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第五話

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   五章

 翌日、ルチアーノは学校には現れなかった。空也以外の人間は誰一人とて気にも留めない。むしろ昨日校門前で起こした逃避劇のせいで、空也に注目が集まり周りから根掘り葉掘り好奇の質問と詰問を浴びたがそれ等に対し丁寧に答える気にはなれなかった。
 依然として自分はルチアーノの親友のつもりでいる。土暦はきっと難色を示すだろうが。
 無論空也は染野山も大好きである。一年中出入りしている。
 厳密に言えば山を管理しているのは地元の組合だ。伸びすぎた竹やケヤキはその都度伐採され、登山道舗装、清掃、整備とて彼等が主体となって行っている。だがそこでも土山厳蔵の名前は大きい。農林業共同組合と染野山の保護組合。二つに名を連ねることは、何もないこの静かな街の手綱を握るに等しい。だからこそ厳蔵は自分の権限が市の深くに食い込むことを恐れ自ら辞退しているが、山の麓で育ち、無名の街から全国的なるブランド野菜を作り出したその手腕と知識を街の人間から求められ、結局は染野山にもその老獪なる生き字引を披露し惜しみなく協力している。自分が二歳の時に両親は交通事故で亡くなったと聞いた。それ以降空也は、祖父の背中を見続けて育ったのだ。人々の先頭に立ち、激流のように速く、強く、逞しく、神懸り的な才幹を遺憾なく発揮し農林業をこなしていく厳蔵を。
 だが親友も大切なのだ。
 クラスメイトの男子がテレビアニメのヒーローや最新ゲーム機に夢中になっている時も、空也は厳蔵と共に山へ入り、畑を耕し、商店街の農業組合にも参加していた。友達はそれなりにいたが、それでも休み時間に深く何かについて話し合える人間は周りにいなかったのだ。無論それは空也が歳相応の趣味を持たなかったためである。
 行き場をなくしたその目は教室の隅にいる一人のクラスメイトに向けられる。
 自然の真っ只中で太陽と水と土の下に生きる空也には、下らない俗世のしがらみなどなかった。
 噂、暴言、そんなジメジメしたものなど、炎天下でトマトを収穫する時に流れ出る滝のような汗と比べれば何と矮小なことか。
 二人は規格に当てはまる人間ではなかった。ルチアーノがあまりに自由気ままに話をするので空也も農業の話に遠慮はいらない。お互いが全く興味のない事柄を延々と話し続けていられた。何の気兼ねもなかった。だから……いつからかルチアーノは空也をブラザーと呼び始めたのだ。
「話してみると結構面白いヤツなんだ」
「はい。旦那様が以前ご紹介して下さった時、その楽しそうなお顔を拝見しすぐに分かりました」
 空也はハツネと共に、所々漆喰にヒビの入った日本的なる白塗りの壁の隣を歩いていた。外周りがとにかく広い家だ。自分の背丈を越える壁の天辺には厳めしく並べられた伝統的なる瓦が日の光を反射させている。黒光りはしない。おそらく汚れが表面にこびりついているのだろう。端から端まで歩いて五分はかかってしまうのだから、この家の年間維持費の金額を是非聞いてみたいものだ。
「それより空也。昨夜はやったのか?」
「何をさ」
 四方を金具で補強した、角張った黒布のケースを手に持って先行する厳蔵が振り返る。
「だから! ……やったのか、と聞いておるのだ馬鹿者!」
「だから何をさ!」
 厳蔵の吐息が荒い。もっと間近にいけばその両目が血走っていることにも気づいただろう。
「年には勝てん、ワシも昨晩はすぐに床についてしまったからな。……空也! あの後、ワシが寝静まったのを見計らってハツネさんとやったのか!!?」
 隣を歩く着物少女の頭から湯気が噴き上がった。
 頂上で叫んだら山彦が発生しそうなほどの大声で厳蔵は鼻息を強く詰め寄ってくる。
「その……そのはちきれんばかりの、きょ、きょきょ巨乳を、これでもかと言わんばかりに揉み解したのかと聞いておるのだ!! 恥じらいながらも、男の猛々しい攻勢を前に、同時に普段むっつりで通している男があらわした夜の本性を前に、あられもない声を上げながらも徐々に徐々に体を開いてしまうその助平な体を嘗め回したのかと聞いておるのだ空也!!」
「近い、近いからじいちゃん! 顔近い!」
 唾が飛んだ。
「……昨日は遅かったから俺もすぐに眠っちゃったよ! それよりじいちゃん、お願いだから声下げて! もうルチアーノの家のそばまできているんだからここでお腹壊さないでよ!? 俺達真面目なお願いをしにきているんだから!」
「ちっ。何じゃ、つまらん。……ハツネさんはいつでも待っているのに。のう? ぐっへへへ」
 夫の溜息を隣に俯いて顔を隠すハツネは厳蔵のセクハラで羞恥心に塗れながらも、これが彼なりの緊張の解し方であることを知っていた。空也が学校へ行っている間は厳蔵から家事を教えられる日々。家には二人きり。だが一度たりとも厳蔵はハツネに触れたことはないし、言葉はおろか視線に不浄が含まれたことさえない。彼があられもない暴走を始めるのはいつだって空也がいる前だけなのだ。
 ──ちなみに厳蔵は、仕掛けたビデオカメラで二人に何もなかったのは知っていた。
「それよりさ。本当にそれ、手土産に出すつもりなの?」
 空也の懸念は、厳蔵の持つ横幅三十センチに満たない小型のケース。中身はさほど重い物でもないので老人の手でも軽々と運べる代物だ。尋ねてきた茶部から渡され、その中身を目の当たりにした時は凝然とした。「掻き集めてきた」。そう言って笑う古狸の笑顔。
「やむを得まいよ。連中に渡りをつけるにはこいつが一番。そもそも愚かに密猟などしようとしたのも、それが原因じゃろう」
「……話をしにいくにしては、真っ当な手土産じゃないよねそれ」
「相手が真っ当でないのだから妥当じゃい」
