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The Gold…D

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 サイレンサーでかき消された銃声は、何処か間の抜けた音だった。

 今まで幾度も撃たれてきたが、その度に焼けるような熱さが全身に走った。だけど、今

回は、段々と傷口から寒気が全身に広がっていった。

 腹を撃たれた。

 胸を撃たれなかったのは……そうか、俺にまっすぐ伸びた拳銃を見てエリスが彼女の腕

の中でパニックを起こしたからだ。狙いが外れたようだ。

 ニナおばさんの傷口から手が離れて、顔から血の海を滑るように倒れた。

 動け動けと、手を踏ん張ったが、どういうワケか俺の言う事を体が聞かない。

 俺の名を叫ぶエリスの泣き声が聞こえる。

「いや………タカハシ!!な……んで」

「申し訳ありませんお嬢様……こうするしか」

 サラさんの声はあくまで冷静だった。

 視界が血で濁ってきた。

「なんで!?サラ!答えて!」

「申し訳ありませんお嬢様」

「離して!!タカハシが……タカハシが!!」

 なんとなく、気配でエリスが抵抗しているのが分かる。だけど、線の細いエリスじゃ容

易に抑えつけられるだろうなと分かった。

「いいえ、お嬢様には私と一緒に来ていただきます。……お教えしなければならない事が

多々ありますので」

 サラさんがそう言うと、足音は二階へと消えていった。

 ヌルヌルとした鮮血の中、何度も手を、膝を、肘を、頭を踏ん張らせて立とうと試みる。

 段々と、力が入らなくなる。

 約束した。自分を認めてくれて、信頼してくれた人と。

 そこに見付けたのだ。自分を育ててしまい、強く後悔しながら微笑ってくれる、トモハ

ラさんを救えるのではないかという手懸かりを。

 エリスがそこにいなければ、意味がない。約束すら守れない。

 今まで、何かがしたいといった事をあまり思わなかった。命令通りに殺して……それし

かない。

 だけど今、やりたいという事が見付かった。とにかく今は

 立ちたいのだ。



                 *



「おじさん!!」

 壁に寄りかかり、体を支えて廊下を進むタカハシの目の前に現われたのは、床に突っ伏

しているポール・ノヴァトニーだった。

 ぶっ倒れるように、ポールの傍らに膝を突いてしゃがむ。

(瞳孔が開いて……全身が震えている?)

 抱き起こしたポールの顔は真っ青で、その目は天井を向いていたが、特に何かを見てい

るようではなかった。

(毒……筋弛緩系か?でもそれだけじゃなさそうだな)

