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野良犬

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 丑充刻も眠らぬ街の一角にそびえ立つ、汚い雑居ビルの錆び付いた非常階段を、少年が独
り登っていく。右手に花束をぶら提げ、ゆっくりと。ビル中程まで登ると、非常ドアに手を
掛ける。非常ドアは叫ぶように軋みながら引っ張られ、その内装を晒した。
「こんばんは……」
 少年は軽く会釈をして中に入る。その内装は外観からは想像も出来ない程に清潔な、ちょ
っとした資産家のお宅紹介系テレビ番組で紹介されそうな程に高級感に溢れていた。純白の
壁に映える真っ黒なソファセットとガラスの机、清潔感溢れるシステムキッチンがある。
 俗物の気配が飽和状態の明るさに支配されている街の中でここの灯りだけは太陽の光のよ
うな清々しい明るさだった。
「お待ちしておりました……」
 ソファに座っていた白いエプロン姿の女性が、読んでいた文庫本を机の上に置いて立ち上
がり、少年に向かって愛想の良い笑みで会釈した。
「やぁ……今日は、これをお願いするよ」
 少年は女性に、持っていた花束を手渡す。
「かしこまりました……あら、このアネモネは」
「伝わると幸いだけどね」
 女性は柔らかく微笑むと、台所に向かった。
 少年はそこで初めてその部屋の奥に目を向けた。健康的な灯りの中にあり、周囲の“白”
に紛れずに圧倒的な存在感を持つ“白”がそこにいた。
「エリス……」
 少年が静かに、その“白”に話しかける。純白のベッドで上半身を起こしたまま、生気の
無い目で、エリスと呼ばれた少女は声の主の少年を黙って見つめた。見つめられた少年は、
しまりの無い笑顔を止め、顔をまっすぐにしっかりと彼女を見つめ返した。銀色に近い程に
白く、まっすぐと長い髪、蝋人形のように白い肌、今にも崩れそうな程に華奢な肩、その弱
々しさに隠れてしまうがその少女は、誰もが一瞬目を奪われるしまう程に美しかった。ただ、
その誰もが彼女の目を見た瞬間に戦慄を覚えてしまう。
 少年も最初はそうだった。
「久し振りだね……今日はアネモネを持ってきたよ」
 そう言って少年は少女のベッドの端に腰をかける。真っ直ぐその生気を失った瞳を見つめ
た、その血の色を映した瞳を。
 少年の背後から、先程の女性が花瓶に挿したアネモネを少女のベッドの横にある台の上に
置いた。
「お久し振りですタカハシさん。最近は如何お過ごしでしたか?」
 物腰の柔らかい口調で女性が、少年に訊ねた。
「う~ん、そうだな……エリスには会いたかったんだけど、どうも忙しくてね」
 タカハシと呼ばれた少年は眉間にしわを寄せながらも、ごくごく軽い口調で答える。
「ご無理をなさらないで下さいね、エリスさんはあなたが思っている以上にあなたの事を
心配していますから」
「あぁ嬉しいな、それは」
「私が、あなたがお出でになるという事を私が知らせる時だけですよ、エリスさんがこう
して体を起こされるのは」
「そうなんだ……」



                  *



「だぁ~終わったぁ……」
 タカハシは机に突っ伏しながら唸るようにそう言った。
 期末試験の終わった校内では何処も彼処も沈んだ声と歓喜の声が入り混じり、飽和状態にな
っていた。夏の蒸し暑さも助かってか、熱気に溢れている。
 あと数分もすればホームルームも終わり、一応の落着を見る。そんな事を考えながら、タカ
ハシは手団扇を扇いでいる。すると、ポケットの中の携帯電話が振動して着信を報せた。
「おっと」
 液晶画面を見て、すぐにポケットに戻す。携帯電話は持ち込み禁止対象物になっている。
キョロキョロと辺りの様子を窺うと、タカハシは鞄を担いでソロソロと窓際に寄り、跳躍
一閃、窓枠を跳び越えた。窓のすぐ外には裏庭まで続いた幅一メートル程の屋根があり、
タカハシはそこを着地と同時に走り伝い、裏庭に向かった。
 日陰で薄暗い裏庭に到達し、屋根から降りる前に、上履きからナイキのスニーカーに履
き替える。タカハシは常に鞄に一足忍ばせている。タタンッという小気味良い音を立てて、
三階から裏庭の本当の地面に着地すると、校舎の影から一人の男が出てきた。
「ったく……相変わらず気配のねぇおっさんだな」
 タカハシが男にそう言うと
「分かったぜ……アイツの居場所だ」
 タカハシの言葉も気にせず、男は封筒をタカハシに差し出した。
「そうか……」
 封を乱暴に破って、中から一枚の紙を取り出す。
「復讐か?」
 男がタカハシに問う。
「…………」
 男の問いに答えず、タカハシはその手に持った紙を握り締め、その場を走り去った。



