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第三話

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   三章

「ブラザー。勝手言ってすまねえが、このルチアーノにはしばらく近づかない方がいいかもしれないぜ。俺が嫌なんじゃねえんだ。お前のためなんだ」
 ──翌日。昼休みに登校してくること自体は別に珍しくもないルチアーノが、その顔にらしくもない暗雲を覗かせた。隣の席に座った親友の力なさに空也はかけるべき言葉を一瞬失う。
「──フゥ~~~~~。……この数日中に、戻ってくるらしいんだぜ。このルチアーノが唯一無二にして苦手な、あの脳味噌が筋肉でできてるキングコング野郎が……」
 それで全てを察することができた。
 山男、と呼んでも何ら違和感のない体格。揉み上げと口髭、顎髭が一体となってつながった、四角張った輪郭を思い出す。体長は二メートル近くあったはず。決して低い身長ではない空也だが、昔からその巨躯の顔を目に入れるためには常に顔を上げる必要があった。
 小野寺岩鷲(おのでら がんしゅう)。ルチアーノの父親だ。
 確かここ数週間はずっと大阪に行っていると聞いていたが。
 ──空也は岩鷲から好かれていない。空也も岩鷲のことを好いていない。長年の付き合いであるルチアーノはそれを分かっていて、だからこその配慮と提案なのだろう。
 岩鷲の機嫌を損ね、小指を根元から失った市民は空也の知る限りでも三人いる。
「うちだけじゃないけど、どうも大阪の集会でケツに火をつけられたみたいでよ。金を落とせ金を落とせと。染野市はベガスじゃねえんだ、ての。ジャラジャラ金が降ってくるのがお望みなら、ジェット機すっ飛ばして砂漠のど真ん中に飛んで行けって話だぜ」
「つまり、機嫌が悪いってことか」
「こんな田舎町じゃ金を取るにもたかが知れている。どんな無茶なことやらかすか分かったもんじゃねえ。……ブラザー。しばらくは、できるだけあのキングコングの目につかないところにいろよ」
 ある意味好都合かもしれない。どのみち空也も家からは離れられないのだ。
 ルチアーノに言うつもりはなかったが(面倒だ)、土山家は昨日から新たな家族を一人迎えている。電化製品の使い方が分からず──事前に勉強していたのか知識だけはあるようだったが、実地となると昨日はお世辞にも三十点さえあげられない有様だった。自分が役に立たず、昨夜就寝前(当然部屋は別々だ)にはハツネは涙を溜め、あからさまに肩を落とす始末。慰めようとして──でも、その全てを溶かすような線の細い泣き顔をまともに見ることは叶わず──結局中途半端な言葉しかかけてあげられていない。とにかくあんな顔をされては参る。落ち込んだ泣き顔が頭に浮かびなかなか寝付けなかった。料理以外はさほど難しいことでもないのだから、早く彼女に生活に慣れてもらい、あの美貌に笑顔を作ってほしい──
「オゥ? どうしたブラザー。サンフランシスコのビーチに沈む夕日のような顔して」
「な、何でもない」
 反則だ。ハツネはきっと、自分の持つ流麗なる愛らしい顔のことを理解していない。彼女は笑顔を前に出さない。そっと、控え目に微笑む。それが堪らなく似合っているのだ。我先にと美を主張するかのような真っ赤な花弁を持つライオンではなく、奥ゆかしきスミレのような美しさ。人だ狐だなど関係ない。いや、むしろ人でないからこそ人にはない美と愛を兼ね備えているのかもしれない。
 その彼女が──取り立てて顔に自信があるわけでもない自分と──子供を──
「オゥオゥ!? ブラザー! お前の顔、敵の返り血を浴び続けた伝説的ニューヨークマフィア、ボルカノみたいだぜ!? 先からどうしちまったんだい!」
「何でもない。何でもないさ!!」
 とにかく今そのことを考えるのはやめる。茶部の願いに逆らうことになるのかもしれないが、説明を受けたからといって、はいそうですか、なんてわけにもいかなかった。まだ時間が必要だ。今は明確なる答えが自分の中に存在しない。だから胸張っていつも通りの日々を過ごしていればいいのだ。
 残すところは六時間目の日本史のみ。あわや授業開始のチャイムが鳴ろうとする直前、クラスの騒音が膨れ上がった。何人かが窓に張りついて興奮した面持ちで捲くし立て始める。
「ホワッツ? 何だあ?」
 教壇から最も離れ、且つ窓ガラスに面した席に座るルチアーノは、つられてその眠たげな目を外に向けた。そして、途端頭の中に飛び込んできた光景に睡魔の全てが彼方へ押しやられたらしい。覚醒したルチアーノが妙な裂帛の空気を纏って隣の空也に呼びかける。
「ヘイヘイヘイ! 外を見てみろよブラザー! 校門のところだ。ありゃ何だ!!?」
「どうした?」
 指差す先に空也はぼんやりと視線を向ける。
 ──そして硬直した。
 赤い振り袖を体に巻きつけた少女が校門近くでしゃがみ込み、その周りを取り囲んでいる二十匹ほどの小動物達とじゃれ合っていたのだ。その顔は破顔一笑。肩に止まる小鳥と、膝丈に上っているウサギや猫に何やら話しかけながら、地面にぺたんと座り込んでいる犬達の頭を順番に撫でている。その声はここまで届かないが、見ている側の心にそっと息吹きが吹き込むような、そんな温かさが伝わってきた。
