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第十二章 原野、飛翔

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 メッサーナ軍が動いた。兵力は三万。しかし、そのほとんどは歩兵で、騎兵はロアーヌのスズメバチ隊のみ、という情報だった。
 対するこちらの兵力は五万である。実に二万の兵力差だ。その中の一万は弓騎兵隊で、さらにもう一万は騎馬隊である。残りの三万は歩兵だが、戦の中心として動くのは弓騎兵隊だった。
 戦の指揮には自信があった。名門の生まれという事で、幼い頃から軍学だけは入念に叩き込まれていたのだ。また、それを嫌だという風にも感じなかった。弓の腕が上達するのと同じように、軍学を習得すれば、それだけ人に勝てたのだ。そして、これを強く実感したのは、童達だけでの雪合戦だった。
 その雪合戦では、陣立てから雪玉を投げる機まで、私が全体を細かく指揮した。雪合戦といえども、要領は戦と同じである。雪玉の補給は兵糧に見立て、体力のある者達は歩兵、足の速い者達は騎兵、肩力の強い者達は弓兵に見立てた。
 そして、陣形をきちんと組み、手強い敵は伏兵で破るなどした。つまり、軍学をフルに活用したのである。結果的にこれが面白いようにハマり、雪合戦は圧勝だった。
 思えば、他人より頭抜け始めたのは、あの頃からだ。軍学・弓の腕・馬術。この三点に至っては、私と肩を並べる者は居なかった。
 剣のロアーヌとは、どのような男なのか。メッサーナ軍には名将、猛将、知謀の士と人材が豊富だが、その中で私の興味を引いたのは、剣のロアーヌ、ただ一人である。
 ロアーヌの官軍時代の印象としては、無口で人付き合いが下手な男、といった感じだった。ただし、剣の腕は一流で、それこそ天下に二人と居ない使い手だろう。軍学の方はよく知らないが、それなりのものも持っているはずだ。
 だが、そのロアーヌは官軍を抜けた。というより、国を捨てたのである。
 羨ましかった。いや、むしろ、妬ましいと言って良いだろう。ロアーヌの家系は平凡な軍人の家系で、言ってしまえば失うものなど何も無いのだ。だが、私は違う。私は名門の生まれだ。これは、私にとって誇りだ。だが、それと同時に枷でもあるのかもしれない。
「バロン」
 軍営の中で思いに耽っていると、シルベンがやってきた。
「どうした、シルベン。行軍に何か問題が出たのか?」
「いや、そうじゃない。エイン平原には予定通りに到着するさ」
 エイン平原とは、コモン関所の真北に位置する広大な原野である。ピドナ地方と北を繋ぐ交易ルートの一つで、商人の行き来が盛んな場所である。今回の戦場は、このエイン平原だった。
 北の大地を戦場にするわけにはいかない。本来なら、地の利を活かして北で戦いたい所だが、長らく平和が続く北に、戦を持ち込む真似はしたくなかった。それでゴルドが、戦場としてエイン平原を選択したのである。
「この軍営の中に、フランツの間者が紛れ込んでるらしい」
 シルベンが囁くように言った。
「何?」
 間者、という言葉が引っ掛かった。
「何故だ?」
「分からん。ただ、サウスに援軍を依頼しなかったのが、どうも気に入らなかったようだな」
「私は疑われているのか?」
「さぁな。だが、サウスはサウスで、メッサーナを攻める気はないみたいだぞ。何でも、政治家如きの命令で動いてたまるか、と声高々に喚いているらしい」
「サウス将軍の手など借りずとも、我々は勝ってみせる。そもそもで、私はフランツに疑われるような事をした覚えはない」
「声がデカい。落ち着け。何のための間者か、まだよく分かっていない。だが、やましい事は何も無いだろう。あくまで、表面上ではな」
 心の内は違う。シルベンはそう言っている。
「私は高祖父の血を引いているのだ。その高祖父の功績に、私が泥を塗るわけにはいかん」
「分かってるよ。興奮するな」
 腹が立った。何のために私が軍を動かしたのか、フランツは全く分かっていない。いや、分かろうともしていない。
「弓騎兵隊だけで先行する」
「何を言ってる、バロン」
「身の潔白を証明するのだ。初戦は弓騎兵隊のみで十分だ」
「メッサーナを甘く見るな。あのサウスを壊滅寸前に追い込んだ軍だぞ」
「私がサウスに劣るとは微塵も思っておらん。それに、まずはロアーヌのスズメバチが出てくるだろう。手並みを見てやる」
 そこまで言うと、シルベンが小さくため息を吐いた。
「深追いするなよ。頭に血が昇ると、視野が極端に狭くなる。子供の頃からの、お前の悪い癖だ」
「覚えておこう」
 確かに頭には血が昇っている。だが、勝算は十二分にあるはずだ。一万の弓騎兵隊に対し、ロアーヌのスズメバチは僅かに千五百なのだ。それに、兵の質はともかく、馬の質は完全にこちらに分があると言って良い。北の大地で育った馬は、力と速さを兼ね備えた名馬が多い。その名馬の中から、さらに選りすぐったものを、弓騎兵隊に組み込んでいるのだ。