                  *



 低気圧が日本列島に接近しているお陰だろうか、先程から頭痛が止まらない。
「……くそぉっ」
 午後六時二十七分。あと数分で“アイツ”の乗った電車がこの駅に着く。出入り口が一つ
しかないこの駅ならば、俺がここで張っていれば逃がす事はない。
 金持ちに似合わず電車に乗りたがるらしい。
 ここで悲劇を終わらせる。
「金に目が眩んでしまったブタめ」
 誰にも聞かれないように、ただ自分だけに聞こえるように呟く。
 数十歩踏み込むだけ、ただ懐に隠しているナイフを突きつけるだけ、ここから駅の出口ま
での距離なら目を瞑っていても大丈夫だろう。
 夕方の駅前の往来でジッとしている、人混みの嫌な臭いを我慢して。
 今俺の鼓動を支配している、高揚するような“これ”がワクワクなのか、もはやその判断
が出来る状態ではないが、待つことが嫌いな俺が間違いなく退屈を忘れている。
 天気が荒れる前兆なのか、風はまるで吹いていない。空間が汗ばんでいる。
 恥などない、弁解は出来ない、ただ恥知らずとは違う。確認したからだ。
 電車が着いた。夕方の帰宅ラッシュ時間の中のエアスポット、乗る人も降りる人もあまり
いない。人を間違う事はないだろう。
 出てきた。
 この人混みではボディーガードもすぐには動けないだろう。逆に俺にとっては接近を悟ら
れない隠れ蓑になってくれる。
「……よしっ」
 ナイフを皮の鞘から抜いて、その一歩を踏み出した。その時だった。
「やめておけ」
 突然の事だった。男が、踏み出そうとした俺の前に立ち塞がった。見た目だけなら少年だ。
その男は前に突きつけたナイフの刃の部分を指で摘んだそれだけで、俺の突進を止めてしまった。
「どけ!」
 突如の障害に囁く。ここで周りに気付かれたら、きっと、もうチャンスに巡り会えない。
「だめだ、ここはどけない……復讐しようとしたトコロを俺に見られたんだ」
 ナイフは柄の部分でさえまったく動かせない。今すぐナイフを手放して、コイツの横をす
り抜ければまだ間に合うかもしれない、腰には予備のナイフを隠している。だが、まるで動
けなかった。突然現われたこの男の持つ気迫というのか、そういうモノに俺は完全に圧倒さ
れてしまった。先程俺の鼓動を制していた“あれ”はこの少年の前に、文字通り敵前逃亡し
たようだった。
「どけっ!」
 再びそう言った。すると少年は
「もう無理だ……動揺しすぎだ、もう人は殺せない」
 そう言って首を振った。
 次の瞬間、俺は腹部に鈍痛を覚えると





 異様な苦しさを覚えタケシは眠りから覚め、跳ぶような勢いで起き上がった。
「痛っ……」
「おぉ、起きたか」
 起き上がるが、腹に残る重い痛みにエビのように体を曲げたタケシに、タカハシはそう言った。
「まぁ気分は最悪だろうな」
 タケシが、未だ名も知らぬ少年を痛みに歪んだ顔も構わず睨みつける。
「あれ以上膠着が続いていたら周りに気付かれて厄介な事になっていただろうからな、腹
部の“氣”の流れを『狂わさせて』もらったよ」
 淡々とそう語るタカハシを見るタケシの目は明らかに殺意を帯びていた。
「テメェ……よくも……」
「あんたがどういう理由で誰かを殺そうとしたのかは、俺にはまったく関係ないがな……
少なくともあんたは俺に邪魔された事で、俺に命を救われた」
「なんだと……?」
 タケシの眉間にしわが寄る。
「その意味が分からない程バカじゃないだろう?」
「……確かに、思うところはある。だがそんな事貴様には関係ないだろ!」
 怒りに任せてガンッと傍らの壁を殴りつける。その様子にタカハシは表情を変えずに
「関係ないかどうかの判断がつかない人間に俺が講釈垂れても無駄だろうがな……自分
が悲劇の主人公とでも思っているのかあんた?」
「貴様に何が分かる!!」
「ちっ……」
 タケシの沈黙にしびれを切らしたのか、タカハシは舌打ちして立ち上がった。
「………?」
「……被害者意識もそこまでイクと反吐が出るなぁ。お前は自分の都合でやってる事を誰
かの責任にして正当化してるだけじゃねぇか。あんたの殺そうとした人間は救いようのな
いクズだ。だがな、アイツがクズであろうと、アイツの一存で救われる命が相当いる事を
あんたは分かっているハズだ……お前はそれをアイツのせいにした」
「………」
「行け。消えろ」
 タカハシがタケシに向かって掌を下に扇いだ。彼が黙ってその場から出ていく。
「ふぅーお前もそういう事するんだな」
 タカハシの背後の暗闇から声が聞こえた。タケシの出て行ったドアを除けば地上八階のこ
の部屋に出入り口はない。それは背後の声は先程からそこに居た事を意味している。
「姿まで消して一部始終眺めてるような悪趣味のヤツに言われたかないね」
 頬を膨らましてタカハシが反論すると
「………お前がアイツを“助けた”のは奴が今度の俺達の依頼人だから……なのか?」
 声の主が暗闇からその姿を現して、そう言う。学校の裏庭で話した男だった。
「あのなぁ……商売敵にそういう事を訊くか、普通?」
「まぁな。俺も分かんねー。どっちが正しいのかなんて……まぁタカハシの中では」
「俺は……正しかったのかな……」
「正しいよ、誰かの正義とかじゃなくて……な」
「そうか……だけどお前は良いのか?俺の仕事を手伝ってるのが知れたら」
「それに関しては、関係無いよ。俺は市民の安全を護る為の人間だ。そしてお前は、奴が
どういう人間かを俺に聞いただけだ……それをどう活かすかは俺に関係ない。と言うかお
前は勝手に依頼人の素性を調べているだけだから、それこそ本当に無関係だろ」
 男がマグカップのコーヒーに息を吹きかけながらそう言う。
「でも……今回心苦しいのはお前の方じゃないのか、タカハシ?」
「ん。でも俺はフリーの傭兵だからな……十三歳だけど」
「ん?」
「気にすんな」
 それまで部屋をウロウロと歩き回っていたタカハシはソファにどっかと座って天井を仰い
だ。その目は何も見ていない。



