第一章 抱くは大志
木剣を構え、シグナスと睨み合っていた。お互いに口は利かない。周囲で部下の兵達が固唾を飲んでいる。
一歩だけ、前に出た。視線は外さない。シグナスの剣気が、俺の身体を刺激している。さすがに軍随一の槍の名手と言われた男だ。武器を変えても、気は凄まじい。
手元を、少しだけズラした。
剣気。シグナスが飛び込んできた。身体を開いてかわす。剣。振りかかってくる。それを掻い潜ると同時に、シグナスの手を打った。木剣が地面に転がる。周囲から、呻きに近い感嘆の声が漏れた。
シグナスが木剣を拾おうと手を伸ばす。すかさず足で木剣を蹴り飛ばし、シグナスの喉元に剣の切っ先を突き付けた。束の間の静寂。シグナスが、舌打ちした。
「やはり、剣ではお前にかなわんな、ロアーヌ」
「槍はお前の方が上だ」
それで、勝負は終わりだった。
剣のロアーヌ。槍のシグナス。いつの間にか、軍内で有名になっていた。しかし二人とも、身分は小隊長である。小隊長の上に大隊長が居て、さらにその上には将軍が居る。だが、そこらに居る将軍よりも、俺とシグナスは有名だった。しかし、俺はそれを誇りに思った事はない。シグナスはどうか知らないが、単に剣が上手く扱える、ただそれだけの話なのだ。
兵たちが、喧嘩を始めていた。俺とシグナス、どちらが上だ、という事で揉めている。元はと言えば、兵たちの諍いのせいでシグナスと立ちあう事になった。槍で負け、剣では勝った。しかし、兵たちは納得しようとしない。
どうでもいい事だった。いくら剣が上手く扱えようとも、世を左右するほどの力はない。身分も小隊長で、出世も望めはしないだろう。この国は、賄賂が出世を左右する。この点では、俺とシグナスは無縁だった。
国が腐っていた。民は困窮し、政府の高官たちは私腹を肥やす。軍は賄賂が横行し、力無き人間が上に立ったりする。誰がどう見ても、腐っていた。
俺は何故、軍に居るのだ。不意にそう思う時があった。特に最近はそうだ。兵士として軍に入った時は、希望に満ち溢れていた。元々、剣の腕には自信があったし、いずれは将軍として名を馳せる事に夢を見ていた。
だが、現実は、腐っていた。はっきりとそれが分かった今、希望も何も無かった。鬱屈した日々を無為に過ごすだけである。
二十四歳だった。これから先の人生は長い。その長い人生を、無為に過ごしていかなければならないのか。
国は至って、平穏だった。内部に腐りはあるものの、民は堪え凌いでいた。ただし、それは今だけだろう。民たちの間で、反乱の噂が流れているのだ。噂の元は遥か東のメッサーナからで、都心から見ればただの田舎地方だった。だがそれでも、反乱という噂が流れている。
これまでの歴史を紐解いていくと、悪政を布いた国はどれも滅亡の一途を辿っていた。滅亡の切っ掛けは多岐に渡るが、民の反乱が切っ掛けとなったケースは決して少なくない。だからではないが、今回のメッサーナ反乱の噂にも警戒はしておいた方が良い。
だが、俺は何も行動しなかった。警戒をしておいた方が良いというのは、あくまで国の都合だ。俺個人としては、こんな国など早く壊れてしまえ、という思いが強い。しかし、俺は軍人だ。国に雇われ、国に命を捧ぐ。それが軍人だと俺は考えている。軍人の使命感と、俺個人の思い。この二つに挟まれて出した答えが、何も行動しない、というものだった。
こんな国に命を捧ぐ価値があるのか。最近になって不意に、そう思うようになった。思うだけで、後は考えはしなかった。答えなど出るわけがないのだ。俺は軍人で、剣を振る事しか知らない。俺から軍人という職をはく奪したら、もう後には何も残らない。
「今日の調練はこれまでだ。お前達、俺とロアーヌのどちらが上か、という事はもう忘れろ。同じ軍で、同志だぞ。槍と剣。俺とロアーヌは、それぞれの猛者だ。それ以下でも、それ以上でもない」
シグナスが言った。この言葉から分かる通り、シグナスは自分の槍には絶大な自信を持っている。俺が剣に自信を持っているのと同じようにだ。
「兵舎に戻れ。帰路で喧嘩するなよ」
シグナスの言葉に、兵達が威勢よく返事した。各々、調練場から出て行く。俺はそんな兵達の姿を、ぼんやりと眺めていた。こんな事で良いのだろうか。国は腐っている。俺は二十四歳という年齢で、まだ先がある。出来る事は無限大にあるはずだ。それなのに、これから先を無為に過ごすだけなのか。
だが、軍人だった。そして俺は、軍人しか出来ない男だ。
「ロアーヌ、最近のお前は覇気がないな。どうした?」
調練場から出て行く兵達を見ながら、シグナスが言った。シグナスも俺と同じ年齢で、二十四歳だ。
「いや」
「お前は中々、心の内を言葉にしない。俺はエスパーじゃないんだぜ」
「分かってる。ちょっと考えてる事があるだけだ」
「そうか。なら、何も言うまい。気に病むなよ」
「あぁ」
シグナスは兵を怒鳴り散らしたりするせいで、豪放な性格だと周囲には思われていた。だが、こんな風に人の心の機微を感じ取る事にも長けている。豪放なのは表面だけで、本当は繊細な性格なのかもしれない。
「戦がしたいなぁ、ロアーヌ。この国は平穏すぎるぜ。たった数百年前は、それぞれの諸侯(国によって定められた領主)が私兵を抱えて、諸侯同志で戦をしてたって話じゃないか」
「今は王が居る。その王が権力を持っているのだ。諸侯もそれに対して、きちんと臣従している」
これは悪い事ではない。権力を持たない王など、もはや王ではないのだ。それに諸侯同志で戦をするという状況は、すでに反乱が起きているという事だ。しかし言い換えれば、それは国が生まれ変わる足掛かりだった。
「つまらんぜ、俺は」
「シグナス、俺達はただの小隊長だ。そして」
「その上には大隊長。さらにその上には将軍だろ。わかってるよ。何度も聞いた」
俺は苦笑した。そんなに言った自覚はなかったが、シグナスはそうではなかったらしい。
「金に縁がないからな。俺は。死んでも俺は賄賂なんざ払わねぇ」
シグナスは清廉潔白だった。これは一つの美徳とも言えるが、世渡りが下手とも言えた。特に今はそうだ。役人の中には、降格や左遷を盾に、露骨に賄賂を請求してくる者も居る。俺も実際にその類の役人と遭遇した。ちょっとしたヘマを拾い上げられたのだ。その時、俺は賄賂を支払った。それは後悔していない。つまらない理由で、今の環境を失いたくなかったのだ。
「お前は出世よりも、戦か」
「それはお前もだろ、ロアーヌ」
「まぁ、そうだな」
だが、今の国のためには戦いたくない。この言葉は、口にはしなかった。
「つまらんぜ、本当に」
シグナスの独り言だった。
一歩だけ、前に出た。視線は外さない。シグナスの剣気が、俺の身体を刺激している。さすがに軍随一の槍の名手と言われた男だ。武器を変えても、気は凄まじい。
手元を、少しだけズラした。
剣気。シグナスが飛び込んできた。身体を開いてかわす。剣。振りかかってくる。それを掻い潜ると同時に、シグナスの手を打った。木剣が地面に転がる。周囲から、呻きに近い感嘆の声が漏れた。
シグナスが木剣を拾おうと手を伸ばす。すかさず足で木剣を蹴り飛ばし、シグナスの喉元に剣の切っ先を突き付けた。束の間の静寂。シグナスが、舌打ちした。
「やはり、剣ではお前にかなわんな、ロアーヌ」
「槍はお前の方が上だ」
それで、勝負は終わりだった。
剣のロアーヌ。槍のシグナス。いつの間にか、軍内で有名になっていた。しかし二人とも、身分は小隊長である。小隊長の上に大隊長が居て、さらにその上には将軍が居る。だが、そこらに居る将軍よりも、俺とシグナスは有名だった。しかし、俺はそれを誇りに思った事はない。シグナスはどうか知らないが、単に剣が上手く扱える、ただそれだけの話なのだ。
兵たちが、喧嘩を始めていた。俺とシグナス、どちらが上だ、という事で揉めている。元はと言えば、兵たちの諍いのせいでシグナスと立ちあう事になった。槍で負け、剣では勝った。しかし、兵たちは納得しようとしない。
どうでもいい事だった。いくら剣が上手く扱えようとも、世を左右するほどの力はない。身分も小隊長で、出世も望めはしないだろう。この国は、賄賂が出世を左右する。この点では、俺とシグナスは無縁だった。
国が腐っていた。民は困窮し、政府の高官たちは私腹を肥やす。軍は賄賂が横行し、力無き人間が上に立ったりする。誰がどう見ても、腐っていた。
俺は何故、軍に居るのだ。不意にそう思う時があった。特に最近はそうだ。兵士として軍に入った時は、希望に満ち溢れていた。元々、剣の腕には自信があったし、いずれは将軍として名を馳せる事に夢を見ていた。
だが、現実は、腐っていた。はっきりとそれが分かった今、希望も何も無かった。鬱屈した日々を無為に過ごすだけである。
二十四歳だった。これから先の人生は長い。その長い人生を、無為に過ごしていかなければならないのか。
国は至って、平穏だった。内部に腐りはあるものの、民は堪え凌いでいた。ただし、それは今だけだろう。民たちの間で、反乱の噂が流れているのだ。噂の元は遥か東のメッサーナからで、都心から見ればただの田舎地方だった。だがそれでも、反乱という噂が流れている。
これまでの歴史を紐解いていくと、悪政を布いた国はどれも滅亡の一途を辿っていた。滅亡の切っ掛けは多岐に渡るが、民の反乱が切っ掛けとなったケースは決して少なくない。だからではないが、今回のメッサーナ反乱の噂にも警戒はしておいた方が良い。
だが、俺は何も行動しなかった。警戒をしておいた方が良いというのは、あくまで国の都合だ。俺個人としては、こんな国など早く壊れてしまえ、という思いが強い。しかし、俺は軍人だ。国に雇われ、国に命を捧ぐ。それが軍人だと俺は考えている。軍人の使命感と、俺個人の思い。この二つに挟まれて出した答えが、何も行動しない、というものだった。
こんな国に命を捧ぐ価値があるのか。最近になって不意に、そう思うようになった。思うだけで、後は考えはしなかった。答えなど出るわけがないのだ。俺は軍人で、剣を振る事しか知らない。俺から軍人という職をはく奪したら、もう後には何も残らない。
「今日の調練はこれまでだ。お前達、俺とロアーヌのどちらが上か、という事はもう忘れろ。同じ軍で、同志だぞ。槍と剣。俺とロアーヌは、それぞれの猛者だ。それ以下でも、それ以上でもない」
シグナスが言った。この言葉から分かる通り、シグナスは自分の槍には絶大な自信を持っている。俺が剣に自信を持っているのと同じようにだ。
「兵舎に戻れ。帰路で喧嘩するなよ」
シグナスの言葉に、兵達が威勢よく返事した。各々、調練場から出て行く。俺はそんな兵達の姿を、ぼんやりと眺めていた。こんな事で良いのだろうか。国は腐っている。俺は二十四歳という年齢で、まだ先がある。出来る事は無限大にあるはずだ。それなのに、これから先を無為に過ごすだけなのか。
だが、軍人だった。そして俺は、軍人しか出来ない男だ。
「ロアーヌ、最近のお前は覇気がないな。どうした?」
調練場から出て行く兵達を見ながら、シグナスが言った。シグナスも俺と同じ年齢で、二十四歳だ。
「いや」
「お前は中々、心の内を言葉にしない。俺はエスパーじゃないんだぜ」
「分かってる。ちょっと考えてる事があるだけだ」
「そうか。なら、何も言うまい。気に病むなよ」
「あぁ」
シグナスは兵を怒鳴り散らしたりするせいで、豪放な性格だと周囲には思われていた。だが、こんな風に人の心の機微を感じ取る事にも長けている。豪放なのは表面だけで、本当は繊細な性格なのかもしれない。
「戦がしたいなぁ、ロアーヌ。この国は平穏すぎるぜ。たった数百年前は、それぞれの諸侯(国によって定められた領主)が私兵を抱えて、諸侯同志で戦をしてたって話じゃないか」
「今は王が居る。その王が権力を持っているのだ。諸侯もそれに対して、きちんと臣従している」
