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二章(八怪談編)

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 二章 The seeds of strife so――


 第一夜  qualm  謎の歯


 気弱な舌打ちにも似た音が暗闇に響きながら、吸い込まれていく。
 ラバー製のソールがリノリウムの床に吸い付く音だ。
 辺りは暗く、非常口に灯る緑色と、窓から差し込む街灯に照らされた場所だけが、僕の視界の全てだった。下層階であれば街灯の明かりももう少しは届くのだろうが、ここは四階。教室の集中する北校舎の最上階である。人間の目にとってその採光量はあまりに頼り無い。

 だが、殆んど視界の利かないこの空間で、規則正しく揺れ続けている朧げな人影が見えている。
 足音は僕の一人分だけだが、目の前には左右一が先行しているのだ。数が合わないのは彼の消音歩法技術《スニーキング》が完璧だからだった。
「かなり緊張してるみたいだね」
 左右一は振り返る事無く、殆んど普段と変わらない音量で話した。その声からは一分の動揺も読み取れない。その不敵さに、僕は半ば呆れてしまった。
 そりゃ緊張もするだろう。今は午後11時で、ここは学校だ。
「……」
 僕は有音の返事に躊躇い、無言で頷きを返す。変な話だが、左右一ならば背面で頷く気配だって読み取れそうな気がしたのだ。
「これは重症だな」
 彼は不意に振り返り、溜め息を一つ吐いた。頼り無い光の中で弓なりの目と歯が輝いていて、彼が笑っているのだと知れる。
「うん、『犯罪』なんだ。すまない。もし見つかってしまった時を考えると、出継に謝っても許して貰えるとも思っていない。
 でも今君が自分の胸の内を見たとき……きっと不安や恐怖、後悔といった感情以外にも、言葉では言い表し切れない〝ときめき〟みたいなものを感じてくれていると思う。調べればすぐに全ての答えが得られてしまう、この情報社会の中で、あまりに強大な不可解に出会えた幸運。そして謎に体当たりでぶつかっていけるこの瞬間の喜びを、僕達は二人で分かち合えるんだ。それを忘れないで欲しい。そう思って八怪談に挑戦するべく、君を誘ったんだ。僕に任せてくれなんて強い事は言えないよ。でも、僕にまだ出来る事があるならば」
 ここで一際、左右一の笑顔が大きく輝いたように見えた。
 そして照れたように耳を触り、
「注文を、聞こうか」
 こう結んだ。
 暗がりの中でなお閃光のように輝く笑顔を見ても、僕は頷きの一つも返せずにいた。
 胸中の不安や恐怖、後悔といった感覚は隅に追いやられている。もう声を出すのが恐いとは感じていない。
 左右一の励ましを聴いても、僕はまだ無言でいた。
 仮定ではあるが、最悪の事態を論じる時、無策で笑顔を作る彼に閉口した訳でも、勿論無い。
 僕は当然のように自己責任でここに立っている。他の親友にも言えることだが、僕は助けが欲しくて一緒にいるわけじゃない。
 支えたいと思うから、一緒に居るだけだ。結果として僕らは助け合う形になっている。むしろこのフィールドでは彼を阻害していないか、それだけが心配だったんだ。

 ……左右一は情報を扱う事に長けている。情報の整頓、分析にも非凡な能力を発揮していた。
 彼は退屈していたのかも知れない。
『調べればすぐに全ての答えが得られてしまう、この情報社会の中で』
 この一言が彼の鬱積した心情を表しているのだろう。虚実入り乱れる情報が錯綜してはいるだろうが、簡単に得られる膨大なレスポンス。答えを得るにはその結果をウラ付けし、ソースのある真の答えを摘み出せばいい。その能力は計り知れないが、彼にはきっと簡単なのだろう。
 そして今、寛道の八怪談に出会えた事は、その後に続けて紡いだ通り、無上の幸運であったはずだ。
 自分の持てる能力全てでぶつかっていける対象を得ることが出来たのだから。

『これを見逃したら僕は一生、死体のように生きることになる』
 彼の老成した物腰は、絶望のに根差していたのか……。そしてこの怪談に出会えて得た謎は、今の彼を蘇らせる唯一の酒精《コープス・リヴァイヴァー》なのかもしれない。
「……」
 いま僕は……涙が零れてしまいそうだったのだ。
 自分の最高の喜びを分かつ。それはその相手を、感性も人格も丸ごと認めてのことではないのか。
 その人物と共にあればこそ、喜びがその興を削がれること無く、むしろ倍化すると認められている。そう考えて良いのではないか。
 今回のように犯罪行為であれば尚更だ。リスクを伴っても、それを超える喜びがあると信じて疑わず、罪の意識ごときを乗り越える歓喜が得られるのを、僕に期待してくれてさえいるのだ。
 これはエゴだ。罪は罪であり、罰せられるべき行為だ。
 だが、だがしかし。僕はこのエゴを愛す。このエゴを持つ久栖左右一を尊敬する。
 自分の人生を狂わせるかも知れず、あまつさえ他人をも傷付けるかもしれない選択。
 僕は選べるだろうか? この魂のあり方を。
 自身の存在証明を得る為に、前へ前へと戦い続けるこの姿勢を。
「……」
「……」
 照れ臭くも堅く握った拳を目の高さに持ち上げると、左右一も応じてくれた。
「ありがと、よぅ」
「こちらこそさ」
 僕らの拳が打ち交わされ――
「!?」
「!?」
 その瞬間。響く筈だった拳の音は聞こえなかった。
 校舎全体を揺るがせるような衝撃が、拳の交差と同時に起きたからだ。周囲の窓ガラスが微かな音を立てて震えている。
「これは、まさか……!?」
「亡霊の剣戟!? 上からみたいだね。しかし……こんなに派手だとは思っていなかったな」
「か、かなりビビッた。……帰るか、それとも……」
 今度は掌を相棒に差し出す。
 それを見た左右一は微かに浮かんでいた不安げな表情を一転させ、味のある笑顔を浮かべた。そして彼が掌を振り上げ――下ろす!
 そして痺れるような衝撃が! 再び上から衝撃が来ようとも負けない破裂音が! 僕らの掌から高らかに鳴り響いた!
「行こう! 上へ!」
「そうこなくちゃな!」
 僕らは揃って走りだす。歩幅も歩調も足音も、並走者の美しさには及ぶべくも無い。だが僕らの思いは、その到達点までもが一緒だった。
 醜く、愚かで、単純に走ることしか出来ぬ僕の双脚よ。それでも光る風をも追い越さんと猛る僕の双脚よ。お前も嬉しいだろう。
 目的もなく走ることはきっと愚かだと思うが、それでも気分の良いものだとも思う。
 しかし今はどうだ。目的を得て走る。そこには並び立つ者が居てくれる。これが僕の無上なのかも知れない。

