第七話
○第七話「高木静の夢」
考えてみれば、何も起きない人生だった。普通の家に育って、普通に学校を卒業して、普通に就職した。特に何かに苦労したという憶えもない。つまらなくもないし、悪い人生じゃないと思う。それなりに恋をしたり、男の人と付き合ったり、別れたり……で、今の彼氏とは結婚まで考えている。その後も多分、絵に描いたような普通の家庭を作って、死んでいく。
多分、それでいい。世の中には受験で失敗したり、就活で失敗したり、婚活で失敗したりする人も沢山いるわけで、そのどれもが順調な私は実に幸運と言えるだろう。
だと言うのに、最近同じ夢をよく見る。それは、私がどこか洋風のお城のお姫様になっている夢だった。
まあお姫様って言うのは悪くない。子供の頃は、それこそ普通の女の子みたいに、将来はお姫様になりたいなんて言ってたし。だけど、そのお姫様は一人じゃない。城の中には何十人とお姫様がいて、私はその一人に過ぎないのだ。
初めにこの夢を見て起きた日に、それがどういう意味がある夢なのかを考えた。多分、私は枠にはまったような生き方をし続けていて、幸せだけどどこか退屈な人生だと思っていて、それがこういう夢になったのだろうと。私は心理学者でもなければ、そういう勉強をしたわけでもないけど、当たらずとも遠からずなんじゃないかと思う。
でもまあ、そうだからと言って、特に何か変えようとかは思わない。別に悪夢ってわけでもないし、現実にも充分満足しているからね。
数日後、またお姫様になった夢を見た。夢なので、オチも盛り上がりもない事が多い。どうでもいいような事が起きて、なんだかよく分からないうちに目が覚める。いつもそう。ああ、たまに彼氏が出てくる事がある。それだけじゃなく、知ってる人が意外な役で出てくる事もある。時には彼氏以外の人と結婚してる夢になることだってある。でもそんなのは別に特別な事じゃない。所詮は夢だ。起きた時ちょっと罪悪感があるけど、でもだからって現実は何も変わらない。私は今の彼氏を愛しているし、きっとこのまま結ばれるはずだ。
数日後、またお姫様の夢。夢なんてそういうものなんだろうけど、脈絡のない展開が多い。今日は他のお姫様にお茶会に呼ばれて、庭に出たらそこはやたらと現代風なテニスコートで、自分以外の人は皆いつの間にかテニスウェアに着替えており、自分だけ中世風のドレスのままで笑われてしまう、という夢。多分、流行に遅れたら笑われる~とかそういう意味の夢なのだろう。
夢って言うのは不思議なもので、自分が知らないような景色や建物が出てくる事がある。いや、本当はどこかでそれを見ていて、当人は思い出せないけど記憶の片隅にはあって、それが出てくる……って言うのもあるだろう。夢は記憶を整理するために見る、って聞いた事があるしね。
だけど、どう考えても記憶にない光景っていうのも……時々見る。もしかしたら、ドラマや映画とかで見たものを、勝手に脳内で再生しているだけかもしれないけど……
数日後、お姫様の夢。その日は彼氏の陽一君が王子様になって私をデートに誘ってくれた。現実に近い形の夢だ。まあ現実の陽一君は勿論、王子様なんかじゃないけどね。
中世風のお城と、中世風のドレス。なのに、デートにはバイク。これはこれで面白い。夢の中の私はバイクの後ろに乗っているんだけど、風でスカートがぼさぼさになっちゃう~って叫んでいる。でも陽一君はお構い無しで、バイクを走らせる。夢の中なので、錯覚のはずなんだけど……ちゃんと風を感じている気がする。気持ちがいい。気持ちがいいけど、スカートがバサバサ言ってる。面白い夢だ。
で、どれくらいそうして走っていたのか……ついたぞ、という陽一君の声に辺りを見回すと……そこには、とてつもなく美しい花畑が広がっていた。
七色の花と、それに負けないくらい極彩色の蝶が舞う、広大な花畑。なんとも幻想的な光景に、私はため息を漏らす。ロマンティックな感情が湧き上がり、私は陽一君の肩に頭をもたれさせ、しばし至福の時間を過ごす。
でも、その時だ。
『な、なぜこれがここに!? あかん! 見るな!!』
関西弁の女の子の声が聞こえてきた。と思ったら、急に私の足元に巨大な穴が開く。落ちる! そう思った私は陽一君の腕を掴んだ……はずだった。だけどそこに居たのは陽一君ではなく、変な顔が描かれた風船で……結局私はその変な風船を掴んだまま落ちていった。
落ちる感覚、って言うのは……夢から覚めるきっかけになりやすいのだろう。私は、わっと叫びながら目を覚ました。夢だ。夢だったのだけど、あの声……妙な感覚だ。