これは悪い事ではない。権力を持たない王など、もはや王ではないのだ。それに諸侯同志で戦をするという状況は、すでに反乱が起きているという事だ。しかし言い換えれば、それは国が生まれ変わる足掛かりだった。
「つまらんぜ、俺は」
「シグナス、俺達はただの小隊長だ。そして」
「その上には大隊長。さらにその上には将軍だろ。わかってるよ。何度も聞いた」
俺は苦笑した。そんなに言った自覚はなかったが、シグナスはそうではなかったらしい。
「金に縁がないからな。俺は。死んでも俺は賄賂なんざ払わねぇ」
シグナスは清廉潔白だった。これは一つの美徳とも言えるが、世渡りが下手とも言えた。特に今はそうだ。役人の中には、降格や左遷を盾に、露骨に賄賂を請求してくる者も居る。俺も実際にその類の役人と遭遇した。ちょっとしたヘマを拾い上げられたのだ。その時、俺は賄賂を支払った。それは後悔していない。つまらない理由で、今の環境を失いたくなかったのだ。
「お前は出世よりも、戦か」
「それはお前もだろ、ロアーヌ」
「まぁ、そうだな」
だが、今の国のためには戦いたくない。この言葉は、口にはしなかった。
「つまらんぜ、本当に」
シグナスの独り言だった。
休みの日。俺は家で書物を読み漁っていた。軍学を身に付けるためである。
剣術がいくら優れていようとも、それは個々の力に過ぎない。二十人程ならば、同時に相手をしても負けない、という気持ちはあるが、その倍の四十人では分からない。さらにその倍の八十人ならば、確実に死ぬ。そして戦は、何百、何千、戦役レベルになると何十万という規模になる。そこでの個々の力など、たかが知れているのだ。だからこそ、軍学である。
軍学は数々の失敗と成功が礎となって、出来あがったものだ。人の命の集大成と言っても良い。そして、軍学無き者は簡単に死する。これは父の言葉で、俺も同じように思っている。
父は病で死んだが、俺は父から多くの事を学んだ。剣術もそうだし、国の歴史もそうだ。その中でも俺は、人を見る目を養われた。この国では、実力が無い者が簡単に上に立てる。これはつまり、上に立っているから能力がある、とは言えないという事だ。無論、本当に能力がある者が上に立つ事もある。だが、そういう者達はすぐに地方に飛ばされていた。役職や扶持(給料)はそのままで、発言力や権力をもぎ取られるのである。地方からの声は、いくつもの役人の頭上を越えていかなければならない。つまり、王の耳に届く事は無いのだ。最悪の場合、改変までさせられて冤罪をかけられたりもする。
まさしく、腐っていた。だがそれでも、稀に腐っていない人間が居る。軍随一の槍の名手、シグナスはその一人だ。シグナスとは同僚であり、良い友人である。このような関係になれたのも、父のおかげだろう。
戦がしたい。これはシグナスの口癖だった。俺にもこの思いはある。軍人なのだ。当然である。だが、この国のために戦いたくはない。軍人がこのような感情を持つのはいけない事だとは思うが、あまりにも国が腐り過ぎている。
「ロアーヌ様、馬の手入れを終えました」
従者のランドが部屋に入って来て言った。ランドの体格は貧相で、俺と並んで立つと大人と子供だった。
「わかった」
「夕飯の買出しに行ってきます」
「あぁ」
ランドは必要最低限の事しか言わない。こういう所が俺は好きだった。シグナスによく言われる事だが、俺はあまり喋らない。何でもかんでも言葉にするというのは、どうも好きではないのだ。そして、他人にもそれを望んでしまう。
書物を読み終えた。学ぶという事は不思議なもので、知識として頭の中に取り込むと、すぐに実践したくなる。しかし、軍学だった。それに加えて身分は小隊長だ。せいぜいやれても、百名前後の局地戦ぐらいだろう。
「つまらない、か」
独り言だった。シグナスはこの所、つまらない、つまらない、とうるさい。しかし、気持ちはよく分かった。そんな自分に苦笑する。
庭に出た。日の光がまだ高い。夏である。蝉の大合唱の中、俺は木剣を取った。剣の修練を積むのだ。
この木剣は俺専用のもので、先端に鉛を取りつけていた。これは本物の鉄剣よりも重く、扱いが難しい。だが、これで調練を積んだ後に本物の剣を持つと、これが嘘のように軽く感じるのだ。そして、自在に扱える。普通の木剣で調練を積み、次に鉄剣、という順序を踏むと、逆に四苦八苦する。俺の部隊は、無論の事ながらに鉛付きの木剣で調練を行っている。他の部隊は、普通の木剣だ。
真面目に調練を行っているのは、俺とシグナスの部隊ぐらいだろう。他の将軍の部隊は知らないが、少なくとも俺の上司となる、タンメル将軍配下の部隊はそうだ。
タンメルはでっぷりとした肥満体で、糸のように細い目が異様に卑しかった。考えなくても分かる事だが、賄賂で将軍にあがった男である。武器の扱いなど、出来るはずもなかった。そんな男が将軍にあがっていて、顎で指図をしてくる。最悪の場合、賄賂まで請求してくるのだ。それが、今のこの国の現状だった。
汗で上半身が濡れていた。上着を脱ぐ。日に焼け、肌は茶色に染まっていた。筋骨隆々の肉体。こんな所で俺は埋もれてしまって良いのか。そう思いながら、俺は剣を振った。この剣術は、何のために磨くのだ。俺は何もない男だ。何のために生きているのかさえもわからない男だ。
剣を振り続けた。俺は軍人なのだ。軍人は命令に従うだけだ。何故、戦うのか。どういう敵を相手にするのか。それは上の人間が考える事で、軍人が考えるべき事ではない。
息があがっていた。肩が上下する。いつもより、多く剣を振った。そう思った。それだけ、苛まれる思いがあったと言う事なのか。思いを紛らわせるために、剣を振った。そんな思いもある。
「東、メッサーナか」
反乱の噂が立っている地方である。ここ、都のシュライクから見れば、遥か東の田舎地方だった。しかしそれでも、反乱の噂が流れている。正直な所、かなり気になっている。何か行動を起こして、どうこうしたい、という事ではなく、どういう人間が集まっているのか。そして、どういう人間が上に立っているのか。これが気になる。
だが、何も出来なかった。小隊長なのだ。将軍にでもなれば、自分の手の者、つまり間者(スパイ)を抱える事も出来る。そして、その間者を使って、東を探らせる事が出来る。だが、俺は小隊長だった。
いっその事、軍を捨ててやろう、と思う時もあった。それは酒を飲んでいる時で、酒を飲むと、どうでも良い、という気分になってくる。軍を捨てて、都を出る。そして、東に行って俺の力を買ってもらう。思う存分に暴れまわって、官軍(正規軍)を蹴散らしてやるのだ。酒の中で、俺はこんな妄想を思い描く。
「まだまだ俺もガキだな。絵空事に心が躍るとは」
生活がある。それに東の反乱の話は、あくまで噂に過ぎない。ひょっとしたら、国が異心を持っている者をあぶり出すために流した噂かもしれないのだ。もしそうだとして行動を起こせば、軍人ではなく囚人になってしまう。
「ロアーヌ様、戻りました」
ランドの声だった。玄関からである。
「こちらでしたか」
庭に顔を向けたランドが、一礼した。
「ランド、飯は後で良い。湯をわかしてくれないか。身体を洗いたい」
「はい」
それだけ言って、ランドは風呂へと足を運んで行った。
今日は一段と汗をかいた。この後、風呂に入って飯を食う。寝て起きれば、仕事だ。何の思いも無い、仕事だ。
眠る前に、酒を飲もう。そう思った。あの妄想を思い描きたい。そうすれば、現実になるかもしれない。そう考えると、俺は酒が楽しみになった。
剣術がいくら優れていようとも、それは個々の力に過ぎない。二十人程ならば、同時に相手をしても負けない、という気持ちはあるが、その倍の四十人では分からない。さらにその倍の八十人ならば、確実に死ぬ。そして戦は、何百、何千、戦役レベルになると何十万という規模になる。そこでの個々の力など、たかが知れているのだ。だからこそ、軍学である。
軍学は数々の失敗と成功が礎となって、出来あがったものだ。人の命の集大成と言っても良い。そして、軍学無き者は簡単に死する。これは父の言葉で、俺も同じように思っている。
父は病で死んだが、俺は父から多くの事を学んだ。剣術もそうだし、国の歴史もそうだ。その中でも俺は、人を見る目を養われた。この国では、実力が無い者が簡単に上に立てる。これはつまり、上に立っているから能力がある、とは言えないという事だ。無論、本当に能力がある者が上に立つ事もある。だが、そういう者達はすぐに地方に飛ばされていた。役職や扶持(給料)はそのままで、発言力や権力をもぎ取られるのである。地方からの声は、いくつもの役人の頭上を越えていかなければならない。つまり、王の耳に届く事は無いのだ。最悪の場合、改変までさせられて冤罪をかけられたりもする。
まさしく、腐っていた。だがそれでも、稀に腐っていない人間が居る。軍随一の槍の名手、シグナスはその一人だ。シグナスとは同僚であり、良い友人である。このような関係になれたのも、父のおかげだろう。
戦がしたい。これはシグナスの口癖だった。俺にもこの思いはある。軍人なのだ。当然である。だが、この国のために戦いたくはない。軍人がこのような感情を持つのはいけない事だとは思うが、あまりにも国が腐り過ぎている。
「ロアーヌ様、馬の手入れを終えました」
従者のランドが部屋に入って来て言った。ランドの体格は貧相で、俺と並んで立つと大人と子供だった。
「わかった」
「夕飯の買出しに行ってきます」
「あぁ」
ランドは必要最低限の事しか言わない。こういう所が俺は好きだった。シグナスによく言われる事だが、俺はあまり喋らない。何でもかんでも言葉にするというのは、どうも好きではないのだ。そして、他人にもそれを望んでしまう。
書物を読み終えた。学ぶという事は不思議なもので、知識として頭の中に取り込むと、すぐに実践したくなる。しかし、軍学だった。それに加えて身分は小隊長だ。せいぜいやれても、百名前後の局地戦ぐらいだろう。
「つまらない、か」
独り言だった。シグナスはこの所、つまらない、つまらない、とうるさい。しかし、気持ちはよく分かった。そんな自分に苦笑する。
庭に出た。日の光がまだ高い。夏である。蝉の大合唱の中、俺は木剣を取った。剣の修練を積むのだ。
この木剣は俺専用のもので、先端に鉛を取りつけていた。これは本物の鉄剣よりも重く、扱いが難しい。だが、これで調練を積んだ後に本物の剣を持つと、これが嘘のように軽く感じるのだ。そして、自在に扱える。普通の木剣で調練を積み、次に鉄剣、という順序を踏むと、逆に四苦八苦する。俺の部隊は、無論の事ながらに鉛付きの木剣で調練を行っている。他の部隊は、普通の木剣だ。
真面目に調練を行っているのは、俺とシグナスの部隊ぐらいだろう。他の将軍の部隊は知らないが、少なくとも俺の上司となる、タンメル将軍配下の部隊はそうだ。
タンメルはでっぷりとした肥満体で、糸のように細い目が異様に卑しかった。考えなくても分かる事だが、賄賂で将軍にあがった男である。武器の扱いなど、出来るはずもなかった。そんな男が将軍にあがっていて、顎で指図をしてくる。最悪の場合、賄賂まで請求してくるのだ。それが、今のこの国の現状だった。
汗で上半身が濡れていた。上着を脱ぐ。日に焼け、肌は茶色に染まっていた。筋骨隆々の肉体。こんな所で俺は埋もれてしまって良いのか。そう思いながら、俺は剣を振った。この剣術は、何のために磨くのだ。俺は何もない男だ。何のために生きているのかさえもわからない男だ。
剣を振り続けた。俺は軍人なのだ。軍人は命令に従うだけだ。何故、戦うのか。どういう敵を相手にするのか。それは上の人間が考える事で、軍人が考えるべき事ではない。
息があがっていた。肩が上下する。いつもより、多く剣を振った。そう思った。それだけ、苛まれる思いがあったと言う事なのか。思いを紛らわせるために、剣を振った。そんな思いもある。
「東、メッサーナか」