 ――汝を残る原初の一葉と認めよう 双葉、滅ぶことと見つけたるべし――

「!?」
「どうした?」
 思わず立ち止まる。全ての音を切り裂くような摩擦音を立て、僕の慣性が風に置いてけぼりを喰らった。左右一は蹈鞴《たたら》を踏み、数度の僅かな音で静止した。
「……声が」
「したのかい? 僕には聞こえなかったな」
「で、でもかなり近い場所だったぞ!」
「……近い距離」
「うん。めちゃくちゃはっきりと聞こえた」
「なんて?」
 言われたの? と言う意味だろう。
「汝を残る原初の一葉と認めよう。双葉、滅ぶことと見つけたるべし、かな」
「……ふむン。どんな声だった?」
「どんな声って……あれ?」
「……思い出せない? でも言われた事は覚えている。耳の中で話されているかのように声が近距離から聞こえたのに、その息遣いは感じられない。どう?」
「そ! その通りだ!」
 語気も荒く放言した後、今自分が何処にいるかに思い当たり硬直した。
 反対に左右一は意に介さぬ様で、神妙な顔でこちらを直視していた。憂いの光を湛える眼差し。その下の深く暗い穴から、溜め息が漏れだす。
「ふむ。結論から言うと警備員ではあり得ないし、教員と言うわけでもないようだね」
 え?
「警備員だったならばまずこちらの正体を誰何し、その後で血相を変えて走ってくるだろうからね。第一僕には聞こえなかったし、可聴範囲には相変わらず人の気配も無い。心臓が止まるかと思ったけど、なんとか一安心だね」
 あれ?
 この話はこれで終わり。左右一はそんな態度で踵を返し、再び屋上へ通じる階段のある方へと向き直る。
 違うだろ。
 なんでそんなこと言うんだ。なんでそんな言葉なんだ。
 左右一は謎の声が持つ、細かい属性的特徴を言い当てて見せた。知っている。もしくは似たような経験があることを感じさせる。いや、意図的に匂わせているとしか思えない。
 そのまま歩きだした相棒に追従する形で、僕も足を投げる。
 釈然としないままに、屋上に通じる階段へと足をかけた時、左右一は振り返りながら細い声を落した。
「出継」
「うん」
「……今はごめん。でも、いずれ話すからさ」
「ちょww死亡フラグwww」
「今日無事に帰ったら、君と入籍するんだ……」
「おまww死亡が確定しましたww本当にありがとうございますww」
 僕らは緊張を追い払うように一頻り笑い合うと、どちらとも無く夜気を肺腑の隅まで吸い込んだ。
 この話はここで終わり。それでもいいか。目の前には謎があり、僕らはその渦中に好奇心で飛び込もうとしている。
 倫理を挫く無敵の好奇心に挑む因子があるとするのなら、それは別の好奇心に他ならないだろう。しかしこの旬は逃せないのだ。夾雑などは鎧袖一触と振り払ってしまえ!
 剣戟の響きは何時しか止んでいた。その分だけ空気には痺れるような静寂が満ちている。
 僕らは静謐を永遠に留めておくかのように足を忍んで、屋上までの十段を駆けて詰めた。
「……扉が開いてるね」
「先客がいるのか?」
「恐らく。番号を解読しておいたのが無駄になっちゃったな」
 扉は開いてこそいない。しかし扉の脇に目を落せば、シリンダー式の回転番号錠が、短い鎖と共に打ち捨てられていた。鎖は嵌め殺されたドアと、押し開く側のドアのノブ同士を、繋ぎ留める為の物なのだろう。
 ドアノブには鍵穴が開いていない。錠前の不在は、正しくドアが解放状態にあることを示していた。
「今解読しておいたって言ったかお?」
「左様」
「ちょww波平さん待って下さいw 最初から屋上が怪しいと目星を付けていたのか?」
「まさか。怪異が屋外で起きていた場合を考えると、学校の敷地全体をを見渡すにはこの、北校舎の屋上が一番適しているからね。保険のつもりで調べておいただけさ」
「なるほど大ハマリだったな」
 にやりと笑って遣ると、誇らしげに歯を見せていた。
「出継の訓練も兼ねてのこの場所だからね。重畳極まりないよ」
「この幸運に感謝」
 そして軽く目配せし、眼前の扉に触れる。
 金属的な冷たさ。硬質な軋み。拡大する隙間。
 同時に生まれた空気の流れは、背後から前方へと背を押すようだった。
 僅かな隙間から感覚を伸ばし、先の空間に何が待つのかを見定めようとする。だが、寂然と風の音が擦るように響くのみで、不安ばかりが嵩を増すようだ。
 逡巡に指を震わせていると、後ろから左右一の指が僕の背を急《せ》っ突《つ》いた。
「入ろう」
「ちょっと中を探っているんだが」
「なるほどね。でも、もういいよ。朝になっちゃう」
「それもそうだけど……問題ないのか?」
「いや、逆さ。向こうがこっちに気付いてる可能性がある」
 背筋が冷え、掌に汗が吹き出てきた。
「希望的に解釈すれば、ドアからの闖入者を気にかけているだけかも知れない。でも人の気配があるのは間違いないし、ヒリつくような意識が漲っているのも確かなんだ」
「待ってても埒が明かないほど警戒しているのか?」
「うん。危なくなったら逃げればいいよ。行こう」
 そう言うと左右一は大きく扉を開け放ち、傲慢とも言える一歩を外気の中に振り下ろした。

