第八章 天翔
風が冷たかった。冬の訪れである。俺は、それを軍営の中で迎えた。
俺はピドナを攻めるべく、四万の兵を率いていた。総大将は当然、この俺だが、副官にはウィンセを据えた。冷静な判断力と堅実な戦運び。これを俺は買ったのだ。
コモン関所の留守を守るのは、フランツのもう一人の部下で、関所には二万の兵が居た。俺の軍を抜かない限り、メッサーナがコモンに迫る事は無いのだが、念のため、というやつである。油断は敗北を招く。これは南で何度も経験した事だ。だから、守りにも抜かりはないようにした。懸念はフランツの部下が若いという事だが、他に留守を任せられる人材は居なかった。
俺は進軍しつつ斥候を放ち、ピドナの様子を探らせていた。メッサーナは、すでに俺が出陣した事は察知しているらしく、ピドナは戦の準備で軍が慌ただしくなっているという。
どこが戦場になるのか。今回の戦は、この点が重要である。メッサーナ軍がピドナの前面に陣を敷けば、これは厄介な事になる。すぐ後ろにピドナという名の逃げ込む場所があるからだ。籠城戦となると、俺の軍は不利だ。攻城兵器は持って来ていないから、囲んでいる最中にそれを輸送させる必要も出てくる。
ピドナより離れた場所が戦場になれば良い。俺はそう思った。野戦でなら、メッサーナ軍を思う存分に叩き潰せる。やはり戦は、兵と兵のぶつかり合いこそが醍醐味だった。
おそらくだが、メッサーナはピドナより離れた場所を戦場に選ぶだろう。都市近郊で戦が起きれば、その都市は荒れる。特にメッサーナはピドナを手に入れてから、それほど時が経っていない。だから、メッサーナは都市近郊での戦はやりたがらないはずだ。
翌朝、斥候が新しく情報を持って帰って来た。この先の原野で、メッサーナ軍は布陣を開始したらしい。ピドナはそれの後方である。距離で言えば、馬で駆けて半日程度のものだが、これでピドナが戦で荒れる事はないだろう。
「強気だな、メッサーナは。ピドナを背にして戦うつもりはないらしいぞ」
俺は馬上でウィンセに話しかけた。戦場では俺が主軍を率いて、ウィンセは副軍を率いる。
「これまで勝ち続けた軍です。唯一、負けたのはロアーヌ軍ぐらいなもので、これは局地戦でした」
だから、全体的な負けではない。メッサーナからしてみれば、ロアーヌ一人が負けた。ただこれだけの話だ。
「俺はナメられているのかな」
「それはないでしょう。むしろ、畏怖されているのでは、と思いますが」
相変わらず、ウィンセの物言いは小憎らしい。こういうクサい台詞を涼しい顔で言ったりする所も、俺は嫌いだった。
「まぁ、いい。戦ではお前の働きに期待させてもらうぞ」
「はい。しかし、戦は変幻です。私はまだ若く、サウス将軍の実績には及びません。だから、大きな所は」
「わかっている。いちいち、うるさい奴だ。俺はとりあえず、ロアーヌとシグナスを叩き潰したい。あの若僧どもは、官軍時代から名を売っていた。軍人としての資質もピカイチなんだろう」
「シグナスはそれほど大きな経験を積んでいません。戦を分析する限りでも、ルイスという軍師の力がシグナスを引き立てています」
フランツはこういう戦の分析もやっていた。これは結構、的を得ており、俺の戦の良い点、悪い点を言い当てられたりもした。だから、ウィンセの言っている事には信憑性がある。だが、確実とは言えない。所詮は政治家の分析で、現場で動く軍人のそれとは比べ物にならないのだ。
「しかし、ロアーヌは負けを経験しました」
「だから?」
「以前、戦った時よりも手強くなっていると考えて間違いありません」
それを聞いて、俺は鼻で笑った。分かり切った事を。それを涼しい顔で言ったのも、どこか腹が立つ。
当然、ロアーヌは以前より手強くなっているはずだ。以前の戦のロアーヌは、前しか見れていない猪のようなものだった。俺の顔を見た途端に、遮二無二突っ込んできたのだ。総大将の首を取れば、それで戦が終わる。これを考えていたのだろう。
はっきり言って、間抜けだった。あの時、俺はわざと顔を見せたのだ。これで誘引できれば儲けものだろう、という程度の考えだったのだが、あいつは突っ込んできた。あの様は、間抜けという他にない。
あぁいう冷静という名の皮を被った人間こそ、内には熱いものを持っている。おそらく、シグナスでは突っ込んでは来なかった。そういう意味では、ロアーヌの方が手玉に取りやすい。
「サウス将軍、そろそろ陣を組ませた方が」
「良いだろう。主軍は横陣。騎馬を中央。槍、戟は左右に置く。あとは敵陣を見て決めるぞ」
ウィンセが伝令を呼び、俺の言った事を復唱した。すぐ兵達が陣を組み始める。
「出陣前に、もっと女を多く抱いておけば良かったな。興奮しちまってる」
情欲が、微かに股間を熱くさせていた。俺の戦での興奮は、どこか情欲と似ている。
それから少し進軍すると、メッサーナ軍の陣が見えてきた。旗が何本も立っている。中央にシーザー、右翼、左翼にシグナスとクリスが居る。陣構えはこちらとほぼ同じである。ロアーヌの遊撃隊はシグナスの側に居て、あの軍だけは他とは違う気を放っていた。
俺は軍の先頭に馬を進めた。すでに両軍は陣を組んでおり、あとは戦の開始を待つだけだ。
「南方の雄、サウスがお前達を踏み潰す。何か言う事はあるか、雑魚どもっ」
声が響き渡った。
「俺の槍で、お前を貫く。棺桶の準備は良いのかっ」
シグナスの声だった。よく通る、良い声だ。槍兵隊もはやし立てている。
「棺桶ならあるぞ。俺のではなく、お前のだがな」
俺がそう叫ぶと、兵達が笑い声をあげた。シグナスは歯を食い縛らせている。
右腕をあげる。兵達の笑い声が止んだ。
「勝負だ」
呟く。
瞬間、角笛が鳴った。戦の開始の合図だ。
「シーザー軍を調子付かせるな。まずはこれを止める。ウィンセ、横から衝け」
俺が指示を出すと、ウィンセはすぐに副軍の方へと駆けて行った。
シーザーが偃月刀を天に掲げ、それを振り下ろす。突撃の合図。喊声。突っ込んできた。さらにそれに呼応し、シグナスとクリスも駆けてくる。
どいつからあしらうか。シグナスか、シーザーか。クリスは後方で指揮を執るタイプの将軍らしく、前には出てきていない。
鎖鎌を構えた。
「騎馬、突っ込めっ」
叫んで、俺も駆けた。歩兵も走り出している。
ぶつかった。重圧。それを一瞬で感じた。シーザーの騎馬隊の方が圧力は上だ。だが、耐えさせた。ここで退けば、踏み潰される。
頭上で分銅を振り回した。そして、手当たり次第に敵兵の頭をカチ割っていく。敵騎兵の槍。かわし、鎌で首を飛ばした。
「サウス、覚悟しやがれっ」
怒号。シーザーだった。偃月刀を振りかぶっている。
こういう馬鹿はまともに相手にしない事だ。俺は腰元から吹き矢を抜き取り、それを口にくわえた。これで、シーザーには退場してもらう。
「吹き矢だ、シーザーっ」
右。シグナスだ。馬に乗っている。
槍を振り回し、兵をなぎ倒しまくっている。懸命に味方の兵が遮ろうとしているが、撥ね上げられ、突き殺され、まるで無人の野を行く勢いだ。このままでは、俺に迫って来る。あれとまともにやり合うのは、上策とは言えない。
右手を上げた。すぐに麾下の三百が集まって来た。旗も振らせる。ここに敵の大将が二人も居るぞ、突っ込んで来い。ウィンセにそう指示を出したのだ。
シーザーが突っ込んできた。麾下が遮る。だが、止められていない。
吹き矢を放った。甲高い金属の音。偃月刀で弾き飛ばされた。
「セコいな、南方の雄。俺とまともに打ち合えねぇのか」
「俺はもう四十半ばのオヤジだ。若い奴の相手など出来ん」
「ほざいてろっ」
偃月刀。かわす。分銅を飛ばすが、それも弾き返された。
その瞬間、メッサーナ軍が浮ついた。ウィンセが横から衝いたのだ。本来ならば、これで攻勢に出れば良い。だが、まだ動いてない軍が一つある。
メッサーナ軍、最強の騎馬隊。スズメバチ。
「剣のロアーヌ。まだ、お前は動いていないっ」
吼えた。分銅を飛ばし、敵兵の頭を割った。シーザーが馬を返して、退いていく。だが、追わなかった。まだ、攻勢に出る時機ではない。まだ、あの軍を引っ張り出していない。
「俺はここだぞ、剣のロアーヌっ」
俺はピドナを攻めるべく、四万の兵を率いていた。総大将は当然、この俺だが、副官にはウィンセを据えた。冷静な判断力と堅実な戦運び。これを俺は買ったのだ。
コモン関所の留守を守るのは、フランツのもう一人の部下で、関所には二万の兵が居た。俺の軍を抜かない限り、メッサーナがコモンに迫る事は無いのだが、念のため、というやつである。油断は敗北を招く。これは南で何度も経験した事だ。だから、守りにも抜かりはないようにした。懸念はフランツの部下が若いという事だが、他に留守を任せられる人材は居なかった。
俺は進軍しつつ斥候を放ち、ピドナの様子を探らせていた。メッサーナは、すでに俺が出陣した事は察知しているらしく、ピドナは戦の準備で軍が慌ただしくなっているという。
どこが戦場になるのか。今回の戦は、この点が重要である。メッサーナ軍がピドナの前面に陣を敷けば、これは厄介な事になる。すぐ後ろにピドナという名の逃げ込む場所があるからだ。籠城戦となると、俺の軍は不利だ。攻城兵器は持って来ていないから、囲んでいる最中にそれを輸送させる必要も出てくる。
ピドナより離れた場所が戦場になれば良い。俺はそう思った。野戦でなら、メッサーナ軍を思う存分に叩き潰せる。やはり戦は、兵と兵のぶつかり合いこそが醍醐味だった。
おそらくだが、メッサーナはピドナより離れた場所を戦場に選ぶだろう。都市近郊で戦が起きれば、その都市は荒れる。特にメッサーナはピドナを手に入れてから、それほど時が経っていない。だから、メッサーナは都市近郊での戦はやりたがらないはずだ。
翌朝、斥候が新しく情報を持って帰って来た。この先の原野で、メッサーナ軍は布陣を開始したらしい。ピドナはそれの後方である。距離で言えば、馬で駆けて半日程度のものだが、これでピドナが戦で荒れる事はないだろう。
「強気だな、メッサーナは。ピドナを背にして戦うつもりはないらしいぞ」
俺は馬上でウィンセに話しかけた。戦場では俺が主軍を率いて、ウィンセは副軍を率いる。
「これまで勝ち続けた軍です。唯一、負けたのはロアーヌ軍ぐらいなもので、これは局地戦でした」
だから、全体的な負けではない。メッサーナからしてみれば、ロアーヌ一人が負けた。ただこれだけの話だ。
「俺はナメられているのかな」
「それはないでしょう。むしろ、畏怖されているのでは、と思いますが」
相変わらず、ウィンセの物言いは小憎らしい。こういうクサい台詞を涼しい顔で言ったりする所も、俺は嫌いだった。
「まぁ、いい。戦ではお前の働きに期待させてもらうぞ」
「はい。しかし、戦は変幻です。私はまだ若く、サウス将軍の実績には及びません。だから、大きな所は」
「わかっている。いちいち、うるさい奴だ。俺はとりあえず、ロアーヌとシグナスを叩き潰したい。あの若僧どもは、官軍時代から名を売っていた。軍人としての資質もピカイチなんだろう」
「シグナスはそれほど大きな経験を積んでいません。戦を分析する限りでも、ルイスという軍師の力がシグナスを引き立てています」
フランツはこういう戦の分析もやっていた。これは結構、的を得ており、俺の戦の良い点、悪い点を言い当てられたりもした。だから、ウィンセの言っている事には信憑性がある。だが、確実とは言えない。所詮は政治家の分析で、現場で動く軍人のそれとは比べ物にならないのだ。
「しかし、ロアーヌは負けを経験しました」
「だから?」
「以前、戦った時よりも手強くなっていると考えて間違いありません」
それを聞いて、俺は鼻で笑った。分かり切った事を。それを涼しい顔で言ったのも、どこか腹が立つ。
当然、ロアーヌは以前より手強くなっているはずだ。以前の戦のロアーヌは、前しか見れていない猪のようなものだった。俺の顔を見た途端に、遮二無二突っ込んできたのだ。総大将の首を取れば、それで戦が終わる。これを考えていたのだろう。
