Last Epsd-Slide away-A
彼女の体が、俺の腕の中で段々と冷たくなっていった。
実のトコロ、いつかこんな時が来てしまうんじゃないかと、思っていた。その時に自分
は彼女を護りきれないのかもしれないと、思った。一人の力なんて脆弱なモノだから。
さっきまでは両腕を濡らしていた生暖かい感触も、今では指一つ動かすだけの事を邪魔
する程に、張り付いている。
何か事態は、いつかの光景に似ていた。ただあの時は血を流していたのは俺で、何より
二人のベクトルが生へと向いていた。
バランスを失った骸は目を見開いたまま、ずぶずぶと俺の体に沈み込むように倒れかか
っている。その重さに、今の俺は耐えられそうになかった。すとん、と崩れるように空薬
莢の転がる地面へと膝を突いた。
何故だろう、涙が出ない。突然、何かが自分の中から消えて、それが空っぽになってし
まったようだった。
ガタガタと震える肩が、俺の素直な反応だった。だけど、どんどんと熱を失っていく彼
女の骸を抱き締めていた事で、俺は冷静でいられた。もしかしたら、今のこの状況を俺は
受け入れられずにいて……この腕を解いてしまったら俺の中でも全てが終わってしまうの
ではないか、だからもう気付いているのに彼女を抱き締め続けているのかも知れない。
奴等はプロらしく、彼女を仕留めたのを確認してすぐに去っていった。
追いかけられなかった。やるべき事が分からなかった。
閉塞された道場の空気は、今とても冷ややかだ。天窓からの朝陽が畳の濃淡を照らして
いる。朝陽は度々、空に点在する雲に隠れて灯りの灯っていない道場に影を落とす。
「………」
この閉鎖空間から一歩出れば、そこはちょっと空模様が気になるが、なかなか爽やかな
朝という風景にお目にかかれるだろう。だが、俺がその風景にお辞儀するためには……
「………」
この乱れた呼吸を抑えつけて、目の前の困難を片付けなければならなかった。
じり
俺の挙動一つに彼女が敏感に反応する。その度にきんと冷えて張り詰めたような道場の
空気が、弦を引き絞るが如く鼓膜が痛くなる程にその密度を高めていく。
全身のありとあらゆる箇所がビリビリと痺れ、顔中から汗と共に流れている鮮血は打ち
板の床の所々にワンポイントのマークを作っていた。
肩幅より一足長程度広く取ったサウスポーポジション、急所の集中するラインをカバー
し水月の前でだらりと右の手を垂らした、顎からぽたりと汗が落ちた。
「………」
天窓から差す朝陽が隠れ、畳に落ちた俺の影がその身を隠す。それを合図に、俺は正面
の彼女に踏み込んだ。
「セヤぁッ!!」
攻撃圏内、彼女のやや左手に跳び込んで、打ち放すように鎖骨を目掛け左ストレートを
放つ。拳は構えた彼女の右手に吸い込まれた。気を抜けば体ごと崩されかねない素早さで
俺の拳は彼女に叩き落された。動作の起こりがまったく見切れないパリングだった。
(もらったッ!!)