「私は鷹の目、バロンだ」
 握りこぶしを作っていた。
 苛立ちは、すぐには収まらなかった。
 弓騎兵隊一万が先行中。先に放っていた斥候が、そういう情報を持ち帰って来ていた。
 今回、出陣している将軍は俺とクライヴのみで、他に兵の指揮が出来るのは大隊長のアクトのみだった。軍師としてはヨハンが従軍してきており、残りの者はピドナで防衛任務である。だが、サウスに動きはないようだった。
「弓騎兵隊が出てくるとは、バロンが自ら指揮を執っている可能性が高いな」
 クライヴが、ぽつりと言った。いつもの貧乏ゆすりで、膝が小刻みに動いている。
「そのバロンという男、戦は上手いのですか?」
「上手い。だが、サウス程の老練さはないだろう。軍歴も、お前よりいくらか上なだけだ、ロアーヌ」
「しかし、今回の構成、攻撃力が決定的に足りない気がするのです」
 不意にヨハンが言った。アクトは無言で地図に見入っている。エイン平原の地形を頭に叩き込もうとしているのだろう。
「シーザー将軍がおられない。獅子軍の攻撃力は、やはり欲しい」
 もしくはシグナス。だが、それは誰も口には出さなかった。
「バロンはサウスのように大胆な戦法は取らん。むしろ、きめ細かな戦い方を好む所がある。名門出の特徴の一つだ」
「詳しいですね、クライヴ将軍」
「弓術をたしなむ者であれば、バロンをよく知りたくもなるのだ、ロアーヌ」
「それほどの腕で?」
「槍で言えばシグナス。剣で言えばお前のような男だ。そして戦が上手い。ただ、感情的な所がある。これが唯一にして最大の欠点だ」
「どちらにしても、迎撃はしなくてはなりますまい」
 ヨハンが言った。
「俺のスズメバチで迎撃する」
「それしかないでしょうね。弓騎兵隊単体に対して、歩兵とはいかにも相性が悪すぎる」
 機動力が違いすぎる。これは致命的である。それにこれは、前哨戦のようなものだろう。とは言っても、勝っておきたいのが本音である。どんな戦であるにせよ、勝てば勢いに繋がるのだ。
「しかし、出陣の意図が読めません。弓騎兵隊単体で先行してくる意味がない。そして、バロンが自ら出てくる事も」
「感情で出陣したのではないのか?」
 言って、クライヴが鼻で笑った。
「ヨハン、お前は考え過ぎる所がある。敵が出てきた。だから迎え撃つ。それで良いだろう。あとは軍師として、ロアーヌに策を授けろ」
 そう言われて、ヨハンは頭を掻いた。
「それもそうですね。失敬いたしました。ロアーヌ将軍のスズメバチは僅かに千五百。対する相手は一万。つまり、数の優位はあちらにある。まずは、様子見で戦を展開してください」
「そのつもりだ」
「さらに、エイン平原には丘が多数あります。これは逆落としで使える。実際に使えるかどうかは、ロアーヌ将軍の目で」
 要は、この段階ではバロンとまともにぶつかるな、という事だった。ヨハンらしいと言えばヨハンらしいが、少し慎重過ぎる。ルイスなら、突撃の一回ぐらい命じてくるだろう。そして、勝てそうなら勝つ。ルイスなら、そういう指示を出すはずだ。
「バロンの弓の腕を忘れていませんか、ロアーヌ将軍。相手は走る弓兵です。騎馬隊で崩す相手ではありません」
 まるで俺の心の内を見透かしたかのように、ヨハンが言った。
「この戦で大事なのは、自分と相手の力量をはかる事。これまで、敵にはロアーヌ将軍のスズメバチ隊に比肩する騎馬隊は居ませんでした。しかし、弓騎兵隊は違うかもしれない。これを念頭に置いてください」
「分かった」
「ご武運を祈ります」
 二コリと笑うヨハンを背にして、俺は幕舎を出た。
 すぐに部下を招集し、戦の準備を整えさせた。今回の戦では、弓と歩兵が主力となってくる。だからではないが、俺の騎馬隊も重装備で固めようかと思ったが、それはやめておいた。俺の軍はスズメバチなのだ。速く、鋭く、細かくなければならない。重装備にすれば、それが殺される。
「進発するっ」
 声をあげた。
 一斉に千五百騎が動き始める。
 鷹の目、バロン。一体、どういう男なのか。あのクライヴが、高く評価した男だ。少なくとも、甘くはないだろう。俺の中で、手強い将軍は何人かいるが、その中での筆頭はサウスである。あのサウスに比肩し得るのか。
 エイン平原が見えてきた。両脇に丘が四つ。まず、これを頭の中に叩き込んだ。地形は弓の盾にもなる。抗しきれなくなったら、ここに拠る事も大事なのだ。
 土煙。前方。同時に馬蹄が聞こえてきた。バロンの弓騎兵隊のものだろう。さすがに一万ともなると、馬蹄はさながら地鳴りのようである。
 相手はすでに戦闘態勢なのか。これを思ったが、土煙に加え、距離が遠すぎてよく様子が見えない。ただ、バロンも斥候を放ち、俺の存在を知っているはずだ。
「全員」
 武器構え、そう言おうとした瞬間だった。風が鳴った。光、いや。
「まずいっ」
 剣を抜いていた。同時に振る。金属音。何かが虚空に消えた。
 何か。一体、何に向けて剣を振ったのか。光。そうとしか言えない。
「矢です、将軍。矢ですよ」
 後ろで部下が呻くように言った、手が、痺れている。
