さて、その夜。恥ずかしながら俺は非常に悶々とした。ちょっと自分でも驚くくらい、盛大に悶々とした。昼間のことを思い出す。あの時確かに触れた、リョーコの体の、その、なんというか、質感というか量感というかそんな感じのやつとか、あと、相合傘の中で肩寄せあって歩いたあの時の、伝わる体温とか匂いとか、そういうもの。
俺は彼女のそういう実在感に悶々としたのだ。ついでに言うなら、そんな彼女が毎日のようにこの部屋にやってきていたとうことに。
はっきり言ってこれで悶々としないなら男じゃない。そうとすら思う。そうとすら思うが、だけど、そう思ってもやはりなんだかどこか自分で自分が嫌になるのは否定出来ない。否定出来ないが、でもしちゃうもんはしちゃうのだし、とかなんとか。
そのせめぎあいでしばらく学習机に向かったまま、まんじりともせず悩み続けた。この気持ちをどうすれば発散できるか、もちろん俺は知っている。簡単なことだ。片手を何十回か上下運動させればいい。
かつてギリシャの哲学者ディオゲネスはこう言ったそうだ。「腹がひもじいのもこうやってこすれば収まればよいのだが」。
だが現代の俺は、悶々とした気持ちだけでもこすって収められることを便利に思わなければならない。だが同時に、便利すぎて採用したくなくなるのも認めねばならない。
こうした発散行動に対して、こうまで感傷的になったのは初めてだった。中学に入ってすぐに覚えてから、今まで深く考えることもなくほとんど毎日発散し続けた。良心の呵責を感じたことは一度もない。性教育の授業でもこうして発散することは、何も異常なことではないと教えていた。何も怖いものはない。はずなのに。
なのに、今日はどうしようもなく臆病な気分だった。エロ本を開く気分にもならなかった。そのことが何か重大な罪を意味するような気がして。
でも、罪? 一体誰に対する罪だ? まさか、神様に対してってわけじゃない。お父さん、お母さん、なんて馬鹿げてる。明治時代じゃあるまいし。そう、決まってる。俺はリョーコに対して罪を感じている。
思い出すエピソードがある。俺は当時仲の良かった男友達連中とつるんで、ゴミ捨て場にエロ本を拾いに行った。うまい具合に俺たちは、ゴミ収集車に回収される前の、すずらんテープで縛られたエロ本の束を手に入れた。エロ本は朝方に降ったにわか雨のせいで少し濡れていたが、俺達にそんなことは関係なかった。
俺達は冒険をお互いの勇気と健闘を讃え合い、束を一冊ずつ分配していった。バイキングの気分だった……勇敢な男たちの結束が、確かにそこにはあった。
分配したエロ本をこっそり部屋まで持ち帰った俺は、ベッドの下にこっそりと隠した。一安心して戦隊ヒーロー特撮を見ようと居間へ戻った。何から何までよくある話。そして、それが幼馴染のリョーコに見つかったのも、よくある話。
リョーコはいつものように窓から勝手に部屋に入ってきて、あちこちいじくりまわしてエロ本を見つけて、それを学習机の上にきちんと並べて俺を待っていた。
その光景を目にした俺はもちろん狼狽した。同時に自分の迂闊さを呪った。当然想定すべき事態だ。馬鹿め。
「これ、一体なに?」
もちろん彼女は本当にこれが何なのかわからずに質問しているわけではない。それくらい小学生の俺にもわかった。だから、「保健体育の教科書だよ」みたいな下らない返答は喉元で飲み込んだ。
「悪いの?」
俺はちょっと苛立っていた。人の部屋に勝手に入ってきて、一体何様のつもりなんだ?
「悪くないけど気持ち悪い」
吐き捨てると、リョーコは俺に絶対零度の視線を浴びせた。最低。馬鹿みたい。二度と話しかけてこないで。そんなことを言われたような気もするけど、よく覚えていない。頭が勝手に記憶を消去したようだ。
それから、俺達はなんと丸一日も会話を交わさなかったのだ。丸一日……短いって? 今考えればその通りだ。でも当時の俺たちからしたら、永遠みたいな時間だったのは確かなんだ。
そしてもし同じような事態がまたあったら、今度は本当に永遠みたいな時間、会話を交わさないことに、なんて可能性があることだって考えないでもないんだ。
もしそうなったら、俺はどうなる? 後悔をする? 諦める?