 煙るような満月。横薙ぎの風。
 僕はニ度だけ訪れたことがあるが、夜の屋上はそのどちらの機会とも違う空気をもっていた。
 屋上は昼休みと放課後にのみ解放される。自殺者が多いこの寛道で、屋上が解放されていると聞いた時には噴飯したものだ。
 しかし昼休みと放課後にここへ訪れた際にその応えを得た。解放時には二人もの教師がここにいたのだ。なるたけ和気を装ってはいたが、油断無く動くその眼は監視の任を帯びていると解釈される。大方生徒会の公約か何かで解放されることになったのだろうが、僕には正気とは思えない。
 さて。
「左右一が感じた気配の主は何処にいるんだろう?」
「人影は無し、か。さっきのはなんだったんだろう」
 そこには長年の風雨で荒れたコンクリートタイルと、身の丈をゆうに超える銀色の柵が、直線的な月影を描きながらぐるりと張られているだけだった。
 人影は無い。
「気のせいだったって事じゃないか?」
「そんなバカな……」
「杞憂で済んだならそれに越したことはないさ」
 まだ「そんな筈は……」と首を傾げている左右一を宥めながら、一先ずその不思議を棚上げし屋上の散策に移った。
 とは言え視界を遮る物の無いコンクリートと柵だけのフィールドでは、そんな散策も数十秒で人事が尽きてしまった。
「進退ここに窮まれり、だなぁ」
「剣戟の響きも止んでしまっているし、どうしたもんかね」
「……」
 帰宅の提案をしようとした僕は、背筋を伸ばしがてら、放言の溜めを作った。
 仰ぎ見た先には月が。
「あれ?」
 月。
 異変というには些細だが、捨て置くには劇的過ぎた。
「出継?」
 月。
 朧月と名状するに相応しい、その濁った真円の輪郭が徐々に研ぎ澄まされていく。
「あれは……」
 月。
 冬空で月が冴えた姿を曝すのは、大気から湿度が抜けて乾燥しているからだ。
「そんな……ありえん」
 月。
 しかし今、季節は春。春の月がその輪郭を芒洋とさせるのは、必ずしも湿度の為ではない。
「ただ事じゃないかも、ね」
 月。
 朧月とはつまり、偏西風やモンスーンと呼ばれる西からの強風に運ばれてきた大陸の黄砂が、月を始めとした星辰の輝きに、紗をかけてしまう為に起きる。
「……」
 月。
 ただ呆然とその怪奇現象に目を奪われていると、突如雷光のような光が目に慣れた闇を拭い去った!
「ぁあ!?」
 まるで、昼。
 真円たるその姿は一瞬にして輪郭と共にその輝きまでもが溶け出し、夜空の全てを塗りつぶした。盲とせんばかりの光に、正しく僕は視界を潰されてしまった。
「っち、畜生、そんなこと、って……そ、左右一! 大丈夫か!?」
「目が、目があぁぁww はああああああんwwww 目があぁぁwwっうぇえwwww」
 視界は利かないが、ムスカの真似をする左右一の声が聞こえた。言葉の端々から抑えきれない笑い声が漏れ出している。
「お前だけ案外余裕そうでなんかムカついたぜww 空から女の子が降ってきたら真っ先にバルスって唱えてやるww」
「そうしたら僕のマグナムを片手に出継の尻を追いかけ姦してあげなきゃねww」
「なんとか目が回復してきたw っていうかマワスの漢字が違う!」
「なんのことかなw まぁその時が来たら容赦はしない、とだけ言っておこうかw」
「そうしたら女の子にもっと暴力的な呪文を教えて貰うよw いっそのこと本当に女の子でも降ってくればいいw 女の子を切実に希望するぜw」
 辺りはもう、先程の白昼のように鮮烈な月光に照らされていないのは間違いない。月の輪郭はもう平生通りになっているかも知れないが、それは朧げな視界のままでは確認しようも無かった。