 地元の人間は通ることさえ嫌がるその一帯を堂々たる足取りで行く。人の賑わう街通りと比べ、何と物静かなことか。孤城と呼んでも差し支えないほどに薄ら寒い日本家屋。ルチアーノの自宅であり、小野寺組の事務所。その正門に空也達は立った。
 ハツネを連れて行くことには最後まで反対していた空也だが、昨日のことがあった手前、ハツネがいなければ入ることさえも難しいとは厳蔵の論。万が一危なくなったらハツネは狐の姿となって逃げますから、と安心させるように語る彼女を前に、空也はハツネ本来の姿が人でなく動物なのだという事実を思い出す。気づけばすっかり人対人として接していた。
「何だお前等? とっとと失せろやァ!」
 用件を告げる前から、張り詰めた空気を凝縮して飛ばすかのような威嚇が飛んできた。
 門番というヤツだろうか。開かれた木造正門の左右に崩した体勢で立っていた二人が、空也達を見るなり首を突き出し、細めた瞼と眉間に寄った多重のシワを持って出迎えてくれる。
「消えろや! ここをどこだと思っておるんじゃ!!」
「まぁまぁ、待って下さいな。若い者は本当にせっかちなんじゃからのう。……でもいいんかい? ワシ等を追い払った、なんてあんた達のボスに伝えてみなさいな。指が飛ぶかもしれんぞい? 何しろこっちは、小野寺岩鷲から直々に、いつでもこいと言われているんじゃ」
 そう言って意味ありげに、震えながら空也の背中に隠れているハツネを振り返る厳蔵。
 小野寺岩鷲という名前、厳蔵の自信あり気な声、清廉たる美貌を持つハツネを目の当たりにし、二十代前半のチンピラ二人は気概が一挙に薄まっていく。代わりに浮き出るは僅かな狼狽だ。完全なる縦社会。それに背いた代価は最悪命までも差し出す必要があるのが彼等の世界。金がなければ血と苦痛を代価として詫びを入れるより他ない。
「おい。ちょっと確認してこい」
「分かりました」
 だからこそ彼等は途端慎重になった。一般人にナメられ組の看板に汚点をつけることなど論外だが、もし本当に目の前の平和そうな顔をした三人が岩鷲の客ならば自分達の体は汚点はおろか、風通しのよい穴が空くことにだってなりかねない。
 証拠なしに真偽を見定め、組の誇りと自らの命を天秤にかける。
 門番とは使い走りの役目であり、重要であり──だからこそ誰もやりたがらない。
 内心只ならぬ気持ちでいた門番達は、しかしその言葉に救われることとなった。
「そいつ等は間違いなく親父の客だぜ。ケツに火が点いたマヌケのようにとっとと走って親父に報告してきな。ここは俺が受け持つ」
「坊っちゃん!」
「早く行きな。晩メシにミサイルか手榴弾を食わされるはめになってもいいのか?」
「へ、へい!!」
 一礼すると脱兎の如くチンピラ達は屋敷の奥へと駆け出して行った。ある意味潔い。だが空也の意識にはもう二人の姿は消え去っている。驚きはない、学校にいないのなら家にいるのは至極当然。
 ルチアーノが三人を出迎えたとしても何の不思議もなかったのだ。
「遅刻はともかく──学校に欠席なんて滅多にしないのにな、ルチアーノ」
「HAHAHA! そこは突っ込まないでくれやブラザー! 今までは確かにそうだったさ」
 ある種の境界に立ったような空虚感と達観を覚えた親友の瞳。だがそこには意思の光もある。季節によって山の色合いが変わるように。ルチアーノは──変わろうとしていた。
「でも……そうだな。これからは遅刻も欠席も多少増えるかもしれねえ。なに、まぁ自由に行こうじゃねえか。束縛なんて鎖、この俺には似合わねえぜ。HAHAHAHAHA!!」
「どうして──あんなことをしようとした?」
 知らずして空也の口からは、氷柱のように酷寒たる凍えと鋭利さを秘めた言葉が飛び出た。昨夜と同等の質問。異なる答えが返ってくるのを自分は期待しているとでもいうのだろうか。
 一時の沈黙。瞼が眼を覆い隠し──再びそっと開かれる。
 口元に浮かぶのは皮肉めいた微笑。
 クラスから疎まれ、恐怖され、孤独や陰口など笑い飛ばしてきたルチアーノが、空也の知らない素顔を覗かせる。
「BIGになるためだ。俺もそろそろ血の味を覚える時がきたんだよ……ブラザー」
 その言葉が空也の導火線に火を点けた。
「旦那様!」
 桔梗のような色をしたシャツの胸倉を、ボタンが千切れそうなほどに掴み上げる。慌てて制止の声を飛ばすのはハツネのみ。厳蔵は無表情でそれを見守っていた。
 可笑しな話であるが──
 もしこの時、ルチアーノが血に飢えた獣のように、狂気を模した瞳と抑えきれぬ興奮を持って夢見るようにその言葉を紡いだのなら、空也も冷静でいられたかもしれない。もしくは、吹っ切るように、本当にビッグなマフィアとやらになるために心を捨て始めたのなら納得していたかもしれない。
 彼は中途半端だった。
「ふざけるな!! そんな下らない理由で!!」
 言葉と裏腹に、ルチアーノの表情は明らかに優れなかったのだ。
 もしこんな態度でアメリカ全土を支配しようと言うのなら、それこそ最高級のジョークだ。彼等の世界のことは知らないが、マフィア界に対して失礼にさえ値するほどに。
 昨晩の祭りを思い出す。
 誰もが楽しそうに生を謳っていた。撃退に成功したというだけではない。余分な文化や道具がない故に、彼等は全身全霊で生きる喜びを表現する。頭の天辺から足の爪先まで、全てを使ってその身を天へと捧げる。元々動物達に対しては人よりも思い入れが強い空也であったが、あの宴を目の当たりにしてしまって以降、彼等を人間より下に見ることに抵抗を覚えてしまった。それを愚かと笑う者もいることだろう。でもそんな人間が一人くらいいてもいいではないか。
「ヘイヘイヘイ! 何熱くなってんだよブラザー! その元気はガールフレンドとの夜のために取っておけよな! ……悪いことをしているとは思ってる。でも相手は動物だろ?」
「ルチアーノ!!」
