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十五話

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 目が覚めるとそこは、誰が吐いたのかすらわからない吐瀉物の匂いと、酒の匂いと男の体臭。まさに地獄のありさまだった。
「うげええぐえええ」
 とかゾンビが這ってるみたいな声を挙げながら立ち上がったのは誰かと思ったら他ならぬ俺だった。頭が割れそうどころかとっくに割れて脳みそがそのへんにこぼれてそうな気がするほど痛い。
 ひどい。こんなひどいことって、あるか。幸せな夢を見ていたと思ったら、これだ。泣きたい。泣きそうになる。
 泣きそうになる? 違う。自分の頬を触れてみると、そこには冷たい水の流れたあとがある。
 俺は、泣いていた。馬鹿みたいだ。夢を見て泣くなんて、子供じゃあるまいし。中学生はまだ立派に子供?
 そんなことはない。中学生にもなれば、それも三年生に、十五歳にもなれば、俺達はいい加減ちんこに毛だって生えるし、子供の作り方だって知るし、誰かが自分のことを好きか嫌いかってことを気にしたりもする。
 それはもう、大人なんだ。未熟だとしても。未熟な大人なんだ。
 あぁ、しかし頭が痛い。と思ったその時、何者かによってシャッターが叩かれる。ノックのつもりかもしれないけど、二日酔いの俺には、なんだか砲弾がすぐそこで炸裂してるような気がするくらいに聞こえる。
 途端に眠りこけていたダサオが跳ねるように起き上がった。
「やばい、母ちゃんだ!」
 それからノビを蹴り起こす。ノビは相変わらずのんびりと、「なぁに? 朝?」とか気の抜けたことを言いながらのそのそ起き上がり、ダサオはみっともなく取り乱しながら、
「おい、お前ら片付けろ片付けろ!」
 と大騒ぎ。阿鼻叫喚のまま俺達はもろもろの地獄の後片付けをフルスピードで開始した。シャッターの向こうからは、「ほら、開けな! 朝だよ!」の大声。
「ちょい待ち! 今! 今あれするから!」
 とダサオが応じるも、シャッターの向こうの彼の母ちゃんは待つ気などさらさらないらしく、がちゃがちゃと向こう側から鍵が開けられ、勢い良くシャッターが開かれる。
 朝日の逆光に照らされながら、くわえタバコのダサオ母が登場。ゆるくパーマのかかった金髪に、ジーンズとブラトップのラフな格好。ダサオと同じく背が低くて細身だが、元ヤンキーの肩書き通り妙な威厳と迫力がある。しかも美人。
「おう、おはようお前たち。ひどい臭いだな。動物園か留置場みたいだ」
 彼女は俺たちを睥睨しながら、そうつぶやく。口元には笑みが浮かんでいるが、目付きは鋭い。もしかするとこの人は動物園に行った回数よりも留置場に行った回数の方が多いかもしれない、とかつてダサオから幾度と無く聞かされた彼女の武勇伝に想いをはせたりする。
「よし、サダ坊ちょっとこっち来な!」
 お母さんは息子を優しく呼び寄せる。あくまで優しく。ダサオは絞首台へ導かれる死刑囚みたいに肩を落として、母の元へ。合掌。
「それとあんたたち!」
「は、はい!」
 俺とノビは二人で自衛隊みたいに声を揃えて応える。
「モップはそっちの棚に入ってるから、よろしく」
 彼女の口元は変わらず優しく笑みを浮かべていたが、眼光はやはり鋭いのだった。

 吐瀉物とかこぼしたアルコールとかお菓子のクズとか諸々を二人で掃除しながら、ノビは俺にこんなことを言った。
「そういや昨日話そうと思ってたんだけど」
「何?」
「リョーコちゃんがやけにツンツンしだしたのは、一体どうしてなんだろうね」
「俺のせいだ」
 間違いない、と信じてる。
「本当にそうかな」
「どういうことだ?」
「なんか、僕、ケンジとリョーコちゃんが」
 そこで突然泣きながらダサオが帰ってきた。奴は泣きながら掃除に加わり、ごめんなさいを連呼しながら狂ったように床を拭いている。
 駄目だ。壊れてる。

 それからおおよそ一時間、作業場の床をぴかぴかに磨き上げると、ダサオとノビは磨き上げたばかりの床に倒れ込んだ。
「頭痛ぇよぉ……」
「もうだめ……」
 どうやら二日酔いが足腰にまで来た模様。教訓。酒は飲んでも飲まれるな。くたばっている二人を置いて、俺は家路につくことにした。
 ……っと、その前に。
 