 僕らは快く哄笑した。
 不可思議な月の異変は気に懸かる。しかし今、こうして冗談を言い合えることも、無事を笑い合えることも嬉しかった。
 だが、声を顰めているとはいえ、風を始めとした雑音舞い踊る中で、それは嫌に大きく響いた。
 ――ドサリ。
 袋を連想した。空気が内在せず、完全密閉された状態のまま水で満たされたビニール袋。
「ほ、本当に女の子が落ちてきちゃったのか?」
「いや……見に行こう」
 音の発信源に近づきながら、空を見上げる。まだ視界は本調子とは言えない。ぼんやりとした午睡の後にも似た霞みが、視界を覆っていた。
 視界の所為で若干覚束ない足元に問う。一体何が、何処から落ちてきたのか? 本当に天空の城なんて物があるのだろうか?
「人にしては小さい……?」
「僕にはまだよく……見えないが」
 微かにその所在が確認できた。確かに小チンマリとした全容は女の子ではないようだ。
 相棒の足がひたと止まったのを、気《け》取った。その間にも僕は落下物の元に寄り、確とした肖像を結ばぬままの視界でそれを掴み挙げた。
「案外重いな。左右一、これは一体――」
「ぅう――」
「お?」
「うわぁぁぁあああ!」
 耳を劈《つんざ》くような悲鳴。普段の冷静な様子からは想像も出来ないほど、左右一は狼狽し、また狂乱に囚われていた。
「お? おい?」
 僕の視界には映らない何かに怯えているのだろうか? 僕は後ろを振り返るが、そこには相も変わらぬ冷たい白の真円を抱えた、群青の帳があるばかりだった。
「左右一? 一体どうした」
 相対者に一歩だけ足を進めた。まずは落ち着かせ、その上で怯懦の所以を質すべきだろうと思ったからだ。
 しかし僕の一歩の何倍もの歩数を用いて、彼は後方にある出口へ走り去ってしまった。僕は呆然としたまま彼の後姿を眺めやり、気が付いた時には彼の足音が聞こえなくなっていた。
 追わないと。
 そう思った時、先程の落下物の何倍もの音を立てて飛来した存在があった。
 その位置は僕の目の前と言って差し支えない位置だ。
 夢想ともいえる茫然自失の内に回復した視力が、その姿に焦点を結ぶ。

 重力の洗礼を受けていたとは言え、いや、重力の洗礼下にあったからこそ、それの正体を見てとれた。そして同時に、先程の落下物にも見当が付く。

 一部なのだと。

 全身の血液が、全身から逃げた。その、魚群が個々に、散り散りに泳ぎ逃れるような、血液の足音が、聞こえた。
 ガチリ、と音がした。
 僕の頭が地面を殴った音、だった。





 茜色の空に時折、遠雷にも似た野球部員達の掛け声が上がる。ここからではラグビー部のランニング風景しか拝めないが、まだ学校の敷地内には大勢の生徒が部活なりクラブ活動に励んでいる時間帯だ。

 校庭脇に据え付けられた無人のベンチに通学用のカバンを放る。先に待ち合わせ場所に着いたのは僕のようだ。
 制服のポケットが振動し、何某かの連絡を伝えた。内容を確認し、返信文を練る。
「今日はごめん。用事はそんなに長くならないと思うから、終わったら連絡するよ、っと」
 最後に送信先が修慈《しゅうじ》であることを確認し、文面を見直してから送信した。
 今日の昼休みに半ば恒例と化したビリヤードに誘われていたが、先約がある旨を伝え僕らは誘いを断ってしまっていた。