反乱の噂が立っている地方である。ここ、都のシュライクから見れば、遥か東の田舎地方だった。しかしそれでも、反乱の噂が流れている。正直な所、かなり気になっている。何か行動を起こして、どうこうしたい、という事ではなく、どういう人間が集まっているのか。そして、どういう人間が上に立っているのか。これが気になる。
だが、何も出来なかった。小隊長なのだ。将軍にでもなれば、自分の手の者、つまり間者(スパイ)を抱える事も出来る。そして、その間者を使って、東を探らせる事が出来る。だが、俺は小隊長だった。
いっその事、軍を捨ててやろう、と思う時もあった。それは酒を飲んでいる時で、酒を飲むと、どうでも良い、という気分になってくる。軍を捨てて、都を出る。そして、東に行って俺の力を買ってもらう。思う存分に暴れまわって、官軍(正規軍)を蹴散らしてやるのだ。酒の中で、俺はこんな妄想を思い描く。
「まだまだ俺もガキだな。絵空事に心が躍るとは」
生活がある。それに東の反乱の話は、あくまで噂に過ぎない。ひょっとしたら、国が異心を持っている者をあぶり出すために流した噂かもしれないのだ。もしそうだとして行動を起こせば、軍人ではなく囚人になってしまう。
「ロアーヌ様、戻りました」
ランドの声だった。玄関からである。
「こちらでしたか」
庭に顔を向けたランドが、一礼した。
「ランド、飯は後で良い。湯をわかしてくれないか。身体を洗いたい」
「はい」
それだけ言って、ランドは風呂へと足を運んで行った。
今日は一段と汗をかいた。この後、風呂に入って飯を食う。寝て起きれば、仕事だ。何の思いも無い、仕事だ。
眠る前に、酒を飲もう。そう思った。あの妄想を思い描きたい。そうすれば、現実になるかもしれない。そう考えると、俺は酒が楽しみになった。
将軍の居室で、俺とシグナスは立たされていた。これから叱責が始まるのだ。
新兵の調練中の出来事だった。シグナスが新兵の一人を殴り殺そうとしたのである。俺は慌てて止めに入ったが、シグナスの目は怒りで血走っていた。
怒りの理由は賄賂だった。調練が厳しすぎる。金をやるから、自分には甘くしろ。新兵はそう言ったのである。まず、シグナスは新兵を怒鳴った。そして、賄賂の卑劣さを語った。だが、新兵は賄賂の金額を増して、これで、どうだ。と言った。これが不味かった。シグナスは完全に怒り、新兵を殴り殺そうとしだしたのだ。
俺がシグナスを羽交い締めにして、怒りをなだめている間に、大隊長を呼ばれた。周りの新兵が呼んだのだ。そして、事情を説明された。賄賂の事も話された。
そして、タンメル将軍の居室である。タンメルは賄賂で成り上がった将軍だ。叱責で済むなら良いが、降格もあり得る。最悪の場合は、軍から追放されるだろう。しかし、最も有り得るのはそのどれでもなく、賄賂の請求だった。
しばらくして、タンメルが部屋に入って来た。相変わらずの肥満体である。具足が重いのか、すでに息があがっていた。
「ほう、シグナスとはお前のことかぁ」
喘ぐようにタンメルが言った。頬が脂ぎっている。
「将軍の中で私は、名前と顔も一致しませんか」
シグナスが厳しい口調で言った。やめろ。俺は眼で言った。下手に物を言えば、本当に軍を追放される。だがシグナスは、タンメルの細い目を睨みつけたままだ。
「反抗的な奴だな。なんだお前は」
「私は物事の道理を説いただけです。間違った事をしたとは思っておりません。軍は強くなければなりません。軍は兵です。兵を鍛えるという事は、軍を鍛える事と同義です。将軍はそれを間違っていると」
「うるさい。喋るな。暑苦しいわ。私はそんな事はどうでも良いんだ、シグナス」
手で顔を仰ぎながら、タンメルは言った。シグナスが口をつぐんでいる。
「軍を追放されたくないだろ?」
糸のように細い目を、タンメルは光らせた。卑しい光だ。
「私は間違った事をしたとは思っておりません」
「それは二の次だ。いや、お前の心得次第で、間違った事ではなくなるな」
「シグナス」
思わず名を呼んでいた。シグナスが殺気を放っていたのだ。タンメルは露骨に賄賂を請求してきている。金を出せば、今回の件は不問にしてやる、と言っているのだ。この態度に、シグナスの腹は煮えたぎっているのだろう。だが、ここは何としてでも抑えておくべきだ。
「よく考えろ」
これが今言える限界だった。
「さすがにロアーヌは分かっておるな」
タンメルには良いように聞こえたらしい。舌打ちしたい気分だが、抑えた。
その時、不意にタンメルの細い目が光った。卑しい光。
「だが、ロアーヌ。お前も新兵を殴り殺そうとした、という事を聞いておるのだが?」
この男。
「何を言われます、将軍」
「シグナス、お前は黙っておれ。これはロアーヌの話だ。お前はお前で考えないといけない事があるだろ?」
「しかし」
「ロアーヌ、軍を追放されたくないよな?」
ニヤリと、粘っこい笑みをタンメルが浮かべて来た。正視に耐えず、俺は視線をそらした。
拳を握り締めた。どこまで腐っているのだ。こんな男が、将軍なのか。そして俺とシグナスは、この男の下で働いている。腐りきっている。こんな軍で、こんな国で働く事に意味があるのか。野に帰り、畑を耕し、生計を立てる。そんな暮らしの方がまだマシではないのか。だが、その実りも国に絞り取られる。こんな男に、絞り取られる。
「どうなんだ? ん?」
だが、俺は軍人だ。そして俺は、軍人しか出来ない男だ。
「将軍、後日に届け物を致します」
言っていた。しかし、情けなさは無かった。何故なら、俺の中で一つの決意が芽生えたからだ。いつか、この国をぶち壊す。確かに俺は軍人だ。だが、人間でもあり、男でもある。男なら、自分の信念に従うべきだ。
メッサーナ反乱の噂を、もっと調べてみる。真偽を確かめるのだ。真ならば、軍を抜けてメッサーナに亡命する。偽ならば、独自の方法で国をぶち壊してやる。それが出来ずとも、タンメルだけは殺す。俺には莫大な金も権力も無い。だがそれでも、これは俺の中で燃え上がる炎のように出来た思いだった。
「ロアーヌ、貴様」
シグナスが睨みつけてくる。それを俺は睨み返した。思いを込めて、睨み返した。これで伝わるはずだ。シグナスは、心の機微をよく読み取る。あとは、シグナス自身がどう動くかだけだ。
「さすがにロアーヌだのう。よく分かってるな。フヒヒヒ」
もう、タンメルの方は見なかった。あとはシグナス。お前がどう動くかだ。
「私も」
シグナス。声が震えていた。
「私も、後日、と、届け物を致します」
俺は目を閉じていた。泣いている。悔しさで、シグナスは泣いている。清廉潔白で、実直で、純粋な男だ。賄賂など、縁がない男だ。こんな男が、損をする。痛い目を見る。そして、タンメルのような腐った人間が得をする。ふざけた世の中だ。だが、俺もシグナスも、そんな世の中で生きていかなければならない。
「フヒヒヒ。そうかぁ。そうだよなぁ。フヒ」
タンメルが立ち上がった。満面の笑みを顔に浮かべている。糸のように細い目が卑しい。
「じゃぁ、もうお前達に用は無いぞ。ほれ、出ていけ」
タンメルが虫を追い払うように手を振った。
一度だけ、息を吐いた。軽く頭を下げる。そして、シグナスの背に手を置き、一緒に退出した。
まだ、シグナスは涙を流していた。
新兵の調練中の出来事だった。シグナスが新兵の一人を殴り殺そうとしたのである。俺は慌てて止めに入ったが、シグナスの目は怒りで血走っていた。
怒りの理由は賄賂だった。調練が厳しすぎる。金をやるから、自分には甘くしろ。新兵はそう言ったのである。まず、シグナスは新兵を怒鳴った。そして、賄賂の卑劣さを語った。だが、新兵は賄賂の金額を増して、これで、どうだ。と言った。これが不味かった。シグナスは完全に怒り、新兵を殴り殺そうとしだしたのだ。
俺がシグナスを羽交い締めにして、怒りをなだめている間に、大隊長を呼ばれた。周りの新兵が呼んだのだ。そして、事情を説明された。賄賂の事も話された。
そして、タンメル将軍の居室である。タンメルは賄賂で成り上がった将軍だ。叱責で済むなら良いが、降格もあり得る。最悪の場合は、軍から追放されるだろう。しかし、最も有り得るのはそのどれでもなく、賄賂の請求だった。
しばらくして、タンメルが部屋に入って来た。相変わらずの肥満体である。具足が重いのか、すでに息があがっていた。
「ほう、シグナスとはお前のことかぁ」
喘ぐようにタンメルが言った。頬が脂ぎっている。
「将軍の中で私は、名前と顔も一致しませんか」
シグナスが厳しい口調で言った。やめろ。俺は眼で言った。下手に物を言えば、本当に軍を追放される。だがシグナスは、タンメルの細い目を睨みつけたままだ。
「反抗的な奴だな。なんだお前は」
「私は物事の道理を説いただけです。間違った事をしたとは思っておりません。軍は強くなければなりません。軍は兵です。兵を鍛えるという事は、軍を鍛える事と同義です。将軍はそれを間違っていると」
「うるさい。喋るな。暑苦しいわ。私はそんな事はどうでも良いんだ、シグナス」
手で顔を仰ぎながら、タンメルは言った。シグナスが口をつぐんでいる。
「軍を追放されたくないだろ?」
糸のように細い目を、タンメルは光らせた。卑しい光だ。
「私は間違った事をしたとは思っておりません」
「それは二の次だ。いや、お前の心得次第で、間違った事ではなくなるな」
「シグナス」
思わず名を呼んでいた。シグナスが殺気を放っていたのだ。タンメルは露骨に賄賂を請求してきている。金を出せば、今回の件は不問にしてやる、と言っているのだ。この態度に、シグナスの腹は煮えたぎっているのだろう。だが、ここは何としてでも抑えておくべきだ。
「よく考えろ」
これが今言える限界だった。
「さすがにロアーヌは分かっておるな」
タンメルには良いように聞こえたらしい。舌打ちしたい気分だが、抑えた。
その時、不意にタンメルの細い目が光った。卑しい光。
「だが、ロアーヌ。お前も新兵を殴り殺そうとした、という事を聞いておるのだが?」
この男。
「何を言われます、将軍」
「シグナス、お前は黙っておれ。これはロアーヌの話だ。お前はお前で考えないといけない事があるだろ?」
「しかし」
「ロアーヌ、軍を追放されたくないよな?」
ニヤリと、粘っこい笑みをタンメルが浮かべて来た。正視に耐えず、俺は視線をそらした。
拳を握り締めた。どこまで腐っているのだ。こんな男が、将軍なのか。そして俺とシグナスは、この男の下で働いている。腐りきっている。こんな軍で、こんな国で働く事に意味があるのか。野に帰り、畑を耕し、生計を立てる。そんな暮らしの方がまだマシではないのか。だが、その実りも国に絞り取られる。こんな男に、絞り取られる。
「どうなんだ? ん?」
だが、俺は軍人だ。そして俺は、軍人しか出来ない男だ。
「将軍、後日に届け物を致します」
言っていた。しかし、情けなさは無かった。何故なら、俺の中で一つの決意が芽生えたからだ。いつか、この国をぶち壊す。確かに俺は軍人だ。だが、人間でもあり、男でもある。男なら、自分の信念に従うべきだ。
メッサーナ反乱の噂を、もっと調べてみる。真偽を確かめるのだ。真ならば、軍を抜けてメッサーナに亡命する。偽ならば、独自の方法で国をぶち壊してやる。それが出来ずとも、タンメルだけは殺す。俺には莫大な金も権力も無い。だがそれでも、これは俺の中で燃え上がる炎のように出来た思いだった。
「ロアーヌ、貴様」
シグナスが睨みつけてくる。それを俺は睨み返した。思いを込めて、睨み返した。これで伝わるはずだ。シグナスは、心の機微をよく読み取る。あとは、シグナス自身がどう動くかだけだ。
「さすがにロアーヌだのう。よく分かってるな。フヒヒヒ」
もう、タンメルの方は見なかった。あとはシグナス。お前がどう動くかだ。
「私も」
シグナス。声が震えていた。
「私も、後日、と、届け物を致します」