「………くそっ!!」

 先程タカハシは、廊下の壁に取り付けられたセキュリティー端末を殴打し、とにかく大

変な様子だけは伝えておいた。

「おじさん……ちょっとだけ時間かかるかもしれないけど、すぐに助け……くるからね」

 タカハシは立ち上がり、再び廊下を進んだ。

「くそっ、いつもならこんな距離大した事ねーんだけど……な」

 さっきからエリスが俺の名前を呼んでいる、タカハシはブツブツと呟いて、エリスの声

を頼りに廊下を進む。

 ずずっ、ずずっとスニーカーの爪先が床に擦れる。

「あぁ……くそっ!暑いなぁ」

 タカハシの顎からは、血の混ざった脂汗がポトリポトリと垂れている。

「立てたのは……ハァ………良いんだけど、なんか寒さが消え、て暑いんだよなぁ。意識

も微妙、だし。……なんか痛覚が消えているんだよ。あぁ……麦茶飲みたいなぁ、そう

言えばここには」

 脳内麻薬がタカハシの苦痛を徐々に快感へと変えていったが、当のタカハシ自身はそれ

を認識するわけもなく、自分はただ気付けの為に無意識に饒舌になっているだけだと思っ

ている。

「茶しばきに来たんじゃなかったっけかなぁ!!涼しい部屋で映画でも観ながら!!ああ

いう事をとか……あーでもないこーでもないってお喋りして、いつも通り勝手に昼寝させ

てもらって!!」

 そう声を張り上げた瞬間、踏み出した脚がバランスを失って、派手にずっこけた。

「とかなんとか言っている内に……」

 顎を大理石の床に強打し、くらくらする頭を抱えながら見上げたそこは

「着いちゃったじゃねぇかよ……あーまったくついてねー」







「私はな……先の大戦で連合国の軍事研究機関に所属していた」

「はぁ……それは何の研究で?」

「兵器……だな。主に散布型ナノマシンだ……それもかなり特殊なね」

 タカハシが息を飲む。三次大戦において泥沼化する一方であった戦局を打開するために

連合国側が執った最終手段は、敵国本部周辺地域への科学的兵器による殲滅という警告だっ

た。その作戦が、いざ行われようという時に、市民の誤解が生んだとある事件がきっかけ

となって、戦争は思わぬ終結を見せた。

 その事をタカハシは知っていた。

「………」

「まぁ……ご存知の通り、幸いそんなくだらないモノは使われずに済んだワケだが……そ

れを狙う輩はまだまだいるのだよ」

「そこで、エリスを狙い、そこから取引を持ちかけられる恐れがある……というワケで?」

「そこで君に頼んだのだよ……さっき君が娘を連れている状態でも我が家の護衛達から逃

げ切る自信があると言ったのだから、これは頼もしい。だが……」

「だが?」

「単なる勘なのだが……逃げも隠れも出来ない事態になりそうな気がしてならないのだよ。

こう誰も彼も敵に見えてくると」

「……で、そんな事態に遭遇してしまったら僕はエリスさんを守る事ができますか?」

 数秒間、ポールは己の左脳を見上げるような仕草を続けた後に

「こちらも少しだけ裏の世界に通じただけあって……割と詳しい方なんだが」

 唐突にそう切り出した。

「意外とすぐに君に当たれたよ。いや……むしろ君の『親御さん』にね」

「おっと、これは予想外のルートで素性が割れてしまいましたね」

 タカハシは意外そうな、実はある程度はこの対談における化かし合いでの想定の範囲内

ではあった話題ではあるが、お決まりの顔をしながら口調だけは平静を保った。

「ま……僕は不安です。正直に言います、この際ですから」

「いや……タカハシ君、君を咎めるつもりは特に無い。ただ」

「ただ?」

「それなら、簡単さ」

「はい?」

「君が死ななければいいだけだ」


「あーこの扉を開けるのは……本当に気が進まねー」

 その扉を目の前にして、タカハシは己の足で、ふらつかずに立っていた。

 本人としても不思議に思っている。痛みの感覚がなくなっていた。彼は自覚していない

が、強烈な躁状態が可能にする、本人にとってはただ嬉しいだけである。

「まだ、死んじゃいないんだよ。うん、俺は生きているんだよ」

 まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるような、穏やかな口調で独り言を呟く。

 鮮血で濡れ、べったりと膝に張り付いたタカハシのジーンズが、廊下の窓から射す太陽

光線に照らされて、真っ黒に変色した有様を現した。

 大きく、腹の底から搾り出したような深い溜息を吐く。すると今度は、その逆を行うよ

うに一気に息を吸い込み、そして

「エリスー!!………いるか!?俺は生きてるよー!!」