 矢だと。こんな距離から。
 刹那、また光。剣を振る。僅かに剣の軌跡が捻じ曲げられていた。重い。そして速い。矢だと意識して、やっと矢と分かった。それまでは、光としか思えなかった。
 だが、こんな距離から。しかも、この威力。そして何より、照準精度が凄まじい。俺の眉間を目がけて、寸分すらも違わずに矢が飛んできたのだ。それも二度連続。
「鷹の目、バロン」
 強敵。シグナス以来の、血の騒ぎようだった。
62, 61

  

 私の矢が、防がれた。それも二回。
 剣のロアーヌ。実力は本物、という事なのか。しかし、どうやって防いだのか。私は今まで、全てのものを一矢で終わらせてきた。それは木や岩であったり、命であったりする。全てのものには、急所があるのだ。その急所を射ぬけば、どんなものでも一矢で終わらせる事が出来る。
 だが、ロアーヌにはそれが出来なかった。何故だ、という思いはあるが、気落ちはしていない。むしろ、高揚している。待ち望んでいた人間が現れたのだ。自分と比肩しうる男。私の矢を、二度も防いだ男。
「お前の力量、見せてもらうぞ」
 ここから、ロアーヌはどう動くのか。さらに近寄ってくるのか。それとも、退がるのか。私の矢を見て、恐れおののいただろう。私の矢は、常人とは比較にならない。飛距離、威力、命中精度。全ての点において、常人を凌駕するのだ。だから、退がったとしても、それは恥ではない。
 瞬間、虎縞模様の騎兵隊が、縦一列となった。ロアーヌが先頭。気が、大きく膨れ上がっている。戦闘続行の意思。だが、そこから前に進めるか。前に進む、すなわち、私に近付くという事は、自ら矢の的になろうとする事と同義だ。ロアーヌ、お前にそれが出来るか。
 近付かなければ、叩きのめす事ができん。前方に居るスズメバチが、そう言った。
 瞬間、スズメバチが突っ込んできた。
「ほう」
 これが答え。私はそう受け取った。右手をあげる。弓騎兵隊が一斉に動き出した。
 弓騎兵は接近戦を得手とする兵科ではない。最も戦果が期待できるのは中距離だが、とりあえずは様子見が先である。すなわち、遠距離で戦を展開する。
 スズメバチと並走する形で、原野を駆け回っていく。
「弓構えっ」
 号令。弓騎兵隊が、一斉に身体をねじった。脚で馬を制御し、上半身は弓矢に委ねる。
「放てぇっ」
 風切り音。同時に、スズメバチの足元で土煙。その土煙の中へ、矢が無数に飛び込んでいく。だが、妙に手応えがない。どうなっているのか。これを目で確認したいと思ったが、土煙に遮られていた。
 土煙が収まる。やはり、スズメバチは健在だった。何も無かったかのように原野を駆けている。構わず、さらに射撃を繰り返す。だが、同じように手応えはなかった。ただ、射撃の瞬間に土煙が竜巻の如く舞い上がっている。
 馬術か。私はそう思った。未だに見た事はないが、馬術も鍛え抜けば、出来るはずもない事が可能になるという。今回の場合で言えば、急な方向転換である。要はその度合いだが、土煙の舞い上がり方を見る限り、スズメバチはほぼ直角に方向を変えている。
 サウスとの戦を経ての結果だろう。普通の生ぬるい戦の経験しか積んでいないなら、あんな調練をやらせよう、とは思いもしないはずだ。
 ロアーヌのスズメバチは、直角に進む方向を変えられる。これはつまり、戦場を縦横無尽に動き回れる、という事だ。弓騎兵隊の立場で言えば、矢の軌道を見切られた時点で、攻撃をかわされる。
 ならば、矢の軌道を見切られないようにするには、どうすればいいのか。いや、見切られる前に、敵に矢を突き立たせる。そう考えれば良い。そうすれば、自ずと答えも出てくる。
「距離を詰める」
 スズメバチと中距離で戦うのは気が進まないが、やるしかないだろう。おそらく、これはロアーヌも同じだ。もう小手調べは済んだ。ここからは、互いに手の内を見せ合う時だ。
「一万という数は忘れる。そして、スズメバチは一万五千の兵力。そう想定して戦うっ」
 馬腹を蹴る。弓騎兵隊が、一斉に弓矢を構えた。


 手強い。一万という数の劣勢を無視しても、弓騎兵隊は手強い。
 遠距離戦では、こちらは逃げ回るしかなかった。攻撃手段が無いのだ。だが、逃げ回るだけならば、そう難しい事ではない。弓矢は飛び道具である。飛び道具であるが故に、攻撃の軌道さえ読めれば、かわすのは容易いと言って良い。だが、これはスズメバチ隊ならば、という話である。
 サウスでの敗戦から、俺は色々なものを学んだ。そして、それを調練の中に組み込み、スズメバチ隊の強化へと繋げた。それが今、生きている。
 今度は、その弓騎兵隊が距離を詰めてきた。中距離戦である。これは、やろうと思えば、近距離戦に持ち込める距離だ。だが、逆に弓矢の脅威も増してくる。矢の軌道を見切ってから方向転換、というのはもう無理だろう。ここからは勘だ。弓矢を撃ってくる機、こちらが踏み込むべき機。これを肌で感じ取るしかない。
 バロン自身が、弓矢を構えていた。それを肉眼で捉えた。同時に、鋭気。矢だ。矢が飛んでくる。剣。振る。
「ちぃっ」