 毎週木曜は行きつけの店が学生優待日に設定している為、僕ら四人は学校が終わると玉突きに興じている。
 通常の対戦成績では僕が一番上だが、ジュースのような奢りがかかると僕は滅法弱かった。最後の最後で考えられないようなミスを犯すのも、僕の精神力の弱さ故なのだろう。
 だが賭けビリヤードの常勝者である修慈は美味そうに喉を鳴らしながら、悔しがる僕にいつも言っていた。
『鉄火場で最後の最後に趨勢《すうせい》を決するのは、腕の優劣だけじゃねぇんだよ。愛だ愛。愛は盲目だなんて言うだろ? 勝利の後に待つものをどれだけ愛しているか、そして、羅紗の上で愛を叫びながらも尚、雑念に対しては盲ていられるのか。それだけだ。俺が結果的に出継を上回る理由はここにある! 俺は勝利の瞬間を愛す! 喉を滑るこの液体を愛す! そして他人の財政状態なんか見やしねえからなァ! フヒヒwwウメェwwサーセンwwww』
「盲目なる愛か……」
 ふと足元が翳る。
「タイム、アップ」
 来訪者はそう囁いて隣に腰を下ろした。
「待たせたかな? 色んな意味で」
 頬を緩めながら訪れたのは、約束の相手でもある久栖左右一《くぜいそういち》だった。
「全然問題無いよ。僕も今来た所だし、時間が謎への興奮を醸成させてくれた」
「程よく焦らせたようだね。それなら良かった。特技に焦らす事とか書いちゃおうかな」
「I-NOの二番煎じだって叩かれるっつのww」
「君だってあんなに放置プレイを愉しんでいたクセに、どの口がそんな事を言ってるのかな?
 今日の昼休みの出継と来たら、今にも僕を犯しそうなくらい血走った眼をしていたからねぇ。僕は思わず換えのパンツが必要になってしまう所だったよwww」
「バザロヴァ・ナタリア乙ww つうかもうサクサク本題に入るぞ! まだ入らないってなら、鉄拳をぶち込んで修正してやる!」
「FAF?」
「FA(ファイナルアンサー)の間違いか?」
「FAF(フィスト・アナル・ファック)?」
「まず僕は、一つ目の不審点から導き出される二つの原因と、ライトな不審点二つ、そして僕自身が昨日の昼休みに提示した〝ファーストインプレッション〟を別の視点から見ることにしたんだ」
「スルーか? スルーなのか?」
「視点の軸に据えたのは、怪談の中身が持つ性質と――」
「なんだ。こんどは僕が放置される番なのかい? しかしこれはこれで……」
「怪談の存在意義、って奴だ」
 左右一の雰囲気が変わる。
 視界の端で捉えたその姿は変わらない。しかし聴者、対話者として完璧なスタンスを執っていた。彼にはいくつも美点があるが、その最たる物がこの気配を放つ時に現れる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 咳払いを一つ。何時しか僕らは互いに顔を背け、同じ物を見ていた。
 或いは雲。或いは部活動に勤しむ生徒。或いは謎と、その謎を懐中に呑んだこの学校。
 僕らは同じ世界を見ている。
「以上の思考前提を設けた上で、最初にして最大の不審点〝存在の謎〟の片棒である、『怪談が原典以来の肥大化をしていないと考えられる』という課題に取り組もうと思った。
 まず昨日電話で左右一が言っていたように、この八怪談は存在自体が謎だ。でも現実に存在し、僕らは出会ってしまった。生まれて、生きているのも不思議だけど、それよりも先に成長しない不思議に触れてみようと思った、って感じかな」
 ふむんと唸りながら、左右一は僕の思考をなぞっているようだった。
「そうだね。卵が先か鶏が先かを論じようとしても、鶏も卵も知らないんじゃ論じようがない。論じた上で答えを出すにはまず、鶏と卵を知らなきゃならない。
 つまり君が言っているのは、『鶏が卵から生まれる存在である』という仮定を設け、その先に今居る『鶏は何を食って生きているのか』、『卵はどんな条件下で孵化するのか』を推察してみようじゃないかってことで良いのかな?」
「逆に難しいような気がするけど、喩えとしては良いかも」
 折角だ。この喩えを巧く利用出来ないか。
「っと……集団的意識、もしくは集団的高揚の中で存在する八怪談が鶏であるとしたら、卵は一個人の持っている知識、もしくは個人の口伝行為そのものだ。拡大解釈すれば、その知識を広める伝達者とも喩えられるかもな。
 卵が先か、鶏が先かの論争で答えが出ないのは、八怪談の創世記を知らない上に、堂々巡りになるからだとも言える。
 でも、それだけが原因じゃないんよ」
「と言うと?」
「僕らは八怪談という『鶏』に出会った。〝卵〟に喩えることが出来る、左右一の知識と口伝行為によって孵化した『共通認識されている』という属性を持った、鶏だお。
 でも僕らには卵の存在方法が全然解ったないんだよ。
 卵は簡単に割れるし孵化条件もめちゃくちゃに厳しくて、現存している鶏と卵の数全てが卵と鶏から産まれたとは考えられないし自然じゃないからだ。
 つまり、鶏は卵以外からも産まれてくるのかも知れないという疑惑が拭いきれないんだよなぁ。これじゃあ鶏と卵の話がおかしくなるのも無理はない。
 だから一旦、論争を解決する為に鶏は卵から産まれると結論付けてしまい、その上で鶏の生態を解明することにしたんだ」
「いい喩えだ」
 横顔の賛辞に、横顔の笑顔で応えた。
「視点軸のそれら〝存在意義〟や〝怪談の性質〟は、怪談を広めようとする行為にも関連があるんだ。思考前提を強化する意味でも、僕達が怪談を聞くに至った過程に擬《なぞら》えて話すと、まず僕は怪談を聞き、そして選ばれた」
 時を止められたかのように凍り付いたクラスメイト達の存在が、逆に僕らの特異性を浮き彫りにしていたとも言えるからだ。
「この現象を分解すると、怪談を話した者。怪談を聞いて選ばれた者と、選別からあぶれた者の三様に分かれる。怪談を話す者はその通りに、怪談の拡散を促す存在だ。卵であり、卵の殻を割ろうとする行為と例えられるかもしれないが……」
 恐らくは間違っていまい。
「怪談を聞き選ばれた者は即ち、新たな卵を生む可能性を秘めた、鶏だよ。そしてこの鶏は発信者を助ける、ないしは発信者と共同歩調を執る者に分類されるのかもしれない」
 左右一が、ふぅと頬を緩ませたのが解った。
 そうだ。この認識は、最終結論に達しているからこそ得られる物だ。そして評した語句も、最終結論に立っている事を匂わせるレトリックを用いておいた。
「あぶれた者達は、選ばれずに金縛りに遭ったと言う外見通りの事実だけでなく、吹聴者と被選別者を八怪談への興味を促す、補助剤の役割をしているんだと考えられる。卵でもなく鶏でもないが、全く無関係とは言えない、知識を八怪談へと醸成させる〝餌〟とでも言うべき存在だろう」
 左右一が無言で頷くだけだ。