 目の前の扉の、その向こうに向かって声を張り上げる。

「タカハシ!!」

 お目当ての方向から聞こえた、彼を呼ぶ声。

 タカハシは更に声を張り上げた。

「おっけーっ!!今から助けに行くから……後でスイカ割りしよーな!!」

 よしっ、と鋭く息を吐き、両頬を叩いて気合を入れると

 ガンッ

 上体の捻りを利用し、ゆったりとしたフォームで扉を蹴り飛ばした。



                   *



 クーラーが稼動していなかったのだろう、熱気と湿気、ついでに変な臭いが蝶番にぶつ

かって砕け散った扉の向こうから襲ってきた。

 その部屋の中央、開け放ったその真正面に二人はいた。

「タカハ……!!」

「お嬢様、お静かに」

 俺の名を呼ぼうとしたエリスの背後にいる、体勢から察するに彼女の腕を背中で捻り上

げているサラさんが、人質の耳元で表情を変えずにボソリと、声の小ささとは裏腹にスケ

ールの大きい冷気を以って言った。

「ここが何処か、分かりますか?……タカハシさん」

 その部屋の、窓や扉を覗いた四方に見えるのは

「う~ん……理科準備室ってトコロかな」

 スチール製の薬品棚、学校の理科室で見る事の出来るそれの中には、ぎっしりと瓶が置

かれている。常温保存の利く、おそらくはポール・ノヴァトニーの作品ばかりなのだろう。

「そしてこれらが何なのかも」

「そう思うのかい?」

 沈黙が続く。

 均衡を破ったのは、エリスの金切り声だった。

「一体……一体……」

 すぅっと一回、息を腹に溜め込んで

「どういう事なの!?訳の解らない人達ならともかく、何があってサラが私の両親や友達

まで傷付けるワケ!!!??何も言わずに私が黙って殺されるとでも思ってるの?絶対後

悔する事になるんだから!!黙って殺されるつもりもないけどね!!」

 冷たい横槍を入れる余地のない程にがあっと喋った。

 もはや気にする必要もないのだろうが、彼女の口から飛ぶ唾が激しかった。

「いや……エリス、真実を知る覚悟があっても君はきっと殺されないんだ」

「どういう事、真実を知る覚悟って?」

 一瞬、エリスは呆気に取られる。

 ややあって無理矢理に首を捻りながら、やや上方の顔を睨みつけた。

「まさかサラさんがそうだとは思わなかったんだけど……」

 しばらくエリスを、冷たい目で眺め続けたサラさんに代わって俺が話す。

「君のお父さんは……先の大戦で勝利した軍のかなり重要なポストにいたんだ。君のお父

さんは兵器開発をしていた……その中で、戦争がこれこそ末期という段階に達し、決定的

な打開策として君のお父さんはある兵器を開発した」






「でもいいんですか?何度も訊くようですけど、僕みたいな男で」

「それは……まぁ当初はかなり迷ったりもした、しかし」

「しかし?」

「君にはそれ以上に感謝しているんだ」

「はい?」

「ここに来るまでの娘は、ちょっと口数も少なくなっていた。この生活はちと苦しかった

のだろうね。私も子供の頃はワケあって転勤族の家の養子として育った身で……痛い程エ

リスのその気持ちは分かっていたつもりだったが」

「………」

「でも、ここに家を構えてからエリスは変わった。君に会って、あんなに明るく笑っている」

「はぁ、でもそれは多分僕が、ってワケでもないかもしれませんよ」

「いや……変わったのはエリスだけじゃないだろう?」

 ポールがニヤリとタカハシの目を見つめた。

「え?あ、はあ……」

「君のような人間の心を変える事の出来る娘である事を教えてくれたのは……むしろ君だ、そして」

「………」

「君が娘、エリスを護ってくれるのなら、もう我々がこんな谷底を左手にする生活をする

ような……騙し騙し逃げ続ける必要はないと決心出来た。どんな事があっても、この場所

を死に場所に出来るのならば」

「ん……頑張ります、出来る限り」





「しかし、その兵器は使われる事なく……よく解らない内に戦争が終結して一気に平和に

なってしまった。戦勝国にとって、平和になってしまった以上、自分達は相手の司令塔を

脅迫する為周辺地域の殲滅を考えていました、なんつー事は口が裂けても言えなかったワ

ケだ、その証拠なんて特にね」

「じゃぁ……こうやって私達が各地を転々としていた理由って」

「そういう事だよ、戦争が終結し、とりあえずは解散した戦勝国側の政府に取引を持ちか

けて生活を続けていたんだ。多分は兵器の情報をね。だが、何処かは知らないけど……そ

ういったナァナァの方法を嫌うどっかの慌てん坊がいたワケだ、それがサラさん」