彼女が俺の左ストレートをパリングでさばくのはプランの内だった。本命の攻撃はその
拳をさばかせて右手ガードを下げる事だった。
ストレートをパリングされた時点で、俺の左脚は彼女の頭頂部を目掛けて振り下ろされていた。
ハズだった。
パシッ
右手を振り下げた後、彼女はその勢いのまま右足を軸に反転し、蹴上げられた俺の脚を
潜るように、背を向けた状態で俺の左バックへ身を滑らせた。
「まだまだ……ですよ」
子供を諭すような物腰で穏やかにそう言うと、彼女は左肩を俺の腎臓目掛けてブチかま
した。いわゆる、俺がかつてクラタに見せたパチモノのそれではなく、正真正銘の発頸に
よる攻撃というやつだろう。
内臓丸ごと抉られるような感覚を覚えながら、俺はワイヤーで吊られた俳優のように道
場の端まで飛んでいった。
師走に入ると、世間は文字通り忙しく動いている。年末商戦やらクリスマスやら。そう
いった動きとはまったく関係なく、俺は今現在忙しくて仕方ない。十二月になり二週間、
俺は登校前にこうして、近所の道場へと拉致されるようになった。俺の寝込みを襲い、そ
のクセ着替えと朝食の用意をしっかりとしている彼女、そう師匠であるトモハラさんに。
「スピードはこの半年で見違える程にまで成長しましたね。だけどまだ攻撃が正直過ぎま
す。相手のサバキを読んでのコンビネーションはなかなかですが、ひとつひとつの攻撃に
殺気を込めすぎですよ」
道場の端で仰向けに寝転がる俺に届くトモハラさんの声は、澄んだ朝の空気に戻った道
場の中で、天窓にまで響いた。
「うぇーい……いまちょっとこれ以上は喋れないくらい……くら……ったから」
二週間前、何がなんだか良く分からないままジャージに着替えさせられてタイマン張っ
た時、当然こっぴどくボコされたワケだが、そこで課された課題というのが先程トモハラ
さんが言ったモノだ。
怒涛のラッシュではあったが、俺は何とかさばいてクリーンヒットは避ける事が出来た。
高度なコンビネーションを駆使してはいたが、いかんせん殺気の強い一撃一撃だったお陰
でトモハラさんが打ち込もうとする場所を感じ取る事が出来た。
それは俺の外受けで左の突きをさばかれ、狙い済ましたかのようにその勢いを活かして
トモハラさんが回転技に移行した時だった。感じた殺気は俺のテンプルを目掛けた上段後
ろ廻し蹴り。相当の重い攻撃であろう事が分かった。ガードをしたとしても、きっと腕全
体が強く痺れるだろうと容易に判断出来た。覚悟を決めて、俺は頭部を完全防御した。強
い殺気を頭部に感じた、のだが
「ぉ………」
「一本、という事で。死ななかっただけ儲けモノです」
膝元から振り上げられた彼女の踵は、高速度で俺の肝臓部へとめり込んだ。
「………気絶する前に、聞いていてくださいね」
全身の血が沸騰したような感覚と、横隔膜が呼吸器全てを締め上げている疑惑を覚えな
がら俺はブラックアウトしかけている意識の中、必死にトモハラさんの言葉を聞いていた。
「敵がいつも魂のある攻撃をしてくるワケではありません」
トモハラさんが、エビのようにうずくまる俺の傍らで、茶をすするかのように正座する。
「いえ、むしろ……魂が死んでいなければ人なんか殺せません」
「ぉ……うぇッ……あのさ」
声を引き絞る。これだけは確認したかったのだ。
「俺はまだ……というか俺の魂は死なないで、超えられる……のかな?」
「胸が張り裂けそうなくらい辛くて苦しいですよ。それでも……ですか?」
返事を言えず、俺の意識は飛んでいった。
あの時の俺が言おうとしたセリフはなんだったのか
「当たり前じゃないか、そうしなければ強くなれないだろう」
だろうか?
強くなったその先にあるモノが、辛い事のみなのかもしれないというのは覚悟していた。
そんな付加価値では、大切な何かを本心的に護る事なんて難しくて、無駄にした時間の多
さだけ盲目になる……と。
*
冬の便りを方々から受け取れる、街の眺めや行き交う人々の格好からもそれが分かる十
二月となった。クリスマスにちなんだイルミネーションがセンター街のあらゆる所を彩っ
ている。仕事を終えて、足早にハニーマイルロードを進む俺にとっては、興味がないワケ
ではないにしろイルミネーションが実は迷惑でならない。東京中の恋人達は、テレビでも
取り上げられたハニーマイルロードの美しいイルミネーションを一目観ようと、ここに集
まり、立ち止まり見惚れる。戦後すぐに定着した新しい冬の風物詩ではあるのだが、立ち