                   *



「お前さんがそうなのか、その……」
「あぁフリーの傭兵だ」
 そう言われた老人は驚愕の表情を浮かべ、皮のだぶついた頬を撫でながら
「凄腕だと聞いているのだが、まだこんなガキとは……噂とはアテにならんな」
 そう言った。
「噂なんて知ったこっちゃ無いが、噂につられて来るくらい困っているっていう事くらい
は察する事が出来るぞ。まぁ依頼をせんという事なら仕方ないがな」
 少年は眉一つ動かさずに言う。老人は一瞬言葉に詰まり
「……お察しの通りで、確かに困っていてね。どうも私のこの命を狙っている輩がいるの
は分かるのだが……知ってるだろうが昨今の殺し屋は皆慢心の塊でな。単なる気の狂った
一般人を仕事の対象にはしたがらないようでな」
 呆れたように話した。
「嘘だな……」
 少年は同じ顔でキッパリと否定した。
「あんたが俺のところに来る程に困っているのは分かった。命を狙っている人間がいるの
も本当だろう。最近の殺し屋が一般人を殺したがらないのも……まぁ分かる。だが、あん
たが俺を訪ねたのは他の理由だろう」
 少年の言葉に老人とその傍らにいる護衛の顔つきが凶悪なモノに変わっていく。
「ただ自分を殺そうとしている人間がいるならもっと手っ取り早く、その護衛に頼んだり
 警察を動かしても良いハズだ。それをしないのは……出来ないのにはそれ相応の理由が
存在する。まぁあんたの護衛じゃ秘密裏に動けないだろうしな」
 黒いスーツに身を包んだ身長百九十センチはあるだろう護衛が懐に手を差し込んだ。少年
は意に介さず続ける。
「普通の大人の殺し屋に依頼すればそれを感づかれてマスコミにリークされる恐れがあ
る……だから俺のトコロに来たのだろうね。そりゃぁこんな子供の言う事をマスコミが
本気で信用するとは思えないからな。そして……何より、あんたが殺される理由こそが
その誰にも言えないそれだからだ」
 そこまで言ったところで護衛は懐からオートマチック型拳銃を抜き、真っ直ぐ少年に向け
た。少年と老人の間の空気がキリキリと張り詰める。
「正解だよ、少年。しかし一体お前さんの後には何がいる?」
 老人は少年の持つ歳不相応の度胸に疑問を覚えていた。その背後には組織の影があるのだろうと。
「別に……俺ぁ野良犬だよ」
「本当なのか?」
「その質問は俺に依頼する気があるんだな?物珍しさと気まぐれ、実際困っていて来たの
だろうが……さっきの落胆とは大違いだな」
 少年がそう言うと、護衛が老人との間に割り込んだ。
「どんなモノであろうが、そのよく喋る口は鬱陶しいな」
 護衛の野太い声が殺気を帯びている。少年が肩をすくめて
「嫉妬か?」
 そう言った。男の顔が一瞬でかぁっと赤くなり、肩を入れて引き鉄にかけた指を引き絞ろ
うとした。が
「!?」
 引き鉄が引き絞られる瞬間、少年は男の視界から消えていた。男は振り返って背後を窺お
うとした。

チャキ

ボトリ

 金属の擦れ合うような音と、何か重い物が落ちる音が聞こえた。
男の振り返った背後に少年がいた。その手にはいつの間に手にしていたのか、鞘に納めら
れた打刀が握られていた。
「チィッ」
 男が体ごと振り返ってその銃口を少年に向けようとした時、彼は己に起こったは異変に気付いた。
「ほう……これはこれは」
 老人の声は心底感心していた。拳銃を手にしていた護衛の腕は、その主の元を離れ、地
面に転がっていた。
「ぅぎゃぁわあああぁぁぁぁぁああああ!!」
 男は叫び、傷口を押さえてその場にうずくまった。
 凶器を傍らのテーブルに置いて、少年は老人の方を向いた。その目は先程までの幼い子供
のものではなく、紛れもない“その道”に生きる者のそれであった。
「報酬は任せる……そちらの心次第だ」
「弾ませよう」
 護衛の男は悲鳴を上げて床を転がっている。その血が床を汚す。
「車まで運ぼう。帰ればなんとでもないはずだ」
 何も見ていない目で少年がそう言うと
「期待しておこう……タカハシ君」
 老人は顎にたくわえた髭を撫でながら笑顔混じりに頷いた。



2, 1

  



