいた塾だ。昨日まで変化はなかったわけだし。
「いつも通りだよ」
 糸子ちゃんは頭を勢いよく左右させ、否定した。
「……そう」
 彼女は素直だ。
 推測するに、悪性でなく小事であったとしても何かしら起こったのには違いないだろう。もしかすると、僕に師事しようとする原因に関することかもしれない。障害でないならば、それで良いのだが。
「いつでも嫌だけど」
「そうだね」
 そうなのだ。
4, 3

  

 糸子ちゃんがだらりと脱力し寄りかかって動かないので、学習しようという気配はすっかり霧散してしまった。仕方が無いので僕は彼女の頭を撫でたり、髪を梳いたりして、彼女に同調してそのままそうしていた。
 さて……
「夕飯の買い物いくかな」
「いくっ」
 ――こちらへ来て以来、家事の大部分は僕が受け持っている。操さんたちは、働き者過ぎる。今日も当然の如くこの真夏日の熱気のように残業するのだろう。僕が来る前、この家は――――。
 不快指数の元がうねり漂う中、手をつないで駅前のスーパーマーケットまでの道のりを行く。しつこい暑さに田舎が都会な街路をぶらつく人は少ない。糸子ちゃんが人見知りを仏頂面に転化させているので、僕らは静かに歩いた。指先が心なしか頑なな力が入っている手は、汗でしっとりと湿っていた。
 しかし涼しすぎる店内も帰り道を不安にさせてくれるので、考えものだ。
「はふ」
 糸子ちゃんは小さく息を漏らして、胸元にパタパタと風を送り込んでいる。僕はハンカチで彼女のあちらこちらの滴りを拭ってやる。
「そういえば」
 生鮮食品売り場まで来て、なんと今夜のメニューを決めてなかったと思い出した。
「何がいいかな?」
 尋ねると、糸子ちゃんは束の間考えを巡らせてから、
「ハンバーグカレー食べたい」
 と言った。おそらくグルメ紀行か何かの影響だろう……。頷いて了承を示す。
 そして、ふと思いついた。
「ねえもし、予算が足りなくて、ハンバーグかカレーどちらかを選ばなくちゃいけないとしたら、どうする?」
「えっ」
「あ」
 極めて性急に、これはさっきの例え話の続きだと釈明すると、得心いった糸子ちゃんは眉がくっつくほどに手抜きなしの熟考を開始して、
「むむ……………………………………はい」
 答えが出たようである。
「ハンバーグカレーです」
「なるほど」
 事実その選択肢が有効なことは確かだが。……今は選んで貰わなくては。
「カレーの方が多く食べられるとしたら?」
「カレー」
 即答である。量で判断できてしまうのが女の子としてどうかはともかく、個人的には旺盛で微笑ましい限りである。
「うん、実はそれが経済学で考えるってことなんだよ」
「んん?」
 突然突き付けられた結論に糸子ちゃんは疑問符を隠せない。
「まず、なぜ二つから一つを選ぶことになったか、わかる?」
「え? ええっと…………お金が足りないから、ってさっき圭都が言ってた、よ?」
「正解。次に、どうしてカレーを選んだ?」
「それも、圭都がたくさん食べられるって言ったから――――んーわかった」
 糸子ちゃんはぱちりと手を合わせた。
「『しょうがないから選ぶ』ってこと?」
「まあその通り……だね」
 少しばかり消極的なところではあるが。
 条件下でのベストチョイス、というのが経済学の根幹にあると僕は考えていて、そしてこれはおおよそ的を射ているはずだ。それにしても基本かつ肝心なテーマを上手く植え付けることが出来た。買い物をしながらの実践、今日ばかりの利用とはならないだろう。
「でも、選ばないこともあるよ?」
「うん?」
「好きなものが一つで十分なことだって、あるよ」
「確かにそうだ――」
 ――理論の一部を垣間見ただけで物事の全体が分かるわけがない。伝えるべきことはまだまだある。
 ――思考する。教える側の三倍理解論が示すように、僕如きが糸子ちゃんに教えられるのかという疑問。そしてこれからを見据えた時に見えてくる、彼女が抱える決定的な不都合。他にも見過ごせない障害がいくつかある。
 ――そうは言ってもこの挑戦、一筋縄で行くとは最初から思っていないし、思えばただ準備が足りていないだけのものもある。差し当たりの対策も、既に考えてある、だから。
「続きは明日に」
5

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