止まる人々が歩行者にとっては邪魔で仕方ない。
「ふぅ……」
我ながら寂しい溜息を吐いて、俺はN-3Bジャケットのジッパーを首の根本まで引き上げ
た。雪は降らないまでも、指先が冷えきるような寒さに、さすがに体が参ってしまう。
いい加減、カップル達を避ける為、俺はホームレスに置いてきぼりを食らう糞尿達の放
つ多少の臭いを我慢してビルの谷間、薄暗いというよりはこの時間ではほぼ暗闇と言える
路地を進む事にした。治安の悪い通りをすぐ隣に持つ、華やかなハニーマイルロードが持
つ裏側、脱法ドラッグの売人以外で人がここを利用する事はまず無いだろう。
今、この街で流行しているらしい新種のドラッグ“D・S・A”は、数千年前の地層から
発見された巨大な蓮の根を乾燥させ、粉末状にしてから調合を施すと精製される。クラタ
から聞いていた“D・S・A”の特徴は、精製された結晶を粉末状にすると極めて細かい微
粒子になり、それは収められた容器を振っても音がしない程だ。
服用した者には“福音”が耳に届けられると云われている。内容は多種多様であるが、
平たく言えばインスピレーションが得られるそうだ。例えば既に現在このドラッグが全面
的に違法となっているアメリカでは、一時チャートの上位を席巻していたミュージシャン
の殆どが、“D・S・A”服用の経験を認めている。
『吸った瞬間から書き留められない程の量のナイスなフレーズが……次々と頭の中で湧き
上がって来るんだ!!これぞ自分の曲だ!!ってね。その瞬間、自分が世界から認められ
る事への確信から来る恍惚感でとても幸せになれるんだ』
そう語ったロックスターは、一ヶ月で五十曲ものレコーディングをこなした後、グラン
ドキャニオンから投身したのを目撃されているらしい。
ある者は名曲を作り、ある者は名画を、著書を、名言を、武道の奥義の会得を、信仰を、
発明を、解明を……ありとあらゆるインスピレーションを獲得した。人によって開かれた
可能性は様々であるが、ひとつだけ確かなのは皆、“世界と闘える武器”を手に入れたとい
う事だった。
ただ、服用した者に例外なく待っていたのは、不可解な死であった。それが代償である
のか、はたまたどうなのか……俺には判断しかねる話だが、多くの共感を受けた彼等は死
後、そのジャンルでの殉教者として一種の信仰の対象へと昇華されている。
現在では、市場へ脚を運べばこのドラッグの原材料となる蓮根は比較的安価に手に入り、
少しばかり特殊な薬品と器具を用いて粉末状のそれと調合すると、かなり大量に結晶体の
“D・S・A”の精製が可能だという事だろう。アメリカでは大量生産が可能とはいえ、服
用した者にもたらされる効果が引き起こすだろう事態を懸念し、一種の暗黙了解で機密性
が保持出来る、一部のいわゆるセレブリティーにのみ販売していたというが……少なくと
も日本ではその様子はなく、こうした薄暗い路地裏で簡単に、誰でも手に入れる事が出来
る。
「何か後ろめたい事が無い……限りはな」
澱んだ水の臭いに咽せ返りそうなビルの谷間の中程、立ち止まり俺は口の中でそう呟いた。
やはりメインストリートを外れた事は正解だった。
「別にお前等に気を使ったワケじゃぁ、ないんだぜ」
前後ろ左右、空気へと語りかけるように「ただの鬼ごっこで終わりじゃねぇだろ」
路地の向こう、隙間からわずかに見えるネオンが一瞬点滅し、再びモミの樹の模したそ
の姿で自己主張を始める。その景色が、急に遮られた。上背のある、人影がふたつ。
振り返っても同じく、二つの人影が路地を塞いでいた。
「………」
その立ち姿や雰囲気、そして先程から俺の全身を舐めまわすように観察し、尾行し続け
ていた視線で、このよもや単にシャイで声をかけられなかっただけの新興宗教の勧誘員で
ではないだろう彼等が、カタギではない事は明白だった。
暗闇とは言え、夜目は効く。俺はじっくりと四人の服装を観察した。
「タカハシ……だな?」
進行方向の通路を塞ぐそいつの声は大人の男の声で、ダークなロングコートと白い肌に
あまりに際立つ黒髪には、とてもよく似合っていた。全員が似たような格好であるが、暗
くても分かる。日本人ではなかった。
「そんな人気者じゃねぇんだけどな……悪いが人をいきなり呼び捨てにするような人達に
やるようなサインはねぇよ」
ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、そう言う。思いっきりダルそうな奴に見え