「やらなきゃ俺がやられる。お前、昨日俺達が親父に何て報告したか知ってるか? 動物に追い掛け回されて、一頭も仕留められず逃げ帰ってきました。だぞ!? 俺はかろうじて制裁を免れた! だが先陣切ってた連中はなぁ……!!」
 何と自分勝手な──! そう怒鳴ってしまいそうになった空也の心に、昨夜の土暦の言葉が甦ってくる。
 人間よ。お前は動物と人間、どちらの側につく──
「冷てえぜブラザー。アレが縮んでしまうほど冷てえ。動物と俺、どっちが大事なんだよ。次失敗したら俺だってやべえ」
「ルチアーノ」
 両肩に手を食い込ませた。どこか悄然とした感じが拭えないルチアーノだったが、その痛みに空也の双眸を真っ向から見据えるはめとなる。だがそれは空也も同じだった。人生の半分以上の年月を共に過ごしてきた親友である。ルチアーノの瞳には殺伐たる荒野のような、無味乾燥な色が見受けられた。そこには動物はおろかまともな生命さえ息づいているようには見えない。
「もうやめるんだ。お前が望んで密猟に手を染めているわけでないのは分かった。今ならまだ間に合う。親父さんが怖いのなら、うちを頼れ!」
「はーぁーん? 何知った風な口聞いてんだブラザー。俺はBIGなマフィアになるんだぜ? 人間どころか、動物をぶっ殺すのにビビッているとでも思ってるのか!? 俺は餓鬼じゃねえんだ。既に自由への一歩は踏み出しているんだよ。昨夜お前がそれを邪魔しなければな!」
「何が自由だ!! 父親の恐怖に従って行動しているだけだろ!? お前──これのどこがビッグなんだよ! 昔からずっと言ってたじゃないか。俺は大物になる、ビッグなマフィアになるって! ルチアーノ、こんなの──ただの下っ端の雑魚じゃないかよ!!」
「……初めは仕方ねえ。着実に足場を固めていくんだ」
 ルチアーノは怯えていた。
 お上から突付かれ機嫌の悪い岩鷲が、この城を魔窟たる根城へと代えているのは想像に難くない。岩鷲に対し反論一つでその口を削がれるのだろうか。部外者である空也には分からない。
「……動物は大切だよ。染野山は大事な山だ。俺が今ここにいる用件くらい分かっているだろう? お前の親父さんに直談判しにきたんだ。でもな……ルチアーノ」
 嘘偽りない言葉。親友に送れる唯一無二の確かなる証。
「俺はお前のことだって大事なんだ! 動物だって、人間だって、どっちだって大事さ! どうして二者択一なんだよ? 両方の手を握って何がいけない!!」
 聖人君子たる罪深き意見。人が口にすることほど滑稽なことはないだろう。
 それでも。空也は勿論、ルチアーノとて昔は染野山を駆け巡って、その息吹きをめいっぱい吸い込みながら無数の木々と共にダンスに興じていたのだ。それは昨晩の祭りと一体何が違うというのだろう。
「──ブラザー」
 空也の言葉がルチアーノの体内にこびりついた煤を幾分か払い落としたのか。掠れるように出た言葉には僅かな純朴たる心を覗くことができた。つまりそれは本心の欠片だ。
「お前の気持ちは嬉しいぜ。俺だって、お前さえよければずっと友達でいたかった。でもよ、俺達は大人になっていく。俺がこれから進もうとしている道は、きっと大勢の人間を泣かせ、苦しめる道だ。だが引き返せねえんだ。きっと世の中には変わっていくものと、変わらず残るものがある」
 笑う。今度は皮肉めいた睥睨ではない。
 空也に抑えられていなければ外国人俳優のように肩でも竦めていたのだろう。
 ──そんな目だった。
「お前はそのままでいてくれやブラザー。こんな俺だが、お前のおかげでそれなりに楽しい学生生活を送ることができたんだ。きっとお前はそのホットとクールが備わった心で、これからも誰かを救っていくんだろうよ。感謝している。でも……これまでだな。昨日からよ、お前の言葉と心とその顔がカリブ海の夜明けのように眩しいんだ。俺はこれからもっと暗闇に落ちる。スラムの腐り切った便所みてえな場所にな。俺達は別々の道を行くべき時なのかもしれねえ。HAッ! 親父はさぞかし喜ぶだろうがなクソッタレ」
 空気の冷たさは間近に控えた冬の訪れだけではないだろう。
 鷹揚に構えようと必死に自分を作っている目の前の男は、小野寺家に蔓延する毒水を受け入れることを決意し始めていたのだ。
 遠くなっていく。
 目と鼻の先にいる男が、蜃気楼のように霞み始めていく。
「次会う時は完全な敵同士かもしれねえな、ブラザー。……HAHAHA、これもマフィアの宿命ってな。共に酒を飲み交わした仲間でも、抗争次第では銃を突きつけ合う間柄に変わる。これが俺達の運命だったのかもしれねえ」
「受け入れてくれる……。動物達は賢く、でも心は純真無垢なんだ。誠意を持って、お前がこんなことを心から洗う姿勢を見せれば俺達はきっとお前を助けられる。でもそっちにいる間は無理なんだ! だから──」
「脳味噌の代わりに畑の土が入っているお前でも、何でもかんでも万事上手くいくなんて思ってねえだろ? 金も権力もねえ十五歳のお前が、人間と動物、両方の手を掴むことなんてできるはずがないんだ。せいぜい片方だけだ。俺の手を掴むのはやめとけブラザー。でないときっと、お前の大切なモンを掴み上げる力が足りなくなるぞ。……おっと?」
 複数の足音に気づいたルチアーノが、肩にかかっていた空也の手をそっと振りほどく。
 背後から近づいてきたのは門番達とは明らかに違う、重厚たる空気を上半身のスーツから纏わせている男達だった。怒鳴ったり脅したり──などの低劣なる愚行は似合わない。沈黙だ。誰もが口を真一文字に結び、猟銃などよりもよほど物騒に思えるいぶし銀の如き鋭い眼光を持つ。人数は三人。ただのチンピラと一線を画す彼等はまずハツネをその視界に確認し──空也達に頭を下げた。
「失礼があったようで大変申し訳ございません。こちらへどうぞ。若頭がお待ちです」
 話の終わりだった。