俺は目を閉じていた。泣いている。悔しさで、シグナスは泣いている。清廉潔白で、実直で、純粋な男だ。賄賂など、縁がない男だ。こんな男が、損をする。痛い目を見る。そして、タンメルのような腐った人間が得をする。ふざけた世の中だ。だが、俺もシグナスも、そんな世の中で生きていかなければならない。
「フヒヒヒ。そうかぁ。そうだよなぁ。フヒ」
タンメルが立ち上がった。満面の笑みを顔に浮かべている。糸のように細い目が卑しい。
「じゃぁ、もうお前達に用は無いぞ。ほれ、出ていけ」
タンメルが虫を追い払うように手を振った。
一度だけ、息を吐いた。軽く頭を下げる。そして、シグナスの背に手を置き、一緒に退出した。
まだ、シグナスは涙を流していた。
俺は峻烈に職務をこなしていた。そうする事によって、俺は国に反感を持っているぞ、という事を伝えたかった。
誰に伝えたいのか。それは東のメッサーナだ。
タンメルに呼び出されたあの日から、一ヶ月である。あの時の怒りと正義の炎は、未だに俺の中で燃え盛っている。形として賄賂を払う事になってしまったが、あの出来事は決して悪い事ではなかったと思う。何故なら、あの出来事は俺に行動する決意を与えたからだ。
あの日を境に、メッサーナ反乱の事を自分なりに調べてみた。一応、立場上としては俺は官軍であり、軍人だ。派手には動けない。だから、民とさりげなく語ったり、部下の中で民と仲の良い者と話をしたりして、俺は情報を得ていた。
メッサーナは確かに反乱を企てていた。しかも、それを無理には隠そうとしていない。反乱の首謀者やそれに与する者の名前や顔は掴めていないが、優秀な軍人や文官、策謀家は居るようである。
反乱の真偽は確かめた。あとは軍を抜けて、遥か東のメッサーナへと奔るだけだ。だが、それをやるには一つの問題があった。
それは、メッサーナに奔ったとして、軍に入れるのか、という事である。メッサーナは反乱を企てているので、当然、外部からの人間には警戒心を抱くはずだ。特に組織というものは、内からの破壊に脆い。あちら側からしてみれば、外部からの人間は全て異物に見えるだろう。その異物を、メッサーナは易々と自分達の中に取り込むのか。
この問題点を解消するには、事前にメッサーナと接触を図る事だ。これは、官軍に属している今がやりやすい。官軍に属していれば、俺という存在を外にアピールしやすいからだ。そして、そのための峻烈な職務だった。こうしていれば、あちら側から何らかの接触があるかもしれない、と思ったのだ。無論、官軍を抜けた後では、こういうアピールも出来なくなる。当然、役人やタンメルは俺の行動を不快に思うだろう。だが、失態を犯さなければ、奴らは何も出来ない。
出る杭を打ちたがる。優秀な人間を遠ざけ、愚劣な人間で周囲を固める。この国の高官は、そういう人間で溢れていた。
目の前で兵達が、ダラダラと調練をこなしていた。
「全員、手を止めろ。よく聞け。これより模擬戦を行う」
俺の発言に、兵達が露骨に嫌な顔をしてみせた。気にせずに言葉を続ける。
「三人一組となれ。一組ずつ、俺に向かって打ちかかってくる。一撃でも俺に木剣を当てる事が出来れば、合格。それができない組は、素振り千回だ」
兵達がどよめいた。新兵である。情けない。お前達は戦う事が仕事だろう。俺の部下ならば、この程度の課題には表情すら動かさない。
俺とシグナスには賄賂が効かない。それを兵達は知っている。そして、賄賂を渡せばどうなるのかも知っている。つまり、やるしかないのだ。
「よし、はじめ」
全部で三十組。合計で九十人である。しかし、手練ではない。素人に毛が生えた程度の腕だ。
最初の三人。同時に打ちかかって来た。剣を一度だけ、横に振った。二人同時に腹の溝に木剣を叩き込む。その場で二人がうずくまる。それを横目に、残り一人の胸を突いた。
「次」
さらに三人。剣を振りかぶっている。振り下ろされる前に身体を入れ、足のスネを木剣で叩いた。悲鳴と共に三人がうずくまった。
「次」
俺は兵達を叩き伏せている間、胸をかきむしりたい思いになっていた。早く、メッサーナに行きたい。こんな国など、早く捨ててしまいたい。この国では、真面目な奴が馬鹿をみる。ちょっとしたヘマを拾い上げられ、賄賂を請求される。こんなふざけた事があっていいのか。
そんな鬱屈した思いを、俺は剣に乗せて、兵を打っていた。
結局、三十組全てを俺が叩き伏せる事になった。少しばかり息が乱れている自分が、腹立たしかった。この程度の連中に、息を乱すなど。
「休憩は無しだ。すぐに素振り千回」
兵達がのろのろと動きだす。それを見て、カッとなった。
「おい、すぐに立ち上がれ」
木剣で一人の兵を打ちすえた。それを見た他の兵が、慌てて木剣を構え出す。
目を閉じた。イライラするな。そう自分に言い聞かせる。一度だけ、呼吸を挟み、目を開けた。
「はじめ」
兵達が素振りを始める。その素振りも、やらされている、という感しか無かった。
シグナスの事を考え始めた。
あの真っ直ぐな男が、賄賂を支払う事になった。最後の最後で、俺にはできない、と言って、俺が代理でタンメルに届け物をした。あまりにも真っ直ぐ過ぎる男だった。だが、俺は嫌いじゃない。槍の腕は一流だし、喋り散らしてうるさいわけでもない。当然、シグナスも俺と共にメッサーナへと奔る。
問題は、メッサーナとどう接触を図るかだ。存在感をアピールすると言っても、これだけではダメかもしれない。何しろ、相手任せ過ぎるのだ。やはり、どこかで暇を作って東に行くしかないのか。金を払えば、ある程度の休みは買える。しかし、今の俺が休みを買うというのはどこか不自然だ。かといって、峻烈に職務をこなさなければ、周りの人間とは区別が付きにくい。そして何より、これらを差し引いても、金を払う事には抵抗があった。
苦笑した。俺にもシグナスの真面目さが伝染したのかもしれない。以前なら、金を払うというのはそれほど抵抗はなかったという気がする。
兵達の素振りが終わった。どの兵も俺への怨念と疲労で、凄まじい形相になっていた。
「今日の調練は終わりだ。兵舎へ戻れ」
俺は表情も変えずに言った。すでに日は落ちかかっている。シグナスの方はすでに調練を終えただろうか。
全ての兵が調練場を出てから、俺も帰路についた。
家の玄関で一人の男が立っていた。身なりは商人のようである。本当に商人なら、さっさと追い返そう。そう思った。
「私の家に、何か御用ですかね」
声をかけてみた。男が振り返る。眼が合う。気が漲っていた。そして、こちらを射抜いてきた。
「おや、こちらのご主人の?」
「えぇ。まぁ」
「剣のロアーヌ様、とお伺いしております」
「兵達が勝手に騒いでいるだけです」
「私は剣を取り扱っている商人でして。どうです?」
要らない。帰れ。何故か、そう言おうとは思わなかった。
「話だけなら」
「おぉ、そうですか」
俺はこの男に、何かを感じていた。
誰に伝えたいのか。それは東のメッサーナだ。
タンメルに呼び出されたあの日から、一ヶ月である。あの時の怒りと正義の炎は、未だに俺の中で燃え盛っている。形として賄賂を払う事になってしまったが、あの出来事は決して悪い事ではなかったと思う。何故なら、あの出来事は俺に行動する決意を与えたからだ。
あの日を境に、メッサーナ反乱の事を自分なりに調べてみた。一応、立場上としては俺は官軍であり、軍人だ。派手には動けない。だから、民とさりげなく語ったり、部下の中で民と仲の良い者と話をしたりして、俺は情報を得ていた。
メッサーナは確かに反乱を企てていた。しかも、それを無理には隠そうとしていない。反乱の首謀者やそれに与する者の名前や顔は掴めていないが、優秀な軍人や文官、策謀家は居るようである。
反乱の真偽は確かめた。あとは軍を抜けて、遥か東のメッサーナへと奔るだけだ。だが、それをやるには一つの問題があった。
それは、メッサーナに奔ったとして、軍に入れるのか、という事である。メッサーナは反乱を企てているので、当然、外部からの人間には警戒心を抱くはずだ。特に組織というものは、内からの破壊に脆い。あちら側からしてみれば、外部からの人間は全て異物に見えるだろう。その異物を、メッサーナは易々と自分達の中に取り込むのか。
この問題点を解消するには、事前にメッサーナと接触を図る事だ。これは、官軍に属している今がやりやすい。官軍に属していれば、俺という存在を外にアピールしやすいからだ。そして、そのための峻烈な職務だった。こうしていれば、あちら側から何らかの接触があるかもしれない、と思ったのだ。無論、官軍を抜けた後では、こういうアピールも出来なくなる。当然、役人やタンメルは俺の行動を不快に思うだろう。だが、失態を犯さなければ、奴らは何も出来ない。
出る杭を打ちたがる。優秀な人間を遠ざけ、愚劣な人間で周囲を固める。この国の高官は、そういう人間で溢れていた。
目の前で兵達が、ダラダラと調練をこなしていた。
「全員、手を止めろ。よく聞け。これより模擬戦を行う」
俺の発言に、兵達が露骨に嫌な顔をしてみせた。気にせずに言葉を続ける。
「三人一組となれ。一組ずつ、俺に向かって打ちかかってくる。一撃でも俺に木剣を当てる事が出来れば、合格。それができない組は、素振り千回だ」
兵達がどよめいた。新兵である。情けない。お前達は戦う事が仕事だろう。俺の部下ならば、この程度の課題には表情すら動かさない。
俺とシグナスには賄賂が効かない。それを兵達は知っている。そして、賄賂を渡せばどうなるのかも知っている。つまり、やるしかないのだ。
「よし、はじめ」
全部で三十組。合計で九十人である。しかし、手練ではない。素人に毛が生えた程度の腕だ。
最初の三人。同時に打ちかかって来た。剣を一度だけ、横に振った。二人同時に腹の溝に木剣を叩き込む。その場で二人がうずくまる。それを横目に、残り一人の胸を突いた。
「次」
さらに三人。剣を振りかぶっている。振り下ろされる前に身体を入れ、足のスネを木剣で叩いた。悲鳴と共に三人がうずくまった。
「次」
俺は兵達を叩き伏せている間、胸をかきむしりたい思いになっていた。早く、メッサーナに行きたい。こんな国など、早く捨ててしまいたい。この国では、真面目な奴が馬鹿をみる。ちょっとしたヘマを拾い上げられ、賄賂を請求される。こんなふざけた事があっていいのか。
そんな鬱屈した思いを、俺は剣に乗せて、兵を打っていた。
結局、三十組全てを俺が叩き伏せる事になった。少しばかり息が乱れている自分が、腹立たしかった。この程度の連中に、息を乱すなど。
「休憩は無しだ。すぐに素振り千回」
兵達がのろのろと動きだす。それを見て、カッとなった。
「おい、すぐに立ち上がれ」
木剣で一人の兵を打ちすえた。それを見た他の兵が、慌てて木剣を構え出す。
目を閉じた。イライラするな。そう自分に言い聞かせる。一度だけ、呼吸を挟み、目を開けた。
「はじめ」
兵達が素振りを始める。その素振りも、やらされている、という感しか無かった。
シグナスの事を考え始めた。
あの真っ直ぐな男が、賄賂を支払う事になった。最後の最後で、俺にはできない、と言って、俺が代理でタンメルに届け物をした。あまりにも真っ直ぐ過ぎる男だった。だが、俺は嫌いじゃない。槍の腕は一流だし、喋り散らしてうるさいわけでもない。当然、シグナスも俺と共にメッサーナへと奔る。
問題は、メッサーナとどう接触を図るかだ。存在感をアピールすると言っても、これだけではダメかもしれない。何しろ、相手任せ過ぎるのだ。やはり、どこかで暇を作って東に行くしかないのか。金を払えば、ある程度の休みは買える。しかし、今の俺が休みを買うというのはどこか不自然だ。かといって、峻烈に職務をこなさなければ、周りの人間とは区別が付きにくい。そして何より、これらを差し引いても、金を払う事には抵抗があった。
苦笑した。俺にもシグナスの真面目さが伝染したのかもしれない。以前なら、金を払うというのはそれほど抵抗はなかったという気がする。