「それは吹聴者が聴者を、“怪談を聞くに足る者なのかを選別する無意識の媒介者”となっているように、聴者もまた、“怪異の具現として吹聴者と被選別者の日常を掻き乱す、アジテイター”としての役割を無意識、未認識の内に課せられているんだ」
 音を立てるように深く、息を吸う。
「丁度僕らが周囲の異変に泡を喰って、八怪談への興味を大きくしたように……正直怪談を聴く段にあっては、世間話と大差ないよ。誰も興味なんて持たないし、ちょっと変だな位が精々だ。僕らは出会ってすぐに深く考えたけど、あの異変がなかったら確実に記憶は風化し、再考の余地なんて無かった。今もこうして怪談について語っているのは、あの怪異が引き金となっている。これは疑い様の無い事実だしな」
「そう。僕達はまんまとシステムに囚われてしまっているんだ」
 言葉とは裏腹に、左右一の声音に自嘲するような響きは無い。
「そうだ。確かに、八怪談の設計通りに進んでるよ。……ここまでは」
「そうだね。ここまでは」
「……」
 どんなに留めた所で、左右一の心は覆らないのだろう。僕はどうするべきなのか?
「……どうしたの?」
「ご、ごめん。続けるよ?」
「うん。然るべく」
「さてここで、『八怪談はどうして原典の枠を外れないのか』という問題になる。存在し、伝播するのは語られるからだけど、語られてしまえばその過程でどうしても変容せざるを得ない。八怪談は『存在』と『不変容』の完全な矛盾によって成り立っているけど、存続方法を度外視してしまえば、実は答えの出しようがある」
「うん。つまり、八怪談は語られないという結論が出る訳だね」
「その通り。でもそれは識者が八怪談の持つ謎に興味が無くなったという意味ではなく、むしろ逆で、謎に対して論じる必要が無くなったと考えるべきなんだ。左右一は言ったな。『恐怖感が軸に無く、どこかファンタジックな語句選びは、聴いた者を誘っているのが目的であるような雰囲気すら見せる』と。そしてタイトルとして八怪談の名が与えられていること。
 本来冠せられるべき都市伝説の名がもつ一般的なイメージは、『本物か偽者か解らないもので、初めから疑って懸かるべきちょっと恐い話』だと評すべきだろう。民俗学のフォークロアを単に日本語訳しただけであり、学界の著名人が定義しているフォークロア、都市伝説との感触的な差異は否めないけど、やはりこう捉えるべきだ。
 反対に、怪談の方は一般的に広く親しみが持たれてるよ。妖怪が出てきたり、総じて不思議であり、肉感を伴わない創作かもしれないという先入観が、話し手や聞き手を安心させ、暫時思考を放棄させる。
 親しみを持ち、論じ、怪異に出会う。初めから完全なフィクションだと念頭に置いて異変に臨む事により、一層身に降りかかる心的衝撃は大きい筈だ」
 グラウンドに程近くせいだろうか? 砂っぽい空気を肺一杯に吸い込む。
「この怪談、聴く分には内容に意味は無い。
 でも怪談を聞くだけには留めておかない工夫が随所に施され、それがそのまま役割として機能しているんじゃないかと思うんだ。
 左右一の違和感どおり、聴者を八怪談の内側、内容に誘っているんだよ」
「選別されなかった者達の怪異然り、内容然り、表題然り。そうだね。この八怪談は興味を持たせるように作られているよ。
 じゃあ、何故論じる必要が無くなると考えるのが自然なのかな?」
「それは……恐らく多くの遭遇者は、怪談の内容に踏み込むからだ。怪談の内容が指している物は理解のしようもないけど、ゲームのようなことかも知れない。
 ……次のステップに踏み込んでしまえば怪談の内容は意味が無いんじゃないか? 今までの推察を重ねた上で八怪談を見直せば、内容の多くはゲームの結果や報酬として待つ事象を思わせるし」
「そうだね。本やゲームの感想を語る者が、手に取る契機となったであろう、帯に振られた煽り文句を語ることはまずない。展開の妙や自分の進行状況について、キャラクターの人格やグラフィックについて語るのが自然だ」
「そうだね」
「亡霊の剣戟を除けば、だけど」
 言おうか、言うまいか。
 恐らくこれは決定的な一言になるだろう。当然左右一も気が付いているはずだ。
 どちらにせよ、奴を留めねばならない。もう決断を下し、僕に伝えている。だから言っても言わなくても対立は避けられない。
「……」
 しかし僕は言わなかった。理由は解らない。無知でいられたら、無知を装う事で彼も忘れてしまうように願ったのかも知れない。
 僕は、臆病者だ。親友を助けたい。でも傷つきたくない。
 最低の臆病者だった。
「……じゃあ『花は孤高の騎士を乞う』というのはどうかな? 僕達は怪談との出会いは果たしたよ。これはある種、形態的には救援要請とは呼べないだろうか?」
 その口調は試すようなものではなく、素直な疑問としての論調だった。
「正直そこには悩んだよ。急に、しかも唯一乞うって形で意志が示されているのは、特異と言わざるを得ないから。でも主語が花、というのがどうにも引っかかるんだ。八怪談の文体を全体から通して見れば、『花は~』という一節も例に漏れず、空々しく何処か他人事な印象だし」
「そうかもね」
「やはりこの一節も、システムに囚われ、ゲームに参加した人が遭遇する内容なんじゃないかと思うんだ」
 大きく息を吐く。
「でも選ばれた人が踏み込んでいってるだけの現状じゃ、やっぱり怪談は存続しないし、原典が変容しない確定条件と定めるには力不足だ。
 最大の不審点『存在の謎』の両輪である『存続方法』と『不変の原典』。
 これらを解決する推論はもう、一つっきりしか考えられない。
 左右一の言っていた『原因と考えられる二つ』のうち一つは、さっき僕が言ったように『論じる者達がいなくなってしまう』可能性」
 そして。
「……もう一つは……故意に原典のみを定期的に、流布している存在がいるって事だ!」
 僕はこの、唯一にして最悪の結論に到達した時、震えてしまった。
「さっきの鶏の話を引き合いに出せば、誰かが何処かから成長した鶏を野に放ち、卵だけでは埋められない鶏の総数と卵の孵化確率差を埋め合わせていることになる。鶏は美味しい! 愛嬌だってある! でも訳が解らないよ! 鶏は食べられる為に誰かがそこに設置する装置だ!
 鶏は……怪談は撒き餌なんだ! 選別し、扇動し、誘い込む為の!」
「……」
 僕は黙ったままの左右一に向き直り、言い放つ。
 彼はこの意味が解っている。この怪談が担っているのは単に、誘う役割だ!
 しかし、だからこそ最悪なのだ。
 気付いているのだろう? 左右一!
 見越しているのだろう? 親友よ!
 それなのに何故、何故……
「左右一! その世界は僕らの踏み込むべき世界じゃない!」
 何故、僕の方を見ない!?
 何故、そうも眩しそうに、危険を孕んだ学校を見遣る!?