その日は一日、何か憂鬱だった。色んなことがマイナスに見えてしまって……仕事も手につかなかった。陽一君の事も……なんとなく、悪く考えてしまった。
陽一君はまだ大学生だ。年下の彼氏……まあ今時珍しい事ではない。出会ったきっかけは、彼がアルバイトしているスーパーがうちの会社の卸し先で、私がそこの担当だった。
彼は見た目、よくいるちょっと軽い男の子だった。だけど、どこか影を背負っているようなところがあって、放っておけない印象を受けた。そこで私が大人ぶって相談に乗っているうちに、いつの間にかそういう仲になっていた。
彼の事は大切に思っている。きっと彼も、私の事を大切にしてくれている。だけどやっぱり彼はまだ学生で、将来は結婚したいと話していても、本当に出来るかどうかはわからない。
いや、もしかしたら彼は、実は結婚なんて考えていないのかもしれない。学生だし、ちょっと年上の女に手を出してみた、って程度なのかも。私が働いているから、いざとなったらヒモになるつもりなのかも。もしかしたら、もしかしたら……
とまあ、今日一日ずっとそんな感じだった。とにかく色んなことがネガティブな発想に変わっていく。陽一君からいつものようにメールが来ても、返信する事すらできなかった。
その日の夢は、またお姫様の夢……のはずだった。いや、確かにお姫様にはなってたんだけど……いつもと様子が違っていた。
お城の中が、真っ暗だった。いつもは華やかで明るい城内なのに、真っ暗で、寂しくて……でも私はそれを全然気にしていない。ふらふらと歩いて、城内を散策しているのだ。
ああそう言えば、こうして城内を歩いて回った事はないのかもしれない。いつもは決まったような部屋と場所、人が出てくるだけだった。この城にどんな部屋があるかなんて考えもしなかった。まあそもそも、城の形状がいつも同じとは限らなかったしね。
城の中は……無闇に広かった。階段を昇ったり降りたり……扉を幾つも開けたり。どこも暗くて、窓の隙間から入ってくる光は青白く、儚くて。なんだか段々寂しくなってきて、私は誰かいないのかと叫ぶ。けれど誰からの返事もなく、結局歩くしかない。
どれくらい城の中をうろついていたのだろうか、ふと目の前に、大きな扉があるのに気付く。この扉は、どこに通じていたのか……まあ夢の中の話だから、憶えがないのも無理はない。しかし私はその扉を開けるのを躊躇う。何か、それを開けたら取り返しがつかないような気がして……
そこで、目が覚めた。私は汗だくになっていた。季節はもうすぐ冬だと言うのに……
それから数日、似たような夢を毎日見続けている。そしてその夢のせいか、現実世界でも私は何か、暗い感情に支配されるようになっていた。会社の同僚からも顔色が悪いと言われたり、陽一君も心配して家に来てくれたり……だけどそういう親切すらも、何か裏があるのではないかと思うようになった。
これは、鬱病か何かなのだろうか? そう思って私は、病院に行ってみた。とりあえず一通りカウンセリングのようなものを受ける。お医者さんは、一度仕事を離れてゆっくりしてみては、と言う。だけどその後で、仕事に復帰できる保証はない。それに私が働かなくなったら陽一君も離れて行ってしまうような気がする。それは嫌だ……
お医者さんは、とりあえず薬を出してくれるという。心を落ち着かせてくれる薬だって。そんな都合のいい薬があるのだろうかと一瞬疑わしく思ったが、しかし薬でなんとかなるならその方がいいとも思う。
その日は、薬を飲んで眠った。これで、大丈夫……そう思い込むようにして。だけど……夢は、再びあの城の中から始まった。
相変わらず暗い。そして誰もいない。で、暗いんだけど、私は不思議と何があるのかは見えている。まあ夢だからそんなものなのかもしれないが……何ていうか、闇の中に扉や壁が浮かび上がっているような、そんな形で。
今日も私は城の中を歩き回る。普段は開けないような扉を開けて、奥へ奥へ……だけど何もない。城の中なのに、どうして部屋の中には何もないのだろう。家具とか、お花とか飾ってあっても良さそうなものなのに。
ひたすら歩き続けていると、そのうちに私はなんだか、自分が自分じゃないような気がしてきて不安になった。だって、誰もいないのだ。誰もいないし、何もない。どこに行っても似たような部屋で、私が私である証拠もない。自分で自分の顔を触ってみても、それが本当に自分の顔なのかどうか。私は、誰なんだろう……私でいいのかな……?