 胸が高鳴った。──今度は冷や汗と同時に。
「おいおい……マジかよ……。クレオパトラもビックリだぜ……! あの可愛い子はどこの学校の子だ。この辺りの学校じゃないな。あんな子だったら絶対覚えているはずだぜ。誰かを待っているのか?」
 無意識のうちに、首にかけたお守りに手を置いていた。
 ハツネだ。
 おそらくこの一階だけでなく、二階、三階と、学校中から受けているであろう視線にまるで気づいている様子もなく、彼女は無邪気に動物達と戯れていた。子猫が彼女の顔に張りつくようにジャンプする。思わず仰け反って──尻を地面につけてしまうハツネ。でもその顔は眩しいほどに燦然と満ちていた。
 ──ああ。彼女はあんな顔もできるのだ。──違う。あれが本来の姿なのだろう。
 空也の胸に小枝が刺さった。痛覚は肉体に影響を及ぼさない。痛んだのは──心だ。
 押し込めてはならない。ハツネは笑顔を浮かべてなくてはならない。そんな傲慢な思いを抱いてしまうほどに──童女のように動物達と遊ぶ様は絵画のような不可侵の神聖さで覆われていたのだ。
 
 幸い大きな騒ぎにはならなかったようだ。それでも空也はその日最後の授業にまるで集中できず、一分おきに窓の外に視線を這わすはめとなった。ルチアーノは何を勘違いしたのか、そんな空也を見てはいとも可笑しげにHAHAHAと笑う。
 そして、永遠たる拷問の如き授業が終わり、HRが終わると──空也はダッシュした。背後から慌てたルチアーノの声と、昨日聞いた女子の声が聞こえた気がするが、心の中で謝罪をすると疾風の如く廊下を駆け抜ける。目指すは校門だ。
「──!」
 当然と言えば当然のことだったのだろう。校門には既に軽い人だかりができていた。男子だけでなく女子も多い。比率は五分。見知らぬ人間達に囲まれて、ハツネがどんな顔をしているか安易に想像できてしまった。焦燥感が両の足を駆り立て、全力で校庭を走る。
 まず耳に飛び込んできたのは犬の威嚇だ。誰でも馴染みある低い唸り声。同時に脳裏に明確たる言語が流れ込んできた。遅れて理解する。ハツネから貰ったお守りの効果だろう。
「テメェ! ハツネに近寄るんじゃねぇ! やましいこと考えてるのがにおいで分かるんだよ!」
「消えろ消えろーー! 見せもんじゃねえぞ人間共!!」
「ハツネを守れーー! 隊列を組めーーー!!」
 犬猫の鳴き声が耳朶に、言葉の理解は脳に。
 メルヘンな光景が群集の奥に広がっていた。
 半円の陣形をもって、動物達に守られた王妃。
 先攻するかのように吠える血気溢れる犬達を、ハツネがか細い声で必死に宥めようとしている。狐や狸が、鳥達でさえもが一体となって叫び、世にも珍しい大合唱を奏でていた。
 ──その言葉の内容は学生達に聞かせるには耐え難い卑語も含まれている。
 大半の人間は物珍しげな野次馬だ。それでも一部、ハツネの目に留まろうとしたのか、気さくさを装って声をかけようとする男子生徒の姿があった。
 ハツネは困惑と心細さで今にも泣き出しそうになっている。
 先程の、動物達と遊んでいたハツネの笑顔が記憶の中で花咲いた。
 全身の血が頭に昇った。心が噴火し熱いマグマが黒煙と共に思考に雪崩れ込む。
「ハツネ!!」
 空也の大声は全ての人間を振り返らせた。
 打ちひしがれていた少女の蕾が満面に開かれる。優越ではない。空也の心を占めるのは憤怒だ。群集を堂々たる態度で切り開きハツネの元まで到達すると、何も考えずにその手を力強く掴んだ。そして強引と呼べるくらい足早に、後ろを振り返らずに立ち去る。動物達の歓声も、人間達の驚愕も一切耳には届かない。ハツネは頬を染め、はにかむように俯きながら手を引かれた。つないだ手の平から滲み出すのは初々しい幸福だ。まともに喋ることはおろか、目を合わすことさえも一苦労な二人にしては、出会って二日で手をつなぐなど上々たる滑り出しと言えるだろう。
 少女は少年に手を引かれ、その広い背中に見惚れながら小走りに後を追う──

「おうおう。ところでよー婿殿。ハツネとはどこまでいったんだ。うん?」
「やったのかよ。やったのか? ええ、おい。答えろよ旦那ぁ」
「フクロウ達の噂では、昨夜閨を共にしたって聞きましたわ。どうなのですか婿様」
「人間は乳がでかいのがお好みなんだって? ハツネの乳は立派だろー。ちゃんとたっぷり堪能したってわけだよな。婿殿」
 昨日、ルチアーノと共に歩いたいつもの田園風景にその珍妙なる集団はあった。率いているのはどうやら自分らしい。ちょっとした数の集団。だが人の姿を持っているのは二人だけだ。右から左から、空から地面から、メジロ、ムクドリ、カワセミ、犬や猫。人間以外の生き物達が引っ切り無しに話しかけてくる。無論行き交う人からすればただの鳴き声としか聞こえず、すれ違う度に何とも形容し難い顔でまじまじと眺められる。
 どうやら本当に動物達にとっては革命と称しても遜色ないくらいの話題らしい。何も言えず無言で行く空也に向けられる言葉は、くだんの一件ばかりだ。下世話なものから本当に人と動物との未来を案じている言葉もある。
 ──それより目下の所、今空也を一番悩ませているのは──右手の中身だった。