「お前が気付いていないはず無い! 何故怪談単体による定期的な撒き餌が必要なのか!」
「……」
 答えないのか、答えたくないのか、もはや聴きたくもないのか!?
「……それは……定期的な欠員が出るから! 口伝による自由発展にまかせた怪談の拡大だけでは、充分な人数が集まらない程に脱落者が出てしまうから!
 きっと誘い込まれゲームに参加した人たちは、再びその噂を論じないだけでなく、論じられなくなってしまうんだ! だから噂の原典が度々供給されるんだよ!
 参加して感覚が断たれ、感情を奪われ、不幸な結果を負わされた人たちの補填要員が必要だからに決まってんだろ!」
 何故こちらを向いてくれない!
 さっきまでは確かに同じ世界を見ていた! でもそれで終わりだ! 留まるべきなんだ!
「そんなに大輪の王を見てみたいのか!? どんな内容かも解らない祝福が、そんなに魅力的か!?
 気が付いているはずなんだ! 『孤高の騎士』と、ある程度の人数を集めようとする八怪談の意図するモノは! たった一人の人間を! 屍山血河の上に立たせようとする闘争だと!」
 顔中が涙でぐずぐずになってしまった僕はそれでも、感情的な言及を止められなかった。
「僕は嫌だ! お前が傷つく所なんて見たくない! 左右一が居なくなってしまうなんて認めない! 僕達は笑い合うんだろ! 進級して勉強が辛くなったって、もし別の大学に入って、別の人生を歩む事になったって、僕達はみんなと笑い合うんだ!」
 泣き崩れ、地面を汚す事しか出来ない僕の肩に、優しく手が置かれた。
 顔を上げた先にあるのは、こちらを真っ直ぐに見つめる優しく、強い双眸だった。
「昨日電話で言ったよね」
「『僕は八怪談に挑む』……だろ」
 うん、と呟きベンチから腰を上げた親友。
「昨日君から電話がかかってきた時点でね。僕はもう決心していたんだ。他の大勢が帰ってこないと思われるような大きな謎に挑む事をね」
「理解できないよ……」
 視線を避けるようにして、彼は寂しそうに笑う。心が痛くなるような笑顔だと思った。
「男の顔は履歴書だ。……いい言葉だよね。僕はいつからこんなショボくれ、覇気の無い顔になっていたのか、たまにアルバムを紐解くんだ」
 空を仰ぎ、紫色に染まりゆく夕雲と向き合った彼。
 古来、紫は赤、金、黒と並んで王権の象徴色だった。
 しかし現代の心理学での紫は、欲求不満を表す。
「僕は最初、ショボンって渾名が大嫌いだった。勿論みんなを恨んでいるわけじゃないけどね。
 ……心を見透かされているようで、凄く恐かったんだ。僕の曲がった心が表情をも歪めてしまっているのを棚に上げてね。……昔は冷静じゃいられなかった」
 知っている。
 始めたのと同じように、その渾名を立ち消えにさせたのが、他ならぬ僕だからだ。
「出継。自分で言うのもなんだけど、僕は情報収集に一角の自信がある。でもね、何より情報収集が好きなのさ。知るという行為自体がね。
 でも、もっと楽しいのはそれを話す事かも知れない。ある日そう気付いた。僕はいろんな人に教えたがったし、聴いてくれる人の顔が移り変わるのを見て気分が一層良くなったよ」
 確かに彼の持ってくる情報は凄い。何度も助けられ、何度も感謝をし、何度も畏敬の念を禁じ得なかった。
 僕の表情にも、彼は喜びを感じてくれていたのだろうか?
「次第に情報収集の依頼まで舞い込むようになった。僕はそれを一も二も無く承諾し、依頼者にそれを与えた。合法非合法を問わずね。
 ……お金が絡むのも自然な成り行きだった。僕はいつの間にかセミプロになっていたんだ。同期して、顔も知ることができない、個人情報の尻尾さえ掴ませないような人間からの依頼まで舞い込んで来たよ。
 その頃さ。アルバムの僕の表情が変わり始めたのが。
 初めは友人など特定個人の為、自分の為。次第に、顔も知らないどこかの誰かの為。それが嵩じて金銭が得られ、僕の名や、腕が有名になる。労働者に言わせれば最高の就労過程だと言われるだろうね。
 でも違うんだ! 何よりも僕のハートが物語ってる! 写真の中の過去が問いかけ続けているんだ!」
 嘗《かつ》て、しょぼくれと呼ばれた彼が語気を荒げている。僕はその物珍しさに、少なからず動揺した。
「勿論嫌いじゃない! 人の為になるのなら、喜ぶべきなんだ!
 ……でもダメさ。僕はいずれ潰れる。
 何時の間にか摩り替わっていたんだ。知識を前にした僕の心が楽しい、教えてとあげたいと感じるよりも先に、「いつか金になるんじゃないか?」そんな気持ちへとシフトしていた!
 金銭は労働を通じて得られる。そんな当然の意識すらが薄れてしまいそうだったんだ!
 自分の食い扶持位はものの数時間で稼いでみせる! でも……」
 一際大きく息を吸い込み、それが身体の体積を膨らませた。
「僕はまだ、完成された人間なんかじゃない! もっともっと勉強して、友達と遊んで、自分の可能性を広げて見せる!」
 顎の先から大粒の汗を滴らせ、気炎を上げてるのだ。
 未だ止まぬ空に対する咆哮。しかし独白。そんな雰囲気があった。
「……僕はもう少し……もう一度、自分の為に謎と戦いたいんだ!
 非合理の塊で、頭脳プレイとは無縁に思えるこの八怪談に挑みたい!
 この謎を! これを見逃したら僕は一生、死体のように生きることになる!
 一度幸福へ飛び立った鳥も、いつかは地に這う!?
 盛者必衰だけがこの世の真理と据えるならば!
 幸福など知らなければ良いと言うのか!?
 ふざけるな! 幸福を追求するのが人間の業であり、価値だ! 何時か地に塗れるのならば、誰も見たことの無い高みまで飛んでみたいじゃないか!」
 息も絶え絶えにショボンは僕に向き直り、自身の腕時計を見た。
 その目が濃く充血している。
「八怪談が選んだのが君だけで無く、他の親友を含んでいたとしても、声をかけるのは出継だけだったと思う。
 そして今から四時間後。午後十時を、次のタイムアップにしようと思う。もし一緒に八怪談に挑むと言うならば、それまでに連絡を寄越して欲しい。
 気が付いているだろう?
 結果や報酬、目的や過程を匂わせる八怪談の内容で唯一、亡霊の剣戟のみが新規介入者誘導の為に、時間情報を持っているのを」
 やはり僕らは、行くべきか行かざるべきかの問答を重ねるようだ。
 左右一は引かないだろう。危険さえないと言うのなら、僕だって引き止めなどしない……だけど待ち受けるのはどう考えても、鬼と蛇のパンデモニウムだ!
 しかし――
「左右一にとって、謎ってなんだ?」
「敵であり、恋人かな」
「八怪談ってなんだお?」
「出会えた事が既に、最高の喜びだね」
 もう、ダメだ。
 鼻の奥がツンとする。
「……な、何故僕だけを誘おうと思う?」
 滲みゆく視界。左右一の顔が覇気に満ちた。
「君が、君だからさ」