兵達の素振りが終わった。どの兵も俺への怨念と疲労で、凄まじい形相になっていた。
「今日の調練は終わりだ。兵舎へ戻れ」
俺は表情も変えずに言った。すでに日は落ちかかっている。シグナスの方はすでに調練を終えただろうか。
全ての兵が調練場を出てから、俺も帰路についた。
家の玄関で一人の男が立っていた。身なりは商人のようである。本当に商人なら、さっさと追い返そう。そう思った。
「私の家に、何か御用ですかね」
声をかけてみた。男が振り返る。眼が合う。気が漲っていた。そして、こちらを射抜いてきた。
「おや、こちらのご主人の?」
「えぇ。まぁ」
「剣のロアーヌ様、とお伺いしております」
「兵達が勝手に騒いでいるだけです」
「私は剣を取り扱っている商人でして。どうです?」
要らない。帰れ。何故か、そう言おうとは思わなかった。
「話だけなら」
「おぉ、そうですか」
俺はこの男に、何かを感じていた。
俺は剣の商人と名乗る男と、机を挟んで向かい合っていた。相変わらず、男の眼には気が漲っている。
この男は、本当に商人なのだろうか。俺はそう思っていた。商人にしては、鋭すぎる。上手く言えないが、才気を全身から放っているという感じがするのだ。だが、それは嫌な感じではない。
「さて、商材の剣ですが」
男が荷物の中から、何本かの剣を取りだした。そして、それを机の上に順序よく並べていく。どれも平凡な剣で、特筆すべき点は無いように感じる。俺はそう思いながら、ジッと剣だけを見つめていた。
「ロアーヌ様は、喋られる事はお嫌いですか?」
「まぁ、どちらかと言えば」
俺は剣に目を注いだまま言った。
話す事が好きではない。これは子供の頃からそうだった。何故かは自分でもよく分からない。性格的なものだろう、とは思っている。欠点と言えば欠点なのだろうが、直そう、という気は無かった。
「では、すぐに本題に入りますかな。実はもう一本、剣があるのですよ」
俺は顔をあげ、男の眼を見た。気の漲りが、強くなっている。
「これはとっておきです」
「ほう。で、その剣はどこに?」
「身体の内に」
男が、かすかに口角を釣り上げた。
「志ですよ、ロアーヌ様」
「言っている意味がわかりませんな」
「大志です。ロアーヌ様の中にも、あるはずです」
ここに来て俺は、話が大きく飛躍している事に気が付いた。この男、商人ではない。俺はそう思った。さらに奥へと考えを進める。メッサーナの名が浮かんできた。しかし、まだ分からない。探りを入れてみるか。
「私は軍人です。軍人は与えられた命令をこなすのみですよ」
「ある牧場に、二頭の馬が居ました」
男はいきなり言った。
「この二頭の馬は立派な馬なのですが、いかんせん、牧場がよくありません。糞は片付けられず、土は荒れ放題。さらに牧場主は周りの者達の言いなりで、牧場がどうなっているかも正確に把握できていません。そして、他の馬は駄馬ばかりです」
俺は黙って、男の眼を見つめていた。この話は、単なる例え話だろう。二頭の馬とは、俺とシグナス。牧場は国。牧場主は王であり、周りの者とは腐った役人どもだ。そして、駄馬は他の軍人を現わしている。
「二頭の馬は、この牧場を出たがっておりました。そして、その心は思うさまに原野を駆け回りたい、という思いで一杯になっている」
この男、信用していいのか。俺はこれだけを考えていた。国が寄越した間者の可能性もあるのだ。ここで本心を吐露した途端、捕縛される可能性もある。
「もう分かって頂けたようですね。しかし、シグナス様と違って、ロアーヌ様は用心深い。まぁ、それも軍人としての一つの資質ですかな」
男が声をあげて笑った。
シグナスの名前を出してきた。そして俺と比較した。その比較内容からみて、すでに男がシグナスと接触した事は間違いないだろう。シグナスは短絡的とまでは言わないが、これだ、と思ったら、そのまま真っ直ぐ進む所がある。これはある意味、思い切りの良さであり、あれこれと思案する俺には無い部分だった。
「信用してくれ、とは言いません、ロアーヌ様。しかし、我々は待っています。『東の地』で」
やはり、メッサーナか。だが、まだ信用するには早い。あくまで、メッサーナだとしたら、という仮定が生まれただけである。この仮定が生まれた事自体に関しては悪くは無い。待ち望んでいたものが、こちらに飛び込んできたのだ。後は、自らが行動するだけだ。ただし、信用が出来ればである。
それに一口に行動をすると言っても、いくつかの問題があった。正式に都から出るには王の許可が要るし、無理に突破するにしても城門に居る兵士達をどうにかしなければならない。強行突破に関して言えば、俺とシグナスの二人ならばやれない事はないだろうが、全くの無傷となると難しい話である。
「近々、役所で火災が起きると思います。その時の混乱に乗じて、シグナス様と二人で東へ向けて出奔してください。まぁ、あくまで、信用して頂けるのならば、ですが」
俺の心の内を見透かしたかのように、男が言った。つまり、メッサーナが俺とシグナスのために、一肌脱ごう、という事である。
これは時が来た、と考えるべきなのだろうか。だが、あまりにも、話がウマすぎる。俺とシグナスは、タンメル将軍配下のただの小隊長だ。身分で言えば、これは高いとは言えない。無論、この国では身分=能力、という方式は成り立たないが、それにしても話がウマすぎる。
今、決断するのはよそう。俺はそう思った。今は疑心暗鬼で悪いようにしか考えられなくなっている。端から見れば、この話はこれ以上ない機会のはずだ。だからこそ、冷静になってからもう一度、考えた方が良い。
「ここで私も返事を頂けるとは思っていません。ただ、まぁ、東は良い所ですよ」
男が二コリと笑った。相変わらず、眼には気が漲っている。嘘を言う男の眼ではない。俺は直感的にそう思った。
「では、私はこれで」
そう言って、男は帰って行った。
俺はしばらく、居間でジッとしていた。すると、従者のランドが顔を出してきた。
「ロアーヌ様、ご客人は帰られたようですね。すぐに夕飯に致しますか?」
「いや、良い。食べたくなったら呼ぼう。その間、お前も休んでいていい」
そう言うと、ランドは一礼だけして去って行った。
「大志、か」
俺の中でこの言葉は、確かな輝きをみせていた。
明日、シグナスと話をしてみるか。ここ最近、職務を峻烈にこなすばかりで、お互いに暇が作れなかった。明日は俺もシグナスも、仕事が休みである。
「大志」
その輝きを再確認するかのように、俺はもう一度、口に出して言っていた。
この男は、本当に商人なのだろうか。俺はそう思っていた。商人にしては、鋭すぎる。上手く言えないが、才気を全身から放っているという感じがするのだ。だが、それは嫌な感じではない。
「さて、商材の剣ですが」
男が荷物の中から、何本かの剣を取りだした。そして、それを机の上に順序よく並べていく。どれも平凡な剣で、特筆すべき点は無いように感じる。俺はそう思いながら、ジッと剣だけを見つめていた。
「ロアーヌ様は、喋られる事はお嫌いですか?」
「まぁ、どちらかと言えば」
俺は剣に目を注いだまま言った。
話す事が好きではない。これは子供の頃からそうだった。何故かは自分でもよく分からない。性格的なものだろう、とは思っている。欠点と言えば欠点なのだろうが、直そう、という気は無かった。
「では、すぐに本題に入りますかな。実はもう一本、剣があるのですよ」
俺は顔をあげ、男の眼を見た。気の漲りが、強くなっている。
「これはとっておきです」
「ほう。で、その剣はどこに?」
「身体の内に」
男が、かすかに口角を釣り上げた。
「志ですよ、ロアーヌ様」
「言っている意味がわかりませんな」
「大志です。ロアーヌ様の中にも、あるはずです」
ここに来て俺は、話が大きく飛躍している事に気が付いた。この男、商人ではない。俺はそう思った。さらに奥へと考えを進める。メッサーナの名が浮かんできた。しかし、まだ分からない。探りを入れてみるか。
「私は軍人です。軍人は与えられた命令をこなすのみですよ」
「ある牧場に、二頭の馬が居ました」
男はいきなり言った。
「この二頭の馬は立派な馬なのですが、いかんせん、牧場がよくありません。糞は片付けられず、土は荒れ放題。さらに牧場主は周りの者達の言いなりで、牧場がどうなっているかも正確に把握できていません。そして、他の馬は駄馬ばかりです」
俺は黙って、男の眼を見つめていた。この話は、単なる例え話だろう。二頭の馬とは、俺とシグナス。牧場は国。牧場主は王であり、周りの者とは腐った役人どもだ。そして、駄馬は他の軍人を現わしている。
「二頭の馬は、この牧場を出たがっておりました。そして、その心は思うさまに原野を駆け回りたい、という思いで一杯になっている」
この男、信用していいのか。俺はこれだけを考えていた。国が寄越した間者の可能性もあるのだ。ここで本心を吐露した途端、捕縛される可能性もある。
「もう分かって頂けたようですね。しかし、シグナス様と違って、ロアーヌ様は用心深い。まぁ、それも軍人としての一つの資質ですかな」
男が声をあげて笑った。
シグナスの名前を出してきた。そして俺と比較した。その比較内容からみて、すでに男がシグナスと接触した事は間違いないだろう。シグナスは短絡的とまでは言わないが、これだ、と思ったら、そのまま真っ直ぐ進む所がある。これはある意味、思い切りの良さであり、あれこれと思案する俺には無い部分だった。
「信用してくれ、とは言いません、ロアーヌ様。しかし、我々は待っています。『東の地』で」
やはり、メッサーナか。だが、まだ信用するには早い。あくまで、メッサーナだとしたら、という仮定が生まれただけである。この仮定が生まれた事自体に関しては悪くは無い。待ち望んでいたものが、こちらに飛び込んできたのだ。後は、自らが行動するだけだ。ただし、信用が出来ればである。
それに一口に行動をすると言っても、いくつかの問題があった。正式に都から出るには王の許可が要るし、無理に突破するにしても城門に居る兵士達をどうにかしなければならない。強行突破に関して言えば、俺とシグナスの二人ならばやれない事はないだろうが、全くの無傷となると難しい話である。
「近々、役所で火災が起きると思います。その時の混乱に乗じて、シグナス様と二人で東へ向けて出奔してください。まぁ、あくまで、信用して頂けるのならば、ですが」
俺の心の内を見透かしたかのように、男が言った。つまり、メッサーナが俺とシグナスのために、一肌脱ごう、という事である。
これは時が来た、と考えるべきなのだろうか。だが、あまりにも、話がウマすぎる。俺とシグナスは、タンメル将軍配下のただの小隊長だ。身分で言えば、これは高いとは言えない。無論、この国では身分=能力、という方式は成り立たないが、それにしても話がウマすぎる。
今、決断するのはよそう。俺はそう思った。今は疑心暗鬼で悪いようにしか考えられなくなっている。端から見れば、この話はこれ以上ない機会のはずだ。だからこそ、冷静になってからもう一度、考えた方が良い。
「ここで私も返事を頂けるとは思っていません。ただ、まぁ、東は良い所ですよ」
男が二コリと笑った。相変わらず、眼には気が漲っている。嘘を言う男の眼ではない。俺は直感的にそう思った。
「では、私はこれで」
そう言って、男は帰って行った。
俺はしばらく、居間でジッとしていた。すると、従者のランドが顔を出してきた。
「ロアーヌ様、ご客人は帰られたようですね。すぐに夕飯に致しますか?」
「いや、良い。食べたくなったら呼ぼう。その間、お前も休んでいていい」
そう言うと、ランドは一礼だけして去って行った。
「大志、か」
俺の中でこの言葉は、確かな輝きをみせていた。
明日、シグナスと話をしてみるか。ここ最近、職務を峻烈にこなすばかりで、お互いに暇が作れなかった。明日は俺もシグナスも、仕事が休みである。