 舌打ちと同時に、矢が虚空へと飛んでいた。見えなかった。鋭気に向けて、渾身の力で剣を振るっただけだ。この距離はまずい。
 だが、逃げてたまるものか。俺は剣のロアーヌ。シグナスの志を受け継ぎ、天下へ向けて駆け抜ける。これしきの事で逃げて、何が天下だというのだ。
 機はそう何度もない。だから、それを逃がさない事だ。その機が来るまで、飛んでくる矢などいくらでも弾き飛ばしてやる。
 ひとしきり、原野を駆け回った。
 瞬間、弓騎兵隊から気炎が立ち昇る。来るか。いや、思い定めろ。来る。
「反転っ」
 直角に馬首を巡らせる。刹那、真横を矢の嵐が通り過ぎた。進行方向。見定める。その先に弓騎兵隊。駆け抜ける。敵軍は次の射撃に入ろうとしているが、俺のスズメバチが先だ。斬り込める。
 バロンと目が合った。その姿が、どんどん大きくなっていく。近付いていく。
「我が名はバロン、鷹の目だっ。名を名乗れっ」
 バロンが弓矢を構えた。構うものか。俺は逃げん。
「剣のロアーヌだ。お前の首をもらうっ」
 瞬間、鋭気。飛んできた。それに向けて剣を振るう。矢が刃を掠めた。同時に、視界が回った。身体が宙に浮いている。
「将軍っ」
 兵の声。地面に投げ出されていた。馬から落ちたのだ。何故。いや、まずい。
 立ち上がった。すぐに剣を構える。だが、殺気はない。
「馬か。私が仕留めたのは、馬であったか」
 バロンが、馬上から俺を見降ろしていた。ふと脇に目をそらすと、馬が地面に倒れ込んでおり、その眉間を一本の矢が貫いていた。おそらく、即死だろう。
「お前の心臓を貫くつもりだったのだがな。剣で軌道を変えられた」
「何を言っている。ここは戦場だぞ」
 首を取りに来ないのか。今なら、俺の首など簡単に取れるはずだ。それとも、情けのつもりか。
「この勝負、そんな安いものではあるまい」
「何だと?」
「命を預けたとは思わん。羽を失ったスズメバチの親玉など、仕留める価値がない。ただ、それだけの話だ」
「俺の首を取らない。絶好の機であるのに、取らない。お前はそう言っているのか」
「我が弓騎兵隊は、高尚な戦果のみを望むのだ。今のお前の首など、何の価値もない」
 言って、バロンが馬首を巡らせた。
「名馬を一頭、くれてやる。駄馬で再戦されても、結果は見え透いているからな」
 言い終わると同時に、バロンは颯爽と駆け去った。その後を、弓騎兵隊が駆け抜けていく。
「あの男」
 不思議と、侮辱されたという気はなかった。むしろ、気持ちが良い程の潔さだ。
 あの男に、借りが出来た。俺は、そう思った。
 戦陣より帰還した。
 ロアーヌのスズメバチは予想以上に精強だった。おそらくあれは、天下で最強を争う騎馬隊の一つだろう。対抗馬としては、大将軍の騎馬隊ぐらいしか思いつかない。
 一騎たりとも討つ事ができなかった。私の弓騎兵隊が、ただの一騎も討てなかったのだ。これは屈辱というよりも、驚愕だった。兵数もこちらに分があったし、飛び道具という絶対的有利な要素までもあった。しかしそれでも、一騎も討てなかったのだ。
「シルベン、ロアーヌは噂以上の男だったぞ」
 幕舎に入り、鎧を脱ぎながら言った。シルベンの他に、ゴルドも居る。
「その割には傷を負ってないじゃないですか」
「当たり前だ。だが、ロアーヌは私の矢を全て弾き返した」
 私がそう言うと、シルベンは舌を巻いたような表情になった。
「全て」
 シルベンの声が僅かに震えている。
 シルベンには、ある程度の武芸の心得があった。だからこそ、ロアーヌの凄さを実感したのだろう。
「坊っちゃん、それでロアーヌは?」
「坊っちゃんはやめろ、ゴルド。ロアーヌは無傷だ。勝負は引分けにしておいたからな」
「しておいた、とはどういう事ですかの。まるで首を取れていたかのような言い草ですが」
「その通りだ。やろうと思えばな」
 私が射たのは馬だった。馬から落として殺すというのは、戦場では当たり前の事だ。だが、それで殺すにはあの男は惜し過ぎる。あの男は、私の矢で、それも一矢で終わらせるべき男だ。それだけの価値が、いや、それだけの尊さが、ロアーヌにはある。
「それはまずいですぞ、坊っちゃん。フランツ殿に要らぬ疑いを持たれる」
 私は思わず、ゴルドに顔を向けた。
「何故?」
「敵将、それも剣のロアーヌという大物をむざむざ取り逃がしました。これがどういう意味か分かりますな」
 内通。これを疑われる。ゴルドは、そう言っている。
「ただでさえ、この陣営には間者が紛れ込んでいるのです。そんな状態でロアーヌを無傷で帰すとは、内通とまでは言わずとも、何かあるのでは、と疑われても仕方ありますまい。まぁ、疑われて困るというのは、坊っちゃんがこのまま官軍に属しているなら、という事ですが」
「ゴルド、何が言いたい」
「さぁ、私めに言えるのはここまでです」
「メッサーナとは戦う。私は高祖父が築きあげたこの北の大地を、守り抜かなければならないのだ」
「そうですな。守り抜かなければなりませぬ。しかし、それはメッサーナからですか?」