思考は回る。
俺はまだわからないでいる。自分は果たしてリョーコのことが心から好きなのか? 確かに昔のように戻りたいとは思う。でも、それは一番仲の良かった友達としての彼女にもう一度会いたいということであって、それ以上の意味はない……と思う。
そして、彼女もまた同じように考えているのではないか、と疑っている。
彼女は俺のことが好きだ。少なくとも嫌いじゃない。これは間違いないと思う。ただ、その「好き」がどういった類の「好き」なのかが問題だ。仲のいい友達。郷愁的な思い出。つまるところ俺は彼女にとって、楽しかった子供の頃の象徴にすぎないのではないか?
そしてこっちにはそんな郷愁的な感傷でない、もう一つの感情がある。俺は彼女を魅力的に感じている。こんな馬鹿みたいに悶々としてしまうほどに、肉体的な意味で。
俺は成長した。彼女も成長した。第二次性徴って奴を経た俺達は、未熟な大人になった。子供の心をまだ持っていても、身体はほとんど大人だ。それってどういうことか? どういうことか? なんてとぼけるなよ、と俺は俺に言い聞かせる。そんなのわかってるだろ。
つまり、セックスだってできるってこと。
ここまで考えて俺は強く拳を握った。その拳で自分の胸を叩いた。なるべく強く。罰するように。だけど自分の拳で自分の胸を殴ることは、想像するより難しい。弱々しい衝撃が肋骨を揺らすだけ。
俺は彼女のことをどう思っている? かつての一番の友達、それから一度は氷のように冷たくなってから、ようやく融けてきた相手。そして、性欲の対象として。
せいよくのたいしょう、と頭の中で転がしてみて、その響きのおぞましさに戦慄する。自分の頭が、股間が、全てが嫌になる。
もしかしたら彼女だって、そういうことを望んでいるかもしれない。そういう考えが頭の中にあぶくのように浮かぶ。そして更に深く俺は自分が嫌になる。そうかもしれない。その可能性はゼロではないだろう。だけど、それを俺が考えることの醜悪さよ!
だが頭は勝手に回り、想像してしまう。彼女はこの部屋のベッドの上に座り、メイド服を着て、こちらを見ている。俺はゆっくりとベッドに近づいていく。彼女の肩に手を掛ける。コスプレ用の安っぽい生地のメイド服に触れる。押し倒す。その時彼女は期待に――そこで俺は無理矢理に頭を切り替える。彼女は――俺に絶対零度の視線を浴びせるのだ。最低。わたしのことそういう風に見ていたなんて。
でも、こんな気持にさせたのはお前じゃないか。夜な夜なそんな格好で部屋に入ってきて、俺がどんな気持ちになるか想像しなかったのか?
想像はした。でも、あんたなら大丈夫だと思った。信頼してたから。
――信頼してたから。
言葉が胸に突き刺さる。俺の中のリョーコが放った言葉が。
頭がおかしくなりそうだ! ベッドから転げ落ちる。畜生、リョーコはいない!
もう考えるのはやめにした。ここまでちゃんと考えれば、義理は果たしたことになるだろう。そういうことにする。もう悩むのは限界だった。四の五の言わずに発散させてもらう。
「リョーコ……!」
「え?」
俺がパンツを下ろしたその時だった。窓が開いて、メイド姿のリョーコが入ってきたのは。
彼女の表情が凍りついている。視線は俺の顔をじっと見つめている。しかしそれは、俺の顔を見たいからではなく、その下の方にある物騒なものを視界に入れたくないからだ、ということがひしひしと伝わってくる。
俺はパンツを上げた。それと同時に窓が閉まり、リョーコは夜の闇の中へ消えていった。
静寂の中で俺はしばし立ち尽くした。今の事態を理解しようと必死に頭は動く。同時に、今の事態を理解したくないと必死に心が叫ぶ。だけど、ほんの一瞬で決着はつく。
見られちゃった……あたいの恥ずかしいとこ……。
俺は頭を抱えてベッドに飛び込んだ。叫びだしたい気分だったけど、なんとかこらえて声にならない悲鳴を枕に浴びせるにとどめた。
おしまいだ、こんなの……。おしまい。おわり。そう、この下らないごっこ遊びは彼女の裸で始まり、俺の裸で終わった。たぶん。綺麗にまとまったもんだ。
死にたくなるぜ。