「大志」
その輝きを再確認するかのように、俺はもう一度、口に出して言っていた。
俺はシグナスを自宅に招き入れていた。二人で昨日の商人について話し合うためである。
「俺は信用して良いと思ってるぜ、ロアーヌ」
シグナスが何の事もないかのように言った。これ以外にも、商人に対する印象など、シグナスの意見はどれも肯定的なものだ。
「しかし、話がウマすぎると思わんか」
「まぁ、言われてみればな。しかし、東に行くには何らかのリスクが絶対にある。そして今回の件は、信用してしまえば、そのリスクがかなり小さくなる」
「お前の言う事も分かるが」
「ロアーヌ、俺はメッサーナに行きたい。タンメルに賄賂を支払ったという事を考えると、今でも吐き気がする。これを振り切るには、東の地で大成するしかないと俺は思ってる」
シグナスが唇を噛んだ。その様子を見て、俺はただ腕を組んだ。
正直な所、俺もあの商人の事は信用しても良いと思っていた。しかし、東に行くとなると全てを捨てなければならない。親から受け継いだ財産や家はもちろん、自分が育て上げた部下や従者のランドも捨てなければならない。この惜しさが、心残りとなっているのだ。だが俺は、これを言葉にできずにいた。
「シグナス、お前の気持ちも分からんでもないのだが」
「俺は全てを捨てるぜ、ロアーヌ。そうでないと、いつまでもタンメルの影がちらつく。あれは俺の中で戦だった。そして、負けた。だが、次は勝つ。勝つために、俺は全てを捨てる」
シグナスは強い男だ。俺はそう思った。肉体的にではなく、精神的にだ。常に前を見ている。過ぎた事は過ぎた事で処理し、次にどうするのかを、自分の中で決めていく。そして決めたら、もう振り返らない。
俺は小さな男だ。大事を目の前にして、小事を気にしてしまう。こういう時、シグナスの思い切りの良さが羨ましかった。
「ロアーヌ、行こうぜ。今回の件は信用しても良い。俺はそう思う」
シグナスの眼の光が猛々しい。俺の背中を押そうとしてくれているのだ。
今が決断の時か。俺はそう思った。シグナスはすでに決めている。あとは俺が決めるだけだ。いや、もう俺も決めているはずだ。あとは、言葉にするだけの事だ。
「あぁ、そうだな」
そこまで考えて、俺は言っていた。言ってしまうと、何の事はなかった。大事なのは、これからなのだ。腐った国をぶち壊す。それを大志とする。そのために、俺はメッサーナに行かなければならない。
「礼を言う、シグナス」
「何がだ?」
この返事に、俺はただ笑うしかなかった。そして、友とはこういうものかもしれない、とも思った。
あれから数日後。いつも通り俺は、調練場で兵を鍛えていた。
出奔の準備はすでに出来ていた。逃亡の身となるので、持っていく物は、剣一本と数日分の食糧に僅かな銭のみ、と決めた。おそらく、シグナスも似たようなものだろう。あとは、あの商人の言っていた役所の火災が起きるのを待つだけである。
無論、俺の部下達や従者であるランドには、出奔の事などは話していない。悪い、という気持ちはあるが、仕方のない事だと思い定めた。
不意に、外が騒がしくなった。
「火事だぁっ」
この叫び声が耳に入ると同時に、心臓の音が聞こえた。あの商人の言っていた事は本当だったのか。まず俺はこれを思った。
「ロアーヌ、居るかっ」
シグナスの声。振り返る。落ち着け。俺は自分にそう言い聞かせた。
「あぁ」
返事をして外に出た。役所の方に眼をやる。煙があがっていた。黒い煙だ。小火ではなく、本格的な火事だ。
「ロアーヌ、手筈通りに」
「わかってる」
互いに持ち場である調練場に戻った。兵達が僅かにたじろいでいる。
「お前達、俺とシグナスは火の様子を見に行く。煙から察するに、小火ではない。お前たちは水を用意しろ。火を消すのだ」
兵達が返事をした。それに対して俺は頷き返し、外に出た。隣の調練場からシグナスが出てくる。
「急ぐぞ。東門から出る」
「落ち着け、シグナス。まずは俺の家だ」
馬を二頭、ひかせてある。そこに食料もおいてあるのだ。
走った。軍営を出て、家へと向かう。民達も、この騒ぎは何事かと外に出ていた。
家についた。食料を確保して、すぐに馬に乗った。腰元の剣を確認する。シグナスは槍を右手に持っている。
「ランド、達者でな」
馬腹をカカトで蹴った。駆ける。城門が見えた。いつもより見張りが少ない。火事の様子を見に行ったのか。
「止まれ、何用だ」
そう言って、兵が道を遮ってきた。俺は何も言わず、剣を抜いた。兵と一瞬だけ、目が合った。兵が何か言いかける。それとほぼ同時に、兵の首が飛んだ。
「なっ」
他の兵が、慌てて剣を抜いてきた。二人。場が殺気立つ。
「シグナス、こいつらはもう敵だ。容赦せずに殺すぞ」
「謀反人か、貴様ら」
「違う、大志を抱く者だ」
剣を持ち、馬を飛び降りる。地に足が付く前に、相手の身体を縦に割っていた。もう一人。シグナスが馬上で槍を突き出す。槍の穂先が、兵の胸を貫いていた。
「再び、この地を踏む事はあるかな、ロアーヌ」
「ある。その時には、国は生まれ変わっている。いや、俺達がそうする」
シグナスが、かすかに頷いた。
「急ごう」
城門を出た。原野。ここから、俺とシグナスの新たな人生が始まる。
「俺は信用して良いと思ってるぜ、ロアーヌ」
シグナスが何の事もないかのように言った。これ以外にも、商人に対する印象など、シグナスの意見はどれも肯定的なものだ。
「しかし、話がウマすぎると思わんか」
「まぁ、言われてみればな。しかし、東に行くには何らかのリスクが絶対にある。そして今回の件は、信用してしまえば、そのリスクがかなり小さくなる」
「お前の言う事も分かるが」
「ロアーヌ、俺はメッサーナに行きたい。タンメルに賄賂を支払ったという事を考えると、今でも吐き気がする。これを振り切るには、東の地で大成するしかないと俺は思ってる」
シグナスが唇を噛んだ。その様子を見て、俺はただ腕を組んだ。
正直な所、俺もあの商人の事は信用しても良いと思っていた。しかし、東に行くとなると全てを捨てなければならない。親から受け継いだ財産や家はもちろん、自分が育て上げた部下や従者のランドも捨てなければならない。この惜しさが、心残りとなっているのだ。だが俺は、これを言葉にできずにいた。
「シグナス、お前の気持ちも分からんでもないのだが」
「俺は全てを捨てるぜ、ロアーヌ。そうでないと、いつまでもタンメルの影がちらつく。あれは俺の中で戦だった。そして、負けた。だが、次は勝つ。勝つために、俺は全てを捨てる」
シグナスは強い男だ。俺はそう思った。肉体的にではなく、精神的にだ。常に前を見ている。過ぎた事は過ぎた事で処理し、次にどうするのかを、自分の中で決めていく。そして決めたら、もう振り返らない。
俺は小さな男だ。大事を目の前にして、小事を気にしてしまう。こういう時、シグナスの思い切りの良さが羨ましかった。
「ロアーヌ、行こうぜ。今回の件は信用しても良い。俺はそう思う」
シグナスの眼の光が猛々しい。俺の背中を押そうとしてくれているのだ。
今が決断の時か。俺はそう思った。シグナスはすでに決めている。あとは俺が決めるだけだ。いや、もう俺も決めているはずだ。あとは、言葉にするだけの事だ。
「あぁ、そうだな」
そこまで考えて、俺は言っていた。言ってしまうと、何の事はなかった。大事なのは、これからなのだ。腐った国をぶち壊す。それを大志とする。そのために、俺はメッサーナに行かなければならない。
「礼を言う、シグナス」
「何がだ?」
この返事に、俺はただ笑うしかなかった。そして、友とはこういうものかもしれない、とも思った。
あれから数日後。いつも通り俺は、調練場で兵を鍛えていた。
出奔の準備はすでに出来ていた。逃亡の身となるので、持っていく物は、剣一本と数日分の食糧に僅かな銭のみ、と決めた。おそらく、シグナスも似たようなものだろう。あとは、あの商人の言っていた役所の火災が起きるのを待つだけである。
無論、俺の部下達や従者であるランドには、出奔の事などは話していない。悪い、という気持ちはあるが、仕方のない事だと思い定めた。
不意に、外が騒がしくなった。
「火事だぁっ」
この叫び声が耳に入ると同時に、心臓の音が聞こえた。あの商人の言っていた事は本当だったのか。まず俺はこれを思った。
「ロアーヌ、居るかっ」
シグナスの声。振り返る。落ち着け。俺は自分にそう言い聞かせた。
「あぁ」
返事をして外に出た。役所の方に眼をやる。煙があがっていた。黒い煙だ。小火ではなく、本格的な火事だ。
「ロアーヌ、手筈通りに」
「わかってる」
互いに持ち場である調練場に戻った。兵達が僅かにたじろいでいる。
「お前達、俺とシグナスは火の様子を見に行く。煙から察するに、小火ではない。お前たちは水を用意しろ。火を消すのだ」
兵達が返事をした。それに対して俺は頷き返し、外に出た。隣の調練場からシグナスが出てくる。
「急ぐぞ。東門から出る」
「落ち着け、シグナス。まずは俺の家だ」
馬を二頭、ひかせてある。そこに食料もおいてあるのだ。
走った。軍営を出て、家へと向かう。民達も、この騒ぎは何事かと外に出ていた。
家についた。食料を確保して、すぐに馬に乗った。腰元の剣を確認する。シグナスは槍を右手に持っている。
「ランド、達者でな」
馬腹をカカトで蹴った。駆ける。城門が見えた。いつもより見張りが少ない。火事の様子を見に行ったのか。
「止まれ、何用だ」
そう言って、兵が道を遮ってきた。俺は何も言わず、剣を抜いた。兵と一瞬だけ、目が合った。兵が何か言いかける。それとほぼ同時に、兵の首が飛んだ。
「なっ」
他の兵が、慌てて剣を抜いてきた。二人。場が殺気立つ。
「シグナス、こいつらはもう敵だ。容赦せずに殺すぞ」
「謀反人か、貴様ら」
「違う、大志を抱く者だ」
剣を持ち、馬を飛び降りる。地に足が付く前に、相手の身体を縦に割っていた。もう一人。シグナスが馬上で槍を突き出す。槍の穂先が、兵の胸を貫いていた。
「再び、この地を踏む事はあるかな、ロアーヌ」
「ある。その時には、国は生まれ変わっている。いや、俺達がそうする」
シグナスが、かすかに頷いた。
「急ごう」
城門を出た。原野。ここから、俺とシグナスの新たな人生が始まる。
俺とシグナスは、東に向かって駆け続けていた。季節は秋から冬に移り変わろうとしている。
都を出て、すでに五日が経っていた。今頃、俺達は罪人扱いとなっているだろう。逃亡だけでなく、見張りの兵士を三人殺したのだ。全国にも手配書が回っているだろうし、追手もかけられているはずだ。
しかし、焦りは無かった。胸に大志を抱いているのである。一振りの剣と大志があれば、どんな苦しい事にも耐えられる。俺はそう思っていた。やはり、都を出て良かったのだ。
メッサーナの主義と俺達の大志は、完全にとは言わないが、ほぼ一致していた。あとは直接、この自分の目で真実を確かめるだけだ。だからではないが、メッサーナに到着するのが楽しみである。
「もう五日も経つか。東は遠いな、ロアーヌ」
「あぁ」
すでに食料は尽きていた。メッサーナまで、あと四日という所だ。一気に馬を駆けさせると、すぐに馬は潰れてしまう。使い物にならなくなるのだ。だから、少し速度を落として駆けさせなければならない。当然、休憩も挟む。しかしそれでも、十分に速い、というペースだった。
この五日間で、いくつかの町や村を通った。どこも民は苦しそうで、覇気が無かった。その反面、役人や駐屯している軍人は生き生きとしていた。これはつまり、役人や軍人が民から潤いを搾取しているという事だ。そして、その搾取する量は都などよりもずっと多い。
もっと都から離れれば、こういう所は少なくなるはずだ。優秀な人間は地方に飛ばされている。そこでは、きちんとした施政も敷かれているだろう。メッサーナもその中の一つである。しかし、所詮は地方だった。民の数は少ないし、土地も良くない。気候などに左右されやすいのだ。それだけではなく、異民族を警戒しなければならない所もある。