はっきり言って、間抜けだった。あの時、俺はわざと顔を見せたのだ。これで誘引できれば儲けものだろう、という程度の考えだったのだが、あいつは突っ込んできた。あの様は、間抜けという他にない。
あぁいう冷静という名の皮を被った人間こそ、内には熱いものを持っている。おそらく、シグナスでは突っ込んでは来なかった。そういう意味では、ロアーヌの方が手玉に取りやすい。
「サウス将軍、そろそろ陣を組ませた方が」
「良いだろう。主軍は横陣。騎馬を中央。槍、戟は左右に置く。あとは敵陣を見て決めるぞ」
ウィンセが伝令を呼び、俺の言った事を復唱した。すぐ兵達が陣を組み始める。
「出陣前に、もっと女を多く抱いておけば良かったな。興奮しちまってる」
情欲が、微かに股間を熱くさせていた。俺の戦での興奮は、どこか情欲と似ている。
それから少し進軍すると、メッサーナ軍の陣が見えてきた。旗が何本も立っている。中央にシーザー、右翼、左翼にシグナスとクリスが居る。陣構えはこちらとほぼ同じである。ロアーヌの遊撃隊はシグナスの側に居て、あの軍だけは他とは違う気を放っていた。
俺は軍の先頭に馬を進めた。すでに両軍は陣を組んでおり、あとは戦の開始を待つだけだ。
「南方の雄、サウスがお前達を踏み潰す。何か言う事はあるか、雑魚どもっ」
声が響き渡った。
「俺の槍で、お前を貫く。棺桶の準備は良いのかっ」
シグナスの声だった。よく通る、良い声だ。槍兵隊もはやし立てている。
「棺桶ならあるぞ。俺のではなく、お前のだがな」
俺がそう叫ぶと、兵達が笑い声をあげた。シグナスは歯を食い縛らせている。
右腕をあげる。兵達の笑い声が止んだ。
「勝負だ」
呟く。
瞬間、角笛が鳴った。戦の開始の合図だ。
「シーザー軍を調子付かせるな。まずはこれを止める。ウィンセ、横から衝け」
俺が指示を出すと、ウィンセはすぐに副軍の方へと駆けて行った。
シーザーが偃月刀を天に掲げ、それを振り下ろす。突撃の合図。喊声。突っ込んできた。さらにそれに呼応し、シグナスとクリスも駆けてくる。
どいつからあしらうか。シグナスか、シーザーか。クリスは後方で指揮を執るタイプの将軍らしく、前には出てきていない。
鎖鎌を構えた。
「騎馬、突っ込めっ」
叫んで、俺も駆けた。歩兵も走り出している。
ぶつかった。重圧。それを一瞬で感じた。シーザーの騎馬隊の方が圧力は上だ。だが、耐えさせた。ここで退けば、踏み潰される。
頭上で分銅を振り回した。そして、手当たり次第に敵兵の頭をカチ割っていく。敵騎兵の槍。かわし、鎌で首を飛ばした。
「サウス、覚悟しやがれっ」
怒号。シーザーだった。偃月刀を振りかぶっている。
こういう馬鹿はまともに相手にしない事だ。俺は腰元から吹き矢を抜き取り、それを口にくわえた。これで、シーザーには退場してもらう。
「吹き矢だ、シーザーっ」
右。シグナスだ。馬に乗っている。
槍を振り回し、兵をなぎ倒しまくっている。懸命に味方の兵が遮ろうとしているが、撥ね上げられ、突き殺され、まるで無人の野を行く勢いだ。このままでは、俺に迫って来る。あれとまともにやり合うのは、上策とは言えない。
右手を上げた。すぐに麾下の三百が集まって来た。旗も振らせる。ここに敵の大将が二人も居るぞ、突っ込んで来い。ウィンセにそう指示を出したのだ。
シーザーが突っ込んできた。麾下が遮る。だが、止められていない。
吹き矢を放った。甲高い金属の音。偃月刀で弾き飛ばされた。
「セコいな、南方の雄。俺とまともに打ち合えねぇのか」
「俺はもう四十半ばのオヤジだ。若い奴の相手など出来ん」
「ほざいてろっ」
偃月刀。かわす。分銅を飛ばすが、それも弾き返された。
その瞬間、メッサーナ軍が浮ついた。ウィンセが横から衝いたのだ。本来ならば、これで攻勢に出れば良い。だが、まだ動いてない軍が一つある。
メッサーナ軍、最強の騎馬隊。スズメバチ。
「剣のロアーヌ。まだ、お前は動いていないっ」
吼えた。分銅を飛ばし、敵兵の頭を割った。シーザーが馬を返して、退いていく。だが、追わなかった。まだ、攻勢に出る時機ではない。まだ、あの軍を引っ張り出していない。
「俺はここだぞ、剣のロアーヌっ」
耐えた。とにかく耐えた。飛び出しそうになる自分を、何度も抑え込んだ。
サウスが俺を呼んでいる。かかって来い。そう言っている。
俺とサウスが共に優れた武人ならば、惹かれ合って当然だった。それは男と女の絆によく似ており、どこか見えない部分で強く結び付いている。俺はサウスに一度負けた。これが、その結び付きをさらに強めているのかもしれない。
自分の心臓の鼓動が聞こえていた。呼吸は落ち着いている。心臓の鼓動だけが激しい。こんな経験は初めてだった。あのシグナスと打ち合った時でさえ、こんな事にはならなかった。
恐れているのか。初めて、俺が負けた相手。俺の中でサウスは、とてつもなく大きな存在になっているのではないのか。
一騎討ちならば勝てる。戦ではなく、一騎討ちなら。剣なら誰にも負けない。こうやって落ち着こうとしている自分が、情けなかった。
「ロアーヌ将軍」
一人の兵が言ったが、無視した。攻撃はまだなのか、そう言いたいのだろう。兵も、気を急いている。
ジッと待った。確かにサウスの戦ぶりは目を見張るものがある。だが、どこかに穴が出来るはずだ。その穴が出来た瞬間に、突っ込む。それまでは待つしかない。無闇に突っ込めば、逆にこちらの足元を掬われかねないのだ。
シグナス、シーザー、クリスの三軍が、サウス一人に苦戦していた。サウスは副軍を上手く使っていて、三軍に連携を取らせないようにしている。ならば、その副軍を崩せば良いのだろうが、これは難しいだろう。軍には中核というものがあり、そこを突けば大概は崩れるのだが、副軍の核は見えなかった。つまり、突出した部分がないという事なのだ。副軍全てが、均一に強い。これは厄介である。
ルイスが後方で懸命に全体の指揮を取っているが、苦しそうだった。サウスの戦が上手いのだ。シーザーを主軸にすれば、槍兵が対応しに出てくるし、シグナスを主軸にすれば戟兵が対応しに出てくる。兵科はジャンケンの三竦みとよく似ており、それぞれ得手・不得手があった。あくまではこれは基本であって、この得手・不得手をひっくり返す術はいくらでもある。だが、サウスがそれをさせていない。サウス自身が全軍の指揮を執っており、それも三面、四面同時指揮を当たり前のようにやっているのだ。
このまま、やり合いを続けていれば負ける。だから、どこかでこの流れを断ち切らなければならない。そして、その流れを断ち切る事が出来るのは、俺の遊撃隊だけのはずだ。メッサーナ軍最強と言われている、俺のスズメバチ。
そう思ったが、俺は耐え続けた。まだ、穴が出来ていない。穴が出来るまで、俺は耐えるしかない。サウスは俺を呼び続けている。早く来い。八つ裂きにしてやる。そう言っている。
頼む、シグナス。ピドナでお前と酒を飲んだ夜の事は、しっかりと覚えている。『お前と俺で力を合わせれば、サウスに勝てるかもしれん』お前はそう言ったのだ。
「ロアーヌ将軍」
また、兵が声をかけてきた。我慢の限界か。なら、俺も言葉をかける必要がある。
「お前達は最強の騎馬隊だ。これはメッサーナだけではない、天下という意味だ。今までやってきた調練を思い出せ。シグナスの槍兵隊と共に山登りをした事を思い出せ。本当にお前達が最強ならば、待てるはずだ。ここぞという時まで、待てるはずだ」
あの山登りで、シグナスと共に頂上の景色を眺めた。俺は、霧の中に浮かぶ、ただ一つの山になりたかった。シグナスは、俺達が立っていた山になりたいと言った。それぞれ、考えや想いは違う。しかし、見ているモノは同じだ。
サウスに勝つ。
その瞬間だった。サウス軍が、僅かに浮ついた。それは巨岩をほんの数ミリ動かした程度のものだったが、確かに浮ついている。
シグナスが、麾下五百と共に最前線で暴れていた。ほんの小さな、僅かな一穴をシグナスが作った。
「突撃態勢。先頭を俺が駆ける。縦一列になって付いて来い。スズメバチ、突っ切るっ」
剣を抜き放ち、馬腹を蹴った。風が顔を打つ。吼えた。
「サウス、俺はここだっ」
シグナスには手が付けられなかった。あいつと麾下五百が、俺の軍を押しまくっている。何度も包み込んで潰そうとしたが、跳ね返されるだけだった。
俺自身が麾下と共に出向くしかない。しかし、戦死の可能性がある。あの槍使いとまともに打ち合える奴など、この世に居るのか。
そう思った瞬間だった。
何かが、足の指先から頭のてっぺんまでを突き抜けた。殺気、いや、鋭気か。それが、外から伝わって来た。
顔を向けた。すると、鳥肌が立った。
「剣のロアーヌ」
言うと同時に、俺の軍が完全に二つに断ち割られた。数秒、ぼーっとしていた。何が起きたのか分からなかった。瞬烈過ぎるその突撃は、鮮やかに俺の軍を切り裂いた。美しい。そう思った程だ。
「立て直せっ」
ハッとした。自分の叫び声で、我に返った。
「シグナスとロアーヌを一緒にさせるな、手に負えんぞっ」
すぐに右手をあげ、旗を振らせた。ウィンセに、シーザーとクリスの相手をさせる。少々、荷が重いだろうが、やってもらうしかない。俺が槍のシグナスと剣のロアーヌを抑える。
「戟兵、前に出ろっ。弓兵は短弓に持ち替えて、集中射撃。シグナスに的を絞れ。奴を封じれば、あとは有象無象だっ」
俺の弓兵隊には、長弓と短弓の二つを装備させていた。長弓は遠距離での攻防戦で使い、短弓は今のような乱戦で使う。元々、短弓は南の密林戦で使う装備だったが、持って来させて良かった。乱戦では弓兵は使えないという常識も覆せる。そして、この時のために兵には短弓の調練もやらせていた。これは俺の切り札の一つだ。
「騎兵、槍兵は円陣を組めっ。ロアーヌの騎馬隊に向かって、少しずつ前進する。騎兵は弓の用意っ」
旗を振らせた。すぐに兵が陣形を変える。槍兵が騎兵の前に出る形で、円陣を組んだ。騎兵は武器を弓に持ち替えている。騎兵に弓という組み合わせは北の軍の戦術で、南ではあまり使えるものではなかった。だが、ここは南ではない。
「来い、ロアーヌっ」
スズメバチの遊軍が、戦場を飛んでいる。馬蹄が、あの嫌な羽音を模しているようだ。
瞬間、一匹だったはずのスズメバチが、何匹にも分かれた。毒針を構えている。そう思った瞬間、同時に全てのスズメバチが突っ込んできた。
全方位からの猛烈な攻撃。反撃。そう思ったが、何も出来なかった。全方位から間断なく、それも強烈に一撃を叩き込んでくる。反撃しようと思ったら、もうそこには何も居ない。そして、別の方向からまたスズメバチがやってくる。
亀のように丸くなるしかなかった。そうやって、やり過ごす。それしか、出来る事がない。
強すぎる。なんだ、この軍は。本当に千五百程度の軍なのか。あまりにも強すぎる。これにシグナスが加わったら、どうなるのだ。ここまで考えると、胃から酸っぱいものが衝き上げて来た。シグナスとロアーヌを一緒にしたら負ける。いや、負けるだけならば良い。戦死の可能性まである。
ウィンセが思う以上に奮戦していた。これが唯一の救いだろう。あまり長くは見れていないが、シーザー軍が妙に逸っている。というより、踊らされていた。ウィンセが上手く挑発したのか。前の戦で、シーザーはウィンセに因縁があるはずだ。
スズメバチに何度も突かれ、俺の陣はボロボロになっていた。だが、ここからだ。ここで、ロアーヌがどう出てくるのか。このまま何匹ものスズメバチで小突かれ続ければ、俺は負ける。潰走するしかない。だが、再び一匹になって打ち砕こうとすれば、それは俺の活路となる。そして、この打ち砕きは芸術だろう。小突いてボロボロにして、大きな一撃で打ち砕く。これは芸術以外の何物でもない。そして、この芸術は指揮官を魅了させる。そういう魔力も持っている。
