週が開けた。私は今日もユキに連れられ学校に行く。学校の近くまで車の送迎なので、自然と私達の登校時間は重なる。
いつもと同じように、朝早い登校。すれ違う人すら疎らで、教室には誰もいない。私達はいつも教室に一番乗りだ。それも当然。取り立てて用のない人間が、始業三十分以上前から教室にいる理由はない。だから私達は他の人が来るまで教室の机に腰掛け、他愛のないことを話している。
そういう時間は好きだ。自然体で話すことが出来るから。
私達は休日はあまり話さない。ユキは部屋に閉じこもっているか、一人でどこか出かけるかだった。私はユキから借りた本を読んだり、勉強したり、ぼーっとしていたりした。奇妙な日だった。職務がなくなる日曜日だけ、私達は思い出したように他人になった。まだ知り合って一ヶ月も経っていないという事実が、警鐘のように意識に残響する。倒錯された私達の関係が、不確かな現実感に齟齬を起こすように。前日まで身体を重ねたことが嘘のように、それは日常で、奇怪な平穏だった。
こうして話すのは紛れもなく日常で――おそらくだからだろう――ひどく居心地が良かった。ユキがいつものように話をするから、私は安心できた。
教室に三番目に来るのは大抵リューコちゃんだ。暗い紅の髪を颯爽と靡かせて、彼女は軽やかに登校する。
「おはよう! 今日も早いね、お二人さん。朝から二人きりの教室で睦言を囁いていたのかな?」
「おはようリューコ。今日も元気ね……」
ユキは呆れたようにリューコちゃんを一瞥して、その言葉を受け流した。付き合いが長いのか、ユキは彼女に対しては容赦がない。先週も彼女の舌蜂を幾たびも耳にした。
「ジュンちゃーん、ユキが苛めるよう」
「仕方ないと思うよ」
すんすんと泣き真似をして彼女は私に抱きつこうとするので、私はすっと避けた。恨みがましそうな目で見られるが、気付かぬふりだ。
リューコちゃんは身長が高い。170cmは越えているはずで、ちょうどユキと同じらい。だからか、私は彼女に抱き疲れるのが苦手だ。そんな一回り大きな体で抱擁されると、色々思い出してしまいそうになる。仕方ないことじゃないだろうか。私が体験したことは、標準的高校生にとって異常と呼ぶに十分過ぎる。それほどショッキングな体感は早々に忘れられない。
「なーんで私のこと避けるかなぁ」
「抱きつかれるの苦手だから」
「ユキには大人しく抱かれてるのに」
「あれは別に……あ」
しまったと思ったときには遅かった。私がユキに抱かれたのは、勤務時間の時だけだ。学校でしか会わない彼女がその情報を知るはずがない。
「へぇ。やっぱり抱かれちゃったりするんだ」
リューコちゃんはにやにやと楽しそうな表情を浮かべている。
「いや、今のは違うの、その……」
「ちなみにそれはどっちの意味で?」
「どっちでもないっ! ほらユキからも何か言って」
ユキが面倒くさそうにリューコちゃんを見た。
「リューコ」
「ん?」
「ジュンの身体は抱き締めるととっても気持ちいいよ。柔らかくて、適度に細くて、暖かくて」
思いも寄らない発言に私は硬直した。
「だから触っちゃダメ」
そしてまさかの禁則。抱き心地の良さを伝えた上で、あえて禁止する。嫌がらせですね。分かります。誰が得するの? ユキか。ああ、もう何でもいいや。
「ずるいぞ! 自分だけジュンちゃんの柔肌を好きにして」
「いやそこまで言ってないから」
割とされてるけど。
「こっちにもちょっとはお裾分けしてよ」
「待って。それもおかしいよね」
どうして私がお裾分けされなければならないのか。
「じゃあ、一晩これで」
ユキが指を二本立てる。
「二万?」
リューコちゃんが悪者の笑顔を浮かべる。存外悪者っぽい邪な笑みが似合っている。リューコちゃんの問いかけに、ユキは笑って首を振った。
「二十かっ!?」
リューコちゃんが吠える。ユキが頷く。阿漕(あこぎ)な商売だなぁ。でも悲しいかな、ユキの家で働いている私が言えたことじゃない気もする。
「買った!」
「買わないで」
リューコちゃんに生涯最高速のツッコミを入れたところで、イチさんとナオちゃんが登校した。
「おはようございます」
「おはよー。今日は朝から騒がしいねぇ」
イチさんがどさっと重そうな鞄を机に置いて聞く。今日はそんなに重い教科書もないのに、どうしたんだろう?