「……で、あの豚野郎はなんで単なる一般人を蹴散らすのに高い金で殺し屋を雇ったん
だ?」
 クラタがマイルドセブンを灰皿に押し付けながら言うと
「さぁ……ヤツはどうも俺達が知らない何か……知ってるそれ以外にヤバイビジネス
をやってるからなんだろう」
「どういう事だ?」
「ジジイが『然るべき場所で、静かに』って条件付けやがった」
「然るべきってまさかっ」
 俺は頷いて
「そう。ジジイの所有のね……どうやら今回が初めてってワケじゃなさそうだな」
 そう言うとクラタの額が脂汗で鈍く光り出した。
「これ以上派手にやれば何処からか漏れるって心配したんだな……」
「学校で貰った資料にあったな、確証がない分取り扱いが小さかったが不審死についての
遺族の起こした裁判について」
「あのガキが裁判ではなく実力行使に出たのが分かったんだろうな、確かに事が派手にな
ればあのガキの動機を俺達が洗う事になる……そうすれば」
 俺はソファに寝転がって深く、深く溜息を吐いた。
「おい、どうするんだタカハシ?お前アイツを助けちまったんだぞ」
「……どうもこうも、アイツはもう殺しは出来ない。それだけは確かだ」
「暗示か?」
「かける間もなかったさ。もうアイツの目は負け犬のそれだ」
「でもどうするんだ、一度仕事を請けちまった以上、今度はお前の身が危ない事になるぞ。
俺はお前が助けた人間はまた実力行使で人一人殺せる人間ではないと思ってるつもりだ」
 クラタが声を荒げる。確かに仕事を請けてしまった以上はやるしかない、それが傭兵の規
律だ。数日後にはあのジジイがタケシを呼び出すだろう。
「……お願いだ、クラタ。タケシの身柄を確保、保護してくれ」
「おいおい、何言い出すかと思えば……大体何の了見であのガキを保護するんだ」
 クラタが肩をすくめる。
「『殺し屋“死神”がその少年の命を狙っている』……それだけでも保護対象にはなるん
じゃねぇか?」
「なっ……お前それ本気か!?」
「マジもなにもねー……事実だぜ」
「しかし……」
「どちらかが無茶をやらかす前に……動かなきゃいけないんだ。それにこれはアンタ達に
とっちゃチャンスに他ならないんじゃないか?」
「ん、まぁその通りだが」
 俺の気まぐれにクラタが頭を抱える。まったくもっていつものパターンである。
「誰かが終わらせなきゃ、憎しみは続いちまうんだよ!」
「それは自分の事か?」
「……法で裁けないなら己が、そんなモノは何の解決にもならないよ……だからアンタ達
公安特機がいるんだろ?」
「おいおい……」
クラタが頭を掻きながら首を振る。
「お願いだクラタ、ガキのワガママだって思うならそう思っても良い。でもアンタなら分
かるだろ?立場上俺を利用したって良い筈だ。それも公安特機の仕事の筈だぜ」
「分かったよ。明日には身柄を保護してやる」
「そうか、ありがとう」
「ただし……」
 人差し指をぴっと俺の顔の前に立てて
「お前は行動に動きがある度に俺に報告する事、それが条件だ」
 そう言った。
「アンタが監視した方がずっと確かなんじゃないかぁ?」
「俺はガキのお守りする為にこんな仕事してるワケじゃねーんだよ」
「それって信頼してくれてるって事かぁ?」
「うるせー」
 そう言ったクラタは「やれやれ」といった感じで溜息を吐いていたが、一度引き受
けた仕事は必ず結果を出してくれる。そう言う意味では彼は殺し屋にも向いていた。