 勢いのままつないでしまったものの、我に返った空也は赤面するのを必死に堪えてハツネの手を握りながら歩いている。振りほどくわけにもいかない。そもそもどのくらいの強度で女の子の手を握ればいいのだろう。強すぎても……ダメだろう。汗が滲んではきっと嫌な思いをさせる。かといって弱すぎるのも──
 呆れたことに、校門を出てから空也は未だ一度も背後を振り返っていない。つまりハツネの顔を見ていないのだ。当然会話一つしていない。……野次馬のように囃し立てる周りの動物達に感謝する。きっと二人だけだったら気まずい沈黙が続いてしまうこと請け合いだったであろうから。心臓は常にアップテンポだ。鼓動が結んだ手の平からハツネに伝わっていないか、気が気でないくらいに。
 ハツネが自分のことをわざわざ迎えにきてくれたと、空也が疑問をぶつけるよりも早く周りの動物達が彼女を褒めちぎるかのようにして口にしていた。
「婿様はご両親は亡くなられ、祖父様と二人暮らしなんだろ? 三人だけであの広い家だ。ハツネを押し倒す機会なんて腐るほどあるじゃねえかよ!」
「野暮よ貴方達。婿様は殿方の身でありながら清廉で身がお固いのよ。あんた達と違って、誰構わず肌を貪るようなことなんてしないの。女性に対しとても紳士なお方なのだから」
「あぁ、知ってる知ってる。学校では結構モテるそうじゃねえか。でも顔を真っ赤にして断っちまうんだってな? まったく勿体ねえ。英雄色を好むって言葉もあるぜぇ?」
 動物達への感謝をやめる。
 ……どうして彼等はこんなにも自分のことを色々知って──と、そこまで考えて溜息を飲み込んだ。彼等は鳥であり犬なのだ。どこへでも入り込めるし、どんな情報だって思うがままなのだろう。となると、おそらくハツネも自分のことはある程度知っているに違いない。
 聞き慣れた声が野暮ったい空気を一刀したのはその時だ。
「オーーーーッマイッッッガーーーーーーーーッツ!!!!」
「いてっ!?」
 右腕に炸裂した手刀が空也の筋肉を一瞬収縮させた。力が抜けハツネの手を離してしまう。「あ……」と名残を惜しむかのような小さな声が背後から空に流れた。
 空也の真横に立つのは、黒髪を撫でつけた少年だ。神様を讃え崇めるかのように仰々しく両手を天に掲げている。
「ヘイヘイヘイ、これはどういうことだブラザー!? この子は一体誰だ!? そもそもお前はどうしてハーメルンの笛吹き気取りにアニマルブラザーを率いているんだ! 何なんだオイ! お前本当に頭の中身をエイリアンに改造でもされちまったのかよォォォ!!!」
 やかましいルチアーノの登場に、まず頭に浮かんだのはハツネへ安心感を与えてやることだった。突如現れ身振り手振りを全開に騒ぎ立てるこの男を前に、彼女が狼狽することは間違いない。
「大丈夫だから!」
 振り返ると、眉間にシワを寄せて両袖で鼻と口元を覆うハツネの姿。瞳が歪んでいる。
 強い眼でその顔を見つめる。その瞬間、針のように身をかたくしたハツネだが、すぐに表情を綻ばせた。
「ブラザー。昨日の三人組女の子が愕然とお前の後姿を見てたぜ? ──お前に既にガールフレンドがいたとはな……。そうか、だから気のない態度を取ってたわけかよ……。HA! だがなぁブラザー、いい気になるなよ!? 俺は故郷に帰れば五人の──いや、七人の女達が待っているんだ! 皆巨乳揃いでセクシーな太腿を持っている美女達だ。見ればむしゃぶりつきたくなるぜ? 別に悔しくなんかねえぞ!? お前に先を越されたわけじゃあねえんだ! 数では俺の勝ちなんだぜブラザー!!」
「……何でそんなに必死なんだよ……」
 説明するのもかったるい。動物達が話す夢をCIAとミサイルとUFOに結びつけてしまうような友人だ。人差し指を眼前に熱弁するルチアーノに一言だけ告げた。
「同居人だよ。わけあって家で暮らすことになった。その、か、彼女とかじゃぁ──」
「オオオオオオオゥゥゥノオオオオオオオゥゥゥゥゥゥゥ!!!」
 ムンクの叫びのように手を頬に押し当てるルチアーノ。……暑苦しい。
「シットゥシットゥシットゥゥゥ!!! 同棲かよ!! は、HAHAHA!! いや、別に驚いているわけじゃあねえぞ!? 向こうじゃそんなの遅すぎるくらいだぜ!! 俺もガキの頃から色々な女とベッドを共にしたからなぁ!! HA~~~HA~~~~!!」
 空也も動物達も、ルチアーノのハイテンションぶりに言葉を挟めず立ち尽くす。丁寧なる日本語はくーるな自称アメリカ人には通じないのだろうか。
「ま……負けてねえぞ!! まだだ。まだまだだ!! 俺はBIGなマフィアに上り詰める男ルチアーノだぞ! こんな狭い島国、黄色い猿達が何しようが関係──」
 ルチアーノがハツネに視線を寄せた。僅かなたじろぎと、しかし空也の背に隠れるようにして立つハツネの黄金無垢なる美しい双眸がエセマフィアの瞼に突き刺さる。
「ん──なっ……何て……綺麗な──あ、あああぁぁぁ──。ち、ち、ち、ちく──ちくしょおおおおおおおお!!!」
 そして逃げ出した。散々騒いだ挙句収集をつけず勝手に。
 いかに残忍で、冷酷で、金とドラッグを愛し、ギャンブルと殺しに明け暮れるマフィアと言えど、美しい女神を前には跪かざるを得ない──ということでいいのだろうか?