 空也は後ろ髪引かれる思いを断ち切り気持ちを新たに切り替える。真の目的を忘れてはならない。昨夜土暦が空へ解き放った大砲のような爆発を思い起こす。相手にそんなつもりは毛頭ないだろうが、これは言わばこの街をかけた二種族間の協議なのだ。空也の後ろにはハツネがいる。土暦が、茶部が、昨日歌と踊りに明け暮れた万の仲間がいる。
「いらっしゃい。どうぞ」
 ルチアーノの風体が変化する。彼もスイッチを切り替えたのだ。いやに落ち着き払った物腰と、一切感情を読み取らせない相貌。ボーイのように片手を奥に流し、客人達を出迎える。
 他人行儀なその姿。
 それこそが今の空也とルチアーノの距離。
 心の中で息を一つ吐くと唐松の並ぶ庭へ空也は一歩を踏み出した。
 座り心地は抜群に、しかし居心地の悪いソファだった。腰が深々と沈み込む紫紺色のクッション。厳蔵を中央に、空也とハツネは家の主を待つ。客間には赤茶色のカーペットが隙間なく敷き詰められており、眼前には脚に意匠を凝らした玻璃の玲瓏たるテーブルが。壁にはとても来客を歓迎しているとは思えないほどに悪鬼たる形相でこちらを睨む高価そうな虎の色紙が並んでいる。部屋の隅には主を失った茜色の日本甲冑が抜け殻のように佇んでおり、こちらもその存在自体から音のない迫力が滲み出ていた。色調といい古物といい、いずれも家主の性格がよく表れている。
 震えているのならハツネの手を握ってやりたい──と思ったが、中央に座する厳蔵に憚られそれは叶わない。雑談に興じられる部屋ではない。息苦しく、唾を何度も嚥下する。
 部屋には三人だけだ。しかし、待たされてきっかり十分。空也達が潜った扉がようやく開かれる。一番に顔を覗かせたのは──岩鷲だ。今日は嫌味なくらいに艶の出ている白い上下のスーツ。厳つい四角顔が一瞬にして三人を睨みつけた。挨拶一つない。山男のような髭を撫で、相手を吟味しながら時間をかけてゆっくりと空也達の対面側へ向かう。値踏みするかのようなその態度は明らかに空也達に不信感を植えつけた。無論承知の上での行動なのだろう。
 続いて姿を見せたのはルチアーノ。そして……護衛だろうか、岩鷲に負けず劣らずといった体躯の男達が二人入室する。──いずれも表情は険しい。
 ソファにどっかりと座る岩鷲。その隣に腰をかけるルチアーノ。二人の背後には、顎を上げ毅然と立ついずれも三十代前半ほどの舎弟達。
 空也に大人の常識は分からない。このような場合、どこで挨拶を切り出すのか、そもそも立ち上がって一礼でもするべきなのか──しかし一つ分かっているのは、相手はこちらを歓迎していないということだ。十分待って茶一つ出てこないのはそれ自体が岩鷲のメッセージなのだろう。
「──フン。本当に綺麗なお嬢さんだ。だがそんなに怯えなくてもいい。昨日会った時はよく耐えたな。見かけによらず気丈なモンだ。ウチの若い奴等にも見習わせてやりたいぜ」
 岩鷲はタバコを吸わない。早速話が切り出された。
 ハツネは何も答えない。
 岩鷲の立場に要求されるのは瞬時に相手を見抜く慧眼だ。誰に逆らってはならないか、また誰から金を搾り上げるか。弱みを常に探し、隙あらばそこに噛みつき相手が死ぬまで二度と離さない。
 ハツネという少女の内面を岩鷲は既に見抜いており──そして賞賛した。
「見習わせるのは結構。ですがその前に、おたくの若い連中には覚えてもらいたいことが多すぎますな。まず第一に、軽装での素人による夜登山は絶対にやめて頂きたい。道など簡単に見失う。日中、老人がハイキングがてらに散歩しているコースでさえ、夜はその顔を真逆に変えるのです。人が歩けるのは人が作った世界のみ。大自然の前では人間の命などマッチ一本の火よりも儚く消え去る」
 岩鷲は厳蔵の言葉に最初眉を潜めていたが──
 豪快な笑いを部屋中に奏でた。そこに演技めいたものは一切見えない。
「わっはっはっはっはっは!! こいつは驚いた! 俺達ヤクザは一般市民の皆様から例外なく疎まれ、避けられ、後ろ指を指される存在だ! 俺達がいない方がこの街は平和。いなくなれば誰もが喜ぶ。なのに……土山の爺様よ、あんたは俺達悪党の心配をしてくれるってのか!? 染野市で知らぬ者はいない正義のヒーロー、土山厳蔵が! はっはっはっは、こいつは傑作傑作!!」
 遮二無二叫びだしてしまいそうなほどに淀んだ空気を一人の豪傑が吹き飛ばす。ルチアーノと二人の部下は表情を一ミリたりとも変えず──小野寺組の若頭はただ一人抱腹する。
「貴方達とて家族を持つ方は多いでしょう。もし亡くなれば悲しむ者はきっといる。今この場で坊主のような説法を説くつもりはありませぬ。それに正直ね。……寝覚めが悪いんですよ。我が家の近くで命を落とされては」
「なぁにご心配めされるな。俺達の中にはメタボリックのヤツも多くてな。それに最近は、出歩かず電話一本だけで働いているヤツも多い。慢性的なる運動不足がこの家には充満している。そんな俺達が山登りを試みたって、十分で根をあげて帰ってくるよ。死にはしない」
「そうですか。それにしたって登山靴もはかず、弁当や雨具の入ったリュックも背負わず、カメラをぶら下げるわけでもなく──手に持つのが物騒な猟銃一本とは。変わったピクニックだ」
 慣れ親しんだ祖父の姿は既にそこにはない。
 厳蔵はその手に銃を持つことはなかった。眼窩で獲物への照準を定め、その口からは毒弾を発射する。染野市農林業共同組合会長として若手を率いて卸業者に商談に向かう姿も何度か目にしたことがあるが、その背中とも異なる。厳蔵の体内に滾っている熱を隣で感じる。翁は間違いなく怒りを燻らせていた。そして当然の如く岩鷲はそんな厳蔵の心など見抜いている。