「ユキがジュンちゃんを一晩二十で好きにさせてくれるって言うからさー」
「それは魅力的な提案ですねぇ」
ナオさんがおっとりと答える。って、あなたもか。ちなみに最初は抱き締めるだけとかじゃなかったっけ? ん?
「ナオ、十ずつわけない?」
「良いですね!」
「ダメですから!」
イチさんの提案に便乗するナオさんをあわてて牽制する。
どうしよう、ツッコミの人員不足が深刻なんだけど。私の中で二酸化炭素による地球温暖化と同じくらい深刻。それってあんまり深刻じゃないか。まぁいいや、どうせ地球温暖化と二酸化炭素の増加って正確な因果関係ないし。
「せっかくジュンちゃんとお泊まりできると思ったのになぁ」
リューコちゃんが凄く残念そうに呟く。最近の生活のせいで、女の子とのお泊まりって言われても、なんだか不穏なものを感じるようになってしまった。違ったら恥ずかしいから確認もできないけど。
「リューコさんはお泊まりでジュンちゃんをどうする心づもりなんですか?」
「たべる」
聞こえなかったことにしたい。
「ジュンちゃんも大変だね」
イチさんが同情するように声をかけてくれた。その優しい態度に騙されそうになるけど、さっきちゃっかり悪ノリしてたよね。
「おはよー!」
教室に響く元気な声の主はアソーちゃんだ。この六人で大体教室に早く集まる顔ぶれがそろったことになる。あとはリューコちゃんと仲の良いフクちゃんやアベちゃんが来たり来なかったりするくらいだ。ただ教室に早く来るというだけが共通項のメンバーだったけど、私はこの同級生達が作り出す雰囲気が好きだった。
もうしばらくすると予鈴の十分前、それからはほとんど絶え間なくクラスメートが登校する。それから先はみんなそれぞれ仲良しグループに別れていく。私はユキと、時にイチさんやナオちゃんと一緒に、朝礼までの時間を潰すのだ。
うん、また学校が始まった。実感する。また日常が続いて行くんだと。
* *
お昼休みになった。昼食を食べ終えてユキと午後の授業の話をしていたところで、ユキが上級生に呼び出された。利発そうな、綺麗な人だった。親しいのだろうか、ユキは楽しそうに談笑して、そのまま上級生に連れられてどこかへ行ってしまった。
私はすることもないので、本でも読もうと鞄の中に手を伸ばしたところで、アソーちゃんに声をかけられた。
「ジュンちゃん?」
「んー?」
「部活何にするか決めた?」
ああ、部活なんてあったなと思った。私は平日は仕事があるので、部活のことなど最初から頭になかった。
「私部活は入れないんだ」
「え? そうなの?」
「うん。時間なくてね」
「そっかぁ……じゃあ良かったらでいいんだけど、名前だけでも貸してくれないかな?」
残念そうな、申し訳なさそうな表情で、アソーちゃんは聞いた。事情がよく飲み込めない。
「名前だけ?」
「うん。私達バンドやってるじゃんか。それで軽音部に入部しようと思ったんだけど、去年潰れててさ。人数が一人足りないんだ。ダメかな?」
ある程度人数がいないと、部活として認定されないみたいだ。察するに五人かな。
「う~ん……わかった、そういうことなら名前だけ貸すよ」
「ありがと! 助かるよ~、今度なにか奢るね!」
彼女はとびきり嬉しそうな顔をする。欲しかった玩具を手に入れた子供のようで可愛らしい。
渡された書類に自分の名前と所属を書いて、アソーちゃんに返した。
「良かった。ジュンちゃんがいてくれて助かったよ。他に頼める人いないからさ」
「そうなの? 他のクラスにも探せばいくらでもいそうだけど」
「いやー、ちょっと事情があってね」
アソーちゃんは苦笑するような渋い顔をした。
「リューコが凄く、まぁなんというか……人気? があるからさ。適当な子を誘うと他の子もぞろぞろ入って来ちゃうかもしれなくてね。それで名目上、ちゃんと部活動をする人しか入部させないってことしようって」
「なんか大変そうだね。でもそれだと私が入ってると問題じゃない? 楽器なんか弾けないし」
「ジュンちゃんが入部してるって分かんないだろうから、多分大丈夫だと思う。それにもしバレてもジュンちゃんなら平気じゃないかな?」
私は怪訝な顔をした。バレても平気とはどういうことだろう。
「ほら。ジュンちゃんは今をときめく謎の編入生だからさ。ミステリアスさが向上するだけだよ」
「え? 私ってそんな風に思われてるの?」