ロアーヌは、そういう芸術が好きなはずだ。
「俺は、南方の雄だ。南で、奮戦してきた歴戦の将軍だ」
どれだけ追い込まれようが、活路を見出す。そうやって、俺は勝ち続けてきた。
まだ、小突かれ続けている。だが、俺は陣を整えなかった。誘うのだ。あとほんの一撃で、俺の陣は崩壊するぞ。ほら、かかってこい。そう誘い続ける。
待った。とにかく待った。もう駄目だ、と何度も思ったが、それでも待った。
すると、活路が見えた。ロアーヌが隊を一つにまとめたのだ。
これほどの喜びがあるのか。俺はそう思った。やはり、まだ俺には運がある。そして、ロアーヌは俺の思った通りの男だった。
一匹のスズメバチ。突っ込んでくる。
「割れろぉっ」
叫んだ。ほぼ崩壊しかかった陣が、綺麗に真っ二つに割れた。一匹のスズメバチが無人の野を駆け抜ける。次いで、二つに割れた陣が一つにまとまった。弓を持った騎兵が一斉に前に出る。スズメバチは反転しようとしている。
「一斉射撃っ」
矢の嵐が、スズメバチを撃ち落とす。
サウスが俺を呼んでいる。かかって来い。そう言っている。
俺とサウスが共に優れた武人ならば、惹かれ合って当然だった。それは男と女の絆によく似ており、どこか見えない部分で強く結び付いている。俺はサウスに一度負けた。これが、その結び付きをさらに強めているのかもしれない。
自分の心臓の鼓動が聞こえていた。呼吸は落ち着いている。心臓の鼓動だけが激しい。こんな経験は初めてだった。あのシグナスと打ち合った時でさえ、こんな事にはならなかった。
恐れているのか。初めて、俺が負けた相手。俺の中でサウスは、とてつもなく大きな存在になっているのではないのか。
一騎討ちならば勝てる。戦ではなく、一騎討ちなら。剣なら誰にも負けない。こうやって落ち着こうとしている自分が、情けなかった。
「ロアーヌ将軍」
一人の兵が言ったが、無視した。攻撃はまだなのか、そう言いたいのだろう。兵も、気を急いている。
ジッと待った。確かにサウスの戦ぶりは目を見張るものがある。だが、どこかに穴が出来るはずだ。その穴が出来た瞬間に、突っ込む。それまでは待つしかない。無闇に突っ込めば、逆にこちらの足元を掬われかねないのだ。
シグナス、シーザー、クリスの三軍が、サウス一人に苦戦していた。サウスは副軍を上手く使っていて、三軍に連携を取らせないようにしている。ならば、その副軍を崩せば良いのだろうが、これは難しいだろう。軍には中核というものがあり、そこを突けば大概は崩れるのだが、副軍の核は見えなかった。つまり、突出した部分がないという事なのだ。副軍全てが、均一に強い。これは厄介である。
ルイスが後方で懸命に全体の指揮を取っているが、苦しそうだった。サウスの戦が上手いのだ。シーザーを主軸にすれば、槍兵が対応しに出てくるし、シグナスを主軸にすれば戟兵が対応しに出てくる。兵科はジャンケンの三竦みとよく似ており、それぞれ得手・不得手があった。あくまではこれは基本であって、この得手・不得手をひっくり返す術はいくらでもある。だが、サウスがそれをさせていない。サウス自身が全軍の指揮を執っており、それも三面、四面同時指揮を当たり前のようにやっているのだ。
このまま、やり合いを続けていれば負ける。だから、どこかでこの流れを断ち切らなければならない。そして、その流れを断ち切る事が出来るのは、俺の遊撃隊だけのはずだ。メッサーナ軍最強と言われている、俺のスズメバチ。
そう思ったが、俺は耐え続けた。まだ、穴が出来ていない。穴が出来るまで、俺は耐えるしかない。サウスは俺を呼び続けている。早く来い。八つ裂きにしてやる。そう言っている。
頼む、シグナス。ピドナでお前と酒を飲んだ夜の事は、しっかりと覚えている。『お前と俺で力を合わせれば、サウスに勝てるかもしれん』お前はそう言ったのだ。
「ロアーヌ将軍」
また、兵が声をかけてきた。我慢の限界か。なら、俺も言葉をかける必要がある。
「お前達は最強の騎馬隊だ。これはメッサーナだけではない、天下という意味だ。今までやってきた調練を思い出せ。シグナスの槍兵隊と共に山登りをした事を思い出せ。本当にお前達が最強ならば、待てるはずだ。ここぞという時まで、待てるはずだ」
あの山登りで、シグナスと共に頂上の景色を眺めた。俺は、霧の中に浮かぶ、ただ一つの山になりたかった。シグナスは、俺達が立っていた山になりたいと言った。それぞれ、考えや想いは違う。しかし、見ているモノは同じだ。
サウスに勝つ。
その瞬間だった。サウス軍が、僅かに浮ついた。それは巨岩をほんの数ミリ動かした程度のものだったが、確かに浮ついている。
シグナスが、麾下五百と共に最前線で暴れていた。ほんの小さな、僅かな一穴をシグナスが作った。
「突撃態勢。先頭を俺が駆ける。縦一列になって付いて来い。スズメバチ、突っ切るっ」
剣を抜き放ち、馬腹を蹴った。風が顔を打つ。吼えた。
「サウス、俺はここだっ」
シグナスには手が付けられなかった。あいつと麾下五百が、俺の軍を押しまくっている。何度も包み込んで潰そうとしたが、跳ね返されるだけだった。
俺自身が麾下と共に出向くしかない。しかし、戦死の可能性がある。あの槍使いとまともに打ち合える奴など、この世に居るのか。
そう思った瞬間だった。
何かが、足の指先から頭のてっぺんまでを突き抜けた。殺気、いや、鋭気か。それが、外から伝わって来た。
顔を向けた。すると、鳥肌が立った。
「剣のロアーヌ」
言うと同時に、俺の軍が完全に二つに断ち割られた。数秒、ぼーっとしていた。何が起きたのか分からなかった。瞬烈過ぎるその突撃は、鮮やかに俺の軍を切り裂いた。美しい。そう思った程だ。
「立て直せっ」
ハッとした。自分の叫び声で、我に返った。
「シグナスとロアーヌを一緒にさせるな、手に負えんぞっ」
すぐに右手をあげ、旗を振らせた。ウィンセに、シーザーとクリスの相手をさせる。少々、荷が重いだろうが、やってもらうしかない。俺が槍のシグナスと剣のロアーヌを抑える。
「戟兵、前に出ろっ。弓兵は短弓に持ち替えて、集中射撃。シグナスに的を絞れ。奴を封じれば、あとは有象無象だっ」
俺の弓兵隊には、長弓と短弓の二つを装備させていた。長弓は遠距離での攻防戦で使い、短弓は今のような乱戦で使う。元々、短弓は南の密林戦で使う装備だったが、持って来させて良かった。乱戦では弓兵は使えないという常識も覆せる。そして、この時のために兵には短弓の調練もやらせていた。これは俺の切り札の一つだ。
「騎兵、槍兵は円陣を組めっ。ロアーヌの騎馬隊に向かって、少しずつ前進する。騎兵は弓の用意っ」
旗を振らせた。すぐに兵が陣形を変える。槍兵が騎兵の前に出る形で、円陣を組んだ。騎兵は武器を弓に持ち替えている。騎兵に弓という組み合わせは北の軍の戦術で、南ではあまり使えるものではなかった。だが、ここは南ではない。
「来い、ロアーヌっ」
スズメバチの遊軍が、戦場を飛んでいる。馬蹄が、あの嫌な羽音を模しているようだ。
瞬間、一匹だったはずのスズメバチが、何匹にも分かれた。毒針を構えている。そう思った瞬間、同時に全てのスズメバチが突っ込んできた。
全方位からの猛烈な攻撃。反撃。そう思ったが、何も出来なかった。全方位から間断なく、それも強烈に一撃を叩き込んでくる。反撃しようと思ったら、もうそこには何も居ない。そして、別の方向からまたスズメバチがやってくる。
亀のように丸くなるしかなかった。そうやって、やり過ごす。それしか、出来る事がない。
強すぎる。なんだ、この軍は。本当に千五百程度の軍なのか。あまりにも強すぎる。これにシグナスが加わったら、どうなるのだ。ここまで考えると、胃から酸っぱいものが衝き上げて来た。シグナスとロアーヌを一緒にしたら負ける。いや、負けるだけならば良い。戦死の可能性まである。
ウィンセが思う以上に奮戦していた。これが唯一の救いだろう。あまり長くは見れていないが、シーザー軍が妙に逸っている。というより、踊らされていた。ウィンセが上手く挑発したのか。前の戦で、シーザーはウィンセに因縁があるはずだ。
スズメバチに何度も突かれ、俺の陣はボロボロになっていた。だが、ここからだ。ここで、ロアーヌがどう出てくるのか。このまま何匹ものスズメバチで小突かれ続ければ、俺は負ける。潰走するしかない。だが、再び一匹になって打ち砕こうとすれば、それは俺の活路となる。そして、この打ち砕きは芸術だろう。小突いてボロボロにして、大きな一撃で打ち砕く。これは芸術以外の何物でもない。そして、この芸術は指揮官を魅了させる。そういう魔力も持っている。
ロアーヌは、そういう芸術が好きなはずだ。
「俺は、南方の雄だ。南で、奮戦してきた歴戦の将軍だ」
どれだけ追い込まれようが、活路を見出す。そうやって、俺は勝ち続けてきた。
まだ、小突かれ続けている。だが、俺は陣を整えなかった。誘うのだ。あとほんの一撃で、俺の陣は崩壊するぞ。ほら、かかってこい。そう誘い続ける。
待った。とにかく待った。もう駄目だ、と何度も思ったが、それでも待った。
すると、活路が見えた。ロアーヌが隊を一つにまとめたのだ。
これほどの喜びがあるのか。俺はそう思った。やはり、まだ俺には運がある。そして、ロアーヌは俺の思った通りの男だった。
一匹のスズメバチ。突っ込んでくる。
「割れろぉっ」
叫んだ。ほぼ崩壊しかかった陣が、綺麗に真っ二つに割れた。一匹のスズメバチが無人の野を駆け抜ける。次いで、二つに割れた陣が一つにまとまった。弓を持った騎兵が一斉に前に出る。スズメバチは反転しようとしている。
「一斉射撃っ」
矢の嵐が、スズメバチを撃ち落とす。
ある旅人が、遥か地平線の彼方に行けば、闘牛という娯楽があると言っていた事がある。これは、牛と闘牛士と呼ばれる者が一対一で向き合い、突っ込んでくる牛を一枚の布であしらうというものらしい。
これを聞いた時、俺は牛の事をとんだ間抜けだと思った。所詮は畜生か。そうも思った。
だが、今の俺は、その畜生以下だった。
踊らされた。軍の力では完全に勝っていた。どんな奇策を弄されようとも、必ず打ち破れる。それほどの戦力差だった。円陣を組んだサウスは俺の騎馬隊の恰好の的で、槍兵が前に出てこようとも、そんなもの居ないも同然だった。その背後で騎兵が弓を構えていたが、それすら射させないように俺は間断なく攻撃を加えた。
陣は、ボロボロだったはずなのだ。もう何も出来ない。立っているのがやっとの状態。そこまで俺はサウスを追い込んだ。最後に首を取って締めよう。そう思い、俺は隊を一つにまとめた。だが、これがいけなかった。
俺は牛で、サウスは闘牛士だ。この今起きた事を一言で説明するなら、こういう事だ。
隊を一つにまとめて突撃したら、サウスの陣が二つに割れた。勢いを乗せて駆けていたから、急な方向転換は出来るはずもなく、俺はそのまま駆け抜けた。その時は何が起きたのかハッキリとは分からなかった。
次の刹那、側に居た兵が何人も倒れた。背には矢が突き立っており、サウスの陣は一つにまとまっていた。
「また、俺のせいで」
呻いていた。矢はまだ飛んできている。俺はそれを払いのけ、天に向かって叫んだ。
「何故、勝てないっ。俺とサウスの力量差は、それほどのものなのかっ」
兵の質では勝った。おそらく、戦法も途中までは勝っていた。しかし、最後の最後でやられた。
腹の底から叫び声をあげた。そうやって、気持ちを切り替えようと思った。前を見ろ。立ち直れ。自分に言い聞かせる。
俺が今すべき事は悔やむ事ではない。まずは兵に指示を出せ。これが、俺の今すべき事のはずだ。
「立ち止まるな、駆けろっ。弓の的を散らせっ」
俺がそう叫ぶと、残った兵はすぐに隊ごとにまとまり、それぞれの方向へと駆け始めた。サウスは円陣だから、素早い動きはできない。俺は、その円陣を囲うように隊を駆け回らせた。時には突っ込む振りもさせる。そうやって、矢を射させるのだ。まずは矢を射尽くさせる。その後で、一気に叩き潰す。