「何しろ素人なモンでね。おまけに図体ばかりはデカイが肝は小さかったと見える。野犬の類を恐れて武器を持って行ったら──そうそう、何でも凶暴な大熊が現れたそうじゃあないですか。あの手のは普段は山奥に生息しているんでしょう? 市民の皆様に何かあってからでは遅い。そうだそうだ。俺達が代わりに対処してやりますよ。……街の連中からは自警団──集まらなかったんでしょ? わっはっはっはっは! まったく農作物を汗水垂らしながら朝晩育てているくせにどうにも根性がねえなぁ! しようのない連中だ!」
「──」
 厳蔵は口内で歯を噛み締める。
 岩鷲の言葉には嘲笑と侮蔑がふんだんに塗りたくられていた。厳蔵の表情を肴に口が風車のように回る。この男は夜空に浮かぶ月を愛でる情緒はないのだろう、徳利を傾け心に風を浸すのは、蜘蛛の巣で弱者がもがくマリオネットのようなダンスの観賞時だ。
「いやいや! 俺達も自分が悪者であることは承知していますよ。だからね、ここで一つ汚名返上といきたいわけです。凶暴な熊は荒事に長けている俺達にお任せ下さいよ爺様。そしてこれを機に、染野市の皆様方と深く深く、末永くお付き合いしていきたい。街の平和は是非、小野寺にお任せ下さい。なに、勿論金なんて要りません! これは善意での申し出ですからね!」
「ただの密猟じゃないですか!! 昨夜だって、貴方達が仕掛けてきたから熊達だって攻撃せざるを得なかったんです!!」
 小馬鹿にされ続け、遂に空也が横から言葉を割り込ませる。厳蔵のように回りくどいことはしない──できなかった。直球の言葉。
「おいおい土山の坊主よ。見回りと、純粋に登山を楽しもうとした俺達に対し、それは失礼じゃねえか? 昨夜遅くにうちに警官が尋ねてきたよ。きちんと説明して誠心誠意を伝えておいた。お前と違って、俺達の怪我の心配をしてくれてな。やっぱり正義の味方は優しいもんだぜ」
「──上から、お金の件で辛辣な言葉を浴びせられたともっぱらの噂です。貴方にはお金が必要なんじゃないですか?」
 空気に亀裂が入る。
 それまで無言で三人に睥睨を送っていた部下達のこめかみに青筋が浮かび上がった。裂帛なる憤怒の情が言葉以外の全てを使い空也に向かって放たれる。
「まあ待てやお前等。──坊主、お前は昔から俺へ対する口の利き方は優等生のように立派だったじゃねえか。今のは下手くそだったぞ。何だ、珍しく怒ってるのか? はっはっは、お前も聡と同じで十五。餓鬼なりに大切なモンができたってわけか」
 振り向きもせず岩鷲は空気の変化を読み取り、諭す。軽侮と紙一重の言葉を浴びながらも岩鷲は顎髭を擦り笑みを浮かべる。──情のこもっていない笑みを。
「大人の事情は子供には関係ねえ。ご心配には及ばねえよ、坊主」
「染野山の動物達は、お金に換算すると幾らほどになるんですか?」
「さあなぁ? あぁ、だがよ。俺達はこんな商売だからな。見た目ってヤツは意外と重要でな。だから、でっけえ虎や熊の剥製を持ちたがる人間は結構多いんだぜ? 客間に置いておくだけで相手が持つ心象が大分違う。……おいおい睨むなよ。たとえばの話だよ、たとえばの」
 肩を上下させ、くっくと笑う。だが岩鷲が落とした頭を再び上げた時、その眼の奥に巧みに隠された光が色を持った。
「よく分からんがつまりお前達は、自警団をかねた俺達の登山をやめさせたいと。……ひでえ話もあったもんだ。俺達もせっかくお天道様の下で真っ当なことができると思ったのによ。我が家に乗り込んできてまでやめさせてえ。そういうことか?」
「そうじゃ。安心せい、お前が何もしなければ彼等は人に危害を加えたりせんよ。見回りをする必要はない。そして登山なら真昼間に堂々と行ってくれ」
「ならそっちのお嬢さんを貰おうか」
「──なっ!!」
 あっけらかんと言い放った岩鷲に素っ頓狂な声を上げたのは空也だ。一瞬にして脳内を掻き混ぜられた。当のハツネは一言も発さず、先から人形のように身じろぎせずに腰掛けていた。
「俺は何も雑談するためにお前達をここに通したわけじゃねえ。坊主、俺達にもな、世間様のようにイメージってモンがあるんだよ。どっかの爺様と餓鬼相手に小野寺岩鷲が善意で持ちかけた話を取り付く島もなしに断られた、なんて知れてみろ? 明日っからは別の意味で背中を指されちまう。お前が先程言ったようにお上からケツ叩かれているんだ。これ以上無様な醜態を晒したら、俺の首が飛ぶ。……マジでな」
 ──皮の下に蠢いていた毒が。ほとんど隠すこともしなかった本性が遂に剥き出しになる。
「俺達の家紋に泥を塗るんだ。女一人なんて安すぎるくらいだぜ? ──それが嫌ならなぁ」
 壮絶。
 口内に覆われた牙が哂う。瞳孔開いた瞳はまさに鬼。めいっぱい開かれた目と口は鳥肌が立つほどに不気味な相貌を形作っていた。巨岩が掠れた声で呪詛を飛ばす。
「俺達のやることに口を出すんじゃねえ。……いいか、二度は言わねえぞ。これ以上俺の視界でお遊戯みてえな言葉抜かしたら、その女を攫う」
 息もできないほどに狂った風が吹き荒れた。
 それを受けたのは肌ではない。心を縦横無尽に陵辱する。突如込み上げる嘔吐感。
 ──たまらずに。
 ハツネが駆け出し空也の胸へと飛び込んだ。
 流れる黒髪が顔を覆う。吹雪く夜に薄着で出歩いたかのようにその肌は凍え、震えていた。
 怖くないはずがない。
 商店街の時とは違う。
 金を得るために数多もの人間の肌をツルハシで、ドリルで片っ端から掘り進む男なのだ。生暖かい金脈を得たとなれば生かさず殺さずで飼い殺す。ボロ雑巾のようになるまで使い尽くし──最後の血の一滴を舐め終わったら投げ捨て、また新たな金脈を探す。
 それが小野寺岩鷲という男なのだ。
 垣間見せた闇の深淵は深く、寒い。ハツネが耐え切れずに空也の暖を求めたのも頷けるほどに。悪に染まった人間は魔物へと堕ち行く。蛇のような不気味なる瞳を捉えた瞬間、ハツネは果たしてどのような思いを抱いたのか。
 明確なる返答だった。
 小野寺は山を侵す。あらゆる物を奪いつくすその血に染まったツルハシは、次には墓標のように染野山に突き立つことだろう。