不安な心は、私を狂わせていく。私は何かに追い立てられるような恐怖に駆られて、城の中を走り出す。とは言っても、さっきまでと同じで行く宛なんてない。だけど、とにかく今は走って、今居る場所から離れよう、一つ所に留まっていては行けない……そう思い込んでいた。
息を荒げ、乱暴に扉を開け放ち、奥へ、奥へ……その時だ。あの扉が再び私の前に現れた。開けたら、取り返しがつかない……扉。だ、だけど、だけど他に何もない。他の扉は開けても開けても何もない。この扉だけが、私の心に何かを訴えかけてくる。
開けてはいけない。開けてはいけない。だけど、開けなきゃ……何も起きない。
私は、意を決して扉のノブに手をかける。例え何があったとしても、このまま何も起きない城の中を彷徨うよりは……そう思って。そして、扉を開け放つ。そこにあったのは……大きな鏡だった。鏡……鏡だ! これなら自分の姿が見れる! 私が私であると証明できる!
だけど、その鏡に映った私の姿は……血まみれだった。顔は血で赤く染まり、ドレスも元の色が分からないくらいに赤く染まり、そして何より、その手には……包丁が。
「なに、これ……な、なにこれ!」
そこで、私の目は覚めた。
体を起こすと、やはり私は汗だくになっていた。時刻は……午前4時。外はまだ暗い。気分は最悪で……もう一度眠る気にはなれなかった。
結局その日は気分が優れないままで、会社を休む事にした。上司もここのところ、私の顔色が優れなかった事に気付いていたようで、快く了承してくれた。
私は、一体どうなってしまったのだろう。薬の効果がなかったのか? それとも、効果が出てるからあんな夢になったのか? 夢の中で感じた不安な気持ちが、どんどん現実の私に侵食してきているような、そんな気分。夢は夢で、脈略のない展開で、オチなんてなくて……だけど、その夢が少しずつ私を狂わせていく。私は怖い。夢を見るのが……眠るのが怖い。
『シズさん、どうしたの? ずっとメールしてたのに返事がないから』
「……ごめん、陽一君……体調が悪くて」
『なんだよ、そうなら俺いつでも行ったのに。風邪? こないだも顔色悪かったもんな』
「ううん。大丈夫……大丈夫だから、しばらく放っておいて」
『放っておいてって……でも』
「大丈夫だから! 放っておいて!」
『……そうか』
陽一君が心配して、電話をかけてくれた。なのに、煩わしいと思ってしまう。どうしてこうなってしまうんだろう。どうしてこんなにも……眠いんだろう。眠ったら、駄目なのに……眠い、眠くて……イライラする。
顔を、洗おう。そうすれば……目が覚めるかも。
私は洗面所へ向かう。冷たい水で顔を洗えば、頭がすっきりするだろう。そう思って、何度も何度も冷水を顔にかけ、拭き取る。改めて鏡で自分の顔を見ると、何とも酷い状態だ。目の下には隈ができているし、見るからに生気がない。これじゃあどっち道、陽一君に会わす顔じゃないな。
ふと、自分の顔を拭いたタオルに視線を落とす。すると……タオルが真っ赤に染まっている。なんだ? 顔を洗いすぎて、鼻血でも出たのか? そう思った私は顔を上げて鏡を見ようとする。だけどその時、目の前にあったのは……あの城の大鏡だった。
いやそれだけじゃない。タオルだと思っていたのは、ドレスの裾。そしていつの間にか手には包丁を持っている。驚いて固まっていると、鏡の中で……私の背後に、何かが蠢くのが見えた。振り向くと、そこには……変な顔が描かれた風船が漂っていた。
なんていうか……すごくむかつく顔だ。人を馬鹿にしたような顔。子供の悪戯書きのような顔なのだけど、私の心を不安にさせる。私は、手に持っていた包丁でその風船を割る事にした。
パン! と言う音を想像していた。でも実際に鳴った音は、ズブッっというような、嫌な音だった。それにその風船は弾けて割れるのではなく、刺したところから赤黒い液体を垂れ流し、しおれていく。さらに……
「ぎゃーーー!!」