                    *


「ふむ、それはこちらの落ち度かもしれんな……」
 余裕たっぷりの表情で老人が溜息混じりにそう言う。その隣では三角巾で腕を首から吊
った、ブスリとした表情の護衛の男が立っている。
「依頼は依頼だからな、引き受けてやるつもりなのに……何故か標的が警察に保護されて
いる……それも厳重な警備下っていうけど、情報が漏れてるんじゃないか?」
 そう言うタカハシは憮然とした表情でソファに深々と腰を下ろしている。場所は彼の依
頼人である老人の所有する総合病院の応接室だ。
「まぁ然るべき調査をすればあの男が私の所を出入りしていて、且つ不審な点が……っと、
これは関係無いだろう」
「!?」
「しかし解せない点は……警察は何故あの男が私の命を狙っていて、且つこちらが殺し屋
を雇っている事を知っていたか、だ」
「別にあんたが命を狙っているから保護したかは……分からないだろ?」
「あの虫も殺せぬような肝の小さい小童が保護されるのだから……それ以外にはなかろうよ」
(虫も殺せぬ……どういう事だ)
そう考えながらタカハシがジッと三白眼で老人を睨む。
「むしろそれなら行動が警察にマークされているのは……有名な“死神”さんではないの
かな?」
 穏やかな老人の表情とは裏腹に、その言葉にはハッキリと殺意がこもっていた。
(まずーい……かな?)
 平静を装っているタカハシだが、合わされた両掌は脂汗でべっとりと湿っている。膝は
ガクガクと震えるその一歩手前のところをか細い糸を渡るように横ばいしている心境であ
った。
「そんなに有名な殺し屋がそんなヘマをするとでも思っているのかなー……信頼して欲しいけどな」
 顎も震えを起こしそうになっている。ここで下手を打ってしまったら何もかもが終わっ
てしまうという、誰の為にこういう苦境に身を投じているのか、仁義を掲げているつもり
はないタカハシであるが、今のところ自分のしている事に対する矛盾に気付いていない。
それが前後不覚なのかも最早気付いていない。
「ふん……まぁ子供の屁理屈を聞いている暇はなくてな」
「思い当たるトコロが本当はあるのか、むしろ在り過ぎて気付かない部分が警察に以前か
らマークされてたんじゃないの?」
 そう言ってから
(まぁまぁしまったなぁ)
 タカハシは後悔した。ムキになって口が滑った。警察、というよりは公安が前々から極
秘でこの老人にまつわる黒い噂を調査しているのは事実だった。そしてそれはこの場で触
れるのはあまりに危険な、老人の核の部分であった。
(アウェーなんだけどなぁ……くそっ)
「貴様……黙れ!」
 先程から額に血管を走らせ、真っ赤になって震えていた護衛の男が堪らずに無事な方の
手を懐へと滑らせたが
「やめておけ!」
 タカハシと老人の声が重なった。
「あんたが懐からトカレフを抜くよりも早く……俺は腰に着けたナイフをアンタに投げ
付けられる」
「まったく……熱くなるんでない。もう一本失いたいのか」
 ゆったりと腰掛けている子供と老人にそう言われると、男は腕を下ろすがその顔は屈
辱で更に赤く染まった。
「ふう。まぁ……頼んだのは殺しだけであって、こちらは条件までつけてあるのだから、
それに関する責任はこちらで近い内にとるつもりだ」
「それなら問題はない。そちらが希望する通り、暗殺を遂行するよ」
「頼もしい限りだ……おい、送ってやれ」
 老人が未だ体を震わせている護衛を顎で促した。護衛の男はぎくしゃくとした動きで
応接間のドアを開けると、気持ちのこもっていない会釈をしながらタカハシを廊下へと
出させた。廊下へ出ると、普段老人の身の周りの世話しているのだろう容姿端麗なメイ
ド二人を連れ添って護衛がタカハシの横にピッタリとくっつきエレベーターに便乗した。
「おいクソガキ……貴様は絶対殺すぞ」
 男の殺意のこもったその言葉に二人のメイドは体を強張らせ、恐怖の為にガタガタと
震え始めた。
「あァ?なんか言ったか」
 タカハシは殺意を込めた眼で言葉を返すと、頭の上に右腕を目一杯伸ばして男の首を
掴むと、そのまま男の体ごと僅かながら宙に持ち上げてしまった。
「ぐぅふおぉあァ!」
 男は声にならない叫び声を喉から搾り出した。
(馬鹿な!)
 驚いていたのは男だけではない、タカハシの背後で怯えていたメイド達も目の前の光
景を信じられずにいた。身長が百七十センチに僅かに足りない少年が屈強な、護衛を勤
める大男を片腕で持ち上げてしまっているのだから。
「俺がどうして“死神”と呼ばれるのか……それはこういう事だ」
 その小さな体は、幼過ぎる容姿からは考えられない程に、屈強であるのが一因だとい
う事を。
「疾ッ!」
 口から鋭く息を吐き、鈍い音を立ててタカハシは男の水月にボディーブローを叩き込ん
だ。男が僅かな吐息を立てたと思うと、すぐに今まで強張っていた手足がだらりと垂れて
しまった。タカハシが首を離すと、どさりと音を立ててそのままぐったりと狭いエレベー
ターの隅で気を失って大の字に倒れてしまった。
 そして間も無くエレベーターは病院の通用口を、その扉の向こうに現せた。
 タカハシは相変わらずガタガタと震えるメイド二人を連れ添って通用口を抜けて、表通
りに歩を進めた、エレベーターに護衛の男を放置したままで。
 僅かに星が輝く夜空を見上げて、タカハシは浅めの溜息を吐くと
「ごめんなさい、怖がらせるつもりはなかったんだけど……」
 振り返って、若干手前に立っていたメイドの手を両手で包み、そう言った。メイド達の
顔が困惑に揺れる。先程の、この幼い顔に似合わない殺気を帯びた眼力と今の態度との
ギャップ、しかし今の彼の打ちのめされたようなそんな表情ですら、その幼い顔には似
合っていなかった。
「っと、何も話しませんね……」
 若い刑事がマグカップを机に置きながらそう言った。
「まぁそうだろうな」
 クラタには少年は何も語らないだろうという事が分かっている。
 表向きには所轄勤務の刑事という事になっている公安特機隊員は、特殊な事件がない限
りは普段の勤務をその所轄で済ませている。
 公安特機でタケシを預かるという案は事如く却下され、仕方なく表向き勤務している所
轄で身柄を確保する事になった。クラタが公安特機隊員だという事を知っているのは署長
他数名であり、実はある意思の取り決めにより、クラタが絡む事件においての実際の権限
はクラタにあり、彼の一存で全てを決める事が出来た。
「あのコが何故殺し屋に狙われてるか……分かりますか?」
 若い刑事がクラタに訪ねると
「いや、さっぱりだな。ただ、情報元がかなり確かなトコロなんでな……」
 それはそうだろう、本人から聞いたのだから。クラタはそう思いながら溜息を吐く。
「それよりもこれを見ろ……」
 若い刑事に書類の束を差し出す。
「これは?」
「あのガキが狙われている理由になるかは分からないけど……あのガキがこうなる直前に
何をしていたのか……それを調べてみた」
 そう言ってクラタは胸ポケットを探るが
「んーちょっと悪い、タバコくれるか?」
「え……あ、はいどうぞ」
 若い刑事がバージニアスリムを取り出し、箱の角を指で弾くと、取り出し穴から一本、
フィルターが顔を覗かせた。
「サンキュー」
 咥えて火をつける。
「………」
「これは?」
「あのガキの妹は……どうやらハタケヤマ総合病院、あのハタケヤマコーポレーションの
系列だな。その病院で心臓の移植手術を受けたようだ」
「妹がいたんですか?」
「失敗している」
「へ?」
「先月に死んでるよ……ソイツは」
 そう言うと、クラタは煙を吐いて顔をしかめた。
「参ったぜ」
 書類に集中している若者に聞こえないように彼は呟いた。
「で、これが何と関係を」
「こっからは違法だから詳しくは言えないが……その心臓が誰のモノなのかも、あと執刀
した医師が誰なのかーとかそのへんが記録から消されている」
「えぇ!?」
 この記録を調べたのはクラタで、タカハシに言われてやったわけではない。彼が自らの
能力を駆使して調べ上げたのだ。
「詳細の色々な部分が……もっとも俺はその辺あまり詳しくないから分からないが意図的
に消された、というより隠された疑いがある」
「それは一体誰がなんの為に……?」
「それに関係しそうなハナシを色々と調べたらな、三枚目見てみろ」
「これは……」
「そんなに見付かった。と同時に」
 クラタが横から手を出して三枚目をめくる。
「………?」
 若い刑事の表情が、それまでの確信のあった疑問符が浮かんでいたものから、不可解さ
を面に出したものに変わる。
「密航者がやたらといてな、そのほとんどが現在行方不明だ……」
「どういう事なんです?」
「長い渡航によって衰弱したそいつ等を……何故かハタケヤマ総合病院が収容してんだ
よ。体が回復してからこっちが引き取るんだけどな、いつの間にか……保釈されている
っつう……ご丁寧にこれに該当するどいつの資料からも身元引取り人の部分が記載され
てねぇ」
「それがこの件とどう関係すると……?」
「まぁな、それを証明する事ぁーどうも出来そうにねぇな」
「クラタさんは……どう考えてるんですか?」
「あまり無責任にものをいいたかぁないんだがな……おそらく」
「………」
「臓器の密輸。ハタケヤマコーポレーションは密航を支援している、渡航してヘロヘロ
の体を治療と称して検査する…移植用として誰に適するか、再検査をな。そして収監さ
れている奴等を秘密裏に引き取る……つまりお上が噛んでるんだなーこの事件」
「………」
「それだけじゃない。あとな、こんなのも見付けた」
 机からもう一束の書類が取り出されるのを若い刑事は黙って見つめている。
「ハタケヤマコーポレーションへの入金がな……製薬会社から法外な値段でだ。まだ確
信は持てないけど……本職の知り合いにでも見せれば分かるだろうな。奴さん、どうや
ら本店や、もっとデカイ部分に幅利かせてるようだな」
「………いやぁ凄い、やっぱり先輩はスゴイや」
 若い刑事が何処と無く投げやりな言い方をしながら微笑んだ。クラタは彼に背を向けて
「ふぅー……どうやらタバコが合わなかった」
 煙を吐いた。その声は小さく彼には聞こえていない。
「ところで」
 クラタが背を向けたままそう言うと、後輩刑事の眉が僅かにピクっと動いた。
「俺のかわいい後輩を何処にやったんだ?」
 クラタが振り返って銃口を後輩に向けるのと後輩がクラタに銃口を向けるのは、ほぼ同
時のタイミングだった。
「久し振り見たよ……アンタのその顔」
 そう言う後輩の顔には先程の穏やかな笑顔とは違う負の光に満ちたそれが浮かんでいた。
「アイツの吸うタバコはバージニアスリムじゃねぇよ。そんなに詰めが甘くてお前はどう
やって特機に入れたんだ?なぁ、ナガタ」
「あーくそっ。そういう事か」
 そう言った彼の体全体が光に包まれ、次の瞬間には光は消えまったくの別人がそこに現
われた。
「お前を騙すんだから、今回は特に念を入れたつもりだったんだけどなー」
 ガリガリと頭を掻くが、その黒光りしていてぞっとする程に冷たい拳銃の銃口はまった
く揺れず、クラタに向けられている。
「………」
「もう全部分かっているだろうけど、お前にこれ以上調べられると困るんだよ……という
ワケであのガキもリムジンに乗ってハタケヤマ翁のトコロへ行ってもらったよ」
「くっ……」
 クラタの顔に困惑と、はっきりとした怒りが浮かんだ。
「っつーワケで、あんたは捨て犬だよ。さながら俺はソイツを駆除する保健所の職員だな」
「くそったれ……」
 銃声が二発、夜の警察署に響いた。