シグナスの槍兵隊が、サウスの戟兵と弓兵に苦しめられている。あれでは、俺と連携する事など出来ないだろう。サウスはシグナスをきっちりと抑えた上で、俺との勝負にも勝った。
将軍としての力量差なのか。それとも、経験の差なのか。サウスと対峙すると、何か全身を舐めるように見られている感覚に陥る。どこかに隙は無いのか。どこかに綻びは出来ていないのか。サウスは、それを注意深く観察しているのかもしれない。
サウス軍の矢の勢いは衰えなかった。こちらは一度、崩されてしまったために、攻めの姿勢が弱まっている。兵の気持ちに、怯えが芽生えてしまったのだ。これを持ち直すのは難しい。サウスが派手に動いてくれれば、また別なのだが、そのサウスは亀のように縮こまっている。
不気味だった。また、何かをしようとしている。そう思ってしまう。耐えて耐えて耐え抜いて、その後にどんでん返しを巻き起こす。その思いが、俺の心にも芽生えている。
たた縮こまるサウス軍に手を出せないまま、時が過ぎていく。どうする、突っ込むか。戦で逡巡は禁物だ。決めたら、すぐに行動に移さなければならない。
そう考えている内に、シーザー軍とクリス軍の状況が変化していた。
シーザーが誘引に引っ掛かっている。ごく少数の敵の騎馬隊を全軍で追いかけ回しているのだ。そのせいで、クリスは残りの敵軍に包囲されていた。
「ロアーヌ、まだサウスは崩せないのかっ」
シグナスの声だった。声色に焦りが見える。おそらく、敵の弓兵と戟兵の組み合わせに苦しんでいるのだろう。槍兵にとって、戟兵は天敵だ。さらに頼みの綱のシグナスは弓兵から集中砲火を浴びている。
突っ込むしかない。だが、失敗すれば今の状況が逆転してしまう。俺がサウスに追い立てられる。そういう事になってしまうのだ。
「くそっ」
決め切れない。
その瞬間だった。後方で鐘が鳴った。次第にその鐘の音が大きくなっていく。
退却の鐘だった。戦場に目を配る。クリス軍が崩されているのが見えた。さらにシーザー軍は誘引のせいで陣形がバラバラだ。このまま戦い続ければ、メッサーナ軍は壊滅的打撃を受けるだろう。ならば、退却は道理だ。だが。
急に悔悟の念がわき上がって来た。何故、サウスをあそこまで追い込んでおきながら、俺は隊をまとめたのだ。あのままサウス軍を小突き続けていれば、この退却はなかったのではないのか。もう少しだけ、ほんの少しで良い。その失敗を取り戻すためにも、俺に時をくれ。
しかし、鐘は鳴り続けている。
「シグナス、退却だっ」
後悔を振り払うように、俺は叫んだ。
「あぁ、分かってるっ」
シグナスが苦しそうに叫んだ。槍を風車のように回して矢を弾き飛ばしつつ、前進している。
「ロアーヌ」
サウスの声。
「また俺の勝ちだ」
瞬間、頭に血が昇った。
「まだ勝負は終わっていないぞ、サウスっ」
「やめろ、ロアーヌ、退却命令が出ているんだぞっ」
シグナスの声。
「しかし、コイツだけはっ」
「次の機会に回せ、また兵を無駄死にさせたいのかっ」
言われて、俺は歯を食い縛った。
「お前らしくもない。冷静になれ。サウスにこだわるなっ」
シグナスが弓兵を蹴散らす。
「逃げるぞ、急げっ」
一度だけ、俺は言葉にならない叫び声をあげた。それで怒りや悔悟を振り払う。
「退却するっ」
俺はサウスの方には顔を向けず、馬腹を蹴った。
これを聞いた時、俺は牛の事をとんだ間抜けだと思った。所詮は畜生か。そうも思った。
だが、今の俺は、その畜生以下だった。
踊らされた。軍の力では完全に勝っていた。どんな奇策を弄されようとも、必ず打ち破れる。それほどの戦力差だった。円陣を組んだサウスは俺の騎馬隊の恰好の的で、槍兵が前に出てこようとも、そんなもの居ないも同然だった。その背後で騎兵が弓を構えていたが、それすら射させないように俺は間断なく攻撃を加えた。
陣は、ボロボロだったはずなのだ。もう何も出来ない。立っているのがやっとの状態。そこまで俺はサウスを追い込んだ。最後に首を取って締めよう。そう思い、俺は隊を一つにまとめた。だが、これがいけなかった。
俺は牛で、サウスは闘牛士だ。この今起きた事を一言で説明するなら、こういう事だ。
隊を一つにまとめて突撃したら、サウスの陣が二つに割れた。勢いを乗せて駆けていたから、急な方向転換は出来るはずもなく、俺はそのまま駆け抜けた。その時は何が起きたのかハッキリとは分からなかった。
次の刹那、側に居た兵が何人も倒れた。背には矢が突き立っており、サウスの陣は一つにまとまっていた。
「また、俺のせいで」
呻いていた。矢はまだ飛んできている。俺はそれを払いのけ、天に向かって叫んだ。
「何故、勝てないっ。俺とサウスの力量差は、それほどのものなのかっ」
兵の質では勝った。おそらく、戦法も途中までは勝っていた。しかし、最後の最後でやられた。
腹の底から叫び声をあげた。そうやって、気持ちを切り替えようと思った。前を見ろ。立ち直れ。自分に言い聞かせる。
俺が今すべき事は悔やむ事ではない。まずは兵に指示を出せ。これが、俺の今すべき事のはずだ。
「立ち止まるな、駆けろっ。弓の的を散らせっ」
俺がそう叫ぶと、残った兵はすぐに隊ごとにまとまり、それぞれの方向へと駆け始めた。サウスは円陣だから、素早い動きはできない。俺は、その円陣を囲うように隊を駆け回らせた。時には突っ込む振りもさせる。そうやって、矢を射させるのだ。まずは矢を射尽くさせる。その後で、一気に叩き潰す。
シグナスの槍兵隊が、サウスの戟兵と弓兵に苦しめられている。あれでは、俺と連携する事など出来ないだろう。サウスはシグナスをきっちりと抑えた上で、俺との勝負にも勝った。
将軍としての力量差なのか。それとも、経験の差なのか。サウスと対峙すると、何か全身を舐めるように見られている感覚に陥る。どこかに隙は無いのか。どこかに綻びは出来ていないのか。サウスは、それを注意深く観察しているのかもしれない。
サウス軍の矢の勢いは衰えなかった。こちらは一度、崩されてしまったために、攻めの姿勢が弱まっている。兵の気持ちに、怯えが芽生えてしまったのだ。これを持ち直すのは難しい。サウスが派手に動いてくれれば、また別なのだが、そのサウスは亀のように縮こまっている。
不気味だった。また、何かをしようとしている。そう思ってしまう。耐えて耐えて耐え抜いて、その後にどんでん返しを巻き起こす。その思いが、俺の心にも芽生えている。
たた縮こまるサウス軍に手を出せないまま、時が過ぎていく。どうする、突っ込むか。戦で逡巡は禁物だ。決めたら、すぐに行動に移さなければならない。
そう考えている内に、シーザー軍とクリス軍の状況が変化していた。
シーザーが誘引に引っ掛かっている。ごく少数の敵の騎馬隊を全軍で追いかけ回しているのだ。そのせいで、クリスは残りの敵軍に包囲されていた。
「ロアーヌ、まだサウスは崩せないのかっ」
シグナスの声だった。声色に焦りが見える。おそらく、敵の弓兵と戟兵の組み合わせに苦しんでいるのだろう。槍兵にとって、戟兵は天敵だ。さらに頼みの綱のシグナスは弓兵から集中砲火を浴びている。
突っ込むしかない。だが、失敗すれば今の状況が逆転してしまう。俺がサウスに追い立てられる。そういう事になってしまうのだ。
「くそっ」
決め切れない。
その瞬間だった。後方で鐘が鳴った。次第にその鐘の音が大きくなっていく。
退却の鐘だった。戦場に目を配る。クリス軍が崩されているのが見えた。さらにシーザー軍は誘引のせいで陣形がバラバラだ。このまま戦い続ければ、メッサーナ軍は壊滅的打撃を受けるだろう。ならば、退却は道理だ。だが。
急に悔悟の念がわき上がって来た。何故、サウスをあそこまで追い込んでおきながら、俺は隊をまとめたのだ。あのままサウス軍を小突き続けていれば、この退却はなかったのではないのか。もう少しだけ、ほんの少しで良い。その失敗を取り戻すためにも、俺に時をくれ。
しかし、鐘は鳴り続けている。
「シグナス、退却だっ」
後悔を振り払うように、俺は叫んだ。
「あぁ、分かってるっ」
シグナスが苦しそうに叫んだ。槍を風車のように回して矢を弾き飛ばしつつ、前進している。
「ロアーヌ」
サウスの声。
「また俺の勝ちだ」
瞬間、頭に血が昇った。
「まだ勝負は終わっていないぞ、サウスっ」
「やめろ、ロアーヌ、退却命令が出ているんだぞっ」
シグナスの声。
「しかし、コイツだけはっ」
「次の機会に回せ、また兵を無駄死にさせたいのかっ」
言われて、俺は歯を食い縛った。
「お前らしくもない。冷静になれ。サウスにこだわるなっ」
シグナスが弓兵を蹴散らす。
「逃げるぞ、急げっ」
一度だけ、俺は言葉にならない叫び声をあげた。それで怒りや悔悟を振り払う。
「退却するっ」
俺はサウスの方には顔を向けず、馬腹を蹴った。
サウスの追撃は厳しいものだった。容易くは逃がしてくれず、とにかく執拗だった。サウス軍の兵や馬は、みんな尋常では無い程の体力で、逃げても逃げても追って来た。ロアーヌの騎馬隊が殿軍だったために大きな潰走にはならなかったが、それでも多くの兵が追い落とされた。
今、俺達はピドナに籠城していた。ピドナはサウス軍に囲まれていて、メッサーナ軍はうかつには動けないという状態である。
ピドナの軍議室で、シーザーとルイスが口論を繰り広げていた。シーザーが誘引に引っ掛かった。だから負けた。ルイスがそう言ったのだ。
「俺があそこで敵の騎馬隊を追わなければ、クリスもろとも全滅だったって言ってんだろうがっ」
「どう考えたらそうなるのだ。この鳥頭。脳みそはあるのか? ちょっと頭を叩いてみろ。中身のない空洞になってるんじゃないのか」
「あ? お前、いい加減にしろよ、ルイス。今まで容赦してきてやったが、程度を弁えないと首を飛ばすぞ」
「猿が。頭を使わないお前が悪いのだ。お前がクリスときちんと連携を取っていれば、もう少し踏ん張れた。首を飛ばされるのはお前の方だぞ。官軍の軍律では、お前は斬首刑だ」
「てめぇっ」
シーザーがルイスの胸倉を掴む。
「やめろよ、シーザー」
俺が間に割って入り、シーザーを押しのけた。
「味方同士で争ってどうする。それにもう終わった事じゃないか。次にどうするかを考える。それが先決だろう」
「あの野郎を責めろよ、シグナス。元はと言えば、あいつが」
「その元を作ったのはお前だ、鳥頭」
「てめぇっ」
「おい、やめろって」
俺はシーザーを抑えつつ、ロアーヌに顔を向けた。加勢を求めるのだ。だが、ロアーヌは眼を伏せて、興味が無さそうに頬杖をついている。というより、何か考え事をしているようだ。サウスに負けた事を考えているのか。
「ルイス、てめぇがしっかりと指揮を執ってれば、この敗戦は無かったんじゃねぇのか。お前が悪いのを、俺に責任転嫁してんじゃねぇぞ」
「もう一度、言ってみろ、鳥頭。私が悪いだと? お前の馬鹿さ加減を棚に上げて、よくそんな事が言えるな」
「おいおい」
これは止められそうもない。思えば、今回の戦はメッサーナ軍初の敗戦である。だから、みんなピリピリしているのかもしれない。
「やめろ」
不意に、クライヴが腕を組みながら低い声で言った。目を瞑り、膝を小刻みに動かしている。そんなクライヴの発言に、シーザーもルイスも黙った。
「今回の敗戦は誰が悪いとも言えん。要はサウスが私達よりも上手だった。そういう事だ。お前達はまだ若い。私を除いて、全員が十代から二十代だ。だから、言い合いたくなる気持ちも分かる」
クライブが低い声で笑う。
「しかし、安心したぞ。それだけ言い合いが出来るのなら、士気は落ちていないという事だからな」
これを聞いたシーザーが舌打ちして、ルイスの胸倉から手を離した。そのまま席につき、顔を横に向ける。
