腐臭漂うアパートの一室に、一人の男が横たわっていた。
その体は腐った鳥ガラのように痩せて血色が悪く、半開きになった眼球は、腐っておちそうなほど淀み、カビのような無精ひげを生やした口からは、粘液じみた涎を垂れ流していた。わずかに上下する胸だけが、彼がかろうじて生きていることを告げている。
その男の名前は、倉井 仁(くらい ひとし)。
最終学歴、某五流大学卒。今をときめくニートである。
三浪二留という華々しい経歴をひっさげ、両親のコネでなんとか就職。だが、出社日に「今日はどうしても欲しいエロゲの発売日なんで、自宅作業します」という理由で休み、以後、二度と会社に現れる事はなかったという伝説を持つ。
今は一人暮らしの傍ら、両親の仕送りを頼りに生きている。
そんな彼だが、最後に布団に入ってから、実にもう七日が経っている。
決して体調が悪いわけではない。
「もう起きるのが面倒くさい」
ただそれだけの理由だった。
女子高生五人がバンドを組んで活躍する、某人気深夜アニメが終わることを知ったことがきっかけで寝込み、以来ずっとこのままなのである。
「だるい……」
彼は、吐息とともに呟いた。
(もうひと眠りして起きたら、なんか食お……)
この七日間に、五十回くらい思った言葉を、彼はまた心の中で繰り返す。何も入ってない胃袋は、空腹にうなり声を上げ、水分が失われた皮膚は細かくひび割れていたが、彼は起きようとする気配もない。怠惰もここまで極めれば、もはや美学とすら言っていいだろう。
だが、彼の体は着実に、生命維持の限界へと近付いていた。
もしこのまま眠りについていれば、彼はそのまま二度と目覚めることはなかっただろう。そしてアニメ終了に伴う餓死という前代未聞の死因を残し、ワイドショーと心理学者に格好のネタを与えたことだろう。
だが幸いにも、窓から飛び込んできた小さな影によって、その運命は避けられることになる。
ガラスの割れる耳をつんざくような音に、倉井はつかの間意識を取り戻した。開いていた瞳孔が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
窓のそばに、奇妙な「生き物」が浮かんでいた。三頭身の全身は黒一色で、背中には蝙蝠のような羽根が生えている。手には三つ又のホコのようなものを持ち、頭には体と同じくらいの高さのシルクハットをかぶっている。
(なるほど、幻覚だ)
と、倉井は思った。
顔や体のつくりは世に言う「小悪魔」というやつそのものだ。ということはつまり、コイツは地獄からの使い、ということなのだろうか。
(どうせ幻覚を見るなら、普通ここは律っちゃんだろ、常識的に考えて。くそっ、俺の愛が足りなかったのか……?)
なぜか悔恨の念が胸に浮かんだが、すぐにまた無気力が上回った。
彼はゆっくりと目を閉じる。
(ま、どっちでもいいや。どうせこの世に未練はないし、連れていくなら勝手に連れて行ってくれ。しかし、地獄かあ。悪魔コスの律っちゃんもいいなあ、ゲヘヘ……グヒョ……ヘヒョ……)
そして、彼は意識を失った。
古来より恐れられた異次元の邪神のような、見るものを発狂へ導くようなおぞましい表情(おそらく笑顔)をその顔に浮かべたまま、ゆっくりと彼の全身が弛緩していく。心臓が止まるのは、もはや時間の問題だった。
窓から侵入した小悪魔は、そんな彼の醜態を、無表情に見つめていた。
そして、不意に愛くるしい顔に歪んだ笑みを浮かべたかと思うと、
「合格ッ!!」
……甲高い声で、そう叫んだのだった。
この日の前夜、ここ新都町で、黒と白の二対の流れ星の目撃情報が記録されていた。
近くの気象台やカメラからは何も観測されなかったため、単なる錯覚として片づけられたが、あまりに多い目撃情報に、市役所や警察は困惑したという。
そしてこの日を境に、町に奇妙な噂が流れ始める。
豹変する住民。
徘徊する謎の怪物。
飛び回る小悪魔のような生物。
全身タイツの不審者。
この物語は、「世界一無気力怠惰な男」倉井仁(30)が、世界の平和を守るために戦った、その真実の記録である。