 一斉に揺れる若草色の畑。稲穂が水のせせらぎのように揺れる中、遠くへ連なる一本道を全速力で駆け抜けていくルチアーノの姿は風景に溶け込むように優しげに映る。ささやかな笑い声が草葉達から漏れた。
「あ、あの……旦那様。今の方は──」
「あぁ──驚かせてごめん。あんなでも気のいいヤツなんだ。小学校からの付き合いで、小野寺聡。マフィア──外国の怖い人達に憧れていて、呼ぶ時はルチアーノ、て呼んであげて」
 ようやく話題ができたのか、ハツネと空也が会話を始める。自分も大概変わっていると言われるが、口調を初めルチアーノも相当な規格外れであること。将来の夢は全米を支配するマフィアで、随分昔に空也もメンバーとして誘われたが、農作物を手放すわけにもいかず丁重にお断りしたこと。
 ハツネは空也の横には並ばない。三歩ほど後ろを静かについてくる。頷きや相槌、時折質問を挟むが、空也は、彼女が真に楽しんでいるのは空也自身が楽しげにルチアーノのことを話しているからであることに気づかない。天真な親友の行動を大袈裟に話す。農作物や山以外のことで話せるのは友人の奇行くらいなものだ。ハツネは笑ってくれた。美しい笑顔だった。
「ハツネも、ルチアーノ様と仲よくなれるでしょうか」
「大丈夫だよ。あいつはいいヤツだ」
 頃合を見計らっていたのか、緊張が解けた頃にしゃがれた声が二人の間に飛び込んできた。
「婿殿。ご友人について、ハツネに話していないことがまだおありでしょう。……無粋かもしれませんが、隠し事はよくありませんな。恥じていないのなら、それこそ堂々と口にすべきでしょう」
 二人に気をつかってか、無言のまま二人の後ろをついてきた動物群の中から、丸く茶色の毛の塊が抜きん出る。茶部だった。その登場ではなく、その言葉の示す事柄を察し空也は言葉を失う。
 すぐに内容が反芻された。そうだ。ここまでルチアーノのことを説明しておきながら、とある一点だけ自分は伏せていたことがある。それはハツネにも──何よりこの場にいない親友に対しとても失礼な気がした。まさか無意識のうちに、ハツネから嫌われたくないという思いが言葉を制限していたとでもいうのだろうか。それこそずるく、何より友人として最低だ。
 ハツネを振り返る。臆することなく宝石のような輝きを見つめた。
「ルチアーノの家はとても大きくてね。お父さんはヤクザをやっている。西日本最大組合、芙蓉組の傘下の一つだ。フロント企業や闇金融、麻薬や賭博──ええと、要はお金を沢山稼ぐために、あまり真っ当でない仕事をしているんだ」
 いずれかの単語に覚えがあったのか、ハツネの顔に微細な変化が表れ始めるが──
 それを吹き飛ばすのは力強い空也の言葉だ。
 ハツネの両肩を掴み瞳を覗き込む。それは自分の瞳を覗いてほしいという意思のあらわれ。
「でもルチアーノにはそんなの関係ない。あいつはいいヤツだ。あいつは……立場的にそんなことは口が裂けても言えないけど、お父さんのやり方を嫌っている。自分一人で大きくなろうと、伸し上がろうとしている。だからお願いだ。……あいつを……嫌わないであげて……」
「──そんな顔をなさらないで下さい、旦那様」
 暗澹たる空也の心を読み取ったかのように、それを晴らすかのように照らされた太陽。
 言いえて妙だ。ハツネが本当に女神に見えた。
「旦那様の愛する人は、ハツネの愛する人です。ちょっとだけびっくりしてしまいましたけど、旦那様が外見や風評などで本質を見誤るはずがございません。……そんな辛そうな顔をなさらないで下さい。──お優しい方」
 土の中で春を待ちわびる種達が驚いて発芽してしまうのではないだろうか。身を切るような風が山間地にも運ばれてくるようになったこの時期に爽やかな風が駆け抜けた。呆けたような空也に対し、ハツネが届けるのは見る側の心が洗われていくような陶然たる笑顔。
 ──日常では会話はおろか目も未だまともに合わせられないのに、どうして突っ込んだ話題になると二人は凹凸たる片割れのように噛み合うのか。茶部は密かに唸り、悩む。
「あまりにじれったい。だがそれゆえにその一歩は確実。お空の雲のようじゃ。最近の若いモンにしては何とも清々しく純白で遅々たる歩み。だがそこに不純物は混じっておらん」
 秋空は悠然と流れていく。
 だがお天道様は気紛れだ。
 ましてや山間地たるこの街では、予報にない天気の移り変わりなど日常茶飯事。
 不吉なる黒雲はいつだってあっという間に空を支配し、暴虐の限りを尽くし青空を荒らす。
「おう! 土山さんのとこの坊主じゃねえか! いい梨が入ったぜ!? 見ていきな!」
「空也君よー。ちょっとこの胡瓜見てくれないか? 自信作なんだが……意見を聞かせておくれよ」
