まとめて読む
ベランダに死にかけの小鳥がいた。コンクリートに這いつくばって、壊れた羽をパタパタと揺らしていた。よく見ると骨が突き出ている。きっと、前方不注意でガラス窓に激突したのだろう。その証拠にガラス窓には、タンパク質が打ちつけられたような痕が残っている。布巾で強く2、3回こすらなければ落ちないほどの汚れ。守山ホタルはその小鳥にそっと指を近づけてみた。必死に命をつなぎとめようと、ぷるぷると震えて抵抗している生き物に、できるだけ優しい気持ちで手のひらに収めようとするのだが、その命の震えが気持ち悪くて手に取るのを止めた。一瞬たりとも触れてはいなかったが、手のひらにねっとりと薄膜みたいな感覚が乗り移っていたので、モップや雑巾を洗浄する蛇口で手を洗った。
チャイムが鳴る。
授業はとてもつまらない。自宅で教科書を読んでいる方がよっぽどためになるぐらいの授業を、背筋を伸ばして真剣な面持ちで聞くのは苦行以外の何物でもない。その所為で、さっきの小鳥のことを思い出してしまった。乗り物酔いに似た吐き気が胸に広がっていく。
ホタルの場合、誰かが傷ついたり病気になったりするのは気持ち悪い。
悲しいのでもなく、辛いのでもなく、同情するのでもなく、気持ち悪い。喉の奥から嫌悪感がこみ上げてくる。だからホタルは、できるだけそういったものを見たくなかった。できるだけ何にも関わらず生きていたいのだが、困ったことに、ホタルはそれに干渉せざるを得ない。人生の先輩を気取ったババアが、小さい頃、ホタルに何度もこう言い聞かせたのだ。
『困っている人は助けてあげなさい。きっとその人はホタルの助けを待っているから』
この呪縛の所為でホタルは自ら望みもしない出来事に幾度となく巻き込まれた。大抵はお金がらみのことで、今ではクラスの中心グループのサイフになっている。あるいは面倒な仕事を押し付けられてばかりいる。抵抗しようにも、ババアの言葉が彼女の行動を締め付ける。『困っている人』『助けて』『ホタルの助け』『待っている』たとえそれで自分が損をしても、相手を助けられるならそれでいいという脳みそが溶けたような思想。そしてホタルは、その思想の忠実なしもべであった。つまり有体に言えば、なにものも拒絶することができないのだ。心では厭だと思っていても、身体が言うことを訊いてくれない。
そんな生活をもう十年近く過ごしてきた。そしてようやく気付いたことは、少なくともこの世の中で困っていると口にするのは、恵まれている自分に気づいていない愚か者だけ。
ドラッグストアで売られている商品は、すべて健康に良い成分で作られている気がする。何故だろうと考え、すぐ結論に至った。匂いだ。この消毒液みたいな、とにかく潔癖で清潔そうな匂いが、着色料満点のスナック菓子や身体を蝕むアルコール飲料を清々しく照らしているのだ。
午後十時。店にはホタルと店員の二人しかいない。国道沿いのドラッグストアはこの時間帯になると人がめっきり少なくなる。人と人との関わりを持ちたくないホタルは、いつもこの時間に店に来るようにしていた。人は、居れば居るほど摩擦を生んで、お互いに弱めあっていく。それが堪らなく不安であり、もしそんな時に予期しない出来事が起きたら、自分が関わってしまうことは必然である。
極力一人でいたい。
ババアの呪縛から逃れるすべはそれしかなかった。放っておけない人間をどうにかするのではなく、放っておけない人間に出会わないこと。そうすれば自分はあの気持ち悪い感情に襲われることはない。