「で、どうすんだよ。俺達は今、サウスに囲まれちまってるぜ。援軍を要請しようにも、それも出来ねぇ」
サウスの追撃が厳しかったために、俺達はピドナに入城するのが精一杯だった。サウス軍は夜中も警備は怠らず、隙という隙は今も見えていない。
「兵糧」
不意にロアーヌが言った。まだ頬杖はついたままだ。
「なんだ? ロアーヌ」
「兵糧ですよ、クライヴ将軍。これがこの危機を脱する鍵です。コモン関所は地形などの関係で、屯田ができません。だから、兵糧を含めた物資については、後方からの輸送に頼るしかない」
「それで?」
「コモン関所は構造上、兵糧を貯め込む事が出来ないのです」
「兵糧はどこか別の場所に保管されている。そういう事か」
ロアーヌが黙って頷いた。
俺はこういう軍議については知識が乏しいために、ただ皆の会話を聞いているだけだった。知識面で言えば、副官のウィルの方が詳しいぐらいである。だから、軍議にはウィルも同席させていた。しかし、緊張しているのか、まともに発言はしていない。
「しかし、我々はサウスに囲まれている。しかも、兵糧がどこに保管されているのかが分からん」
クライヴが目をつむった。すると、ルイスが机上に広げてある地図を指でなぞり始めた。
「いくつかは検討がつきます。しかし、これだという場所は特定できない」
「どちらにしろ、このまま囲まれ続ければ、こちらが困窮してしまいます。援軍の期待はできないし、ピドナの兵糧も潤沢とは言えません」
クリスが言う。まだ十代だが、言っている事には芯が通っていた。
「それに、サウスは攻城兵器を輸送させているのではないでしょうか。そうなると、僕達はピドナで討ち死にの可能性も出てきます」
「急がねばならん。やはりここは、間諜部隊を動かすしかあるまい」
間諜部隊は、謀略や情報収集を中心に行っている部隊だった。間者の役目を担っているのも、この部隊である。
「しかし、間諜部隊を放つには、サウスの囲みを解く必要がある」
クライヴがそう言うと、ルイスが立ち上がった。
「策が思い浮かびました」
そう言ったルイスに、全員が視線を向けた。
「大まかな概略から説明します。まず、ピドナから放つ部隊は二つ。間諜部隊と、決死隊」
決死隊。この言葉に、場の空気が一気に張り詰めた。決死隊とはその名の通り、死と引き換えに任務を全うする部隊である。生き残る確率はごく僅かで、生き残れるかどうかは、それこそ運に左右される。だが、申し出れば無条件で英雄扱いだった。
「決死隊は俺が率いる」
シーザーがいきなり言った。その表情は決意で満ち溢れている。誘引に引っ掛かった事に、責任を感じているのか。
「お前では駄目だ。性格が全く向いていない」
「てめぇ」
「それにお前には違う役目がある。話を最後まで聞け。と」
ルイスが咳払いした。鳥頭、そう言おうとしたのだが、やめたのだろう。決死隊に申し出るのは、並大抵の精神力ではない。
「この二つの部隊を放つには、まずサウス軍を引き付ける必要がある。これは機動力に優れていなければならん。だから、これはシーザーにやって貰う。それと、ロアーヌ」
ロアーヌが頬杖を解いた。
「俺が? まぁ、別に構わないが」
「お前はサウスに因縁がある。そして、それは相手も知っている。これを利用するのだ」
そう言われて、ロアーヌは苦笑していた。しかし、効果的な作戦である。
「サウスの居る西門から夜襲をかけろ。同時に、シーザーは東門から夜襲をかける。これまで、私達はピドナに籠り続けた。僅かな時間かもしれないが、サウス軍は混乱する」
いくら警戒していても、実際に戦闘が起きれば、兵は動揺するだろう。そしてそれは、混乱に繋がってもおかしくはない。
「その間に、間諜部隊と決死隊がピドナから出る」
ここからは細かい説明がなされた。大まかに言えば、間諜部隊が兵糧庫を探り当て、決死隊が火を付ける、というものだが、これは言うほど簡単なものではない。サウスも当然、コモン関所の弱点は把握しているはずなのだ。だから、ダミーの兵糧庫をいくつも作っているはずだし、それを警備する兵も相当な数が居るだろう。
さらに決死隊は身軽さを重点に置かなければならないため、まともな具足など着れない。武器は短剣で、あとの持ち物は油と火矢ぐらいなものだ。兵糧すら持っていかない。これが、決死隊だった。
「決死隊の人数は五十。シーザーが立候補したが、先述の任務があるためにこれは受理できん。他に誰か居ないか」
ルイスが一座を見まわす。すると、一人の男が立った。
「私が行きます」
ウィルだった。俺は、ウィルの顔を見上げていた。何故。最初に思ったのは、これだった。
「私が決死隊を率います」
「おい、冗談はよせ、ウィル」
「冗談ではありません、シグナス将軍。私が行きます」
何故だ。言葉には出せなかった。ウィルの顔から気力が満ち溢れている。やると決めた。そういう表情なのだ。
ウィルは決死隊などに申し出られるような人間ではなかった。慎重な男で、粘り強さが長所だった。欠点と言えば、果敢さがないという事ぐらいで、それを言えば、尚更、今回の申し出は考えられる事ではない。
「私は自分の欠点がどこか知っています。それは、シグナス将軍の姿を見て知ったのです。そして同時に、いつかは克服しなければならないとも思いました。そして、そのいつかが、今です」
「お前、決死隊だぞ。分かって言っているのか。特別、強いわけでもない。抜きん出た能力があるわけでもない。そんなお前が」
「分かっています。だから、今のままではシグナス将軍のお荷物です。私はときどき、眠れなくなるのです。なんで、私のような人間がシグナス将軍の副官なのだ、と」
「お前には良い所が多くある。それを伸ばせば良い。わざわざ、死に行くな」
「誰かがやらなければならないのです。それに、死ぬと決まったわけではありません。ルイス軍師の話を聞いている限りでは、退路は確保されていますし、仕事は兵糧庫を燃やすだけです」
「駄目だ。俺が行く」
「いけません。シグナス将軍はメッサーナにとって必要な人間です」
「それを言うなら」
「良いだろう」
俺の言葉を遮るように、クライヴが低い声で言った。何を言う。俺は眼でそう言いつつ、クライヴを睨みつけた。
「決死隊の隊長はウィル。兵は別途、志願者を募ろう。作戦の開始はいつだ? ルイス」
「今夜。早ければ早い方が良いでしょう。サウスが攻城兵器を持ちだしてきたら、我々の負けです。だから、その前にケリを付ける必要があります」
それから、細かい動き方の話になった。もう、ウィルの事は話題にも上らなくなっている。それが、物凄く腹立たしい。
俺は無言で立ち上がった。
「どうした、シグナス」
ルイスがそう言ったが、俺は無視して軍議室を出た。
ウィルの寂しそうな視線が、俺の心を締め付けていた。
今、俺達はピドナに籠城していた。ピドナはサウス軍に囲まれていて、メッサーナ軍はうかつには動けないという状態である。
ピドナの軍議室で、シーザーとルイスが口論を繰り広げていた。シーザーが誘引に引っ掛かった。だから負けた。ルイスがそう言ったのだ。
「俺があそこで敵の騎馬隊を追わなければ、クリスもろとも全滅だったって言ってんだろうがっ」
「どう考えたらそうなるのだ。この鳥頭。脳みそはあるのか? ちょっと頭を叩いてみろ。中身のない空洞になってるんじゃないのか」
「あ? お前、いい加減にしろよ、ルイス。今まで容赦してきてやったが、程度を弁えないと首を飛ばすぞ」
「猿が。頭を使わないお前が悪いのだ。お前がクリスときちんと連携を取っていれば、もう少し踏ん張れた。首を飛ばされるのはお前の方だぞ。官軍の軍律では、お前は斬首刑だ」
「てめぇっ」
シーザーがルイスの胸倉を掴む。
「やめろよ、シーザー」
俺が間に割って入り、シーザーを押しのけた。
「味方同士で争ってどうする。それにもう終わった事じゃないか。次にどうするかを考える。それが先決だろう」
「あの野郎を責めろよ、シグナス。元はと言えば、あいつが」
「その元を作ったのはお前だ、鳥頭」
「てめぇっ」
「おい、やめろって」
俺はシーザーを抑えつつ、ロアーヌに顔を向けた。加勢を求めるのだ。だが、ロアーヌは眼を伏せて、興味が無さそうに頬杖をついている。というより、何か考え事をしているようだ。サウスに負けた事を考えているのか。
「ルイス、てめぇがしっかりと指揮を執ってれば、この敗戦は無かったんじゃねぇのか。お前が悪いのを、俺に責任転嫁してんじゃねぇぞ」
「もう一度、言ってみろ、鳥頭。私が悪いだと? お前の馬鹿さ加減を棚に上げて、よくそんな事が言えるな」
「おいおい」
これは止められそうもない。思えば、今回の戦はメッサーナ軍初の敗戦である。だから、みんなピリピリしているのかもしれない。
「やめろ」
不意に、クライヴが腕を組みながら低い声で言った。目を瞑り、膝を小刻みに動かしている。そんなクライヴの発言に、シーザーもルイスも黙った。
「今回の敗戦は誰が悪いとも言えん。要はサウスが私達よりも上手だった。そういう事だ。お前達はまだ若い。私を除いて、全員が十代から二十代だ。だから、言い合いたくなる気持ちも分かる」
クライブが低い声で笑う。
「しかし、安心したぞ。それだけ言い合いが出来るのなら、士気は落ちていないという事だからな」
これを聞いたシーザーが舌打ちして、ルイスの胸倉から手を離した。そのまま席につき、顔を横に向ける。
「で、どうすんだよ。俺達は今、サウスに囲まれちまってるぜ。援軍を要請しようにも、それも出来ねぇ」
サウスの追撃が厳しかったために、俺達はピドナに入城するのが精一杯だった。サウス軍は夜中も警備は怠らず、隙という隙は今も見えていない。
「兵糧」
不意にロアーヌが言った。まだ頬杖はついたままだ。
「なんだ? ロアーヌ」
「兵糧ですよ、クライヴ将軍。これがこの危機を脱する鍵です。コモン関所は地形などの関係で、屯田ができません。だから、兵糧を含めた物資については、後方からの輸送に頼るしかない」
「それで?」
「コモン関所は構造上、兵糧を貯め込む事が出来ないのです」
「兵糧はどこか別の場所に保管されている。そういう事か」
ロアーヌが黙って頷いた。
俺はこういう軍議については知識が乏しいために、ただ皆の会話を聞いているだけだった。知識面で言えば、副官のウィルの方が詳しいぐらいである。だから、軍議にはウィルも同席させていた。しかし、緊張しているのか、まともに発言はしていない。
「しかし、我々はサウスに囲まれている。しかも、兵糧がどこに保管されているのかが分からん」
クライヴが目をつむった。すると、ルイスが机上に広げてある地図を指でなぞり始めた。
「いくつかは検討がつきます。しかし、これだという場所は特定できない」
「どちらにしろ、このまま囲まれ続ければ、こちらが困窮してしまいます。援軍の期待はできないし、ピドナの兵糧も潤沢とは言えません」
クリスが言う。まだ十代だが、言っている事には芯が通っていた。
「それに、サウスは攻城兵器を輸送させているのではないでしょうか。そうなると、僕達はピドナで討ち死にの可能性も出てきます」
「急がねばならん。やはりここは、間諜部隊を動かすしかあるまい」
間諜部隊は、謀略や情報収集を中心に行っている部隊だった。間者の役目を担っているのも、この部隊である。
「しかし、間諜部隊を放つには、サウスの囲みを解く必要がある」
クライヴがそう言うと、ルイスが立ち上がった。
「策が思い浮かびました」
そう言ったルイスに、全員が視線を向けた。
「大まかな概略から説明します。まず、ピドナから放つ部隊は二つ。間諜部隊と、決死隊」
決死隊。この言葉に、場の空気が一気に張り詰めた。決死隊とはその名の通り、死と引き換えに任務を全うする部隊である。生き残る確率はごく僅かで、生き残れるかどうかは、それこそ運に左右される。だが、申し出れば無条件で英雄扱いだった。