 また始まった。私は、そう思った。ゴルドには回りくどい所があった。言いたい事があれば、はっきりと言えば良いのだ。意見を言うのは身分に関係なく自由だ。ただ、その意見をどうするかは私が決める、ただそれだけの話なのに、ゴルドはややこしくしたがる。
「もう良い。フランツに疑われようと、私の知った事か。私は私の責務を果たすだけだ」
 これでゴルドとの会話は終わりだ。ゴルドがさらに何か言おうとしたが、手で制した。
「シルベン、厩(うまや)に居る汗血馬をロアーヌに贈ってやれ」
「は? 何を言ってる?」
「聞こえなかったのか。汗血馬をロアーヌに贈ってやれ、と言ったのだ。中途半端な奴は駄目だぞ。名馬と呼ばれるのを選べ」
「お前、正気か?」
「シルベン殿、君主に対してその言葉遣い」
「爺さんは黙ってろよ。お前、フランツにこれ以上、疑われるような真似をして良いのか」
「ロアーヌとの勝負に、そんなものは関係ない」
 そう、関係ないのだ。もうフランツには疑われている。だから今更、小事を気にした所でそれは無意味な事だろう。だったら、あとは私の気が済むまでやるだけだ。その上で結果を出せば良い。フランツが欲しいのは過程ではなく、結果だろう。ロアーヌを討てば、奴も否応なく納得する。
 そして何より、ロアーヌとは約束したのだ。名馬をやる、と。その上で再戦する。そう約束したのだ。
「最近、俺はお前についていけんぞ。名馬を選んでくれてやるなんて、意味が分からん」
「ロアーヌにはそれだけの価値がある」
 私がそう言うと、シルベンは額に手を当てて僅かに首を振った。
「わかったよ。で、どうやって渡すんだ」
 私自身が出向く。そう言おうと思ったが、やめておいた。猛反対をくらうのが目に見えているからだ。それにフランツの件もある。私自身がメッサーナ陣営に行けば、それこそ何事かと思われるだろう。かと言って、名の無い兵を使えば、ロアーヌの名が落ちる。
「シルベン、お前が行け」
「おい、ふざけるのも大概にしろよ。俺に死ねって言ってるのか」
「ロアーヌには命を一つ貸してある。それがある限り、お前に手出しはできん」
「俺が言ってるのはそういう事じゃない。敵陣営に行くんだぞ」
「メッサーナの肩を持つお前が、やけに小心じゃないか」
 私がそう言うと、シルベンは舌打ちした。
「偵察も兼ねて行ってくれ」
「そのまま寝返っても恨むなよ」
「無論だ。ゴルドも良いな」
「仰せのままに」
 ゴルドが、あるか無きかの表情で、静かに頭を下げた。
 あとは馬だが、これはとびきりの名馬を贈るべきだろう。性格は荒々しい方が良い。ロアーヌの戦い方は、まるで獣だ。本能で機を感じ取り、一気に飛び掛かってくる。そこに逡巡はない。私の馬は気性は大人しいが、恐れを知らない所があった。つまり、勇気があるのだ。だが、このような馬はロアーヌには合わないだろう。
 北の名馬と剣のロアーヌが合わさった時、一体どうなるのか。そう考えると、再戦が楽しみになった。
 フランツに疑われている事など、もはやどうでも良かった。
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 バロンの考えにはついていけなかった。とは言っても、これは幼い頃からの話で、今となっては慣れたものである。だが、敵将に名馬をくれてやる、などというのは、狂言どころの騒ぎではない。それもその敵将は、あの剣のロアーヌなのだ。
 俺は、その剣のロアーヌに名馬を届ける使者だった。鷹の目バロンの副官が、ただの小間使いか、という自嘲に似た思いはあったが、同時にバロンらしい、とも思った。
 バロンには、他人の尊厳を第一に考える所がある。本当は自分で届けたかったのだろうが、フランツの件があるのだ。かと言って、名も無い兵士ではロアーヌを侮辱する事になるかもしれない。そこで、副官である俺を使者に立てたのだろう。
 俺は、バロンのそういう所が好きだった。普段は、高祖父の血がなんだのと堅苦しい奴だが、自分の中でこれは大事だ、と思った事には一直線に進む。それがバロンなのだ。その進みようには無茶な部分も多いが、ついていこう、と思わせる魅力も併せ持っている。
 だが、高祖父の血が絡むと話は別だった。その最たる例が、官軍を抜けるか否かの件である。
 おそらくだが、バロン自身は官軍を抜けたがっている。メッサーナに臣従したい、と思っているかどうかは微妙だが、この国に嫌気は差しているはずだ。
 しかし、行動はできないだろう。高祖父の血が、あいつを縛り付けている。俺も軍師であるゴルドもそれに気付いてはいるが、迂闊に口を挟める事ではなかった。高祖父の血というものだけは、バロンにとってかなりデリケートな部分なのだ。
 少なくとも、俺はメッサーナに悪い印象は持っていなかった。臣従という形は取りたくないが、同盟なら組んでも良い相手である。メッサーナも今の立場で考えれば、味方は欲しいはずだ。今のメッサーナはまさに孤軍奮闘といった感じで、端から見ればよく持っている、という印象なのだ。