                   *


「ホーリーシット……出やがんねぇぜ」
 携帯電話をポケットにしまう。クラタとの連絡用の記録上は閉められている回線を使用
したそれを使って通じなかった事など今まで無かった。
 嫌な予感がしてならない。待ち合わせ場所に設定した雑居ビルの屋上の電波状況はすこ
ぶる良い。そしてこの時間は署で残業しているとクラタ本人から先程聞いていた。緊急の
任務であろうと分かる形で連絡をする約束になっている。
 ここからはクラタの協力を無くして道はない。
「なんで出ないんだ」
 もしかしたら出られないのかもしれない。
 ハタケヤマのジーさんが狙われる理由、それは医療ミスとは名ばかりの密輸用の臓器提
供か……そういった事が絡んでいるのはほぼ間違いない。今まで何度か似たようなケース
で裁判沙汰になっているようだが
「……まさか、くそっ」
 一足跳で屋上のフェンスを跳び越えて、俺の体は地上二十メートルの虚空に放り出された。
どんどん加速していく落下スピードで感じる夜の空気は、初夏の夜の熱気と湿気で首筋に
張り付いてくる。
 隣のビルの屋上に、体勢を低く猫が背を丸めるように着地すると、止まらずに脱兎の如
く走り出した。
 止まるつもりはない。
 ここからクラタのいる警察署まで、同じような高さの雑居ビルが続く。俺はその屋上か
ら屋上へ、ビルとビルの間を跳び越えながらそこを目指す。
「まったくシャレにならねぇよ」
 今まで裁判沙汰になっていながらも、その問題はまるでメディアで扱われていない。時々
アンダーグラウンドの情報を扱う媒体に噂レベルで取り上げられる程度だ、そうクラタが
言っていた。マスコミを黙らすのはあの男の権力なら誰かの力を借りなくとも楽だろう。
『特機ですら掴んでねぇんだ……』
 クラタの言葉を思い出す。あの場でもうちょっと考えておくべきだった。実際クラタは
あの時点で気付いたハズだ。
 つまりそれは、公安上層部、そしてそれ以上の機関が
「ぬあぁぁぁ!!」
ガンッ
 ビルの屋上から、傍らの通りを走っているトラックのコンテナに跳び下りる。コンテナ
の天井部分が僅かに凹む。
「くそっ!」
 コンテナからもすぐに降りる。既に目の前は警察署だ。
「はぁー……ふぅ」
 耳元でガンガン鳴る程にうるさい心臓の鼓動を、落ち着かせる。
「………?」
 何かがおかしい。
「深夜の警察署ってこんなモンなのか?」
 入り口に制服警官が立っているモノかとばかり思っていた。思いつつも派手な登場をし
たのだから我ながら呆れてしまうが。
「………なぁるほど、人がいねぇワケだ」
 血の匂いがする。
「まさか本当に公安と戦う事になるたぁな」
 袋の紐を解き、黒鞘からその刀身を覗く。
「いくゼェ、親父」