 一介の学生である空也がいかに他の同級生達と比べ確固たる意思を確立させていようと、魔物の前から吹き荒れる威風を前には口が開かない。情けないがそれこそが現実だった。
「ハツネさんは空也の嫁。染野山は作物の母。いずれもワシの大切な家族じゃ。はいそうですかとお前にくれてやるわけにはいかんな」
 真っ向から。
 岩鷲の脅しに立ち向かう剛毅。厳蔵の口から間隙を許さない絆を燃料に込めた猟銃が巨大な岩に飛び交った。息を飲んだのはルチアーノと背後の部下達だ。彼等はこれまで何度も、岩鷲がそっと心の闇を見せる度に相手が萎縮し顔を青くする様を見てきたのだ。堅気の老人が何なくその瘴気を打ち消し、真っ直ぐな瞳で小野寺組の若頭をとらえた。
「ほう? ……流石だな土山の爺様。本当にウチの若い衆に見習わせてやりてえぜ。あんたのその目。──小指一本取ろうが、苦痛を飲み込んで言葉一つ出さないんだろうな。見上げた根性だ」
「ワシの指一本で引いてくれるのかな? どうせ指など天国には持っていけん」
「冗談。あんたにそんなことしたら、抑えつけている街の連中が暴れだすかもしれねえ。何より、老人の指が金に化けるわけでもないしな」
 言葉で火花を散らす。
 だが岩鷲はどこか楽しげにその興に応じていた。詰まるところ、甚だ理不尽な取捨選択を前に敗北するのは厳蔵であることが確定しているのだ。盾を翳すだけで勝利できる戦いなどない。厳蔵には守るべきものが多くあり、それは逆を言えば付け入る隙が数多く存在していることでもある。
 両者共にそのことを理解しているのだろう。
 だから──大きな鼻息を一つ吐くと、厳蔵はこれまでその膝に鎮座させていた黒皮のケースをこれ見よがしに持ち上げ真水のように煌く透明な机の上に置いた。
 岩鷲の眉が持ち上がる。背後に控える部下達が一瞬その身を強張らせた。
 テーブルはきちんと清掃が行き届いているのか実によく滑った。向きを百八十度変え、小野寺側に正面を向けると厳蔵はそのまま軽快な音を鳴らし指で鉄製の留め具を外す。
 ケースの蓋を開いた瞬間、岩鷲の顔が強張った。
 空也でさえ生まれて初めて見る表情だった。蓋が開かれると同時に、獰猛な肉食獣と奸知な猛禽類の両方が備わったかのような瞳が完全に消失したのだ。残されたのは完全無防備なる驚愕の眼。しかし岩鷲も然る者。自らの纏う邪気の衣をすぐさま覆い直す。瞳がすぐにいつもの剣呑と怜悧を取り戻した。
「──こいつは驚いた。あぁ、本当にこいつは驚いたよ……」
 岩鷲の眼前に置かれたケースの中にぎっしり詰まっていたのは万札の束だ。金か偽札か、すぐにその瞳が識別を始める。同時に空也達三人にかつてないほど冷徹な眼差しが送られた。挙動、表情、瞳の動きから唇の動き、喉元、肩、膝や手足、満遍なく蛇の舌が這う。舐め尽くす。嘘の味がどこかから漏れないか丹念に穿り返す。震えながら背を向けているハツネを除き、土山の二人に目立った色は見えない。空也は先程の一喝から変わらず緊張を隠そうとし、厳蔵は表情こそは怒気をあらわにしているがその心は見事に霧に包まれている。何の狙いも読めない。案外その表情もフェイクなのかもしれない。
「ブラザー……これは、マジかよ……?」
 ルチアーノが乾いた舌を動かし言葉をゆっくり搾り出した。小野寺の総意である。
「……どうやら既に鑑定は終えているようだが……まぁ、嘘と思うなら後で好きなだけ調べるがいいだろう」
「土山の爺様よ。こいつは全部でいくらある?」
「二千万じゃ」
「──ほう」
 岩鷲は取り立てて驚かない。これより山積みの万札を見る機会も決してないわけではないのだ。
 だが問題はそこではない。
 厳蔵は彼等の流儀をよく分かっていた。
「これが今のワシにできる最大限の誠意じゃ。あんた達の世界で金と同じくらい重いのが義という通貨。金額の問題ではない。土山厳蔵の願いをここに示す」
「誠意ね──。ちょいと失望だぜ爺様。正義のヒーローのあんたが、金持ってきて頭下げるとはね。確かに理にかなっている。だがそれは俺達の世界の理だ。あんたの人道からはかけ離れているんじゃあねえのかい?」
 無論、資金難で苦しむ岩鷲からすれば目の前の大金は喉から手が出るほど欲しい物だ。しかしそれ以上に腑に落ちない。目の前の老翁が易々と大金を積んだことに違和感と警告を感じる。
「家族の命など、金で賄えるのなら安いものだ」
「一つ聞く。野暮だが答えてもらおう。──これは、どこから出た金だ?」
「──」
 釣り糸にぶら下げられた餌を咥えたくて仕方ないのは岩鷲の方である。だからこそ、谷底から吹き上げる亡者の唸りを連想させるような若頭の声を悠々と厳蔵は聞き流すことさえできる。
 面倒臭そうに答えた。
「こちらのハツネさんが我が家にくる時に一緒に持ってきたお金じゃよ。しかし、おかしなことを聞くのう? 貴方からすれば、綺麗な金も、誰にでも見破れない巧妙なる偽札も同じ価値があろうに」
「お嬢さんが持っていた金を、俺達に丸々差し出すと。──らしくねえなあ爺様」
 空也はハツネの肩をきつく抱き締めた。
 対面ではルチアーノの顔が血の気を失い、その吐息が見る見るうちに激しくなっていく。
 岩鷲が殺意の全てを解き放った。
 空気に筋が入りそのたゆたう流れが止まる。窓硝子にヒビが入ったかのように大気が割れた。空也の身体は一本の物言わぬ木へと変わる。動かない。意志の力は全て目の前の魔物に吹き飛ばされた。骨を溶かされ、脳はみじん切りにされる。
「人生の先輩にこんなこと言うのはアレだけどなあ、土山の爺様──」
 殺される。
 全身の毛が逆立った。流れを失った空気が淀み、腐り始めた。ヘドロのように不快なにおいが体中の穴に侵入し、汚水のような色に体内を染め上げていく。空気が重力を持った。頭が重い。見えない圧力が体を押し潰し臓器をバラバラにしていく。
「俺達をナメる、ってのがどんなことか──分かっているよなあ?」