 買い物を含んだ、市街地の案内をかねてハツネと共に商店街を歩く。さすがに人通りの多いところは苦手なのか、動物達は茶部を含め無念の言葉を残し散り散りになっていった。代わりに空也に飛び交う声は青物を構えるお店の店主達だ。厳蔵を知らぬ者のいないこの街で、彼等はその孫である空也を見つけるとなかなか手を離してくれない。空也とて、その道三十年、四十年の彼等を相手に野菜や果実に意見など挟めるはずもないのだが厚意を無下にするわけにもいかず、意見を酌み交わし、勉強をさせてもらっている。
 ある程度予想はしていたが、彼等はハツネに対し皆一様に感嘆の声を漏らした。今後彼女が買い物をするにあたって顔通しはさせておかなくてはならず、一店一店回って挨拶を告げる。
「ぐわっはっはっはっは!! 空也君も隅に置けないなぁ! 何ともめんこい子じゃないか!! あんたもさ、空也君はいい男だから安心しな。真面目で誠実で、真っ直ぐな男だ!」
 当然冷やかされる。
 店の親父さんが何とも豪快な笑い声と共に奥に消え、今日何度目であろうか、熟された桃のように赤い顔をして俯くハツネと空也が店前に残される。……気まずい。
 だが、夕方賑わう市唯一の商店街が異様な空気に包まれたのはその時だ。不吉なざわめき。動物達がいたらまず本能のままに警告音を吠え立てていたことであろう。
 赤や紫のシャツ、真っ白なジャージ、金龍や虎の刺繍された青いジャンパー、ダークスーツをぴりっと着こなしている者もいる。明らかに堅気とかけ離れたその雰囲気は剣呑なる刃の風。商店街に溢れていた人々が、腫れ物を扱うかのようにその十人ほどの集団から露骨に視線を逸らし始めた。どこかで誰かがそっと囁く。
 小野寺岩鷲だ。
 帰ってきていたのか──
 噂じゃ、大阪のお上は相当おかんむりだったらしいぞ。
 嫌だねえ。またロクでもないことしてここらの金を巻き上げる気かい。
 集団の先頭を威風堂々たる態度で歩くのは、頭一つ抜きん出た角の張る輪郭の男。
 息子と違い、刈った後の芝生のようにその黒髪は短い。相変わらずの毛むくじゃらな顔。凶暴な目つきは隙あらば誰構わず食い殺す勢いを秘めた肉食獣のようだ。日頃から体を鍛えているのか、筋骨隆々たる上半身を纏うワイシャツははちきれそうだ。顎を上げ、口をへの字に結び、お世辞にも機嫌がいいとは言えない。
 数日中に帰ってくるとルチアーノから聞いていたが、まさかこんなにも早いとは。
 威嚇するように左右を見渡しながら歩いていた小野寺岩鷲が空也の姿をとらえる。
 ──厄介だ。
 酷く面倒なのは、ルチアーノの親友である以上、決して無視を決め込むわけにはいかないことだ。
「……おう。……お前か」
「……お久しぶりです」
「ああ」
 唸り声のような低音。集団が空也を前に立ち止まる。自分の背後から潮が引くように街の人々が遠ざかっていく気配を感じた。
「まだ聡に付きまとってんのか。あいつはいずれ俺の跡を継ぐ立場だ。そんなあいつが、カタギの農家のガキと昔から付き合っているなんて知れたら組はナメられるんだよ……。十八になったらあいつも本格的に俺の後ろについて各事務所へ挨拶回りだ。泥臭ぇにおいを聡につけるな」
「……はい」
 世間知らずなのか、肝が据わっているのか分からない。空也はこれまでもそうしてきたように、視線を揺るがせることなく岩鷲の眼差しを押し返した。言い返すことはしない。絶対。往来の真ん中で、組の頭の面子を潰したらどうなるかは空也でも理解している。
「聡はどうにも甘ったれている。……お前の方から、早くあいつと縁を切れ。いいな?」
「……はい」
「フン……」
 生返事ではないが、ロボットのような答えしか返してこない空也に岩鷲は露骨に鼻を鳴らした。だが自分を甘く見ているわけでないのはその瞳から窺える。祖父から受け継いだのか、堅物そうに見えて意外にも強かなその在り方には、岩鷲とて知れず舌を巻く。
「若頭。こっちの女を見て下さいよ! こいつはたまげた。この田舎町にこんな極上モンがいるなんて驚きましたぜ! この女ならいい金になるんじゃないですかい!?」
「……ああ?」
 空也がハツネを背に隠したのと、ハツネが空也の袖元をきゅっと握り締めたのは同時だ。
 部下の言葉を受け、初めてハツネの存在に気づいたらしい岩鷲が厳つい眼差しを向け、鼻白む。不機嫌なる塊を一瞬にして溶かしてしまうのだからハツネの美貌はある意味恐ろしい。
「──不景気はどの業界も同じ。親父から上納金の締め上げがきつくなってどうしたもんかと思っていたが……こりゃ凄い。お嬢さん外国の方かい? 日本語はできるのか? 大した上玉だ」
「……彼女はうちの同居人です。すいませんが、あまり変な言葉を向けないで下さい」
「お前にはきいてねえ土山。……ふむ、お嬢さん、ウチにこないかい? あんたなら、たんまり稼げるぞ。勿論、稼いだ金の一部はあんたのものだ。男ばかりのむさ苦しい世界でね、お嬢さんならどこを歩こうと、金を落とす輩がゴマンといるぞ。服も化粧品も好きなだけ買うといい。土山家で雨後の鼻がよじれそうなくさい草のにおいに塗れるより、コロンの香りの方が似合っているだろう。うん?」