 その『どっかの慌てん坊』を、激しい眼差しでエリスが睨む。

 淡々とした表情で俺の説明を一緒に聞いていたサラさんだったが、説明が終わった今で

は、その表情は何処か諦めを含んでいるようなモノに見えてきた。

「多分だけど……エリス一人を無傷で扱っている理由、それはサラさんがあくまで任務に

忠実なだけで、きっとエリスの事をしっかり家族のように思っているんだよ」

 そうであって欲しいという、俺の希望的観測だった。

 俺の憶測を聞いて、サラさんはゆっくりと天を仰いだ。

 そして口を開いた。

「お嬢様……旦那様、奥様はどうやら命を取り留めているようです。そこにいる彼の応急

処置でしょう」

「ちなみに言うと、俺の応急処置が完璧なのか……それはちょっと不安なんだけどね」

 おどけた調子で、俺がそう言う。

 すると彼女が、今まで堪えていたかのような(でも上品に)含み笑いをした。

「でもね……ふふ、ひとつ勘違いしていらっしゃるようですね」

 そして、彼女は乱暴にエリスの背中を押して俺に放ってきた。慌ててエリスを受け止め

て、彼女に目を向ける。

 彼女は右手を胸の前に、拳を握っていた。その手には

「無傷というワケではなく……任務に忠実というのは光栄ですが」

 小さなメモ帳程の

「それでもわたくしは……プロに徹しきれない半端者です」
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 屋敷全体が激しく揺れた。

 屋敷のそこら中に仕掛けられた爆弾が、己の役目を果たした。ある所では天井が火柱に

勢い良く吹っ飛ばされ、またある所では一部屋の家具がまとめて真っ黒の炭にされた。

 一部の例外を除いて。

「あー耳が痛ぇ……」

 廊下の壁に背をもたれながら、タカハシが首をゴキっと鳴らした。

 小脇に、買物の大荷物のように人間二人を抱えていた。

 爆発の衝撃で、タカハシの鼓膜の機能が一時的に麻痺している。

 二の腕に伝わってくる振動で、右腕で抱えるサラが何事か呟いているのが彼には分かっ

たが、内容までは聞こえていない。

「あー……推測で申し訳ないけど、爆弾は行きがてらの道にあるモノは勝手に止めましたよ。

あーあーあー………」

「まさか、そんな……」

 虚ろな口調で、サラは身を起こした。

「あーでも……周りは火の海だし、ちょっと約束、出来るかなぁ」

 膝が力を失い、タカハシはズルズルと床にへたり込んでしまった。背を預けていた壁に

は、真っ赤な鮮血がべったりと付いていた。

 爆発の間際、タカハシはエリスとサラの方へと駆け込むと、彼女達に当身を喰らわせ、

二人の腰を抱え薬品の臭い漂う部屋を脱出した。半端な止血法でギリギリに流血を抑えて

いた傷口は、人智を超えた突進によってあっさりと開いて、先程の大流血を再現した。

そして廊下を抜け出したタカハシは、脱出の間際に作動した爆弾が起こした、廊下を突

き抜ける爆風を背中に受けた。爆風はガラスの破片、木片、大理石の切片を吹き飛ばし、

それはタカハシの背中を襲った。

「ああーああー!!……まぁいいか」

 鼓膜の状態を確かめるように、タカハシは声の限り叫んだ。実際は、それは腹に力のこ

もっていないか細い声だった。

 遠くで天井の崩れ落ちる音が聞こえ、タカハシ達の周りの光景は、大理石の床から生え

る炎の壁が見えるだけとなった。

「あーだめだ、動けねー……」

 タカハシの腕の中で、エリスはうぅっと呻いた。しかし、タカハシはそれに気付いていなかった。

「せっかく脱出経路の確保したのに……二兎を追う者は、あー」

(さっきまではうだるように暑かったのにな……涼しいや)

 タカハシの視界が、ぼぅっとぼやけた。

 タカハシの鼓膜が少しだけ、その機能を取り戻した。

 どうしよう、とタカハシが虚ろな目で辺りを見回した。

 その次の瞬間、サラがタカハシの腕を振り払うように身をよじると、その場にうずくま

って、咽せ出した。

「サラさん?」

 訝しげにタカハシが訊ねると、サラは両手で口を抑え、激しく咳き込んだ。

(そうか……ここは薬品庫だもんな、炎上して無効化されたのはあるとはいえ)

 程無くして、サラは身悶えるのを止めた。

「くそっ!!」

 焦燥に駆られながら、タカハシは動きの鈍い右腕で、自分のカーゴパンツのポケットを

探った。殲滅兵器が動いている中、効果があるかは保障しかねたが、エリスの口を塞ぐた

めにバンダナを探す。

(あぁ……そうか、おばさんの止血に使ったっけ。何もないや)