「決死隊は俺が率いる」
シーザーがいきなり言った。その表情は決意で満ち溢れている。誘引に引っ掛かった事に、責任を感じているのか。
「お前では駄目だ。性格が全く向いていない」
「てめぇ」
「それにお前には違う役目がある。話を最後まで聞け。と」
ルイスが咳払いした。鳥頭、そう言おうとしたのだが、やめたのだろう。決死隊に申し出るのは、並大抵の精神力ではない。
「この二つの部隊を放つには、まずサウス軍を引き付ける必要がある。これは機動力に優れていなければならん。だから、これはシーザーにやって貰う。それと、ロアーヌ」
ロアーヌが頬杖を解いた。
「俺が? まぁ、別に構わないが」
「お前はサウスに因縁がある。そして、それは相手も知っている。これを利用するのだ」
そう言われて、ロアーヌは苦笑していた。しかし、効果的な作戦である。
「サウスの居る西門から夜襲をかけろ。同時に、シーザーは東門から夜襲をかける。これまで、私達はピドナに籠り続けた。僅かな時間かもしれないが、サウス軍は混乱する」
いくら警戒していても、実際に戦闘が起きれば、兵は動揺するだろう。そしてそれは、混乱に繋がってもおかしくはない。
「その間に、間諜部隊と決死隊がピドナから出る」
ここからは細かい説明がなされた。大まかに言えば、間諜部隊が兵糧庫を探り当て、決死隊が火を付ける、というものだが、これは言うほど簡単なものではない。サウスも当然、コモン関所の弱点は把握しているはずなのだ。だから、ダミーの兵糧庫をいくつも作っているはずだし、それを警備する兵も相当な数が居るだろう。
さらに決死隊は身軽さを重点に置かなければならないため、まともな具足など着れない。武器は短剣で、あとの持ち物は油と火矢ぐらいなものだ。兵糧すら持っていかない。これが、決死隊だった。
「決死隊の人数は五十。シーザーが立候補したが、先述の任務があるためにこれは受理できん。他に誰か居ないか」
ルイスが一座を見まわす。すると、一人の男が立った。
「私が行きます」
ウィルだった。俺は、ウィルの顔を見上げていた。何故。最初に思ったのは、これだった。
「私が決死隊を率います」
「おい、冗談はよせ、ウィル」
「冗談ではありません、シグナス将軍。私が行きます」
何故だ。言葉には出せなかった。ウィルの顔から気力が満ち溢れている。やると決めた。そういう表情なのだ。
ウィルは決死隊などに申し出られるような人間ではなかった。慎重な男で、粘り強さが長所だった。欠点と言えば、果敢さがないという事ぐらいで、それを言えば、尚更、今回の申し出は考えられる事ではない。
「私は自分の欠点がどこか知っています。それは、シグナス将軍の姿を見て知ったのです。そして同時に、いつかは克服しなければならないとも思いました。そして、そのいつかが、今です」
「お前、決死隊だぞ。分かって言っているのか。特別、強いわけでもない。抜きん出た能力があるわけでもない。そんなお前が」
「分かっています。だから、今のままではシグナス将軍のお荷物です。私はときどき、眠れなくなるのです。なんで、私のような人間がシグナス将軍の副官なのだ、と」
「お前には良い所が多くある。それを伸ばせば良い。わざわざ、死に行くな」
「誰かがやらなければならないのです。それに、死ぬと決まったわけではありません。ルイス軍師の話を聞いている限りでは、退路は確保されていますし、仕事は兵糧庫を燃やすだけです」
「駄目だ。俺が行く」
「いけません。シグナス将軍はメッサーナにとって必要な人間です」
「それを言うなら」
「良いだろう」
俺の言葉を遮るように、クライヴが低い声で言った。何を言う。俺は眼でそう言いつつ、クライヴを睨みつけた。
「決死隊の隊長はウィル。兵は別途、志願者を募ろう。作戦の開始はいつだ? ルイス」
「今夜。早ければ早い方が良いでしょう。サウスが攻城兵器を持ちだしてきたら、我々の負けです。だから、その前にケリを付ける必要があります」
それから、細かい動き方の話になった。もう、ウィルの事は話題にも上らなくなっている。それが、物凄く腹立たしい。
俺は無言で立ち上がった。
「どうした、シグナス」
ルイスがそう言ったが、俺は無視して軍議室を出た。
ウィルの寂しそうな視線が、俺の心を締め付けていた。
林の中に身を隠していた。兵の表情は硬いが、怯えてはいない。決死隊に自ら志願した者達なのだ。だから、怯える事はない。あとは間諜部隊が兵糧庫を探し当てるのを待つだけである。
ロアーヌとシーザーの騎馬隊がサウス軍をかき乱した。特にシーザーの暴れ方は尋常ではなく、サウス軍は完全に浮足立っていた。一方のロアーヌは堅実な動き方だった。この二人の将軍に手伝われる形で、私と五十名の決死隊はピドナを発ったのだ。
結局、あれからシグナスとは言葉を交わす事は無かった。というより、避けられていたという気がする。それが何故なのかも分かる。きっと、自分が決死隊に志願したのがいけなかったのだ。
私はシグナス槍兵隊の副官だ。これには誇りを持っている。しかし同時に、何故この私が、とも思ってしまう。何か特別な力があるわけでもなく、抜きん出た武芸も持っていない。そんな自分が副官で良いのか。そう思ってしまうのだ。
シグナスの槍はとんでもないものだった。それはまさに天下一と言っても過言ではなく、事実、シグナスには誰もかなわなかった。だから、シグナスが将軍である事に不平を並べる者は誰一人としていない。むしろ、羨望に近いもので見られていたりもする。しかし、シグナスはそれを鼻にかけることもなく、誰にでも平等に接するのだ。これがまた、兵を惹きつけた。
シグナスは素晴らしい人間だ。本当にそう思う。だが、その副官である自分はどうなのだ。シグナスと比べると、全てが見劣りしてしまう。これは別に良い。だが、副官として取り立てられるようなものは何一つとして持っていないのだ。だから、兵達もそんな自分を怪訝な眼で見ているという気がする。これは気がするというだけで、何も根拠はなかった。
私は、自分を変えたかった。自信も欲しかった。私の欠点は果敢さがないという事で、これはシグナスを見て知った。シグナスは戦では必ず自らが先頭に立つ。そして、シグナスが一番の武功をあげる。これはシグナスが果敢だからだ。一方の自分は、敵を目の前にすると怯えが走ってしまう。敵の構えている槍を見ると、息を呑んでたじろいだりもする。だが、身体は動いた。これは調練のおかげで、自分の意識とは別の所での事だ。身体は動く。だが、心は怯えている。これはつまり、果敢さがないという事なのだろう。
だから、決死隊に志願した。戦で自分を変えるのは無理だと思ったのだ。戦では、シグナスが居る。シグナスという大きな存在に、自分を任せてしまう。これでは、果敢さが身に付くはずもない。だから、決死隊だった。
不思議と、死ぬという気はなかった。心も落ち着いている。決死隊に志願する寸前が、一番緊張していた。言ってしまえば、もう引き下がれない。どうしよう。そんな思いで一杯だったのだ。だが、言った後はどうという事もなかった。これで自分を変えられる。そう思っただけだ。
私は、シグナス槍兵隊の副官だ。さすがに副官のウィルだ。兵には、そう思われていたい。
決死隊の五十名は、一言も言葉を交わしていなかった。少し、緊張しているのかもしれない。これは当たり前の事だ。自分達の働き次第で、メッサーナの運命が左右される。コモン関所の兵糧を焼く事が出来るかどうか。これが、メッサーナの命運を握っているのだ。
シグナスなら、こういう時に兵に声をかける。私も初陣の時、シグナスに声をかけてもらった。そして、励ましてもらった。それで自然と心が軽くなったのだ。だから、自分も。
「お前達、少し話をしよう」
そう言うと、兵達の視線が一斉に私に集まった。目の色は険しい。やはり、死が頭にあるのか。
「何を話そうか。そうだな、お前達がメッサーナ軍の兵に志願した理由を私に教えてくれ」
メッサーナは徴兵をしたりはしない。あくまで志願者を募る、という形だった。だから、メッサーナの兵は強い。私はそう思っている。無理やりに兵にされた官軍とは違い、自らの意志を持って兵になったからだ。
「俺は」
一人の兵が口を開いた。まだ顔が幼い。もしかしたら、十代かもしれない。
「母ちゃんのために兵になったんです。畑を耕しても、国に作物を取られる。だから、飢える。母ちゃんはそれで病気になっちまって。でも、俺には医者に見せる金もない。だから、兵になりました」
私は、ただ黙っていた。志ではなく、生きるために、母を救うために兵になった。つまりは、こういう事なのだろう。だが、これを悪い事だとは思わなかった。
「でも、俺は見ての通り、身体はちっこいし、力も弱いんです。だから、功をあげられませんでした。でも、この決死隊に志願して生きて帰ってくれば」
私は少年兵の頭にそっと手を置いた。
「生きて帰れる。私達の仕事は兵糧庫を燃やすだけだ。大丈夫だ。そして、生きて帰れば、母の病気も治せる」
「ウィル隊長」
「私は、お前のような民を救えない国が憎くてな。弱者を虐げ、強者が得をする。そんな国が許せなかったのだ。だから、私は兵に志願した。だが、私は凡人だよ。私の上官であるシグナス将軍を、いつも羨望の眼差しで見ていた」
「でも、隊長は副官です」
「そう。私は副官だ。実のない、な」
「そんな」
「大丈夫。私も生きて帰る。そうすれば、実のある副官になれる」
言って、私は二コリと笑った。少年兵も強張った笑みを浮かべる。
それから三十分程して、間諜部隊から報告が入って来た。この林の北東に、兵糧庫があると言う。数々のダミーが混じっていたようだが、ついに本物を探し当てた。
「みんな、行くぞ」
私は、それだけを言った。朝陽が昇るまでに、決着をつけなければならない。
五十名の表情は、一気に引き締まった。そして、迅速に行動する。私は走りながら、何度も持ち物を確認した。火矢と弓。そして短剣と水筒。持って来ているものはこれだけだが、何度も確認した。
微かに、人の気配を感じた。耳を澄ますと、人の話し声も聞こえる。ちょっと進み、視界の良い場所に移動した。闇夜の中、眼をこらす。
「あれか」
呟いた。兵糧らしきものが山々と積み上げられている。他にも倉が何個も建てられており、あの中にもぎっちりと詰め込まれていそうだ。
だが、見張りの数が多い。これでは仮に火を付ける事ができても、すぐに消火されてしまう。
「討ち入るしかない」
そう呟いて、私は背後を振り返った。兵の表情を確かめる。みんな、覚悟を決めていた。
「今更、言う事でもないな。私達は決死隊だ」
兵達は何も言わない。だが、眼の光は強い。
「まず、火矢を全員で射る。その後、兵糧庫に向かって駆けるぞ。敵兵を倒す。そして、駆けながらまた火矢を射るのだ」
言いながら、自分に出来るのか、と思った。シグナスなら難なくやるだろう。だが、私は。それでも、やるしかない。
「私の右手が下がったら、一斉に行く。火矢の用意」
言いつつ、自分も矢を取り出した。右手をあげる。背後では、火が熾されている。
矢に火をつけた。他の兵の矢にも火がついていく。兵糧庫の見張りの兵が、身を乗り出してこちらを窺っていた。
「一斉射撃っ」
右手を振り下ろした。同時に、火矢を射る。次々に、矢は兵糧庫の中に放り込まれていった。炎があがる。
「突撃っ」
駆けた。見張りの兵。こちらを見ている。目を見開き、口を大きく開けている。短剣を抜き放った。敵とぶつかる。心の蔵を貫いていた。
自分が先頭だった。背後の兵達が次々に兵糧庫へと飛び込んでいく。これが、シグナスの見ている景色なのか。
短剣を敵兵から抜き、自分も兵糧庫に飛び込んだ。火矢を次々に撃ち込んでいく。
「燃やせぇっ。全てを燃やし尽くせっ」
叫んだ。横から敵の槍。身体が動いていた。次の瞬間、敵の首を短剣で突き刺す。倒れた敵兵の槍を奪い、吼えた。