「小野寺さん。お願いですから──。彼女は極道の世界には縁遠い人ですので──」
 震えが伝わってくるハツネの手。彼女を助けつつ、だが組の顔を潰さないよう、言葉を選びながら空也は必死に説得する。それにしても会ったばかりのハツネを口説くなんて、万人の目を惹く美容もここまでくると罪深い。同時にルチアーノの警告を思い出す。芙蓉組の本家がある大阪から受けた叱責というのは、どうやら予想以上に岩鷲にとって苦い一件だったようだ。人通りの絶えない商店街でここまで露骨に金の話をちらつかせるなど、それは焦燥感の表れかもしれない。
「──フッ、まあいい。……だがお嬢さん。あんたどこからきた? この街の人間じゃねえだろ。……土山、お前は答えるな。俺はお嬢さんの声を聞きたい」
「……っ」
 岩鷲自体は決して下卑た空気は纏っていない。瞳にも口にも、いつもの如くピリピリした見えない火花を弾かせているだけだ。武人たる剛毅。巨大な熊を思わせる。それに反し、背後の部下達の何人かは露骨に、舐めるような視線をハツネに向けている。ハイエナのような舌なめずり。それが癇に障る。
 言葉は宙に飛ぶことはなかった。水が滴るように、震えるその声は地に落ちるだけだ。
「……山から……です……。染野山から……参りました」
「山ぁ?」
 自分が答えなくてはならないことを察したのだろう。嘘をつくことはおろか、男をあしらう術などこの少女が知る由もない。正直にありのままを告げるだけだ。機転を利かせるべく、それ以上ハツネが何かを口にする前に空也が告げる。
「その──彼女は病気がちで、空気のいい場所を探してご両親と共に染野山の中に住んでいたんです。ご両親とじいちゃんは知り合いだったらしくて──でもつい先日、事故でご両親共に亡くなられて、じいちゃんが引き取ったんです」
 岩鷲とは違った意味で有名な厳蔵の名を出す。我が祖父ながら得体の知れない男だ。咄嗟に嘘八百が口から出たものの、岩鷲の頬が僅かに反応したのを見逃さない。自分はまだ十五年分の祖父しか知らないが、岩鷲はそれ以上に祖父という存在を知っているのかもしれない。
「嘘だな」
 積雷雲のような響き。ハツネという名の太陽が、侵入した黒雲によってその姿を追いやられる。
「あんな不便な山に住みたがる酔狂な人間などそうはいない。あそこには熊も出る。登山コースこそは人のにおいが塗りたくられているが、ひと気のない場所じゃ何かあった時に対応できるとも思えねえ。おいお嬢さん。あんまり俺にナメたこと言っていると──」
「嘘ではありません」
 凛とした鈴が鳴る。
 その強さに、完全に二人を見下していたハイエナ達の何人かが、バカにされたと思ったのか鼻息を荒く捲くし立て始めた。
「おうおう餓鬼。テメェ、若頭に何て口の利き方だ? おい」
「服ひん剥いて売り飛ばすぞアマがぁ!」
 そこはやはりヤクザ。いくら魅力ある女を前にしようとも、一般人のそれと比肩できないほどの高いプライドと志。ましてや自分達の親が一人の少女によって愚弄されるとなれば、俗なる思いなど一切切り捨て各々が命知らずの悪鬼たる兵の顔を覗かせる。
「うるせぇぞ、馬鹿共が!!!」
 そしてそれを一周するのは大鬼だ。
 商店街の隅から隅まで響き渡ったその迫力を前に、背後に控えていた部下達が一斉に体を直角に曲げて岩鷲に謝罪する。それを笑う者など誰もいない。
 嵐を目の前で受けた空也の心は荒波のように揺れ動く。音を立てないよう慎重に唾を飲み込んだ。恐れはおくびにも外に出さず、掴まれている袖と背中の少女に意識を集中する。
「あぁ、すまんねお嬢さん。……それで? 嘘じゃあないと」
「ハツネは──」
 その小さな唇で透明なる音色を乗せて言葉を紡ぐ。今度は震えていない。愚直なまでに真っ直ぐな想いが心地よく大気を浄化していく。
「ハツネは染野山が大好きです。あの大きなお山で生まれ、友達と一緒に日が暮れるまで野山を駆けるのが好きでした。西山の盆地の、岩肌を越えた奥にある滝で水浴びをするのも好きです。今の季節では、闇夜のカーテンが落ちた空の下で優しくハツネ達を照らしてくれるお月様の微笑みを受けながら、北風と、空一杯に吹雪く紅葉を浴びて踊り続けるのが好きです。こんなにも優しい地。ハツネは染野山を誇りに思っております。嘘など申しません」
 それは光芒の矢だった。物々しく濁った空気を吹き飛ばすように突き抜けた。
 全ての衣を脱ぎ捨てた裸の心。どこまでも澄み渡っている。岩鷲の御する座は決して軽々しいものではない。血と金を際限なく積み重ねた玉座だ。その岩鷲が一瞬とはいえど虚をつかれ全ての感情を失った。だがそれを決して顔に出すわけにはいかず凄惨たる面持ちを彼は崩さない。
 雑魚がその身に抱くような愚鈍なる怒りなど岩鷲に湧きはしない。だが肉を易々切らせておいて骨の一本さえ断てないようでは芙蓉組に名を連ねる下部組織の長としての面目がたたない。何より彼は決して馬鹿ではなかった。憤激に身を任せる愚行などせず、代わりにその心が手にしたのは金なる木の枝だ。
