「あー……だりいな」
宵乃裕李はまだまだ暑い授業中の教室で我ながらいつも言っていることは同じだとは思いつつも呟かずにはいられなかった。
夏休みが終わって始業式の直後に数学の授業があるのだから呟かずにはいられないわけである。ああ眠い。教師の言葉は耳から耳へと頭の中を貨物列車のように通過していく。数字が頭の中でタップダンスを踊っている気がする。
「眠いな……」
だいたい言っていることは同じだよなとぼんやりした頭で宵乃は思う。それすらも既に二回目という事に気づいていない彼だったが、それほどに意識は朦朧としていた。そしてついに限界を迎え、うつぶせになろうとした、いや突っ伏した瞬間、視界に影が映った。
「ね、る、なっ!」
耳元で怒鳴り声、同時に頭に何やら堅いものではたかれたような痛み。宵乃は頭より鼓膜の方が痛くて飛び起きた。
「ふふふふーどうやらまだ補習をしたいようですねー?」
そうニコニコしながら宵乃の隣りで膝に手を当て、前屈みになって言うのは宵乃の担任。眼鏡で美人。典型的な女教師だ。
「あの補習の辛さを忘れたわけじゃぁ、ありませんよねぇ……?」
片手で持ったバインダーをもう片方の手にパンッと小気味良い音をたてながら当てる担任。さっき叩かれた際の凶器はそれか。しかしそんなことを気にすることもできず、宵乃は教師の顔に釘付けになっていた。別に美人だからではない。彼女の表情におびえていただけだ。影になったその表情は、なんていうか悪魔というか鬼というか。そう、修羅だ。まぁ言いたいことは分かると思うがとにかく怖い。そして、恐怖に縮こまった脳にあの補習の辛さが頭に浮かぶ。あまりにもひどいので書かないでおきたい所だが、書くしかあるまい。
「先生特製千ページ問題集~!」
「ええぇぇえぇぇぇぇぇぇぇ!!」
補習の日のことである。ジリジリと暑い校舎に生徒達の悲鳴が響く。
「ムリだぜティーチャー!」
「千ページとか!」
「ありえねえ!」
「千ページなんて!」
ちなみにその生徒の叫びは一人が連続して言っている。
ちなみに、教室には二人しかいない。
「そう言うと思って一人十冊ですよ」
「ぎゃああああああああああ!」
「ひとでなし!」
「鬼!」
しかし、宵乃のシャウトも眼鏡教師の教壇をぶっ叩く爆音でかき消される。
「ほざくなぼけぇ……こっちだって彼氏と海にいってバカンスするつもりだったんだよぉてめえらがきちんと授業受けねえからこうなるんだろうやぁ……」
静かな恐怖とはこう言うものを言うのか。彼らは悟った。直後彼らは机に頭をぶつける勢いで、というか机に思い切り頭をぶつけて、
「すいませんでした!」
と誠心誠意で謝った。
「分かればよろしい」
教師が教壇から手をあげた後、しばらくその場所にはチョークの白い粉が舞っていた。
「すんませんでした」
とりあえず宵乃は謝り教科書に目を戻した。
「分かればよろしい」
そう言う教師のバックの窓には、怪鳥が飛んでいるのが見えた。
「ホントユウちゃんってばかだねぇ」
学食のうどんをすすりながら妙に語尾を間延びさせつつ喋るのは宵乃の同級生、鷲原。地毛茶髪のピアス。そしてオタク。
「うるせえ汁飛ばすな」
弾丸のように麺から飛んでくる汁から宵乃は自分のカレーを守る。ちなみにカレーは甘口だ。
「おまえなあ原野ちゃんだぞ? あの美人教師だぞ? あんな美人にののしられんだぞ? ああっ俺にはたまんない!」
このドMが。宵乃はそう思いつつも言ったところで「ドMじゃないんだZE人を受け入れられる器があるってことなんだZE!」とか返してくるに決まっているので口には出さない。
「もしかして、わざと補習受けたのかお前」
「もっちろんさー」
なんてこった。こいつめ。カレーを口に運びながら宵乃は鷲原の変態度を再認識した。あんな教師のために夏休みをムダにするとは。