「私はシグナス槍兵隊の副官、ウィルだっ」
槍を振り回す。次々に敵兵を突き殺し、炎を煽った。
赤い。視界全てが赤い。兵糧庫は完全に炎に包まれている。ならば、もうこれ以上、ここに留まる必要はない。
「撤退、撤退っ。逃げるぞ、撤退っ」
叫んだ。生き残っている兵達が、次々に出口へと駆けていく。自分も一緒に駆けた。遮ろうとする敵兵は、全て突き殺した。
出口が見えた。味方の兵が次々と脱出していく。自分も。
「ウィル隊長っ」
背後。振り返る。
「隊長っ」
あの少年兵だった。敵に囲まれている。母のために兵になった。この言葉が、私の頭の中で響いた。
頭に血が昇った。同時に腹の底から声をあげた。突っ走る。
「邪魔だ、どけぇっ」
敵兵を蹴散らす。今の私は、あのシグナスだ。シグナス将軍の槍術が、私に乗り移った。
「隊長っ」
「いけっ。母を救うのだろうっ」
少年兵が駆けて行く。
私に、次々に敵が覆いかぶさって来た。その敵兵を突き殺す。早く行け。私は心の中でそう叫んだ。自分もすぐに行く。そう思いながら、敵の槍を弾き飛ばし、駆けようとした瞬間だった。
腹に何かが突き刺さった。
「隊長ぉっ」
少年兵の声。また、腹に何かが突き刺さった。視線を落とす。槍だった。二本、自分を貫いている。
「早く行け。母を救うんだろう」
叫んだつもりだったが、思ったように声が出ない。さらに槍が突き刺さる。
血が口端から流れ出た。だが、まだ生きている。シグナスの槍術が、自分にはまだ乗り移っている。
「いけぇぇぇっ」
叫べた。そして、敵兵を一人撥ね上げる事が出来た。少年兵の姿が、遠ざかっていく。やっと行ったか。そう思った。
シグナス将軍、私は、私は。
「実のある副官、ですか」
槍がまた突き刺さって来た。もう、指先一本動かせなかった。
しかしそれでも、まだ心は闘っていた。
ロアーヌとシーザーの騎馬隊がサウス軍をかき乱した。特にシーザーの暴れ方は尋常ではなく、サウス軍は完全に浮足立っていた。一方のロアーヌは堅実な動き方だった。この二人の将軍に手伝われる形で、私と五十名の決死隊はピドナを発ったのだ。
結局、あれからシグナスとは言葉を交わす事は無かった。というより、避けられていたという気がする。それが何故なのかも分かる。きっと、自分が決死隊に志願したのがいけなかったのだ。
私はシグナス槍兵隊の副官だ。これには誇りを持っている。しかし同時に、何故この私が、とも思ってしまう。何か特別な力があるわけでもなく、抜きん出た武芸も持っていない。そんな自分が副官で良いのか。そう思ってしまうのだ。
シグナスの槍はとんでもないものだった。それはまさに天下一と言っても過言ではなく、事実、シグナスには誰もかなわなかった。だから、シグナスが将軍である事に不平を並べる者は誰一人としていない。むしろ、羨望に近いもので見られていたりもする。しかし、シグナスはそれを鼻にかけることもなく、誰にでも平等に接するのだ。これがまた、兵を惹きつけた。
シグナスは素晴らしい人間だ。本当にそう思う。だが、その副官である自分はどうなのだ。シグナスと比べると、全てが見劣りしてしまう。これは別に良い。だが、副官として取り立てられるようなものは何一つとして持っていないのだ。だから、兵達もそんな自分を怪訝な眼で見ているという気がする。これは気がするというだけで、何も根拠はなかった。
私は、自分を変えたかった。自信も欲しかった。私の欠点は果敢さがないという事で、これはシグナスを見て知った。シグナスは戦では必ず自らが先頭に立つ。そして、シグナスが一番の武功をあげる。これはシグナスが果敢だからだ。一方の自分は、敵を目の前にすると怯えが走ってしまう。敵の構えている槍を見ると、息を呑んでたじろいだりもする。だが、身体は動いた。これは調練のおかげで、自分の意識とは別の所での事だ。身体は動く。だが、心は怯えている。これはつまり、果敢さがないという事なのだろう。
だから、決死隊に志願した。戦で自分を変えるのは無理だと思ったのだ。戦では、シグナスが居る。シグナスという大きな存在に、自分を任せてしまう。これでは、果敢さが身に付くはずもない。だから、決死隊だった。
不思議と、死ぬという気はなかった。心も落ち着いている。決死隊に志願する寸前が、一番緊張していた。言ってしまえば、もう引き下がれない。どうしよう。そんな思いで一杯だったのだ。だが、言った後はどうという事もなかった。これで自分を変えられる。そう思っただけだ。
私は、シグナス槍兵隊の副官だ。さすがに副官のウィルだ。兵には、そう思われていたい。
決死隊の五十名は、一言も言葉を交わしていなかった。少し、緊張しているのかもしれない。これは当たり前の事だ。自分達の働き次第で、メッサーナの運命が左右される。コモン関所の兵糧を焼く事が出来るかどうか。これが、メッサーナの命運を握っているのだ。
シグナスなら、こういう時に兵に声をかける。私も初陣の時、シグナスに声をかけてもらった。そして、励ましてもらった。それで自然と心が軽くなったのだ。だから、自分も。
「お前達、少し話をしよう」
そう言うと、兵達の視線が一斉に私に集まった。目の色は険しい。やはり、死が頭にあるのか。
「何を話そうか。そうだな、お前達がメッサーナ軍の兵に志願した理由を私に教えてくれ」
メッサーナは徴兵をしたりはしない。あくまで志願者を募る、という形だった。だから、メッサーナの兵は強い。私はそう思っている。無理やりに兵にされた官軍とは違い、自らの意志を持って兵になったからだ。
「俺は」
一人の兵が口を開いた。まだ顔が幼い。もしかしたら、十代かもしれない。
「母ちゃんのために兵になったんです。畑を耕しても、国に作物を取られる。だから、飢える。母ちゃんはそれで病気になっちまって。でも、俺には医者に見せる金もない。だから、兵になりました」
私は、ただ黙っていた。志ではなく、生きるために、母を救うために兵になった。つまりは、こういう事なのだろう。だが、これを悪い事だとは思わなかった。
「でも、俺は見ての通り、身体はちっこいし、力も弱いんです。だから、功をあげられませんでした。でも、この決死隊に志願して生きて帰ってくれば」
私は少年兵の頭にそっと手を置いた。
「生きて帰れる。私達の仕事は兵糧庫を燃やすだけだ。大丈夫だ。そして、生きて帰れば、母の病気も治せる」
「ウィル隊長」
「私は、お前のような民を救えない国が憎くてな。弱者を虐げ、強者が得をする。そんな国が許せなかったのだ。だから、私は兵に志願した。だが、私は凡人だよ。私の上官であるシグナス将軍を、いつも羨望の眼差しで見ていた」
「でも、隊長は副官です」
「そう。私は副官だ。実のない、な」
「そんな」
「大丈夫。私も生きて帰る。そうすれば、実のある副官になれる」
言って、私は二コリと笑った。少年兵も強張った笑みを浮かべる。
それから三十分程して、間諜部隊から報告が入って来た。この林の北東に、兵糧庫があると言う。数々のダミーが混じっていたようだが、ついに本物を探し当てた。
「みんな、行くぞ」
私は、それだけを言った。朝陽が昇るまでに、決着をつけなければならない。
五十名の表情は、一気に引き締まった。そして、迅速に行動する。私は走りながら、何度も持ち物を確認した。火矢と弓。そして短剣と水筒。持って来ているものはこれだけだが、何度も確認した。
微かに、人の気配を感じた。耳を澄ますと、人の話し声も聞こえる。ちょっと進み、視界の良い場所に移動した。闇夜の中、眼をこらす。
「あれか」
呟いた。兵糧らしきものが山々と積み上げられている。他にも倉が何個も建てられており、あの中にもぎっちりと詰め込まれていそうだ。
だが、見張りの数が多い。これでは仮に火を付ける事ができても、すぐに消火されてしまう。
「討ち入るしかない」
そう呟いて、私は背後を振り返った。兵の表情を確かめる。みんな、覚悟を決めていた。
「今更、言う事でもないな。私達は決死隊だ」
兵達は何も言わない。だが、眼の光は強い。
「まず、火矢を全員で射る。その後、兵糧庫に向かって駆けるぞ。敵兵を倒す。そして、駆けながらまた火矢を射るのだ」
言いながら、自分に出来るのか、と思った。シグナスなら難なくやるだろう。だが、私は。それでも、やるしかない。
「私の右手が下がったら、一斉に行く。火矢の用意」
言いつつ、自分も矢を取り出した。右手をあげる。背後では、火が熾されている。
矢に火をつけた。他の兵の矢にも火がついていく。兵糧庫の見張りの兵が、身を乗り出してこちらを窺っていた。
「一斉射撃っ」
右手を振り下ろした。同時に、火矢を射る。次々に、矢は兵糧庫の中に放り込まれていった。炎があがる。
「突撃っ」
駆けた。見張りの兵。こちらを見ている。目を見開き、口を大きく開けている。短剣を抜き放った。敵とぶつかる。心の蔵を貫いていた。
自分が先頭だった。背後の兵達が次々に兵糧庫へと飛び込んでいく。これが、シグナスの見ている景色なのか。
短剣を敵兵から抜き、自分も兵糧庫に飛び込んだ。火矢を次々に撃ち込んでいく。
「燃やせぇっ。全てを燃やし尽くせっ」
叫んだ。横から敵の槍。身体が動いていた。次の瞬間、敵の首を短剣で突き刺す。倒れた敵兵の槍を奪い、吼えた。
「私はシグナス槍兵隊の副官、ウィルだっ」
槍を振り回す。次々に敵兵を突き殺し、炎を煽った。
赤い。視界全てが赤い。兵糧庫は完全に炎に包まれている。ならば、もうこれ以上、ここに留まる必要はない。
「撤退、撤退っ。逃げるぞ、撤退っ」
叫んだ。生き残っている兵達が、次々に出口へと駆けていく。自分も一緒に駆けた。遮ろうとする敵兵は、全て突き殺した。
出口が見えた。味方の兵が次々と脱出していく。自分も。
「ウィル隊長っ」
背後。振り返る。
「隊長っ」
あの少年兵だった。敵に囲まれている。母のために兵になった。この言葉が、私の頭の中で響いた。
頭に血が昇った。同時に腹の底から声をあげた。突っ走る。
「邪魔だ、どけぇっ」
敵兵を蹴散らす。今の私は、あのシグナスだ。シグナス将軍の槍術が、私に乗り移った。
「隊長っ」
「いけっ。母を救うのだろうっ」
少年兵が駆けて行く。
私に、次々に敵が覆いかぶさって来た。その敵兵を突き殺す。早く行け。私は心の中でそう叫んだ。自分もすぐに行く。そう思いながら、敵の槍を弾き飛ばし、駆けようとした瞬間だった。
腹に何かが突き刺さった。
「隊長ぉっ」
少年兵の声。また、腹に何かが突き刺さった。視線を落とす。槍だった。二本、自分を貫いている。
「早く行け。母を救うんだろう」
叫んだつもりだったが、思ったように声が出ない。さらに槍が突き刺さる。
血が口端から流れ出た。だが、まだ生きている。シグナスの槍術が、自分にはまだ乗り移っている。
「いけぇぇぇっ」
叫べた。そして、敵兵を一人撥ね上げる事が出来た。少年兵の姿が、遠ざかっていく。やっと行ったか。そう思った。
シグナス将軍、私は、私は。
「実のある副官、ですか」
槍がまた突き刺さって来た。もう、指先一本動かせなかった。
しかしそれでも、まだ心は闘っていた。
サウスが軍を引いた。コモン関所の兵糧を焼かれたのだ。あのまま留まっていれば、食糧難で兵を飢えさせる事になる。そう考えれば、退却は当然の事だった。俺達はそのサウスに追撃をかけたかったのだが、それは出来なかった。満身創痍だったのだ。味方の兵のほとんどは負傷していたし、ピドナは厳しく囲まれていたせいで、軍全体の士気も落ちていた。
今回の戦は勝敗で言えば、引き分けだろう。軍と軍のぶつかり合いで言えば、メッサーナは負けという事になってしまうが、戦という観点で見れば引き分けである。こちらは兵馬を多く失った代わりに、官軍は兵糧を失った。
しばらくはお互いに戦での傷を癒すために、戦線は膠着状態になるだろう。つまり、当分の間は戦がない、という事である。