と、男か女か分からないような醜い悲鳴を上げ、床に落ちた。何なのこれは……意味が分からない。分からないけど……なんだか楽しい。
そう、楽しい。この城は何もなくてつまらないと思っていたけど、これは楽しい。ああ、もしかしたら私はこれをやってたのかも。だから包丁をもっていて、血みたいなもので赤く染まっていたのかも。そうか、これはそういう夢なんだ。隠れている風船を見つけ出して割る、そういうゲームみたいな夢……
私は、ようやくこの夢の意味を見出し、包丁を片手に城の中を再び歩き始めた。ゲームが開始されたのをきっかけに幾つかの部屋には風船が配置され、私はそれを見つけ次第、割りまくった。逃げ回ったりする風船もあり、追い掛け回して割った。時には部屋の中で息を潜め、廊下を移動する風船の隙を突いたり、時には暖炉の中に隠れている風船を見つけたり……
楽しい! 楽しい! 風船から出てくる液体のせいで、ちょっと城の中が赤黒く汚くなってきてるけど、でも所詮は夢だ、私が気にする事はない。目指せハイスコア!
「ぎゃーー!!」
「ぎゃーー!!」
「ぎゃーー!!」
「あははははははははははははは!!」
どのくらい、ゲームを続けていたのか……いつの間にか、城の屋上に私は居た。そこには、大ボスとも取れる、大きな風船がいた。こいつを割れば、多分全部割った事になるはず。私は包丁を握り直し、まるで歴戦の勇者の如く構える。そして、ボス風船に飛び掛った。
――ドス! ブッシュゥゥゥ~~~~!!
今までの風船とは比べ物にならない量の返り血を浴びて、私は勝利する。巨大な風船はどんどんしおれていき、屋上にべたーっと倒れこんだ。私は、ひたすら笑い続けた。
ああ、楽しかった! もしかしたらこれが薬のせいかなのかもしれない。こんなにも楽しくて、爽快な夢は久しぶりだ。きっとこの分なら、もう大丈夫……大丈夫。
……そうなのかな。
そう? 起きたら、もうこんな楽しい世界は終わってしまうの?
ああ、そうだ。私の現実はつまらない。何も起きないし、何もない。それが幸せなのだと思っていたけど、でも、この快感は現実では味わえなかった。だから……本当は幸せじゃなかったんじゃないか?
まあいいか。現実が幸せじゃなかったとしても、眠れば……きっとまたこの城に来れる。そして、またゲームを楽しめばいい。ここで全てを発散すればいいんだ。そうとも……じゃあ起きよう。今日は起きて、現実を生きよう。
どうやって起きればいいんだっけ。ああ、飛び降りればいいか。落ちる感覚が目を覚ましてくれるに違いない。
私は屋上の縁に足をかけ、一気に空へ飛び出した。アイキャンフラ~~イ!
――――
――ドテ!
「いたた……」
ベッドから落ちて、目が覚めた。ああ……また、つまらない一日が始まる。
早く、寝たい。
「シズさん、今日どうする?」
早く、寝たい。
「ホテル行く?」
つまらない。
「シズさん?」
つまらないつまらないつまらないつまらないつまらない……
「うん。行こうか」
あ~……気持ちいいけど……つまらないや。陽一君、どうしよ、つまらないよ。何? 口でしてほしいの? いいけど……つまらない。え、こんどは後ろから? いいけど……つまらない。あ、中で出した……まあいいか。どうでもいいや……はははは……
やばい。つまらない。なんで現実ってこんなにつまらないの。脈絡のない出来事なんて何もない。イベントが何もない。もっとファンタジックな事はないの? もっとロマンティックな事はないの? どうしてこんなに現実なの? 現実なんていらないのに。
気がつけば、私は屋上にいる。ああそうだ。ゲーム……してたっけ? ああ、じゃあ目を覚まさないと行けないのかな? いや違う、これは現実だっけ。ラブホの屋上はお城の屋上みたい。あはははは。
あ~……面倒だな。もう、目覚めなくていいのにさ。一生眠っていたい。一生? ああ、そうかそうすればいいのか。永遠の眠りって言うじゃない。あははははは。
アイキャンフラ~イ……