「そう言えば俺猫飼い始めたんだぜぇ」
「あっそ」
興味ねえ。宵乃は福神漬けを皿の脇に寄せつつ適当に相槌を打つ。
「お前反応薄いなぁー虎猫だけどなあ萌えんだねぇ仔猫あの赤さ! たまんねぇー!」
「悪いが俺の思いつく赤虎猫はクルックシャンクスだ」
「イメージ悪いねぇおい」
「ごちそうさま」
「おい待て今度うちにこいや見せてやるぜぇ」
「写メで送れこの文明時代にんなことしてたまっか」
「別に隣りの部屋なんだしいいじゃんよぉー」
宵乃はさっさとその場から立ち去ることに決めた。
「熱いなー暑いなー厚いなー」
「お前さっきからそればっかだよな」
隣りでうだりながら歩いているのは杞野杏。高校で、つまり数ヶ月前に知り合った友人であり、よくある漫画のようにツンデレでもなく、恋人関係でもない。ただのよき友人。
「別にここからなんかいい関係になるわけではない安心しろ」
第一彼氏こいつにはいるし。鷲原じゃないが。あいつはただの友人(オタ方面で)。
「いきなり何言ってるのユーリ?」
「いや別に」
ちなみにこいつもオタクである。なんで俺の周りにはオタクが多いのだろう? 宵乃はそう思いつつ、昼の話題を吹っかけてみた。
「鷲原の奴、猫飼い始めたってよ」
「あー言ってたね」
そう杞野はのんきに返事をしたあと、宵乃の方向に首を回した。
「あんたも飼えば?」
「なんでだよ」
「心の問題で? あんた結構乾いた所あるし」
それを本人に直で言うか。
「うるせえよ」
とりあえず常套句で返しておく。特に反論する言葉も見つからないからだ。余談だが彼の国語の成績は下の中である。
それ以降黙ってしまった宵乃を横目で見ながら杞野は訊ねた。
「なんで飼わないのよ。お金はあるんでしょ? 猫嫌い?」
「…………」
隣りを巨大な自動清掃装置がタバコの吸い殻を拾いながら通り越していく。自動清掃装置とは、この町に実験的運用されている町を清掃する装置だ。人間など、生物は回避するようにこの前改良された。カラスを飲み込んで大惨事を引き起こしたことがあったからだ。所詮大学の実験機なのでそこまでの清掃効果は誰も期待していないという代物だ。
「別に嫌いってわけじゃ……ってなんで俺の経済事情知ってんだお前は!」
「おばさんに聞いた」
「ええ! なんで俺の住んでた家と連絡取ってんだ!?」
宵乃は一人暮らしで学校からちょっと離れた寮に下宿している。
「……なんでカナ? カナ?」
オタク的な回答で無視された。
宵乃は実家の電話番号を教えた覚えも口を滑らせた覚えも無い。頭を抱え込んでいる宵乃に杞野は「冗談だよ」と言って笑った。
そんなことをしていると分かれ道に来た。女子寮と男子寮の分かれ道だ。
「じゃあな」
「ばいばい」
そこで杞野と別れ、寮に向かって歩き出したその時だった。宵乃の目の端に黒いものが写った。目を向ければ道の端にあるなにかだった。
「……泥?」
田舎の農耕車が農道に落としていく泥の固まり。そんなふうに見えた。
しかし。
「段ボール?」
泥の横に倒れた段ボール。そして目を凝らすと『ひろってください』と機械的な文字で……ワープロで印刷したような字で書かれていた。泥を拾ってください? 変なことをする奴がいるものだ。拾うのなんてせいぜい……泥の研究者……地質学者だったか、それぐらいだろう。いや、多分それもないか。そう思って宵乃は立ち止まること無く立ち去ろうとすると泥の中に銀色のものが見えた。なんだ、あれは? よく考えればおかしい。まず、ここら辺は首都圏の中でも学業と研究に力を入れた都市だ。田んぼなんてそう近くにはないし、今は秋になろうとしている夏の終わりだ。何故そんなときにあんな小さな泥を置く? そもそもあんな泥を作る方が手間だし、拾わせる必要性はない。さらにこの道の先には学生寮しかないから学生しか通らない。段ボールは朝にはなかったことから今日中に置かれたものだ。しかも俺は遅刻寸前。さらに部活がないので帰るスピードもトップスピード。明らかに学生のいたずらではない。部外者だ。