俺はサウスに負けた。これは軍ではなく、俺個人の話だ。つまり、将軍としての力量差で負けた。これを補う術は今のところは見つかっていない。身につけるべき軍学は身に付けたし、机上ではヨハンを相手に論じ合っても良い勝負が出来た。こうなれば、あとは経験しかない。
しかし、そうは思っていても、同じ相手に二度も負けたという悔しさは抗い難かった。だから、俺はそんな思いを吹っ切るために、山を登っていた。あの、シグナスの槍兵隊と共に登った山だ。あの景色を眺めれば、自然と気が落ち着く。俺の好きな場所だった。そういう場所は今までに無かったので、この感覚も新鮮だった。
地元の住民によると、この山の名はタフターン山というらしい。名前の由来は知らないが、昔から険しさで有名だという話だった。
天気は曇り空だった。季節は冬から春に変わりかけているが、まだ気温は肌寒い。
「曇り、か」
独り言だった。単騎で山を登っているのだ。従者の何人かが護衛で付いていく、と申し出てきたが、それは断った。独りの時間が欲しかったからだ。
「曇りならば、俺の好きな景色になっているかな」
頂上で見れる景色である。晴れの日は多くの山々が一望できるが、曇りや霧の濃い日になると、その山々が見えなくなる。そして、一つの山だけが視界に残るのだ。俺はこの景色が好きだった。
頂上に辿り着いた。そこには、一つの人影があった。馬上で、景色を眺めているようだ。
俺は馬を進めた。人影は、シグナスだった。
「先客が居たとはな」
「ロアーヌか」
シグナスは振り返る事もせずに、呟くように言った。俺はシグナスと馬を並べた。次いで、景色の方に目をやる。俺の予想通り、一つの山以外は霧に遮られて、見えなくなっていた。
「ウィルが死んだよ、ロアーヌ」
か細い声で、シグナスが言った。
ウィルはシグナス槍兵隊の副官だった。俺は軍務上でしか言葉を交わした事は無かったが、悪い印象は持っていない。真面目で、命令された事はきちんとやり通す。そういう印象が強い男だった。
そのウィルが、決死隊の隊長に立候補した。そして、死んだ。これについては、仕方がないと割り切るしかないだろう。戦なのだ。誰にでも、死というものは有り得る。ただ、シグナスはウィルが決死隊に立候補するのを反対していた。それは切実な感じで、軽い口論にもなりかけたが、結局ウィルがそれを聞き入れる事は無かった。
部下を失うという事は、辛い事だ。俺もある程度は割り切っているが、精神的な負担はどうしても背負ってしまう。これを表に出すかどうかは別としても、シグナスの気持ちは分かるつもりだった。
「最後の最後まで、俺はあいつとは話さなかった」
シグナスが天を見上げる。
「何でだろうな。自分の中で、変な意地でも張ってたのかもな。ウィルは、俺の言う事にはいつも従順だった。だが、あの時だけ強硬だったのだ。それが気に食わなかったのかな」
仮に俺がシグナスの立場なら、ウィルの背中を押しただろう。ウィルは自分の欠点を知っていた。そして、直そうとしていた。これはウィル自身が言っていた事で、決死隊に立候補したのも欠点を克服するためだったのだ。つまり、自分を変えたかった。言い換えれば、成長したかったのだ。ならば、上官としてやるべき事は背中を押す事だ。俺はそう考える。だが、シグナスは違った。もっと別の所で、死のリスクを背負わない所で、克服させたい。シグナスはそういう考えだったのだろう。
「なんで、俺は声をかけてやらなかったんだ」
シグナスの声が震えた。
「あいつは強くもないし、抜きん出た能力を持ってるわけでもなかった。どこか臆病で、果敢さがない男だったのだ。それなのに、上官である俺は声もかけずに、無視しちまった。あいつは、とてつもなく不安だっただろう」
「シグナス」
「俺はウィルの気持ちを、全く理解していなかった」
「それでも任務は果たしたのだ。決死隊五十名の内、三十八名は無事に帰還してきた。これは驚異的な生存率だ」
この生存者の数だけを見れば、兵糧庫襲撃は大成功を収めたと言っていい。そして、成功へと導いたのは隊長のウィルだった。
「割り切るべきなのは分かってるんだがな。悔やんでも悔やみきれんのが事実だ」
「ウィルは雄々しく死んだのだ。逃げ遅れた兵の代わりに、その命を散らせた」
ウィルは一人の少年兵を救うために、ただ一人で敵中へと飛び込んだという話だった。この少年兵を無視していれば。そう言う者も居たが、全ては仮の話である。大事なのは、そこに至るまでの経緯だ。何故、ウィルは少年兵を見捨てなかったのか。いや、見捨てる事が出来なかったのか。
ウィルはシグナスの精神をしっかりと受け継いでいたのだ。シグナスは味方を見捨てるという事は極力やらない。救える確率が僅かでも残っていれば、そこに飛び込む。だから、ウィルも少年兵を見捨てる事はしなかった。俺は、そう思っていた。
「あいつの槍の腕では」
「それは言うべき事ではない、シグナス。ウィルはお前になりたかったのだ」
シグナスが鼻で笑った。
「俺も、サウスに借りが出来たのかもしれんな」
「あの男は強い。一筋縄では借りは返せんぞ」
「分かっているさ」
それで、会話は終わった。しばらくは互いに景色へと目をこらし、風の音だけを聞いていた。
「終わる命もあれば、始まる命もある」
不意にシグナスが言った。
「サラが子を産んだのだ、ロアーヌ」
そう言ったシグナスの表情は、悲しみと喜びが混在しているように見えた。
「男児か?」
「あぁ」
「槍のシグナスの子か、将来が楽しみだな」
俺がそう言うと、シグナスは表情を変えずに、ただ口元を緩めた。
ウィルの死の悲しみは、時と共に薄れて行くだろう。そして、子の成長の喜びは、時と共に増していく。
風が、肌を優しく撫でていた。
今回の戦は勝敗で言えば、引き分けだろう。軍と軍のぶつかり合いで言えば、メッサーナは負けという事になってしまうが、戦という観点で見れば引き分けである。こちらは兵馬を多く失った代わりに、官軍は兵糧を失った。
しばらくはお互いに戦での傷を癒すために、戦線は膠着状態になるだろう。つまり、当分の間は戦がない、という事である。
俺はサウスに負けた。これは軍ではなく、俺個人の話だ。つまり、将軍としての力量差で負けた。これを補う術は今のところは見つかっていない。身につけるべき軍学は身に付けたし、机上ではヨハンを相手に論じ合っても良い勝負が出来た。こうなれば、あとは経験しかない。
しかし、そうは思っていても、同じ相手に二度も負けたという悔しさは抗い難かった。だから、俺はそんな思いを吹っ切るために、山を登っていた。あの、シグナスの槍兵隊と共に登った山だ。あの景色を眺めれば、自然と気が落ち着く。俺の好きな場所だった。そういう場所は今までに無かったので、この感覚も新鮮だった。
地元の住民によると、この山の名はタフターン山というらしい。名前の由来は知らないが、昔から険しさで有名だという話だった。
天気は曇り空だった。季節は冬から春に変わりかけているが、まだ気温は肌寒い。
「曇り、か」
独り言だった。単騎で山を登っているのだ。従者の何人かが護衛で付いていく、と申し出てきたが、それは断った。独りの時間が欲しかったからだ。
「曇りならば、俺の好きな景色になっているかな」
頂上で見れる景色である。晴れの日は多くの山々が一望できるが、曇りや霧の濃い日になると、その山々が見えなくなる。そして、一つの山だけが視界に残るのだ。俺はこの景色が好きだった。
頂上に辿り着いた。そこには、一つの人影があった。馬上で、景色を眺めているようだ。
俺は馬を進めた。人影は、シグナスだった。
「先客が居たとはな」
「ロアーヌか」
シグナスは振り返る事もせずに、呟くように言った。俺はシグナスと馬を並べた。次いで、景色の方に目をやる。俺の予想通り、一つの山以外は霧に遮られて、見えなくなっていた。
「ウィルが死んだよ、ロアーヌ」
か細い声で、シグナスが言った。
ウィルはシグナス槍兵隊の副官だった。俺は軍務上でしか言葉を交わした事は無かったが、悪い印象は持っていない。真面目で、命令された事はきちんとやり通す。そういう印象が強い男だった。
そのウィルが、決死隊の隊長に立候補した。そして、死んだ。これについては、仕方がないと割り切るしかないだろう。戦なのだ。誰にでも、死というものは有り得る。ただ、シグナスはウィルが決死隊に立候補するのを反対していた。それは切実な感じで、軽い口論にもなりかけたが、結局ウィルがそれを聞き入れる事は無かった。
部下を失うという事は、辛い事だ。俺もある程度は割り切っているが、精神的な負担はどうしても背負ってしまう。これを表に出すかどうかは別としても、シグナスの気持ちは分かるつもりだった。
「最後の最後まで、俺はあいつとは話さなかった」
シグナスが天を見上げる。
「何でだろうな。自分の中で、変な意地でも張ってたのかもな。ウィルは、俺の言う事にはいつも従順だった。だが、あの時だけ強硬だったのだ。それが気に食わなかったのかな」
仮に俺がシグナスの立場なら、ウィルの背中を押しただろう。ウィルは自分の欠点を知っていた。そして、直そうとしていた。これはウィル自身が言っていた事で、決死隊に立候補したのも欠点を克服するためだったのだ。つまり、自分を変えたかった。言い換えれば、成長したかったのだ。ならば、上官としてやるべき事は背中を押す事だ。俺はそう考える。だが、シグナスは違った。もっと別の所で、死のリスクを背負わない所で、克服させたい。シグナスはそういう考えだったのだろう。
「なんで、俺は声をかけてやらなかったんだ」
シグナスの声が震えた。
「あいつは強くもないし、抜きん出た能力を持ってるわけでもなかった。どこか臆病で、果敢さがない男だったのだ。それなのに、上官である俺は声もかけずに、無視しちまった。あいつは、とてつもなく不安だっただろう」
「シグナス」
「俺はウィルの気持ちを、全く理解していなかった」
「それでも任務は果たしたのだ。決死隊五十名の内、三十八名は無事に帰還してきた。これは驚異的な生存率だ」
この生存者の数だけを見れば、兵糧庫襲撃は大成功を収めたと言っていい。そして、成功へと導いたのは隊長のウィルだった。
「割り切るべきなのは分かってるんだがな。悔やんでも悔やみきれんのが事実だ」
「ウィルは雄々しく死んだのだ。逃げ遅れた兵の代わりに、その命を散らせた」
ウィルは一人の少年兵を救うために、ただ一人で敵中へと飛び込んだという話だった。この少年兵を無視していれば。そう言う者も居たが、全ては仮の話である。大事なのは、そこに至るまでの経緯だ。何故、ウィルは少年兵を見捨てなかったのか。いや、見捨てる事が出来なかったのか。
ウィルはシグナスの精神をしっかりと受け継いでいたのだ。シグナスは味方を見捨てるという事は極力やらない。救える確率が僅かでも残っていれば、そこに飛び込む。だから、ウィルも少年兵を見捨てる事はしなかった。俺は、そう思っていた。
「あいつの槍の腕では」
「それは言うべき事ではない、シグナス。ウィルはお前になりたかったのだ」
シグナスが鼻で笑った。
「俺も、サウスに借りが出来たのかもしれんな」
「あの男は強い。一筋縄では借りは返せんぞ」
「分かっているさ」
それで、会話は終わった。しばらくは互いに景色へと目をこらし、風の音だけを聞いていた。
「終わる命もあれば、始まる命もある」
不意にシグナスが言った。
「サラが子を産んだのだ、ロアーヌ」
そう言ったシグナスの表情は、悲しみと喜びが混在しているように見えた。
「男児か?」
「あぁ」
「槍のシグナスの子か、将来が楽しみだな」
俺がそう言うと、シグナスは表情を変えずに、ただ口元を緩めた。
ウィルの死の悲しみは、時と共に薄れて行くだろう。そして、子の成長の喜びは、時と共に増していく。
風が、肌を優しく撫でていた。