 官軍にはまだ切り札がある。それも一つではない。地方軍の将軍を一斉に集め、その全てをメッサーナにぶつければ、メッサーナは一ヶ月と持たずに陥落するだろう。
 いや、そんな必要などないかもしれない。大将軍一人で良い。大将軍一人をメッサーナにあてがえば、それで全てが終わるという気がする。
 だが、これはメッサーナ単体として考えたら、の話である。メッサーナと北の大地が手を組めば、大将軍とて苦戦するだろう。今の大将軍は指揮で力を発揮する部類の将軍だ。大将軍自身は老いのせいで、武芸の腕は落ちている。剣のロアーヌと鷹の目バロンが同じ戦場で手を組めば、大将軍とて無事では済まされないはずだ。特にバロンの弓矢は、信じられない程の飛距離と精度の高さを誇るのだ。さらに槍のシグナスが居たなら、大将軍の首が取れるかもしれない。
 虚しい空想だった。この類の空想は何度も描いたが、実現するのは難しい事だ。バロンの問題もあるし、何より国に反旗を翻す、というのは並大抵の事ではない。リスクが高すぎるのだ。
 不意に、一緒に連れている馬がいなないた。毛色は赤褐色で、身体は並の軍馬の二回りほど大きい。
「どうした、落ち着け」
 この馬をロアーヌにくれてやるのだが、問題は乗りこなせるのかどうかだった。いや、そもそもで乗れるのか。北の大地では、乗ろうとした人間を全て振り落としてしまったのだ。気性は荒く、人間を見下しているという節もある。
 だが、間違いなく名馬で、駆ける速さは天下で一、二を争うものだろう。しかし、乗り手が居なかった。半分、ヤケクソのようなもので、俺はこの馬を選んだのだ。
 馬が暴れ始めた。怒りに任せているというより、単に興奮しているという事だろう。並足での移動で、鬱憤が溜まっているのかもしれない。
「仕方がない、駆けるか。だが、全力は駄目だぞ。俺の馬はお前ほど速くない」
 言って、俺は自分の馬に鞭をくれた。駆け始める。それに並走する形で、ロアーヌにくれてやる馬もついてきた。
 すぐにメッサーナ陣営が見えた。
 陣営の門まで馬を進めると、門番達の戟で道を塞がれた。
「何者だ。見た所、官軍の軍装のようだが?」
「鷹の目バロンの副官であるシルベンだ。我が主とロアーヌの約束を果たすため、名馬を一頭もってきた」
 俺がそう言うと、門番達が顔を見合わせた。
「これがその馬だ。あいにく、まだ名前がない」
「で、でかい」
 一人の門番が、声を漏らした。北の大地の馬はどれも大きいが、ロアーヌにくれてやる馬はより一層大きい。
「ここで待て。ロアーヌ将軍に確認を取ってくる。それと武器を預かるぞ。良いな?」
 俺は黙って頷き、腰にはいている剣を投げ渡した。
 馬が、興奮していた。しきりに前足で土を掻いている。それだけでなく、身体をぶるんと何度も震わせていた。何かを感じ取っているのか。
 しばらくすると、偉丈夫な男と痩身な男がやってきた。馬の興奮がさらに高まっている。
「これは、鷹の目バロン様からの使者ですか」
 言ったのは、痩身な男だった。
「シルベンという。我が主は、ロアーヌを好敵手として認めた。だから、この馬をくれてやるとの事だ」
「私はヨハンです。メッサーナでは軍師をさせて頂いております」
 瞬間、ヨハンからとんでもない才気が溢れ出した。目の光が鋭い。だが、それは不安にさせるものではなかった。何かを見抜かれた。それも見抜いて欲しいものを見抜かれた。そういう感じである。
「それと、こちらがロアーヌ将軍です」
 やはりそうか。俺は、そう思った。官軍時代に居る時よりも、身体が大きくなっている。表情も引き締まっており、かなりの戦歴を積んでいるようにも見えた。
 そのロアーヌが、俺の後ろの馬を注視していた。他のものには一切、目をくれていない。不思議な事に、馬の興奮も収まっている。心を通わせているのか。あの馬が、心を通わせる事の出来る人間を見つけたのか。
「どうやら、ロアーヌ将軍はその馬にぞっこんのようです。どうです、シルベン様、メッサーナ陣営を歩いてみませんか?」
 敵に自軍の中身を見せるのか。そう言いかかったが、何か意図がある。俺は、そう思った。
「この先の事でも話しながら、どうです?」
 このヨハンという男、どこまで読んでいるのだ。発言のひとつひとつに、何か深い意味がある。そう思わせる凄みがある。
「そうさせてもらおう」
 俺がそう言うと、ヨハンはニコリと笑った。
「フランツは、すでにバロン様を疑っていますか?」
 陣営を歩きながら、ヨハンがいきなり言ってきた。口調は穏やかで、口元も緩めたままだ。だが、この男はいきなり核心をついてきた。
「さぁな。だが、何故そう思う?」
 答えは濁しておく。まだ、全てをさらけ出す時ではない。しかし、隠し通せるのか。
「北の大地の政治は清廉すぎます。特に首都であるユーステルムは、我々メッサーナの政治とよく似ている。なので、フランツも不安がると思ったのですよ」
「不安がるとはどういう事だ? バロンの血の事を知らぬわけではあるまい」
「もちろんです。ですが、その時代と今では、国のありようが違いすぎます」