「そうかそうか! 何とも見上げたお嬢さんじゃあねえか。今時の子供と違い、そんなにも生まれ育った場所に誇りを持てるなんざ、そうそうできることじゃねえ。……おい、お前等。行くぞ」
 あまりに呆気ない終わり──そう思ったのは空也だけではなかったらしい。岩鷲の部下達が弾かれたようにワンテンポ遅れて返事を告げた。
「あぁ……ただね、お嬢さん。あんたが今、山に対するプライドを見せたように、俺達極道にも、極道として通さなくちゃいけねえ修羅道ってのがあってね。厄介なことに、こいつがまた狭い道でねえ。ボタボタボタボタ道踏み外して奈落の底にまっ逆さまに落ちていくんだわ皆。そうならないようにするため、俺達は常に足場を広く固めようと、そこら中から土砂を掻き集めて必死に道を作っていくわけだ」
「──??」
 皮肉めいた眼差しに悪意は見えない。自嘲するかのように、愚痴のようにそれは吐き出されていく。
意味がよく分からず、空也とハツネはお互い寄り添って内心で首を傾げるだけだ。
「ところがね、いい土ってのはそうそう転がっているもんじゃない。ならどうするか? 一番の理想はな、他人の歩く道の土をひょいと頂いちまうのさ。だが俺達極道にも筋はある。片っ端から無差別にあれもこれもと拾ってくるわけにはいかない。だから俺達が歓迎するのは──修羅道とすれ違おうとする他の道だ。こちらが頭を悩ませるまでもなく、手を伸ばせばすぐそこに沢山の良土がある。おまけに、俺達が誰かを知っててすれ違おうってんだ。こっちも気が楽になる。何よりカタギにナメられるわけにはいかねえ」
 空也は岩鷲の心に巣食う蛇のような執念を垣間見た。彼がハツネに向けて放った言葉は紛れもなく毒だ。輝く目を持つハツネには映らない。薄汚れた瞳だからこそ見えるものもある。
「なに、ありがとうよ。何にせよ俺達は今不況不況でどうしようか頭を悩ませていたんだ。山……か、いい着眼点だ。やっぱりたまには若い連中と話してみるもんだな。歳を食ってくると無駄に頭が固くなっちまっていけねえ。──じゃあな、お嬢さん、土山の坊主」
 ふてぶてしいまでに豪快たる笑いを残し、格闘家のような体躯が通りの中央を闊歩する。不気味ともとれるその上機嫌な態度に、遠巻きに見守っていた人達が一も二もなく道を開ける。やがて殺伐とした空気が弛緩し、所々で腹の底から息を吐き出す音が聞こえた。
 ──気になる。岩鷲は最後に、一体何を示唆したのか。方向性こそは読み取れたがそこに具体性を示す言葉はなかった。分かっていることは、金策に頭を悩ませている彼等に何かを与えてしまったということ。岩鷲は雑食だ。不動産や飲食店をも網羅している。その分持つタネは多い。
「は──ぁ──」
「ハツネ!?」
 空気の抜けた風船だ。ハツネの膝が玩具のように崩れ落ちる。その顔は疲労と緊張で生気が失われていた。
「ハツネ、大丈夫か!」
「あ……旦那様……すいません、でも……少し休めば多分大丈夫です……。ハツネは……気が抜けてしまいました」
 野獣の如き咆哮をぶちまける巨人からの圧力は相当たるものだったようだ。眼力、怒声、威風、対峙しているだけで消耗する。本人の言うとおり休めばすぐに回復する程度のものだろうが──
 気づけば辺りから敬服と好奇の視線が集まっていた。
 いずれも、今のハツネにとってはあまり居心地のよい視線ではない。
「……」
 逡巡は一瞬だった。

 染野山が真っ赤に染まっていた。手をつないで隙間なく地肌を埋め尽くした木々が乱れ咲くかのように一年最後の祭り場を森に焚き上げる。真紅、朱、黄金色が交じり合って見る者に溜息を吐かすような幻想的なる色合いを演出させていた。風と共にそれは一斉に揺れる。その度に紅葉が空へと昇る。桃源郷と呼ぶほど華に満ちているわけではなく、幽玄と呼ぶほど物悲しさとしじまが落ちているわけでもない。主張なき美。奥ゆかしい日本に相応しき深みの溢れる鮮烈な山々。つまりは見渡す限りの日本の秋景色が閑雅と立ち並んでいたのだ。
 眩い夕日を浴びて、一つに交じり合った影法師が田園の一本道の中央に伸びていた。
 コオロギ達が大合唱を奏でている。二人だけで占めるこの上なく贅沢な涼秋の音色。秋の深みを呼び寄せるその声には一抹の寂寥感をも感じる。それでも──
 空也の背中に伝わるその温もりは真っ赤に燃えていた。
「申し訳ありません旦那様……ハツネ、重い……ですよね……?」
「もうちょっと食べた方がいいんじゃないのか? まるで重みを感じないぞ」
 ハツネをおぶり、空也は茜色で埋め尽くされていく世界をゆっくりと歩く。うなじの辺りに顔を埋めたハツネからの質問は既に三度目だ。吐息が首筋をくすぐった。女の子というのは、香水等をつけずとも甘酸っぱい香しさを微量程度とはいえ肌にまきつけているものなのだろうか。旬な花の蜜のような心地よさが鼻腔をくすぐる。