2リットル入りの麦茶とインスタント食品を2、3個カゴに入れてレジに向かう。この20代前半の男性店員も見慣れたものだった。きっと向こうもまたこの客かと思っているに違いない。ホタルはあらかじめ1000円を取り出して置いた。購入した商品がビニール袋に詰め込まれていくのを眺めながら、ホタルは昔のことを思い出す。確かあれはまだババアが生きていたころの話だ。小学校の行事か何かで老人ホームにクラスで出かけた。病院みたいな場所だったが、病院とは根本的なところで違っていた。病院みたいに張りついた冷たい空気はそこになく、あったのは必要以上に生温かい空気である。何かが肌の上からじわりと溶けていくような、まとわりつくような空気。そして老人たちがホタルたち小学生を出迎えた瞬間、ホタルは今朝食べた食パンを老人たちにぶちまけた。
「あの……?」
は、はいと頷き、ビニール袋を掴んで早歩きでドラッグストアを後にする。
多分あの日からだ。弱っているものを見ると、途方もなく気分が悪くなるということを自覚したのは。
「あの、お、おつりをっ」
その声で、自分がおつりを回収するのを忘れていたことを思い出す。
店員が追いかけてきた。客は自分一人しかいなかったから、そんな突飛な行動に出れたのだ。今のホタルにとって、その店員の行動はうざくてうざくて仕方がなかった。おつりなんて今はどうでも良かった。できるだけ関わりたくない。誰とも目を合わせたくない、口を聞きたくない。だけど店員は追ってくる。どうせまた二日後ぐらいにこの時間帯に来るのだ。何も悪いことはしていないはずなのにどうしてここまで必死なのか。うざいうざいうざい。
ホタルは車が空いた瞬間を狙って国道を横切った。ここまでくれば諦めてくれるはず。ホタルが肩で息をしながらゆっくりと歩き出した時、遠くで声が聞こえた。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」ぐらいしかバリエーションのなかった店員の声である。
「あのっ、俺は」
道の真ん中で、ここが国道だと言うことも忘れて、店員は叫ぶ。
「ずっと前から、気になっていたんだ」
確かに、人のいない遅くに来る客のことを不審に思わない人間はいないだろう。
「もしかしたら、君も俺とおんなじように考えてるんじゃないかなと思って、それでようやくマニュアル以外の言葉を言ってみたんだ」
何の話だろうか。少なくとも道路の真ん中で立ってするような話ではないことだけは確かだ。
「君の返事を聞かせてくれ!」
ぼうっとしている間に、店員は何かをホタルに訊いたらしい。そして彼はその答えを待っている。しかし答える前に、言わなければならないことがある。
「あの、そこ、危ない」
「えっ?」
声が小さ過ぎたのか、通り抜けた風にかき消されたのか、ホタルの声は店員まで届かなかったらしい。もう一度大きな声で言おうとしたその瞬間、白い軽トラックが店員の脇腹にぶつかった。ゆっくりと時間が過ぎて行く。脇腹がひしゃげたように見えた。そのひしゃげ方がちょっとありえないぐらいリアルだったので、逆に嘘臭かった。けれど、こちら側は日常なのに、目の前に広がっているのはおおよそあり得ない光景なのだ。人型の物体が頭部を下にして空を飛んでいる。重力の法則に縛られたそれはただの物体であった。物体は抗うことなく自明のように地面に激突して破裂した。人間の身体は70パーセントが水らしい。水風船があんな衝撃を受ければ無事で済むことはまずない。店員は路肩に落ちていた。脇腹から全身にヒビが入ったかのように紅く染まりながら。
「ぉえっ……」
ホタルは、今まで体験したことないほどの吐き気に襲われた。クラスメイトが骨折した時も、猫の死骸を見たときも、病院にて全身をパイプで繋がれたババアを見たときも、こんな気分の悪さは体験したことがない。身体の中にぎっしりと詰まっている内臓が、この吐き気を生み出すためだけに存在しているかのようにさえ思えた。脳を縦横無尽に引っかき回されているような眩暈さえした。いまだに意識を保っているのが不思議なぐらいで、目を開けても涙の向こうにはピクピクと蠕動する肉塊が存在するだけであっだ。
呼吸音がする。店員の呼吸音である。それは人間のものかも怪しいぐらい、現実をさまよっていた。
「た……」
聴きたくない、聴きたくない!