 最高の喜び。
 そこに並び立つに足る存在。
 再び湧き出した涙は、決して悲しみややるせなさを拠り所としてはいない。
 むしろ真逆の感情だった。
 選ばれたのだ。
 八怪談にではなく、親友〝久栖左右一〟に
 ならば僕に他の選択など存在しないはずだ!
「ぼく、もい、行く!」
 激情を抑えようとするが余り、左右一の顔を見ていられない。
 僕は地面を向き、目を瞑り、そう答える。
「僕は言った筈だ! 僕らが支えあっていれば、どんな困難だって乗り越えられるって!
 僕が止められないのならば! 隣でが左右一を支えてやる!」
「……ッグ……ありがとう」
 左右一の表情は見えないが、彼の言葉も確かに涙に濡れていた。
「さあ! そうなったからには計画を練らないとね! 十時に僕の家に来て欲しい」
「は、把握」
「十一時には学校の中に居たいからね! さっさと……。さっさと……」
「……?」
 左右一からの言葉はいくら待てど訪れない。
 この後は確か「さっさと帰って宿題を終わらせて、必ず剣戟を聴いてみせるよ!」と繋いだはずだ。

 ……そう。

 これは

 ……夢だ。

 この後僕らは警報装置が付いていない、園芸用具室の換気窓から忍び込む計画を立てる。
 そして彼は建造物不法侵入のウォームアップの為に、見回りの手薄な北校舎の四階から探索をスタートすると言った。教室は盗まれるような物が少ないから、警備員も手を抜き易いのだと解説までしてくれたのだ。

 しかし、やはり言葉は降ってこない。
 僕はわりかし、夢を覚えている方だ。だが何も起こらず、何も変化のない夢は始めてだった。その癖に数時間前の出来事とは言え、再現率は完璧。文句無しのハイ・ファイで、明晰夢というおまけつきだ。

「左右一?」
「……居るよ」
「これはどういうこ――」
「眼を閉じたままで聴いて」
 不可解な言葉だった。涙で濡れたまま交睫した目元が痒い。

「さっさと帰って宿題を終わらせて、必ず剣戟を聴いてみせるよ!」
「左右一?」
「そして」

 そこで僕の魂は砕かれた
 そう、親友が言った。
6, 5

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