 何より空也を困らせているのは──背中に所狭しと押しつけられている二つの乳房だ。潰れてしまいそうなほどに弾力を弾ませている。絹越しとはいえ、正常な脳を焼き切ってしまうかのような悪魔の如き誘惑。厳蔵のことをどうこう言えないかもしれない。自分は男として、たった今ハツネの柔らかさを言い分けなく堪能してしまっているのだから。ハツネもそれは分かっているのだろう。羞恥と艶をおびた吐息が漏れる。押し殺そうと健気に耐えている様が後押しし、男の本能を奮い立たせるような甘い芳香が断続的に空也の耳を侵す。こんな、幻想的なまでに可愛い子がどうして──
「なあ……。どうして俺なんだ? ハツネ」
「はい?」
「その、嫌とかじゃないんだ。ただ……分からなくてさ。どうしてハツネは俺のところにきたんだ?」
 夢物語を紡ぐように。
 ハツネは目を細め、恍惚たる面持ちで心を満たす。記憶が愛で彩られていることを示していた。
「──旦那様は、染野山の動物達には結構知られていたのですよ? お山の近くに住んでいらしていることもありますが、それ以上に、お爺様と共に日がな一日、山に篭って農作物を育てたり、茸取りに出かけたり、他にも──登山道のゴミを片付けたり、古い木の橋の具合を調べたり、観光客のこない滝壺にまで何か異常がないか見にいらしたりもしていたでしょう?」
「……恐れ入ったよ」
「フフ。ですから茶部様を初めお山の動物の長様達が集まり、今回の共存を目指す上で……その──人間のお相手を誰にするか、と決める際に一番に旦那様の名前があがったそうです」
 何とも勝手なことを……と思いかけて、おそらくこちらがそう思うことくらい予測しているのだろう。その上で選出したに違いない。
「立候補者は他にもおりました。だから──ハツネは──他の、他の誰にも──旦那様を取られたくなかったのです──」
 無意識だろうか、空也の首に巻かれるその細い手首に控え目な力が込められた。貞淑たる観念を持ちつつも、その心を塗り潰すかのように想いが溢れる。
「私達は人より相手の心を読むことに長けております。無機質な機械の鋼と、錆びた鉄のようなお金のにおいを持つ人達が増えていく中で、旦那様の心はいつもお日様の光を浴びた麻のようにふんわりとしていました」
「いつも? ……俺、ハツネに何度か会っていたのか?」
「ご存じないのも無理はありません。ハツネは狐の姿でしたから。覚えておりませんか旦那様? 足を怪我しながら、警戒心と共にジッと旦那様を見つめていた一匹の変な狐を」
「──あ」
 怪我というキーワードが心を過去へと誘った。思い出の欠片を掠め取る。日頃から顔を突き合わせていれば相手が動物とはいえ顔だって覚える。作物をこっそり撒く秘密の昼食会。その始まりのきっかけとなったのは──
「ビックリした……」
「フフフ。……遅れて申し訳ございません。旦那様、あの時はどうもありがとうございました」
「あぁ……えっと。……もっと早くに言ってくれればよかったのに……」
「ハツネも女です。生意気ながら、女ならば自分の恋物語に叙情をつけたいと願うのは必然です。その──今だから──こうして旦那様と触れ合っている今だから──。これまで言おうか言おうかと、ずっと昂ぶる心をなだめておりました」
 自分の全てを相手に捧げるように──ハツネは瞳を閉ざし、体と心を背中に横たえる。
「今、ハツネの全てを旦那様の背に預けております。もし重いと感じたのでしたら、いつでも置いていって下さい。共存の話を託されたハツネは旦那様と添い遂げることこそが本懐。でも、それ以上に女として旦那様を愛することをお許し下さいませ。こちらを振り向かなくとも、いつかのように開いた距離から見つめているだけでも──」
「怪我はもう治ったのか?」
 ハツネの心に悲哀の片鱗が沈み込んだのを感じた空也は即座に割り込んだ。
 空也は自分の想いは分からない。
 でも、こんなにも一途で健気な子に悲しい顔をさせるのは絶対に我慢ならなかった。
 ──夕焼けの彼方へ時が沈んでいく。静謐たる空間へ乱れた吐息が落ちた。
「はい。おかげさまで。……あの、旦那様」
「うん?」
 独占だけでは飽き足らず、束縛するかのように、ハツネの柔肌が空也の肌に密に接してくる。何かが心の琴線に触れたらしい。愛溢れる少女は想いに身を焦がす。
「ハツネをいつでも床に呼んで下さい。愛しております」
 気恥ずかしさに慣れ始めていた空也の心が燃え上がる。ハツネの熱は飛び火し、二人して愛欲の炎に身と心を炙られた。
 影法師がどこまでもどこまでも伸びていく。
 秋空の下、コオロギ達が恋物語を囃し立てた。
 それきり二人に言葉はなかった。
 染野山から届いた柔らかな風が、一つになった二人を優しく撫でていった。
4, 3

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