「どうも、大変ご迷惑をおかけしました!」
 恐ろしいお母さんに深々とお辞儀。
「あぁ、帰るのかい。お疲れさん!」
 ダサオ母はさっきまでの鋭い眼光などどこへやら、にこにこと俺の腰のあたりを平手打ちしてくる。それから、
「リョーコちゃんにもよろしくね」
「へ?」
 意外な言葉だった。というより、どうして俺に対してリョーコへのよろしくを言うのかわからない。
「あんたたち付き合ってるんだろ? サダ坊から聞いたよ」
 あいつは、また勝手な思い込みで話しやがる。
「いえ、そういうわけじゃ……」
「ふぅん、なんだそうか」
 一見納得したような口ぶりだけど、にやにやしながらこっちを見てくるその表情は、どうだかねぇ、という感じで。
 俺は話題の矛先を帰る。
「おばさんとリョーコのお母さんは、知り合いなんですよね」
「まあね、古い知り合いさ。あいつがリョーコちゃんを産んでからは、ちょっとばかり縁遠くなっちまったけどね」
「リョーコのお父さんは、今どうしているか、知ってますか?」
「それをあたしに聞く?」
「はい。リョーコにも、リョーコのお母さんにも聞きづらいので」
「正直だね。でもあたしは何も知らない」
 俺は、リョーコの今の父親のことはまったく知らない。リョーコの家に訪問することもなくなったし、彼女は家族のことをあまり話したがらない。
「そうですか。ありがとうございました」
「若いうちは、いろいろあるよ」
 彼女はタバコの煙を細く吐き出しながら、そう呟いた。
「いろいろ、ね」

 外へ出ると空はどんよりと曇っていて、蒸し暑くじめじめと湿気が肌を包んでる。
 ひどい二日酔いのせいで足はふらつくし、頭も痛い。息は臭いし、目は死んだようになっているし、今の自分が生物として最底辺のあたりにいることを自覚せずにはいられない。
 雨粒が落ちてきた気がして、空を見上げる。すると、電柱と電柱の間に長い紐が差し渡されていて、そこに提灯が吊るされていることに気づく。
 今年ももう、お祭りの季節なのか。

 俺はいつしか神社のふもとにたどり着いていた。ふもと、というのは、この神社は長い石段を登った山の上にあるのだ。
 見上げる視線の先で曇り空を背景に、鳥居が木々の梢の間からわずかに頭を出している。石段は木陰の中にずっと続いている。夏祭りが始まれば、この石段も人々でごった返し、色とりどりの提灯が吊られてまるで別世界のようになる。
 子供の頃は、この石段が無限にも思えた。幼いリョーコに手を引かれて、根性なしの幼い俺は何度も休憩しながら登り切ったものだ。
 今朝見た夢のことを思い出す。
 この石段の先の神社で、幼い俺たちはそれまでの登攀の疲れなんて忘れてはしゃいでた。
 根性なしの俺が今日に限って柄にもなく、この石段を登ってみようと思ったのは、おおむねそんな理由だった。
 俺は石段を登りはじめた。隣には幼い頃の思い出を連れて。
 俺が一歩踏み出すごとに、隣で幼い俺とリョーコも一段ずつ階段を登っている、嬉しそうに。なんて感傷的にすぎるだろうか?
 だけど俺はそうやって思い出に浸らざるを得なかったんだ。
 それほどまでに今朝の夢は、俺の心に大きな波紋を残していた。
 俺は一体俺自身を、俺と彼女の関係を、どうしたいのだろうか。
 今のこの中途半端なお遊びの、フィクションごっこをずっと続けるのか?
 思い出の中の俺達は幸せそうに笑ってる。ちくしょう、子供ときたら。いっそ俺もコナンくんみたいに薬で縮みたいぜ。
 なんて思いながら、やがて石段を登り切り、鳥居を抜けると一気に視界が開ける。
 華やかなお祭りの時の雰囲気とは違って、今日の何もない神社の境内は荘厳な、宗教施設としての貫禄を感じさせる面持ちをしていた。

 そして開けた視界の先にはリョーコがいた。

 驚いた。
 まるで今隣を歩いていた思い出の中の彼女が急に成長して、目の前に飛び出してきたみたいな、変な錯覚すら感じた。
 でもそれ以上に驚いたのは、彼女と並ぶように若い男が立っていたことだった。若い、といっても三十は超えているだろう。フランス人の映画俳優みたいな短い顎髭を蓄えた、いわゆる一つのイケメンというやつだった。
 おいおい。
 これは一体。
 どういうことです?
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