 後頭部を壁に預け、タカハシは天を仰いだ。

「タカハシ」

 くぐもったような声が、タカハシの腕の中から聞こえた。はっきりとした意識を目に宿し

たエリスが、タカハシを見上げていた。

「エリス!!……喋らなくていいよ、何かハンカチとか持」

「聞いてタカハシ!!」

 必死にエリスを促すタカハシの口と鼻を、エリスが手で塞いだ。

「お父さんがね……天才と言われた理由は、作った毒ガスを無効化出来るナノマシンを一

緒に作る事が出来るからなの。……で、私の体の中には今現在お父さんの開発した『作品』

の全てを無効化出来るナノマシンがあるの」

 ずい、と眉がすれる程にタカハシに顔を近付けて、エリスが囁く。

(知ってた……のか)

「………」

「高度な研鑽によってそれは……移植が容易なナノマシンになったんだけど」

 エリスのもう片方の手が、タカハシの頭を後頭部から鷲掴みにした。

「タカハシ……立てる?」

 立てないと言ったら?そう言いたげにタカハシは眉を吊り上げた。感性の鋭いエリスだ

からこそ、それは意味のあるモノとして届くものなる。

「私はここで……このまま映画のような朽ち果て方をするのも」

(立てるさ……そんなの俺達には似合わない)

 ふて腐れた子供のような口調、眼光で、タカハシ。

「『手を伸ばして。あの王冠を掴んでみて。届かないなら・・・私の手を継ぎ足してあげる』」

「………」

「今、二人が助かる唯一の方法はね」

 そこまで言って、エリスが頬の裏を豪快に噛み切った。ブチッという音がすると、あっ

という間に彼女の口腔内に血だまりが出来た。

 狼狽するタカハシの口を、鼻を残して開放する。

「………」

 エリスは口内に溜まった血を零さない様に口を開けると、タカハシの唇に自分の唇を合

わせた。更に狼狽するタカハシの口の中に、その血を送り込んだ。

「どういう仕組みかは分からないけど……そういうふうに私の体をイジくったエロいお父

さんに感謝しながら……飲んで」

 すぅ、っと唇を離すと、エリスはそう呟いた。

「………」

 干ばつの激しかった口の中に絡みつくようなそれを、タカハシは必死に飲み込んだ。

 火柱に囲まれた空間、何かに護られるように開かれたその空間の真ん中、周りの景色は

休む事無く崩れていく。

 エリスはそっと、その体をタカハシに預けていった。

「あー……行くぞ、エリス。………エリス?」

 タカハシの顔から手を離したエリスは、ぐったりとその顔をタカハシの胸に埋めている。

溢れ出す吐血で赤い唇だが、端の部分を見てみれば、真っ青だった。

 先程の血色の良い彼女の顔は、一酸化炭素中毒の初期症状だった。

「ああぁ、くそっ!!」

 今まで幾度となく、腹に力が入らずにいて、立ち上がれなかったタカハシが、跳ね起き

るように立ち上がった。ぐったりしているエリスを姫抱きにして。

(煙ばかりは無敵のナノマシンでも……どうしようもならんか)