ているだろう。左手の指先に、クナイが触れる。
「………単刀直入に言おう」
目元の高そうなサングラス(多分レイヴァンだ。ファッション雑誌のクリスマスプレゼ
ント特集で掲載されていたモノだ)の位置を直してから
「ポール・ノヴァトニー、ニナ・ノヴァトニー……そしてエリス・ノヴァトニーは何処に
いる?」
男はしずかに訪ねた。驚愕が心臓を鷲?みにした。
「知らないね、て言うかアンタ達ぁ誰だよ?」
辛うじて表にそれを出す事はなかったが、一瞬にして全身を臨戦態勢にした。
後ろでは、一人が踏み出す気配とそれを制止するような気配が交じり合っていた。
「関係者でね……私達はあの一家を探している」
今度は、目の前のもう一人の男が口を開いた。
「あの家族と君が一年前の夏に親しくしていたのは、知っている。君は……行方を知らな
いか?」
「………俺の質問に答えてないな」
「………ある人の依頼でね、あの一家を探すようにと。私は探偵なんだよ……で、彼等は
優秀な助手だ」男はそう言うと、懐に右手を突っ込んだ。「君が去年、あの一家の娘さんと
懇意にしていたのが分かってね」
「………」
「何か知らないか?」
状況的には、万事休すといったトコロか。退路は無いように思えた。
「………悪いが」前と後ろ、ちらりと確認してから「嘘吐きに教える事はない」そう言っ
て俺は爆弾を投下した。「それに……」
「………」
「化かしあいはやめにしましょうぜ。前提が特別なんだから……」死神の事なんて向こう
に割れている方が自然だ。
もともと、皮一枚隔ててはいたがそこに確かに存在していたものだが、それが姿を現し
た。裏路地の空気が一変した。
「その通りだな……」
「お前等探偵にしちゃあ殺気があり過ぎるんだよ、ストーキングが割れた時点で諦めろよ」
「君があの家にいて、ポール・ノヴァトニーに何を吹き込まれたかももう知っている……
どちらにせよ平和維持、機密保持の為にも君にちょっとお付き合い願い……」
「お前等……、ただ静かに暮らしたいだけの人達を勝手な都合で」
「あの男の研究は悪魔を作っただけだ……今、我々が止めなければやがて………君なら分か
るね?」サングラスの奥、鋭い射るような視線を放って「そしてそれを記録している、
記憶している全てを消し去らなければならない……例えそれがカウンターであってもだ」
男が冷たく言い放った。
「!!!!?」
カウンターナノマシンといった比喩はまさしく、エリスの事までも知っているという事
であった。
来るべき時が来てしまったのかもしれない。追われ続けたあの一家だったが、また、あ
ーやってその命を狙いに迫る奴等がもう来ない……とは言い切れないのは、一年前の耐え
続ける事を決めたあの日、心に刻んでおいた。ある人はそれを心の傷というのかも知れな
い。俺にしてみれば、その傷と原因が、生きる力の源なのだから…決して負い目ではない
のだが。
「お前等……!そうやって彼女も、………サラさんを苦しめてあんな」
「これは彼女のお粗末な仕事の尻拭いなのだよ……」
「お前等が一体何処の組織なのか知らないけど」
ジャケットのポケットから両手を引っこ抜くと同時に、油砥石で丹念に研かれた殺意の
具象を、前と後ろへ放った。自分だけに分かる漠然とした殺気の射線がクナイを喉笛へと
導いた。
「くッ!」
「もう何もないんだ、これ以上あの人達を追うってんなら………挽き肉にしてやる」
背後のごく近いトコロで人の倒れこむ音が聞こえた。避けられなくて良かったとしか思
えなかった。放った後に思い出したのはマヌケの一言に尽きる話だけど、後逸されたら通
行人の頭蓋骨が派手に砕けただろう。
こちらも多少の怪我をしてでも、こいつ等の情報を手に入れなければならない。おそら
くはナノマシンの研究成果を狙う組織か、または……
「!?」
反撃は予想していた。だが行使するタイミングが反撃でなかったというは、実に意外だ
った。クナイが届く一瞬の内の、ほんの数テンポを後方より必要とする位置にいた二人の
片割れ、よく喋っていた方が懐から抜いた右手に取り出された銃の持つ、放たれるのを心
待ちにしている殺意が潜む洞が向いたその先には、闇の虚空を飛ぶ俺の殺意の具象そのも
のがあった。
撃ち落されたクナイの墜落音は、冷え澱んだ空気を切り裂いて曇天を突き抜けた。サプ
レッサーに抑えられたマヌケな破裂音の銃声は二発、(超人的な射撃の力という前提を無
視したとしても)あらかじめ予想していたタイミングだった。