「……わりとね。ユキちゃんがなんだか近寄り難い感じだからかな。高校に入学して、あのユキちゃんといきなり親しい人となると、ミステリアスって表現がしっくりくると思うんだ。ジュンちゃんもユキちゃんとよく一緒にいるせいか、他の人とあまり話してないみたいだし」
確かに私は初日の質問攻め以来、あまり交友関係を広げないようにしている。クラスメイトの顔と名前はもう覚えたが、挨拶程度しか交流がない人もちらほらいる。それにもとから多くの人と関わるのは得意じゃない。
「そうなんだ。ところでユキって近寄りがたいの? 色んな人と話してると思うんだけど」
「高嶺の花……ていうんじゃないんだけど、なんか遠慮しちゃうんだよね」
ああ、その気持ち分かるかもしれない。私も普通のクラスメートだったら、気軽にお近づきになれるとは思えない。ユキって結構マイペースだし。
「それに広く浅く付き合ってるんだよねぇ……。みんな知ってるけど、逆にみんな知ってるようなことしか知らないって感じがするな」
「ふーん」
それは――。
「そういえば、ジュンちゃん」
「ん?」
「暇なら今から部室行かない? 正確には部室になる予定地だけどさ。せっかく名前書いてくれたし、暇な時くらい遊びに来てよ。みんなも歓迎すると思うから」
私は時計を確認した。確かにまだ昼休みの終わりまで時間がある。
「行こうかな」
「では不肖アソーめがご案内つかまつる!」
アソーちゃんの演技掛かった台詞が思いの外似合ったので、ちょっと吹き出してしまった。この子は畏まった台詞が妙に格好良くみえるから不思議だ。
それから私はアソーちゃんに連れられ、将来軽音部の部室になるという部室棟の最上階一番奥の部屋に行った。まだ碌に掃除もしていなくて、あまり綺麗な部屋ではなかったけど、なんだか隠れ家のような雰囲気だった。これからアソーちゃん達四人は、ここできっと色んな時間を共有するんだろう。私にはそれが羨ましく思えた。
中学の古くてぼろっちい体育館を思い出した。建物全体はもう相当にガタが来ていたけど、床は綺麗なままだった。私が入学した時から、バスケやバレーをする先輩達がずっと手入れをしてきたからだ。私も彼女らと同じく、練習後には床をモップを持って駆け回った。たくさんの友人達と。あそこに行けば、きっと私は思い出す。多くの仲間と共有した、楽しかった時間を。心に箱詰めされた温度のない思い出に、私は思いを馳せた。ここがあの場所ではないからか、その思い出も形骸的なものに感じていた。
アソーちゃんは私と楽しそうに話す。懐く子犬のようで可愛い。
どんな曲を弾きたいとか、リューコちゃんがあまり練習しないくせに上手とか、フクちゃんがドラム叩いてるのが凄くカッコイイとか、アベちゃんが天然すぎて扱いに困るとか。
彼女は表情を豊かに変えながら話すのが、私は凄く好きだった。彼女の立ち振る舞いはどうしてか居心地が良かった。
会話が一区切りついたところで、アソーちゃんはギターを弾き始めた。アソーちゃんが適当に掻き鳴らすギターの旋律に半分意識を割きながら、私はユキのことを考えていた。
みんな知っているようなことしか知らない、と彼女は言った。
ユキにたくさんの人が話かけているのを、私は知っている。でも思えばみんな挨拶程度だった。昼休みにずっと話しているのも見かけないし、休日も今のところ一人で過ごすことが多そうだった。
二週間以上も生活を共にしているのに、私は初めてユキのことを自分がほとんど知らないんだと自覚した。当たり前の話だ。私達が共有した時間は、決して多くないのだから。
アソーちゃんがギターに合わせて口ずさむ歌詞が、耳に馴染んだ。どこかで聞いたことのあるその曲の名前を、私は知らない。
予鈴がなった。いつの間にかそんな時間になっていた。私達は慌てて教室へと走った。アソーちゃんは悪戯をした子供みたいな顔で「遅刻しちゃうかも!」と焦ったように言ったけど、でもちょっと楽しそうだった。元気の余った少年みたいだと思った。
なんとか授業の前に教室にたどり着けた。教室に入る直前に、「じゃあまたね」とアソーちゃんは言った。私は「うん」とだけ答えて、自分の席に座った。
ユキが不思議そうにこっちを見ていた。こんな時間に二人で慌てて教室に入って来たから、何かと思ってるんだろう。
今日帰るときに、お昼休みのことを話してみよう。それから、ユキはどうしていたのか聞いてみようと思った。
そうすれば、ほら、少しだけどユキのことがわかる。