 もはや視界すら危うい程に、ノヴァトニー邸は煙に包まれていた。深刻な一酸化炭素中

毒の脅威は、タカハシ自身の身にも降りかかっていた
「……で、その後は?」

 暗闇の中、やや疲れの色が窺えるダミ声が聞こえた。

「実際は、そんな速くはなかったんだろうけど……とにかく走ったよ。希望があったのは

俺が確保した脱出経路だったから、火に包まれようがなんだろうが走り抜けてね。この前

見せたのはその時の火傷さ」

 もう一つ、もっと若い感じの声が聞こえた。

 ややあって、暗闇の中に灯りが燈った。浮かんできたのは、ボサボサの黒髪を顔中に絡

ませ、やはり疲れを顔に浮かべた男と、ダミ声の男よりもかなり若く、しかし精悍な目を

持つ男だった。若い方の男の髪型は後ろ髪が他の部分より若干長くそこだけ茶色い、それ

が流れるように後方へとセットされていて、本人は〔バックファイア〕と呼んでいる。後

ろ髪以外の部分はほとんど坊主頭だ。

 火を生やすジッポライターが辺りを照らす。

 そこは四方の壁が内側に外側にでこぼこと隆起したエレベーターのゴンドラの中だった。

「ふー……」

「それ一服したら、こんなトコさっさと出るからな」

 後ろ髪を後方へ流した男が、先程の若い感じの声でそう言った。

 火の灯ったバージニアスリムを咥えて、男は未だ手の中で灯りの役をしているジッポラ

イターを見つめた。キャップを閉じて、そして男は虚空に向かって煙を吐き出した。

「……今考えれば無茶苦茶な話だが、彼女を抱えた状態で俺は彼女の両親も外へと運ぶつ

もりだったんだよ」

「つまりは無理だったんだろ、その言い方は?」

 今、暗闇には男の咥える煙草の灯りだけが、その空間に浮いている。

「いなかったんだよ」

「は?」

「回収しようと思ったトコロ、親父さんはいないし、エントランスには血の海しかねぇ

し……」

「なんだ、結局助けに来てくれたのか」

「どーいう事だよ?」

「いや……いつもあの女はお前の仕事を静観してるだけだからな。それがいつ頃からなの

かと、唐突に気になっただけだ」

 ボコボコの扉に背中を預けて立っていた若い方の男が、ズルズルと崩れ落ちるように床

に座った。その床もデコボコとしている。

「まぁな……そこでトモハラさんが助けに来てくれたのを確信して俺はエリスを抱えて外

に出たよ。で、案の定彼女達はいてね。『助けてくれ!』って叫んじまったよ」

「じゃぁ」

「まぁな、クラタの言う“ゴージャスなネーちゃん”もいたよ。何処から情報を仕入れた

のか、見事に出血多量のおばさんと毒で動けなくなっていたおじさんに的確な応急処置が

施されていたよ。『あの戦場はこんなの問題にならない程ひどかった』って言ってたね。さ

すがに超一流の軍医だよな」

 クラタと呼ばれた男が、苦い顔をして

「確かに、ひどい戦いだった……」

 そう言った。

「ただ、やはりどんなに酸素ボンベがあったトコロで一酸化炭素中毒は既に深刻なトコロ

まで進んでいやがってね……『覚悟してください』ってトモハラさんに言われたよ。俺、

その時どんな顔してたのかな?トモハラさんのその時の俺を見る顔を、ひどく鮮明に覚え

ているんだ……時々思い出して、そうするとすごくエリスに会いたくなるんだ」

「………」

「で、結局はさ……一酸化炭素中毒、毒の影響、出血多量でノヴァトニー家は今仲良くあんな状態さ」

「それは……」

 クラタが、咥えていた煙草を指の間に挟んで、口を開いた。しかし、言葉がそれに追い付かず

「エリスは……後天的なアルピノ変異なんて人間じゃ考えられないって医者が言ってたよ。

でもエリスの体だからなぁ。エリスは少し……おしとやかになっちまったけど脳死って事

はなくて。それからはエリスの体を調べさせろとか抜かす連中が病院に度々押しかけてき

て……あの隠れ家さ」

 切れ切れながらも、クラタの疑問に若い方の男が少し先回りして答えた。

「ま、俺が搬送直後に殺し屋宣言して……その後四日間の昏睡から目覚めた時に聞かされ

た事が半分だけどな」

 若い方の男が言い終えると、ゴンドラの外から声が聞こえた。声は二つ、言い争っていた。

「やれやれ……強敵を退けた後に仲間割れかぁ、まったく」

 若い方の男はぼやくと、天を仰いだ。そして、苦虫を噛むように

「しかし、楽じゃねぇよ……」

 呟いた。

「まぁな……。今の内にお前に教えておくよ。俺達公安特機のチームはな、事務的に事件を

片付けられない警察では負け組みみたいに言われる奴等の作った組織が始まりだ」

「なんだよ藪から棒に」

「お前がナニになるにせよ……それだけは覚えていて欲しいだけだよ」

 クラタがポケットに手を突っ込み、中のジッポライターを指先で転がしながらそう言った。

「ああ……」

 その時頭上はるかから聞こえてきた銃撃戦の音に、若い男は顔をしかめながら頷いた。

「……さ、行くか」

 そうだな、若い方の男は答えた。


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