 正論だった。今の国は腐り果てている。フランツはそれをどうにかしようと必死だが、もう無駄な事だろう。腐りを取り除くには、時が掛かり過ぎるのだ。フランツは確かに傑物だが、もう老いていると言っていい年齢だ。ここから先は、能力が落ちていく。そして、死に近づいていく。
「フランツが死んだ後、この国はどうなるのか。おそらく、第二、第三のメッサーナが出てくるでしょう。そして、その中の筆頭が北の大地。私は、そう考えています」
 この男、俺の頭の中を読んでいるのか。頭の中で喋った事を、そのまま会話として繋げてきた。鋭すぎる。
「シルベン様、槍のシグナスを知っていますか?」
「無論。武人ならば、知らぬ者は居ないだろう。剣のロアーヌと共にな」
 鷹の目バロンもその中に加えられても良い。俺はそう思ったが、口には出さなかった。バロンはどうしても、英雄の子孫、という目で見られてしまうのだ。だから、弓の腕が天下一で当たり前だ、という見方しかされない。
「シグナス将軍はフランツに殺されました。正確には闇の軍ですが、暗殺を仕掛けられたのです」
「ほう」
「何故、シグナス将軍だったのか。何故、ロアーヌ将軍ではなかったのか。その答えは何通りもあるでしょうが、シグナス将軍とロアーヌ将軍の決定的な違いは、人望なのですよ」
 まぁ、そうだろう。シグナスの人となりは確かに評価できるものだった。
「シグナス将軍の方が暗殺に嵌めやすかった、という事もあるでしょうが、フランツはその人望を恐れた可能性があります」
「それで?」
「人望という点では、バロン様も負けず劣らず。故に、フランツの疑心と不安が強まってもおかしくありません。さらに言えば、監視のための間者を放っている可能性もあります」
 思わず、唸った。この男、やはり全てを見通しているのか。だが、見通しているからと言って、何が出来る。
「シルベン様、率直に聞きます。あなたは、この国をどう思います。そして、メッサーナをどう思いますか」
 ヨハンが、ジッと俺の眼を見つめてきた。ヨハンの眼。強い光を帯びている。その光に邪気はない。
 そろそろ、本心を吐露するべきか。俺は、そう思った。
「国は腐りきっている。俺個人は、メッサーナに対しては悪い印象は抱いておらん」
「バロン様は?」
「揺れているな。自身に流れる血と、大志の狭間で揺れている」
 何度も説得は試みた。だが、無駄だった。というより、他人が入り込める余地など無かったのだ。バロン自身が考え、悩み、決めなければならない問題だった。そして結果的に、あいつはメッサーナと戦う事を選んだ。つまり、血を選んだのだ。
「離間の計」
 不意にヨハンが言った。
「バロン様とフランツに、離間の計を仕掛けます」
「何? だが、それを俺に言ってどうする?」
「シルベン様からご協力を願いたいのですよ」
「悪いが、俺は頭は良くない。失敗するぞ」
「それはどうでしょうか。まぁ、これを見てください」
 ヨハンが袖の中から、一枚の書簡を取り出した。
 目を通す。内容としては、最近の近況や親の話など、他愛のないものばかりだ。さらに、所々、墨で文字を消しているのが気になる。
「その墨はわざとです。それをフランツの間者に掴ませて貰いたいのですよ」
「俺がか?」
「そうです。シルベン様とバロン様の仲の良さはお聞きしています。だからこそです」
「それは分かるが、この内容と墨はなんだ? 離間とは全く関係のないものだし、墨も必要ないだろう」
「フランツのような切れ者を欺くには、こういう事が効果的なのですよ。あまりにも直接的だと、逆に計略を見破られます。ですが、このようにしておけば、何かの暗号ではないか、と疑心を抱くはずです」
 なるほど。そう思ったが、本当に上手くいくのか、という思いも同時にある。
「間者に掴ませるタイミングはお任せしますが、すぐというのはおやめください。出来れば、一戦を交えてから。もっと言えば、バロン様が負けてからにしてください」
「バロンが負けてからだと?」
「バロン様はロアーヌ将軍に命を一つ貸しました。これをこちら側でもやるのです。そこで書簡を掴ませれば、より信憑性が増します。ただ、負ける、というのは運が絡みますが」
「ロアーヌには計略の事は話さないのか?」
「あの人は芝居が下手、と言うより、性格が向いていないので話しません」
 それを聞いて、俺は思わず鼻で笑ってしまった。容易に想像できてしまったのだ。
「バロンは負けんと思うがな」
「ロアーヌ将軍も負けません」
 お互い、口元を緩めた。
「離間の計、乗ろう。全てが終わった時、俺はバロンに斬られるかもしれんが」
 言って、俺は笑った。
 だが、これはバロンにとって悪い話ではないはずだ。あいつは血に縛られ過ぎている。やりたい事があるのに、そのやりたい事も分かっているのに出来ない。そんな馬鹿馬鹿しい事があってたまるものか。
 そう思いつつも、俺自身がメッサーナと共に戦いたがっている。俺は、それを強く自覚していた。
66, 65

  