4, 3

  

「まぁー……何て言ったら良いのか」
 ベッドの上であぐらをかいてそう言うタカハシだが、エリスはの赤い瞳は彼の方を向い
ていない。
「あぁ言った手前……これはまことに申し訳ないんだけどさ」
「………」
 ベッドに備え付けられたテーブルの上には、十五本の蝋燭が刺さったチョコレートケーキ
が置かれている。エリスの目は先程からそれを見ている。
「ごめんね、トモハラさんしか呼べなくて」
「あら、ヒドイなーその言い方」
「あぁ、ごめんあそばせ」
 トモハラと呼ばれた女性が白いエプロンを外し、ベッドの傍らに置かれている椅子に腰
掛ける。
「さ、点けましょ……」
 トモハラが僅かに口元に笑みを浮かべてそう言う。その仕草は、理知的な大人の女性ら
しいそれでありながらも、嫌味は微塵も無く、計算高さも見られない確たる意思は、まる
でらしくなくとも子供のタカハシの目にはいつもそう映る。
パチンッ
 嬉しそうにタカハシが指を鳴らすと、部屋の灯りが消え、身の周りは闇に包まれた。
パチンッ
 再び指が鳴ると、今度はケーキに刺さった蝋燭一本ずつに火が灯り出した。
「おめでとう……エリス」
 ケーキを眺めたままのエリスは蝋燭に息を吹こうともしない。火は徐々にその形を縮め、
遂には消えてしまった。そしてすぐに部屋の明かりがつく。
 闇に包まれていた時に立ち上がっていたタカハシがエリスの赤く透き通る目を見つめて
「今度の事件だけは俺の業らしい……キッチリとカタをつけるよ」
 そう言った。エリスはその覚悟に満ちた彼の瞳をまっすぐ見つめ返した。


                   *


 タカハシは死んだ魚のような目で足下に転がるそれを見下ろす。
「………」
チャキ
 親指で打刀の鍔を起こす。
「出てこいよ、こんなガキ独りに隠れる事はないだろ、天下の公安特務機動隊なら」
 何処へという事もなく、タカハシは声を張り上げる。その目は変わらず死んだ魚のそれ
であった。
 机が無造作に転がり、ロッカーが倒れ荒れきったオフィスの物陰から一人の男が出てきた。
「何処のどちらさんかな……?あろう事かそんな物騒な得物ここに持ち込んで……しかも
その名前まで出して」
「“死神”って言えば分かるか?」
 ナガタの顔が一瞬にして強張る。目の前に立っている少年が先程から発している言葉の
どれもが裏に生きる人間でないと決して組み合わせて発しないものであった。
(何よりこのガキの殺気は……)
 その方面の人間の中でも極めて実力派の人間でなければ見られない“制空圏”の存在を、
少年から感じていた。
「………」
「コイツ……あんたが?」
「彼を殺せるのは公安特機の人間だけだよ」
「さてね」
 再びタカハシは傍らの骸に目を移し、しゃがみ込むと掌でそっと開いたままのまぶたを
下げた。
「怒ってるのか?」
「違うと言えば嘘になるな……でも復讐出来るアレでもない」
「格好良い事だな……」
「職務全うなアンタには負けるよ」
 わざとらしく肩をすくめる。ナガタは眉間にしわを寄せながら笑った。
「……そうか“かなり確かなトコロ”ってのは坊主、お前か」
「如何にも、ご察しの通り」
 タカハシがそう答えると、ナガタは手に持っていた銃をタカハシに向けて引き鉄に指を
かけ、引こうとした。
 その次の瞬間、彼の視界から少年が消え、彼が気付いた頃には少年は間合いを詰めてい
た。恐ろしい速さの踏み込みではあったが、銃口はピタリとタカハシに向けられていた。
トリガーにも指をかけている。少年は刀すら抜いていなかった。
 ナガタがその殺意を形に表そうとしたその時だった。
「なっ……」
 自分の体が崩れるのを感じ、頬に刺さるように冷たい警察署の床の感触を覚えた。
「右手に注意を払っておけばどんなに相手が速くても敵ではない、刀を抜く際の二段階の
動作よりも拳銃の方が……そう思ったか?」
 倒れ伏したナガタに向かってタカハシが放つその言葉は、床の温度よりも冷たい。
「確かに戦闘部隊であるあんた等なら容易いのだろうな。悪いが……だったら抜く瞬間を
悟らせなければ良い」
「あっ……がっぁ……」
「左手だ、職務全うの褒美に俺から冥土の土産をやるよ。地獄へ落ちな」
「はァーはァーァァ……」
 ナガタの顔が痛みに歪んでいき、息遣いも激しくなってきた。床にゆっくりと血糊が広
がっていく。