「信じられんのなら──」
 それでも厳蔵は態度を崩さない。裂けた様な口元と、麻薬中毒者のように焦点の定まらない不気味な瞳を向けられても尚、老人は淡々と喋るだけだ。
「その二千万を持って用心棒でも雇おうかの?」
 欠けない。
 岩鷲からどれだけナイフを突き立てられようと、厳蔵の体から零れ落ちるものはなかった。
 空也やルチアーノはおろか、護衛の二人さえも場の空気にのまれたかのように固唾を飲んで二人のやりとりを見守っている。
 睨めっこ。
 瞳を逸らした方が負けか、今ある顔を微塵にも曇らせた方が負けか──
 数秒か、数十秒か。感覚のなくなった張り詰めた時が経過する。
「……フッ! くっくっく……はっはっはっは! 本当大した豪傑だ!! はっはっはっはっはっは!!」
 一転して曇りなき高笑い。愉悦を孕んだ瞳と満足気に歪んだ唇を前に、濁った空気が霧散していく。厳蔵の首元にあてがわれていたギロチンの刃は消え、代わりに送られたのは花束だ。
「あんたの言う通りだ。本物だろうが偽物だろうが関係ない。ただ軽く見られるのだけは我慢ならなくてな。死よりも誇りを優先するのが俺達の稼業だ。そこまで言ってもらえるのならこの金にも重みが宿ったってモンだ。上等上等。ありがたく受け取らせてもらおう」
「なら、これ以上ワシ等と山に手出しはしないと約束してもらいましょうか」
「分かった分かった。いいだろう。あんたと俺との間での契約は成立だ。善意での元だったんだが自警団による染野山の見回りはやめよう。……契約書類と印鑑は必要か?」
「──いや、必要ありませんな。貴方とて重い看板を背負っている身。それがある限り約束を違えるなどできんことでしょうからな。長として部下には武人たる背を見せねばならない」
「嬉しいねえ、俺達のことをよく分かっていらっしゃる。流石は土山の爺様だ」
 茶部が掻き集めてきてくれたという二千万円。言い換えれば動物達から提供された資金。つまりそれはハツネのものであるとも言える。空也は最初仰天した。落ち葉と枯れ木しか存在しないはずの山のどこにあのような埋蔵金が埋まっていたのかと。厳蔵は最初渋い顔でその札束を眺め何やら考え込んでいたが──最終的には含み顔で頷いたのだ。実は空也にも金の出所が分かっていない。それでもどうやら偽札でないらしいことは岩鷲の鷹の様な瞳が既に鑑定済みだ。無論これから精密機器で穴が開くほどに調べられるのだろう。……それにしてもなぜ金をまいて岩鷲に尻尾を振らねばならないのか……。既に空也と厳蔵の論議は今朝方に終わっている。安全は何物にも代えがたいという結論だ。空也自身、そこにハツネの名前を出されては唸るより他なかった。
 厳蔵が立ち上がる。退出の意だった。
 空也はハツネを優しく抱き留めながら一緒にソファから腰を浮かせた。無色たる暴力の波はハツネの心を削り取った。空也は温もりに満ちた手でそっと欠片を拾い修復にあたる。それでも、支えられながらでもハツネは立ち、前を──岩鷲へと向き直った。
 誰もが分かるほどに震えながら、その小さな口で巨漢へと言い放つ。
 山の民としての言葉を。
「……動物達は……熊さん達は皆とても怒っています。どうか、もう二度とあのようなことはなさらないで下さい……。今度はきっと……もう止められません。熊さん達は、容赦なくここにいる全ての人達の命を奪うことでしょう。そして自らも死ぬ。……荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、皆様のためにも、どうかご自愛下さい」
「はっはっはっはっは!! そうかそうか、熊さんが怒ってるか! そりゃ悪いなお嬢さん! 蜂蜜でもあげて機嫌を取っておいてくれ!!」 
 哄笑が部屋に木霊した。岩鷲はおろか背後の二人さえも思わず失笑する。認めた相手に敬意を示す対等の位置からの笑みではない。それはハツネに対するただの嘲りだった。
 気丈に立ち上がり、真面目な顔をして何を言うかと思えば熊さん達のお怒りについて。
 幼稚園児が声高に歌う合唱のように可愛らしい内容。森の中で歩く少女が熊と出会い共に歌い合う、そんな歌詞が聞こえてきそうなほどに夢見がちな言葉だったのだ。
 ハツネはそれ以上何も言わなかった。空也とて同じだ。自分は今でこそ特殊な立ち位置にいるものの、動物の言葉が聞こえるなどとルチアーノがある日言い出したら、やはりCIAなりNASAなりに解析してもらえと言葉を飛ばしていたかもしれないのだ。
 何にせよどうやら全員無事にこの部屋から出られるらしい。
 緊張が解かれ、全身を疲労と倦怠感が襲う。
 最後まで茶はでなかった。
 媚びるのは性に合わないが、それでも岩鷲が上機嫌のまま丸くおさまったことはよしとするべきだろう。こんな場所に長居は無用だ。背後で聞こえてくる笑い声を無視しドアを潜る。同じ笑いながら、昨夜の宴のそれと何と質が異なることか。
 そして三人は気づかなかった。笑い声は隠れ蓑であったことに。
 鋭利なる刃物をこれ見よがしに晒す者はいない。いつだって懐の奥に隠されているものなのだ。
 空也は振り返らない。一刻も早くあの泣き出してしまいそうなほど色鮮やかな紅葉の間にその身を浸かりたい気分だった。小野寺の家はあまりに空気が汚れすぎていたのだ。

「それじゃあな。……まあ、俺が言うのも何だが安心しろよブラザー。親父はきちんと約束を守る男だ」
 小走りに追いかけてきた見送り役のルチアーノが正門にて別れの言葉を投げかける。その顔には外の空気を吸えてどこか安堵しているような表情が見え隠れしていた。
 空也はハツネの手をつなぎながら親友へと向き直る。たった三十分の間で自分の気持ちが随分寂れてしまっていることに気づく。口を開いたら飽くなき恨み言が延々と飛び出そうな気がしたのだ。