前方に依然として二人、後ろは五体満足なのが一人。ワルサーを構えるのは二人。
「こりゃ組織をどうこうするどころじゃないね……」
駆け出そうと予め身構えていたタカハシの身体がピタリと止まった。
それ以上は何を名乗らなくても十分な程の名刺、ワルサーの銃口が艶の無い光をわずか
に放ちながら、タカハシに向けられていた。
「大した殺気だ……だが、世界は広いのだよ」
銃口が軽く捻られて手前に振られた。そっちに注目、といった人を顎で使うような動作
に、片眉を上げたタカハシだったが
「!?」
示された方向、背後から言い知れない殺気を感じて
「あつっ!」
後頭部に凄まじい熱さに襲われた。目の前が眩暈のように一瞬灯りを放った。
これは異常だ。何かがおかしい。タカハシは崖っぷちから更にまた片足が東尋坊の突端
を飛び出したような、事態の急転を確信した。地を這うように地面を蹴りながら後ろを振
り返り、同時にワルサーを構える二人へ、そして殺気の発せられた方へも一度に放てるだ
けのクナイを乱れ放った。コントロールなどお構いなし、弾幕なればそれで良かった。
タカハシの身体は、ほぼ地面と水平に傾き、前身が漆黒の夜空と向き合っていた。腹筋
の鍛錬運動のように引いた顎、彼の目は殺気の主を見極めようと真っ暗であるビルの谷間
の視界に映る前景を索敵した。
先程の熱さ、そして眩暈の正体は見極めるのに然程苦労しなかった。
暗闇に沈みこむようにアスファルトへと落ちていったタカハシの、ほんの数瞬前にその
姿があった虚空が火を放ち燃え上がり、裏路地を明かりに包んだ。一瞬でその姿を消した
火の玉がはっきりとアスファルトに映した、裏路地のカタギとは一線を画した者達の影。
その数は四つ。
「マジかよっ!?」
傍らに臥す身体を、はっきりと照らすその灯りの源は
「うちの部隊の他で……見られるとは思わなかった」
奇襲攻撃に尻餅を突き、慌てて立ち上がったタカハシがそう呟いた。灯りの源は探偵の
助手と言われていた、その男が手の平に乗せた火の玉だった。
(今ので隙だらけだったにも関わらず……か)
背後の二人の気配には本気で人を撃とうといった臭いは感じられず、取り繕うように身
構えたタカハシの意識も半分以上は目の前の探偵助手へと移った。
「ファイアスターター……か」炎熱に焦げた後ろ髪を手ぐしで梳くとタカハシは「こりゃ
あ、なかなか分が悪い」手の平に張り付いた燃えカスを吹いてからそう呟いた。
(何が分が悪いかなんてのも……まー分からないや)
タカハシは敵の特殊能力を紙一重で回避出来た興奮から徐々に、我に戻りつつあった。
そして、その度合いが強くなるに連れ、自分の考えている世界というものが急に自分の見
るものとは違う何かに変わってしまったような、自分の周囲が焦燥以外は全く何も無い、
空虚な空間へと変貌してしまったような感覚に陥っていた。
(これから……俺は何を選択すりゃ良いんだよ)
彼女の父親と交わした約束、それを全うする事は至上の命題であると考えている彼にと
って、今対面している危機は実に困ったものであった。何より、一年前にノヴァトニー家
で起こった事の殆どを理解している組織を相手に、自分は何を尽くせば良いのだろうか、
彼はその事を顔に出さずとも密かに思い悩んでいたのだった。このアメコミの世界から飛
び出したような刺客達を相手に、自分は太刀打ち出来るのだろうか。
弱気でもなんでもない。常に事実を直視していた、己を知っていた。
彼が何より恐れていたのは、ポール・ノヴァトニーの研究結果を悪用しようという目的
を跳び越えた、世界の平和の為というヒロイズムを掲げて一家を根絶やしにしようという
連中だった。おそらくは手段を選ばないだろうから。
そして最高に厄介だと考えていたのは、殺戮兵器として使われるナノマシンから護る為
にカウンターナノマシンを娘に移植したポール・ノヴァトニーの思惑から大きく外れてし
まい、それは彼がタカハシに感じた確信的な信頼の範疇からも然りだった。
「まったく……」腰に手を当てて、呆れたような顔をしながら「こんな変態まで連れて来
て……あんたら踊らされてるってんだよ」タカハシは唾を吐くように忌々しげに言った。
例えば、過去の汚点を葬り去りたい権力者が忠誠を誓う愛国者を懐柔していたとしたら
「とは言えこれは世界のバランスの為なのだよ」
刺客達の科白は、そんなタカハシの想定していた最も恐るべき事態というタイトルの台
本に記された台詞そのものだった。