「た」
「黙れ!」
「たす、ケテ……」
やがて呼吸音さえ遠ざかっていく。今さらながら、となりで軽トラの運転手が震えながら携帯電話で救急車を呼んでいることを知った。
「あんた、見てたよな!」
運転手があるかの肩に掴みかかる。その拍子に、麦茶やインスタント食品が入っていたビニール袋がホタルの手から離れる。
「……」
「おれはただ、車を運転していただけなんだ、車道に突っ立っていたのはそいつなんだよな!」
そして気付いた。自分の吐き気がどこから来るのか。
それは絶望的なまでの無力感である。自分にはどうすることもできない。それを自覚した瞬間、自分は無力感に溺れる。息がつまりそうなほどの苦しさは、抵抗することさえできなかった自分への嫌悪感だったのだ。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
この気持ち悪さが和らぐのなら、どんな犠牲を払っても良かった。知らない振りして家に帰っても、きっとまた思い出してこの気持ち悪さで吐くのだ。
『救いたいか?』
ふと、耳の奥を引っかくように、その声が聞こえた。
『ぐちゃぐちゃになってどうしようもなくなったそいつを、救いたいか?』
どうやらその声は、この運転手の耳には届いていないらしい。彼は、さきほどから自分を正当化する呪文ばかりを唱えている。
『どうだ、救いたいか?』
ホタルは、この自分の痛みが和らぐのであれば、心底救いたいと願う。だけど現実問題として、店員はもう再起不能である。たとえ一命をとりとめたとしても、もとの生活はできるはずがない。どう奇跡が重なったとしても、一生をベットの上で過ごすことになるだろう。
命があればそれで十分何て言うのは、命を救うことを正しいことだと勘違いしている人間のエゴだ。死にたいと思えるのは、人間の特権なのだから。
『じゃあ、見殺しにするのか?』
声は言う。ホタルを試すように。いや、絶対にしたくない。気分が悪いから。けれど、ただ救うだけでは、このアレルギーのような胸の発作は止まないだろう。私は、救いたいんじゃなくて、元に戻したい。何事もなかったかのように、完全に。そう強く祈った。
『それじゃ、俺と契約するか? こいつを元通りにする代わりに、相応の対価を支払ってもらうけど』
もはや胸の痛みはどうしようもないぐらいに膨れ上がっていた。今にも破裂してしまいそうだ。心臓の鼓動が耳のすぐ近くで聞こえる。どうでもいいから、どうでもいいから、早く!
『了解した』
声はそれきりしなくなった。意識が、軽く現実から遠のいていたことに気付く。ホタルは未だに運転手に揺さぶられていた。やがて耳を覆いたくなるようなサイレンが聞こえてくる。運転手が呼んだ救急車。おそらくこの場合はパトカーが来た方が効率が良いのだろうなとか胸の焼けつくような痛みを感じながらぼんやり思った。静かな夜が、赤い光音で照らし上げられていく。軽トラの運転手はバネのように跳ねあがって救急車の所へ向かった。
救急隊員が担架を運び出しながら、倒れた店員の前までやってくる。彼を持ちあげた瞬間、不可解なことが起きた。
「……あ」
店員が、起き上った。
他者の助けを借りるわけでもなく、自らの力で起き上がったのである。あり得ない。あれは間違いなく背骨まで折れていた。背骨が折れたら、首から下が一生涯自由にならないということは、医学に詳しくない一般人のホタルでも知っている。それに道路に激突した瞬間、頭から落下したせいで、顔にもべったりと血液が張り付いていたはず、なのに、跡形もなく血液は消え去っていた。
「え……あれ?」
「何で……」
轢いた本人も轢かれた本人もぽかんと口を開けている。
救急隊員が不審そうな顔をして二人を見較べる。確かに店員の服は衝撃でボロボロになってはいたし、軽トラにも凹んだ痕が残っていた。けれど、店員の身体にはすり傷一つ付いていなかったのだ。
ホタルはビニール袋を拾い、誰にも見とがめられないようにそっとその場を後にした。耳の奥で響いた声。ホタルが祈った願い。不可解な現象。これらを一本の線でつなぐことは難しかった。が、いつのまにか胸の痛みは治まっていた。
自室に着いた。ホタルは高校に通うため、マンションに下宿していた。飲食物が入ったビニール袋は玄関に放っておいてそのままベットに向かう。そして、沈み込むように枕に顔を押し付ける。あれは一体何だったのか。深く考えるのは止めた。そういうこともあるのだ、きっと。全速力の自動車に轢かれても傷一つ付かない何か特殊な現象が。今後あのドラッグストアには行きたくないなと思いながら、先ほど見たものを全力で忘れるように眠った。
身体が朝だと言うことを告げたので起きた。制服のまま寝てしまったので、身体に少し不快感をおぼえた。昨日の出来事は、まるで夢の話だったかのようにぼやけている。しかしそんなことよりも気にかかったのは、視界がやたら狭いということだ。いつもの半分ぐらいしかない気がする。まあ、勘違いかもしれない。
ゆっくりと起き上がり浴室に向かう。途中、昨日ほったらかしにしていた麦茶のペットボトルにつまづく。ホタルの部屋は浴室と洗面所が一体化している。とにかく熱いシャワーを浴びようと思っていた。けれどどうしても視界の狭さが気にかかったので、洗面所の鏡で自分の顔を見てみることにした。
一見して、いつもと変わらない顔、ではなかった。
明らかにおかしかった。ホタルから見て左だから、右目だろうか。
右目が石化していた。