 心が震えた。目の前の馬を見た瞬間、俺の心が震えたのだ。これは初めての感覚で、ずっと追い求めていたものと巡り合えた、言葉で言い表すならば、こういう事だ。
 しばらく、目の前の馬をジッと見つめていた。馬が、俺に語りかけてくるのだ。自分に乗せるべき人間を見つけた。共に戦場を駆け回ろう。馬が、そう語りかけてくる。
 一歩だけ、近寄った。馬が小さく身体を震わせる。
「お前の名は?」
 馬は何も言ってこない。まだ、名は無いのだろう。
「俺はロアーヌ。俺がどんな人間かは、もう分かるだろう」
 剣の腕だけで生きてきた。たった一人の友と共に、大志を抱き、ここまで生きてきた。だが、その友を失った。俺は、そんな人間だ。
 さらに一歩、近寄ると、馬が自分の方から駆け寄って来た。鼻の頭を擦りつけてくる。
「そうか、俺を分かってくれるのか」
 心に水が染みわたるようだった。シグナスが死んで、俺は間違いなく独りだった。仲間は居るが、本当の意味で打ち解ける事など出来なかったのだ。俺は、無意識の内に、壁を作ってしまう。これはどうしようもない事で、そんな俺が本当に心を許せたのは、シグナス一人だけだった。
「駆けよう。俺と共に」
 言って、俺は馬に跨った。
 威風が、全身を包み込んできた。闘志が、勇気が膨れ上がる。跨るだけで、それを感じた。
 駆けよう。馬にそう語りかけた。腿で馬体を絞る。
 刹那、突風。駆けていた。いや、飛んでいた。俺は、この馬と共に、原野を飛んでいる。
「お前の名、思いついたぞ」
 腿で馬体を絞る。弧を描こう。そう語りかけた。
「タイクーン、お前の名はタイクーンだ」
 風が唸りをあげた。孤を描く。俺は思わず、吼えていた。
 シグナス、見ているか。俺はお前を失った。それは何物にも代え難く、この沈んでしまった思いが消えてなくなる事はないと思っていた。いくら割り切ろうと思っても、お前の死だけは割り切れなかったのだ。だが、それも今日までだ。俺に、新たな友が出来た。
 その名はタイクーン。俺の探し求めていた戦友だ。シグナス、お前の大志は、俺とタイクーンが引き継ぐぞ。
「俺は、お前と共に天下に行く。シグナスの魂を乗せて、天下へと駆け抜ける」
 剣を抜いた。それを天へと突き上げ、思い切り吼えた。
 陣営から、兵達が出てきていた。俺とタイクーンの駆け回る様を、見ている。
「剣のロアーヌっ」
 声。タイクーンを連れてきた男の声だ。この男には、いや、バロンには礼を言わなければならないだろう。俺に、友を紹介してくれたのだ。
 タイクーンに乗ったまま、俺は男に近付いた。男の隣では、ヨハンがニコリと笑って立っている。
「敵には言いたくない言葉だが、威風堂々とはお前とその馬の事を言うのだろうな」
「タイクーンだ」
「タイクーン?」
「友の名だ」
 俺がそう言うと、男は目を閉じて微かに口元を緩めた。
「バロンに勝てると思うか?」
「勝負は時の運。タイクーンを得たからと言って、それは変わらん。だが、俺は負けるつもりはない」
 そう、負けるつもりなどない。初戦は、はっきり言って俺の負けだった。バロンの気質で、俺は命を拾ったようなものだったのだ。だが、あのような負け方はもう無いだろう。タイクーンが居る。タイクーンなら、俺の意志が伝わる。バロンは確かに強敵だ。しかし、タイクーンと共に戦えば、負ける事はない。
「バロンに伝えておこう。他に何か伝えたい事はあるか?」
「借りはいつか返す。そう伝えてくれ」
 命とタイクーン。バロンには、少なくとも二つの借りが出来た。それを返すまで、俺は死ねん。
「分かった」
 言いつつ、男が馬に跨る。この男の馬も相当な名馬だろう。しかしそれでも、タイクーンには及ばない。
「タイクーンには乗り手が居なかった。俺もバロンも、そいつにだけは乗れなかったのだ」
 男が馬首を返す。
「だからじゃないが、俺はお前が羨ましいぞ、剣のロアーヌ。バロンも、きっと羨ましがる。何せ、その馬は、いや、タイクーンは天下で一、二を争う名馬だからな」
「次で会うのは戦場か」
「そうなるな。まぁ、仕方あるまい。時の巡り合わせだ」
「バロンとも話をしてみたかった」
「機会はあるさ」
 この男とは、分かり合える。いや、バロンとも分かり合える。俺はそう思ったが、口には出さなかった。敵なのだ。俺達は天下を取るため、北の大地に攻め込んでいる。そして、バロンはそれを防ごうとしている。これは時の巡り合わせで、どうしようもない事だ。そして、タイクーンと出会えたのも、時の巡り合わせだった。
「さっき、俺はお前達の事を威風堂々と言ったが」
 男が、背中を見せたまま、顔だけこちらに向けてきた。
「人中のロアーヌ、馬中のタイクーン。俺は、そう思った」
 言って、男は馬腹を蹴って駆け出した。あっという間に、男の姿が小さくなっていく。
「シルベン様も、粋な事を言われたものです」
 ヨハンがニコリと笑っていた。
 あの男の名はシルベン。俺は、ぼんやりとそんな事を考えていた。
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