馬で駆けていると、また村が見えてきた。すでに食料は無く、昨日は野宿だった。宿は取れずとも、食料だけは手に入れておきたい。僅かだが、銭もある。
「行ってみるか」
「大丈夫か? そろそろ、追手が追いつく頃だぜ。食料なら、そこらへんの野兎を仕留めれば良い」
シグナスの言っている事はもっともな事だった。しかし、弓矢は持って来ていない。そうなると、石つぶてで仕留める事になる。俺達は、その類の心得は持っていなかった。
「まぁ、ギリギリかな。良いぜ、行くか」
俺のそんな思いを察したのか、シグナスは明るい表情で言った。
村に入った。のどかな村で、十前後の家屋が見える。数人の村人が、野良仕事のために外に出ていた。やはり、眼には覇気がない。だが、今まで見て来た町や村よりは、マシだという印象だ。
「すまぬ、食料を手に入れたいのだが」
俺は馬から降りて、村人に声をかけた。村人はゆっくりと俺の全身を見てから、ちょっとだけ溜め息をついたようだ。
「軍人様か。食料なら、あっちに」
村人は奥の家屋の方に指を差した。顔には諦めの表情が浮かんでいる。下手に隠せば、村を荒らされる。それを知っている表情だ。
「おい、勘違いするなよ、村人。俺達は腐った軍人じゃねぇ。銭もある」
「やめろ、シグナス」
「しかし」
「それだけ、この国は腐っているという事だ。村人、俺達は食料を奪いに来たわけじゃない。銭で買いたいのだ」
村人は、ただ黙っていた。
すると、村の入り口が急に騒がしくなった。振り返る。十数人の軍人だった。追っ手か。俺はそう思った。
「おい、村長を出せ、クソ田舎っぺども」
隊長らしき男が、馬上で威張り散らしている。
「この偉い偉い俺様がこんな田舎に来てやったんだ。とっとと接待をはじめんか、アホどもが」
俺はただ、黙って聞いていた。シグナスはすでに怒りを顔に表している。
村長らしき老人が出てきた。すでに足腰が弱いのか、ヨロヨロとした歩みである。
「おいっ。何をトロトロやってんだ、ここに俺様が居るんだぞ。走ってこい、マヌケ」
あの野郎。シグナスがそう呟いている。
「申し訳ありません。すでに足腰が弱っておりまして」
「うるさいわ。とっとと接待の用意を始めろ。まずは酒だ。それとな、ここにロアーヌとシグナスって奴は来なかったか」
男が手配書を出した。老人は首をかしげている。
「クソの役にも立たんな、お前らは。人間以下の家畜だ」
俺は剣の束に手をやった。生かしておく価値もない。斬るか。そう思った時には、シグナスがすでに場に躍り出ていた。
「おい、誰が人間以下の家畜だ? お前は一体、何様だ。馬を降りろ」
「なんだ、貴様は。どこのどいつだ」
「お前の持っている手配書を見てみろ」
「あぁん?」
男が手配書と、シグナスの顔を何度も見比べている。目を見開いた。口を大きく開けた。そして、すぐに鞘から剣を払った。
「お前がシグナス」
「そうだ。だとしたら、どうする?」
「こうしてくれるわっ」
男が馬を駆けさせた。シグナスと交わる。一合。男の胸を、一本の槍が貫いていた。
「残りの奴らも、この男と似たようなもんだろう。おら、さっさとかかってこい」
槍を死体から引き抜き、シグナスが吼えた。残りの兵が一斉に飛び掛かってくる。俺も鞘から剣を払い、場に躍り出る。
「遅いぜ、ロアーヌ」
「その分の働きはしてやる」
会話は、それだけだった。次々に向かってくる兵を剣で斬り倒す。六人を斬った所で、残りの兵が戦う事を躊躇し始めた。目には怯えが見える。
「お前達、戦う意志がないなら、戻って上官に伝えろ。俺達を捕えたければ、精兵千人を連れて来いとな」
俺はシグナスのその言葉を聞きながら、剣を鞘に収めた。すでに兵からは、殺気が消えている。怯えているだけだ。
「わかったかっ」
シグナスが声をあげると同時に、兵達が逃げ出した。シグナスがそれを見て、舌打ちする。
「なんて事を」
不意に、後ろの老人が呻くように言った。俺とシグナスが振り返る。
「なんて事をしてくれました。もう、この村は終わりです」
「何を言っている?」
「軍人様を殺してしまいました」
「殺したのは俺達だ」
「しかし、この村で殺しました。本当になんて事をしてくれたのです」
「あのまま放っておけば、あの軍人は威張り散らしたままだったんだぞ、ご老人」
「たったそれだけです。そして、村の蓄えを渡しておけば、今後も村は平和に暮らしていけました」
俺は、目を閉じた。
「この村は何も罪を犯してはいないではないか。そして貧しい。それなのに、蓄えを出さなければならない。これはおかしい事だ。そうは思わないのか」
「そういう世の中です。あぁ、本当になんて事をしてくれたのです」
シグナスもこれ以上は、何も言えないようだった。
そういう世の中。この老人は、確かにそう言った。真面目に生きている者が損をし、腐った人間が得をする。弱者は強者に虐げられ、強者は私腹を肥やす。これはどう考えても、おかしい事だ。だが、そんなおかしい世の中で、この村は生きて来た。それを、俺達が壊してしまったのか。俺は目を開いた。
「行くぞ、シグナス」
「ロアーヌ、俺は」
そうだ。シグナス。お前は間違っていない。俺達は間違った事はしていない。しかしそれは、今の世の中では通用しない事なのだ。それを正すために、俺達は東に行く。
「行くぞ」
もう一度、俺は言った。シグナスは、悔しさでその身を震わせていた。
都を出て、すでに五日が経っていた。今頃、俺達は罪人扱いとなっているだろう。逃亡だけでなく、見張りの兵士を三人殺したのだ。全国にも手配書が回っているだろうし、追手もかけられているはずだ。
しかし、焦りは無かった。胸に大志を抱いているのである。一振りの剣と大志があれば、どんな苦しい事にも耐えられる。俺はそう思っていた。やはり、都を出て良かったのだ。
メッサーナの主義と俺達の大志は、完全にとは言わないが、ほぼ一致していた。あとは直接、この自分の目で真実を確かめるだけだ。だからではないが、メッサーナに到着するのが楽しみである。
「もう五日も経つか。東は遠いな、ロアーヌ」
「あぁ」
すでに食料は尽きていた。メッサーナまで、あと四日という所だ。一気に馬を駆けさせると、すぐに馬は潰れてしまう。使い物にならなくなるのだ。だから、少し速度を落として駆けさせなければならない。当然、休憩も挟む。しかしそれでも、十分に速い、というペースだった。
この五日間で、いくつかの町や村を通った。どこも民は苦しそうで、覇気が無かった。その反面、役人や駐屯している軍人は生き生きとしていた。これはつまり、役人や軍人が民から潤いを搾取しているという事だ。そして、その搾取する量は都などよりもずっと多い。
もっと都から離れれば、こういう所は少なくなるはずだ。優秀な人間は地方に飛ばされている。そこでは、きちんとした施政も敷かれているだろう。メッサーナもその中の一つである。しかし、所詮は地方だった。民の数は少ないし、土地も良くない。気候などに左右されやすいのだ。それだけではなく、異民族を警戒しなければならない所もある。
馬で駆けていると、また村が見えてきた。すでに食料は無く、昨日は野宿だった。宿は取れずとも、食料だけは手に入れておきたい。僅かだが、銭もある。
「行ってみるか」
「大丈夫か? そろそろ、追手が追いつく頃だぜ。食料なら、そこらへんの野兎を仕留めれば良い」
シグナスの言っている事はもっともな事だった。しかし、弓矢は持って来ていない。そうなると、石つぶてで仕留める事になる。俺達は、その類の心得は持っていなかった。
「まぁ、ギリギリかな。良いぜ、行くか」
俺のそんな思いを察したのか、シグナスは明るい表情で言った。
村に入った。のどかな村で、十前後の家屋が見える。数人の村人が、野良仕事のために外に出ていた。やはり、眼には覇気がない。だが、今まで見て来た町や村よりは、マシだという印象だ。
「すまぬ、食料を手に入れたいのだが」
俺は馬から降りて、村人に声をかけた。村人はゆっくりと俺の全身を見てから、ちょっとだけ溜め息をついたようだ。
「軍人様か。食料なら、あっちに」
村人は奥の家屋の方に指を差した。顔には諦めの表情が浮かんでいる。下手に隠せば、村を荒らされる。それを知っている表情だ。
「おい、勘違いするなよ、村人。俺達は腐った軍人じゃねぇ。銭もある」
「やめろ、シグナス」
「しかし」
「それだけ、この国は腐っているという事だ。村人、俺達は食料を奪いに来たわけじゃない。銭で買いたいのだ」
村人は、ただ黙っていた。
すると、村の入り口が急に騒がしくなった。振り返る。十数人の軍人だった。追っ手か。俺はそう思った。
「おい、村長を出せ、クソ田舎っぺども」
隊長らしき男が、馬上で威張り散らしている。
「この偉い偉い俺様がこんな田舎に来てやったんだ。とっとと接待をはじめんか、アホどもが」
俺はただ、黙って聞いていた。シグナスはすでに怒りを顔に表している。
村長らしき老人が出てきた。すでに足腰が弱いのか、ヨロヨロとした歩みである。
「おいっ。何をトロトロやってんだ、ここに俺様が居るんだぞ。走ってこい、マヌケ」
あの野郎。シグナスがそう呟いている。
「申し訳ありません。すでに足腰が弱っておりまして」
「うるさいわ。とっとと接待の用意を始めろ。まずは酒だ。それとな、ここにロアーヌとシグナスって奴は来なかったか」
男が手配書を出した。老人は首をかしげている。
「クソの役にも立たんな、お前らは。人間以下の家畜だ」
俺は剣の束に手をやった。生かしておく価値もない。斬るか。そう思った時には、シグナスがすでに場に躍り出ていた。
「おい、誰が人間以下の家畜だ? お前は一体、何様だ。馬を降りろ」
「なんだ、貴様は。どこのどいつだ」
「お前の持っている手配書を見てみろ」
「あぁん?」
男が手配書と、シグナスの顔を何度も見比べている。目を見開いた。口を大きく開けた。そして、すぐに鞘から剣を払った。
「お前がシグナス」
「そうだ。だとしたら、どうする?」
「こうしてくれるわっ」
男が馬を駆けさせた。シグナスと交わる。一合。男の胸を、一本の槍が貫いていた。
「残りの奴らも、この男と似たようなもんだろう。おら、さっさとかかってこい」
槍を死体から引き抜き、シグナスが吼えた。残りの兵が一斉に飛び掛かってくる。俺も鞘から剣を払い、場に躍り出る。
「遅いぜ、ロアーヌ」
「その分の働きはしてやる」
会話は、それだけだった。次々に向かってくる兵を剣で斬り倒す。六人を斬った所で、残りの兵が戦う事を躊躇し始めた。目には怯えが見える。
「お前達、戦う意志がないなら、戻って上官に伝えろ。俺達を捕えたければ、精兵千人を連れて来いとな」
俺はシグナスのその言葉を聞きながら、剣を鞘に収めた。すでに兵からは、殺気が消えている。怯えているだけだ。
「わかったかっ」
シグナスが声をあげると同時に、兵達が逃げ出した。シグナスがそれを見て、舌打ちする。
「なんて事を」
不意に、後ろの老人が呻くように言った。俺とシグナスが振り返る。
「なんて事をしてくれました。もう、この村は終わりです」
「何を言っている?」
「軍人様を殺してしまいました」
「殺したのは俺達だ」
「しかし、この村で殺しました。本当になんて事をしてくれたのです」
「あのまま放っておけば、あの軍人は威張り散らしたままだったんだぞ、ご老人」
「たったそれだけです。そして、村の蓄えを渡しておけば、今後も村は平和に暮らしていけました」
俺は、目を閉じた。
「この村は何も罪を犯してはいないではないか。そして貧しい。それなのに、蓄えを出さなければならない。これはおかしい事だ。そうは思わないのか」
「そういう世の中です。あぁ、本当になんて事をしてくれたのです」