 吹き荒れた暴風は大地に瓦礫を運んできた。空也は探す。その中に埋もれてしまった二つの新芽を。それが見つかった時は安らぎと共に──戦慄を抱いた。
「あれが、お前の目指す道なのか?」
 だからその一言は単なる皮肉ではない。
 怖かった。
 何よりこれから親友があの男のように金を追いかけ始め、そのために必要な脅しや凄み、相手を尻込みさせる相貌の作り方から一挙に小物を握り潰す残忍さ、その全てを学び、身につけていくのかと想像すると居た堪れなかったのだ。
 ルチアーノは──空也がしばらく待っても言葉を発さなかった。
 二人はまだ子供だったのだ。先程正門前で言い合った時の気概が、ヤクザという、大人も素足で逃げ出す者達の長が振り翳したいかずちを前に完全に消し飛んでいた。現実だった。
「だから──分かったろ──?」
 親友の口調にも熱が欠けていた。投げやりでもない。
「従うしか、ないんだよ……」
 泣き腫らした後のような、心の仮面をかなぐり捨てた素顔。
 至極単純なる本音が落ちる。そしてそれを拾い、彼方へ蹴飛ばす力は空也にはない。
 誰があの暴君を静められるというのか。ただの高校生である空也やルチアーノにはどうにもできないほどの存在感。座っているだけで全身の汗が絶えず吹き出された。
 今度は何も言えなかった。
 ──臆病風は正当なる逃げ道を作る。
 その時、つながれたハツネの左手がキュッと空也の手を握り返してきた。まるで何らかのメッセージを伝えるように。
 金槌で頭を叩かれたかのように目が覚める。
 ルチアーノは全てを諦めようとしているのだ。そのあまりに巨大な壁を前に。もしその中で……空也までもが膝をついてしまったら──
「ルチアーノ!!」
 その大声を前に呼ばれた方は肩が跳ね上がる。
 なるほど、確かに空也自身は小さい。何も持たない男だ。
 それでも──
 昨夜のお祭りを思い出す。あれだけの仲間があの山にはいるのだ。
「何かあったら頼れ! 馬鹿な真似をするくらいなら山に逃げろ! 食い物くらいどうとでもなる!! 俺達はお前の味方だ!」
 ハツネには後で感謝を伝えないといけない。新芽は確実に太陽から目を背けようとしていたのだ。あやうく自分がトドメを刺すところだった。
 初めは能面のような無の顔。
 やがて瞳孔に水が宿り、それは僅かな波をうつ。
 最後に唇が僅かに持ち上がり──
 唯一無二の親友の顔に小さな花が咲いた。
「……サンキュ。……ブラザー」
 そして二人は別れた。
 空也は前へ、ルチアーノは背後へと進む。
 別々の足音が奏でられる。
 それでも。
 晩秋にしては寒さを感じない山から吹いた心地よい風が、その時二人の心を結んだのだ。
「──空也、ワシは商店街に寄って行く。ハツネさんと一緒に先に帰っておれ」
「じいちゃん?」
 小野寺家から歩いて数十秒。
 ただの買い物にしては只ならぬ気配。厳蔵の内側は名称の持たない熱で炙られていた。
「……これは本来人間と人間の問題なのじゃ。気づけばハツネさん達と連中とで話が進んでしまっている。だが本来は、ワシ等人間がそれを食い止めなければならぬのに、誰もがそ知らぬ顔を通している。街の連中が岩鷲に何を握られているのかは知らん。だがこのままでは永遠に事態は変わらぬ」
 その生涯を染野市と共に歩んだ男は、現在街の在るべき姿に危惧を抱く。だが濁流の激しさは巨大だ。一人の老人がもがいたところで何も変わらない。
「これではワシも死ぬに死に切れんわ。……まったく、婆さんが成仏できずにそこらをウロついているのも頷ける。空也、ワシは街に行って若い連中のケツを竹槍で突っついてくる」
 言葉を返す間もなく厳蔵は足早に駆けて行った。先程の会談で仮初の平和はもたらされたが、源となる憂いは変わらず存在しているのだ。
 無意識に、ハツネを握る手に力がこもる。
 自分は何もできないのか? ただの学生だからと言い訳をつけて。厳蔵もハツネも、茶部も土暦も自分達の考えで山を守ろうとしているのに。岩鷲の強圧を前に膝を抱えて蹲っているだけ。せっかく選定してもらったのに。自分には大した力もないが、それでも動物達からハツネのパートナーとして指名してもらえたのに。
 ルチアーノのことは大切だ。
 染野山だって大切だ。
 この日何度目だろうか、またしても土暦の言葉が甦ってくる。
 人と動物、土山空也はどちらの側に着くのだろう。そもそも人命を何よりも尊ぶ法の下で、自分は真の意味で染野山の味方をすることが本当にできるのだろうか。大いなる矛盾を抱えている気がする。天秤は最初から傾いていたのかもしれない。だが、それなら自分の存在意義とは何なのか。
 寂しい夕暮れだった。
 広漠たる緋色が目に染みる。
 金と引き換えとはいえど、訪れた平和だけがせめてもの救いだった。
 その甲斐あって、ハツネの旦那として振舞うべき采配を決めかねていることが許されるのだから。
「旦那様は、人の側について然るべきです」
 ぽつりと落ちたその言葉には煩雑さは一切感じられない。空也は慌てて振り向く。
「ですから、どうかそんなに苦しそうに悩まないで下さい。人のままで私達を理解してくれる、それだけで他には何も要りません。旦那様は既に十分私達を愛して下さっております」
「ハツネ……」
 心得た妻だった。
 空也が懊悩している事象を看破し、その震える体を愛で包む。
 美しかった。自身とてまだ恐怖の片鱗が体にこびりついているであろうに。
 華美たる眼球は愛しさで溢れている。それは空也もだ。見詰め合っているうちに、きつく結ばれていた心の紐がそっと解けていくのを感じていた。
「ありがとう」
 空いた手でハツネの頬をそっと撫でる。睫毛がそっと、優しく瞳に被さった。
 それでも──
 決断を迫るべき時はすぐにやってきた。
8, 7

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