そこまで考えたところで自動清掃装置が泥を無視し、段ボールを回収して去っていった。なんで泥を拾わないで避けるのか。自動清掃装置が避ける、といえば……。
「生き物?」
そこでやっと気づいた。泥じゃない。何らかの生き物だ。
おそらく学生に拾ってもらおうと住民が置いたのだろう。自動清掃装置が去っていくと、それが動いているのが見えた。
「なんだろ、こいつ」
とりあえず近づいてみて見る。えさなどをやる気はない。昔から捨て犬や猫にえさを与えるとついてくると教わっているからだ。
「猫か」
黒猫だった。銀色の首輪の仔猫。首輪には00とある。
「みゃ」
小さな声で黒猫は緑の目をこちらに向け、鳴いた。なんだかあわれに思えてきた。ああヤバいちょっと飼いたくなってきた。鷲原の奴こんな可愛いのを飼っているのかちくしょう。うらやましい。
そこで杞野の言葉を思い出す。『あんたも飼えば?』
「……ちくしょう俺の馬鹿」
自嘲するように、そう呟くと宵乃は無表情で仔猫を抱き上げた。柔らかくて、温かかった。「みゃ」と短く鳴くと仔猫は腕の中で丸くなった。
宵乃はとりあえずペットショップのはいっている、大手スーパーに向かった。
「さてと……」
家に戻ってとりあえず最初にやるべきことは何かを考えた。
「名前か?」
そう思いつくととりあえず考えてみる。
「猫……クロ? いや、普通過ぎる……花子……象じゃねえか……ああそうだ、雌か雄か確認しなきゃ名前のつけようがないな」
仔猫を持ち上げるとばたばたして苦戦したがなんとかメスと確認した。
「うーん……全然思いつかねぇ」
そこでふっと視界に漫画がはいった。エヴァンゲリオン11巻。表紙には最後のシ者。
「渚……はそのままだから凪!」
結局アニメから取ってしまったが、まあいいかと思いそれに決めた。
「さてとりあえず洗うかこいつ。汚れてるし」
持ち上げるとキュルル~と仔猫のおなかの辺りから音がして猫が「ミャアーン」と哀れっぽく泣いた。
「飯が先?」
飼育マニュアルにあった通り、適温に暖めた牛乳を飲ませた後、風呂場に向かう。
「よし、徹底的に洗ってやらあ」
そして暴れる仔猫を水を張った洗面器に投下。ざぼーん。
「シャンプーでいいんだろうか」
ええい構うか。なるようになるさ。まるで汚れた靴下を揉み出すようにじゃぶじゃぶと猫を洗う。「みゃあみゃあ」と悲鳴を上げているが無視だ。
仔猫は宵乃の魔の手から逃れようと暴れた結果、洗面器に前足をかけることに成功した。その様は、何と言うか。
「銭湯に浸かってるおじさんみてー!! 人間かっちゅーの!」
掲示板にでも投下すれば大人気になるだろうと大笑いしたその時。
仔猫が、ふくれあがった。
毛が、消えていく。肌が、白くなっていく。腕が、足が生えてくる。それも人間の。
「あ……うぁ」
思わず後ろに下がる。
浴室の床には今少女が横たわっていた。
腰まであるような黒いストレートの髪の毛は猫の耳のような髪型で、なめらかな白い肌はあまりにも綺麗。足や腕は細く、か細い。首には銀色の首輪。胸はほんの少しだけ膨らんでいるが、痩せっぽちだった。年齢は10、11歳に見えるがそれよりも上かもしれないし下かもしれない。
「初めまして、宵乃裕李さん?」
少女の緑色の目を向けられ、はっとする。きれいな白い肌に見とれている場合ではない。
「あぁはじめまし……」
そこで現実を認識。
「猫が……人に……」
口に出して再認識。
空白。思考回路をフル稼働して再々認識。
完全に認識。恐怖。
「うぎゃぁああああああああああああああああああああああああああっ!」
日が暮れていく町に少年の悲鳴が響いた。