シグナスもこれ以上は、何も言えないようだった。
そういう世の中。この老人は、確かにそう言った。真面目に生きている者が損をし、腐った人間が得をする。弱者は強者に虐げられ、強者は私腹を肥やす。これはどう考えても、おかしい事だ。だが、そんなおかしい世の中で、この村は生きて来た。それを、俺達が壊してしまったのか。俺は目を開いた。
「行くぞ、シグナス」
「ロアーヌ、俺は」
そうだ。シグナス。お前は間違っていない。俺達は間違った事はしていない。しかしそれは、今の世の中では通用しない事なのだ。それを正すために、俺達は東に行く。
「行くぞ」
もう一度、俺は言った。シグナスは、悔しさでその身を震わせていた。
俺は森の中で、火を熾していた。野宿である。
その俺の傍で、シグナスが短刀で野兎の皮を剥いでいた。苦労に苦労を重ねて仕留めた一羽の兎だ。食料はこれだけだが、今の俺達には十分だった。腹はあまり減っていない。というより、食欲がそこまで湧いていなかった。
あの村の出来事が、そうさせていた。
あの村で俺達がやった事は、決して間違った事ではなかったはずだ。俺はそう思った。威張り散らして、不当な行為を働こうとした軍人を、俺とシグナスが殺したのである。正しいと思ってやった事だった。だが、あの村にとってはそうではなかった。あの軍人の横暴さに耐える事こそが、あの村では正しい事だったのだ。それが今の世の中であり、弱者の生き方だった。
「ロアーヌ、俺は何が正しくて、何が間違いなのか分からなくなった」
不意にシグナスが言った。
「一体、何が正しいんだろうな」
俺はただ黙っていた。
何が正しいのかは、人それぞれだ。人それぞれ、正義を持っている。その正義を資本にして、人は生きている。それは俺もシグナスも同じだ。だが、その正義を否定された。それも守るべき人間から否定された。
俺達の正義は、決して間違っていない。間違っているのは、この世の中だ。だからこそ、それを正さなければならない。しかしそれでも、あの老人の眼は記憶に焼き付いていた。全てを諦めた、何かを憎む事さえ諦めた眼だった。
「お前はきっと、心の中で何かを言ってくれてるんだろうな。だが、今の俺には、それを読み取る事すらできん」
「シグナス」
俺は火を熾しながら言った。あえて、シグナスの方は見ない。
「正義は人それぞれだ」
火が付いた。薪がパチパチと音を立てて、燃え始めた。
「だから、俺達のやった事は間違っていない」
シグナスの方に眼を向けた。もう、兎の皮は剥ぎ終えているようだ。短刀で、肉をいくつかに切り分けている。あとは焼くだけである。
「あの村はどうなるのだろうな」
「さぁな。まぁ、無事では済むまい」
おそらくだが、村は焼き払われるだろう。そして村人は奴隷にされる。冤罪をきせられて、というより、軍人達の腹いせでそうなる。俺達のせいで、そうなる。
シグナスが兎の肉を焼き始めた。木の串に突き刺して、火にかざす。時々、肉の脂が火の中に落ちてジュッという音を立てていた。
「悪い事をした」
「過ぎた事だ」
「お前はそんな簡単に割り切れるのか?」
「割り切るしかないと思っている」
シグナスはそれ以上、何も言わなかった。黙って、肉を焼いている。
シグナスには珍しく、過ぎた事を気にしている。俺はそう思った。この男は、一旦過ぎた事はあまり気にしない。常に前を見ている男で、俺はそれが羨ましかった。だが、今は全くの逆である。俺はすでに割り切っているのだ。悪いのはこの世の中で、俺達は間違っていない。村には確かに罪悪感はあるが、それを思った所で村の未来は変わらない。だから俺達は、それを、罪を背負うしかないのだ。罪を背負って、東に行く。
「ロアーヌ、俺の頬をぶん殴ってくれないか」
肉を裏返しにしながら、シグナスは言った。
何を言っている、と一瞬思ったが、すぐに理由は分かった。ケジメをつけたいのだろう。自分の中では、どうにもケジメがつかない。だから、俺に殴らせて、無理やりにケジメをつけようとしているのだ。そうすれば、前を見られる。シグナスはそう言っている。
「肉を食う前と、食った後。どっちが良い」
俺がそう言うと、シグナスはちょっと笑った。
「どうせなら、肉は美味く食いたい。食う前にしてくれ」
「分かった」
「本気で頼むぜ」
「気絶するなよ」
「腐った官軍と同じにするな」
肉が焼けた。それを葉っぱの皿に置く。シグナスが頬を差し出してきた。
「一発、景気の良いのを頼むわ」
「あぁ」
それだけ言って、俺は思いっきりシグナスを殴り飛ばした。それは本当に殴り飛んだ、といった感じで、一転、二転して、ようやくシグナスの身体は止まった。ピクリとも動かない。だが、意識は失っていないだろう。
不意にシグナスが声をあげて笑いだした。
「いってぇ。だが、ありがとよ。これで美味い肉になりそうだ」
「顔が腫れてるぞ。強く殴り過ぎたか」
「いや、構わん。頼んだのは俺だからな」
もう、シグナスは笑っていた。表情は明るい。いつものシグナスだ。
肉を食い始めた。美味い。俺はそう思った。
それから数日、俺達は東に向かって駆け続けた。もう民に迷惑をかけたくなかったので、町や村は避けて通った。昼間に駆け、夜になれば森や林の中で野宿をする。俺達は用心深く、東に向かっていた。いつ、追手に見つかるか分からない。すでに全国に手配書が回っているのだ。
国をぶち壊す。この思いだけは、俺の胸の中で膨らみ続けていた。眠る前に、腐った役人どもや、タンメルの顔が浮かんでくる。今に見ていろ。俺は心の中で、そう叫び続けた。
そして、ついにその目的地が見えたのである。
「あれが、メッサーナか」
俺はシグナスと馬を並べて、丘の頂きに立っていた。すでに日は落ちようとしていて、空は赤く染まっている。
丘の上から見たメッサーナは、広い町とは言えないが、治安はしっかりしていそうだった。町の入り口は兵士が固めており、奥の方には大きな屋敷が見える。あそこが、政治を取り仕切っている所なのだろう。それを中心に、東西南北に兵舎や調練場、牧場などが見えた。町の郊外にも、牧場らしきものが見える。
「行こうぜ、ロアーヌ」
シグナスが笑みを向けて来た。それに対して、俺は頷き返す。
馬に乗った。そして駆ける。国をぶち壊す。その思いを抱き続けて、俺達はここに来た。風を切りながら、俺は心の中でそう叫んでいた。
その俺の傍で、シグナスが短刀で野兎の皮を剥いでいた。苦労に苦労を重ねて仕留めた一羽の兎だ。食料はこれだけだが、今の俺達には十分だった。腹はあまり減っていない。というより、食欲がそこまで湧いていなかった。
あの村の出来事が、そうさせていた。
あの村で俺達がやった事は、決して間違った事ではなかったはずだ。俺はそう思った。威張り散らして、不当な行為を働こうとした軍人を、俺とシグナスが殺したのである。正しいと思ってやった事だった。だが、あの村にとってはそうではなかった。あの軍人の横暴さに耐える事こそが、あの村では正しい事だったのだ。それが今の世の中であり、弱者の生き方だった。
「ロアーヌ、俺は何が正しくて、何が間違いなのか分からなくなった」
不意にシグナスが言った。
「一体、何が正しいんだろうな」
俺はただ黙っていた。
何が正しいのかは、人それぞれだ。人それぞれ、正義を持っている。その正義を資本にして、人は生きている。それは俺もシグナスも同じだ。だが、その正義を否定された。それも守るべき人間から否定された。
俺達の正義は、決して間違っていない。間違っているのは、この世の中だ。だからこそ、それを正さなければならない。しかしそれでも、あの老人の眼は記憶に焼き付いていた。全てを諦めた、何かを憎む事さえ諦めた眼だった。
「お前はきっと、心の中で何かを言ってくれてるんだろうな。だが、今の俺には、それを読み取る事すらできん」
「シグナス」
俺は火を熾しながら言った。あえて、シグナスの方は見ない。
「正義は人それぞれだ」
火が付いた。薪がパチパチと音を立てて、燃え始めた。
「だから、俺達のやった事は間違っていない」
シグナスの方に眼を向けた。もう、兎の皮は剥ぎ終えているようだ。短刀で、肉をいくつかに切り分けている。あとは焼くだけである。
「あの村はどうなるのだろうな」
「さぁな。まぁ、無事では済むまい」
おそらくだが、村は焼き払われるだろう。そして村人は奴隷にされる。冤罪をきせられて、というより、軍人達の腹いせでそうなる。俺達のせいで、そうなる。
シグナスが兎の肉を焼き始めた。木の串に突き刺して、火にかざす。時々、肉の脂が火の中に落ちてジュッという音を立てていた。
「悪い事をした」
「過ぎた事だ」
「お前はそんな簡単に割り切れるのか?」
「割り切るしかないと思っている」
シグナスはそれ以上、何も言わなかった。黙って、肉を焼いている。
シグナスには珍しく、過ぎた事を気にしている。俺はそう思った。この男は、一旦過ぎた事はあまり気にしない。常に前を見ている男で、俺はそれが羨ましかった。だが、今は全くの逆である。俺はすでに割り切っているのだ。悪いのはこの世の中で、俺達は間違っていない。村には確かに罪悪感はあるが、それを思った所で村の未来は変わらない。だから俺達は、それを、罪を背負うしかないのだ。罪を背負って、東に行く。
「ロアーヌ、俺の頬をぶん殴ってくれないか」
肉を裏返しにしながら、シグナスは言った。
何を言っている、と一瞬思ったが、すぐに理由は分かった。ケジメをつけたいのだろう。自分の中では、どうにもケジメがつかない。だから、俺に殴らせて、無理やりにケジメをつけようとしているのだ。そうすれば、前を見られる。シグナスはそう言っている。
「肉を食う前と、食った後。どっちが良い」
俺がそう言うと、シグナスはちょっと笑った。
「どうせなら、肉は美味く食いたい。食う前にしてくれ」
「分かった」
「本気で頼むぜ」
「気絶するなよ」
「腐った官軍と同じにするな」
肉が焼けた。それを葉っぱの皿に置く。シグナスが頬を差し出してきた。
「一発、景気の良いのを頼むわ」
「あぁ」
それだけ言って、俺は思いっきりシグナスを殴り飛ばした。それは本当に殴り飛んだ、といった感じで、一転、二転して、ようやくシグナスの身体は止まった。ピクリとも動かない。だが、意識は失っていないだろう。
不意にシグナスが声をあげて笑いだした。
「いってぇ。だが、ありがとよ。これで美味い肉になりそうだ」
「顔が腫れてるぞ。強く殴り過ぎたか」
「いや、構わん。頼んだのは俺だからな」
もう、シグナスは笑っていた。表情は明るい。いつものシグナスだ。
肉を食い始めた。美味い。俺はそう思った。
それから数日、俺達は東に向かって駆け続けた。もう民に迷惑をかけたくなかったので、町や村は避けて通った。昼間に駆け、夜になれば森や林の中で野宿をする。俺達は用心深く、東に向かっていた。いつ、追手に見つかるか分からない。すでに全国に手配書が回っているのだ。
国をぶち壊す。この思いだけは、俺の胸の中で膨らみ続けていた。眠る前に、腐った役人どもや、タンメルの顔が浮かんでくる。今に見ていろ。俺は心の中で、そう叫び続けた。
そして、ついにその目的地が見えたのである。
「あれが、メッサーナか」
俺はシグナスと馬を並べて、丘の頂きに立っていた。すでに日は落ちようとしていて、空は赤く染まっている。
丘の上から見たメッサーナは、広い町とは言えないが、治安はしっかりしていそうだった。町の入り口は兵士が固めており、奥の方には大きな屋敷が見える。あそこが、政治を取り仕切っている所なのだろう。それを中心に、東西南北に兵舎や調練場、牧場などが見えた。町の郊外にも、牧場らしきものが見える。
「行こうぜ、ロアーヌ」
シグナスが笑みを向けて来た。それに対して、俺は頷き返す。
馬に乗った。そして駆ける。国をぶち壊す。その思いを抱き続けて、俺達はここに来た。風を切りながら、俺は心の中でそう叫んでいた。