                  *



「どうやら違約金を貰えるみたいだけど……」
 失望に満ちた声のタカハシを見るハタケヤマ老人の顔には好奇の色が満ちていた。体中
に見られる返り血もそのままに訪れた彼に大いに興味抱いたようだ。その原因も背後関係
も既に分かっているからこその態度、タカハシ自身もそれを理解していた。
「すまなんだが、出来の悪い部下が先走ってしまってなぁ……」
 その顔に申し訳なさなど見られない。
「まー誰にでも事情はあるよ」
 その顔にも理解の色は見られない。というよりは感情が確認出来ない。
 タカハシの背後には顔面血まみれで失神した護衛が、マグロのように床に転がっていた。
「これもその内だと?」
 ハタケヤマ老人のいう“これ”とは
「どうすればいいのか分からない・・・何だか浮いた気持ちが・・・」
 そう言うタカハシがここハタケヤマ老人の自宅を兼ねたハタケヤマコーポレーション本
社ビルに足を踏み入れてからの一部始終の事である。会長室に転がる護衛の男を含め、会
長室に至るまでの道程で彼の邪魔をした警備の者は事如く彼に薙ぎ倒されて昏倒してしま
っていた。
「俺の師匠が俺に教えてくれた事だけど……」
 すうっと瞼を閉じて、タカハシはその口を開いた。
「間違っていたとしたってそれが、愚かな事とは限らない……」
「光栄だ」
 ハタケヤマ老人はタバコの煙をふぅっと吐き出しながらそう言う。
「けれど……アンタは人の命を弄んで」
『それでも救われる命があるんだろ……じゃぁそこまで嫌われなきゃいけない事なのか?』
 いつかクラタがそう言っていたのを思い出す。
 タカハシが言葉に詰まってしまう。
「一体アンタは人の命を何だと思ってるんだ!?」
「こっちもビジネスでね。その為になら」
ゴッ
 グチャッという酷く美的でない音が、タカハシの拳がハタケヤマ老人の顔面に当たる打
突音の後に会長室に響いた。


                  *


「夏休みの間にグレたりすると格好悪いからなーあと、怪我すんなよ。以上!」
 担任の教員の手短な説教が終わると、蜘蛛の子のように教室から生徒達が散っていった。
廊下では成績表を眺めて一喜一憂している女子生徒が、汗ばんだ額を並べていた。
「あっちぃなぁ……」
 顔に当たる陽の光を腕で遮りながら俺はトボトボと家路についていた。
 古くからの戦友を失ったり、人を斬ったり、そんな事をした昨日もまるで昨日の事には
思えない。暑さで意識がハッキリしないからというのもあるだろうが。日常のぬかるみで
俺はひどく落ち着いている。
「うー……」
 砂漠でオアシスを見付けたかのように俺はその身をコンビニに滑らせた。冷房の効いた
店内をぐるぐると周り、週刊誌を立ち読みしたりしてから、ペットボトルを引っ掴みレジ
に足を運ぶ。
「ん……?」
レジに商品を置いて、傍らに目を移すと、“それ”が目に入った。
「………!!」
 俺は“それ”を引っ掴むと、レジ台に叩き付けた。訝しげに俺を睨んでくる店員を無視
して、ペットボトルと一緒に鷲?みにしてコンビニの外へ出る。熱風が顔面を襲ったが、
もはやそんな事は気にならなかった。
 “それ”に載っている一字一句を目で追いかける。
「ははははははは、そりゃぁねぇよ相棒……」
 俺はこの耐え難い感情を知っている。そしてそれにも勝る表現のしようのない感情も。
『ハタケヤマコーポレーションの闇』という見出しの記事をトップに出したそのスポーツ
新聞には、ハタケヤマコーポレーションと製薬会社数社が実名で載せられている。内容は
「そりゃぁ……アンタは教えたくなかったよなぁークラタ」
 思わず天を仰いで、目を覆ってしまった程にやるせない気持ちにさせてくれるモノだった。
 “同社は、多額の金銭の代わりに認可の下りていない新薬の最終実験に同社傘下の病院
の患者を提供していた”
 そんな事が書いてあった。
 俺は、クラタからそんな事は聞いてなかった。臓器密輸の件しか。
 そしてそのスポーツ新聞は臓器密輸の件にはまったく触れていない。
 この耐え難い感情……まずは怒りだった。
 それこそ、これは人の命を弄ぶような所業だった。
 もう一つの感情……表現が出来ないが、それは感謝に近かった。
 もしクラタが俺にもう一つのハタケヤマコーポレーションの罪を教えていれば、俺は確
実にあのジイさんを殺し、あるいは……
「くそっ……格好良過ぎだぜ、おっさん」
 ペットボトルのアクエリアスを一気に飲み干してゴミ箱に投げ捨てる。入れ口に突っ込
んだペットボトルは、からんという音を立て、それはゴミ箱の中で反響した。
「救いようのねぇのは一体誰なんだろうなぁ。なぁ?」
 誰が相手でもカードを切りきってしまう事がない、クラタはそんな男だ。


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ウド(獅子頭) 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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