ずぶ濡れのまま寄宿舎に帰ったトマスは、服を脱ぎ体をタオルで拭きながらベットに座った。
視界に入るのはゲイルの使っていたベットと、まとめられた私物。それからゆっくり目を逸らすと、さっき借りた女物の傘が入口に立て掛けてあるのが見えた。傘から滴が数滴落ちるのを見てさっきの女性を思い出す。
「傘、返さないと…」
その呟きが誰もいない部屋で響く。いつもなら、ゲイルのやかましい声にかき消されてしまうような小さな呟き。それがやたら大きく聞こえたことで、トマスはよりゲイルが死んだと実感する。
流れる涙、思い浮かぶゲイルとの思い出。
もう涙は出なかった。それがよりゲイルの存在が過去のものであることを思わせる。
「…いってきます」
誰もいない部屋にそう呟いて、トマスは部屋を後にした。
その日からトマスは早朝仕事に行く前に、2,3日に一回墓地で傘を貸してくれた女性を探すことにした。無論、あの女性はいつ来るかもわからない。しかし、少しでも何か目的があることが、今のトマスにはありがたかった。
そうやってトマスが墓地に出向くようになって2カ月ほどたった頃、例の女性の姿を見つけてトマスは目を見張る。
手を組み、墓石の前で祈りをささげる女性のその姿は、何者にも犯しがたい神聖なもののように見えた。
5分ほど経っただろうか、女性は墓石を見詰めながら悲しそうな表情でゆっくり立ち上がる。近くにいたトマスにようやく気付いた彼女は、やわらかな笑みを浮かべて話しかけてきた。
「おはようございます。今日は静かでいい朝ですね」
その優しげな表情に一瞬見とれてしまったトマスだったが、ふと我に返って自分がここにいる理由を思い出す。
「…あの、傘、ありがとう、ございました」
緊張して少しどもってしまうトマス。元々トマスは人と話すことが得意ではない上に、相手がこんな美人では無理もない。
「ああ、あの時の方でしたか。風邪をひいたりしませんでしたか?」
トマスの挙動不審ともとれる話し方でも、女性は全く気にもしない様子で話す。
「…はい、おかげさまで…」
そんな女性に気の利いた返事もできない自分をトマスは呪った。こんな時ですら臆病な自分が恥ずかしくてしょうがない。
そんなことを考えながら俯いてしまうトマスに、女性は声のトーンを落として話しかけた。
「あなたは…」
何かを言おうとして女性は口をつぐむ。さっきとは打って変わって暗い表情を見せる女性に、トマスは自分の態度が原因ではないかと気が気ではなかった。
「あなたは大切な人を亡くされたのですか?」
その言葉にトマスの体がビクッと震える。それを見て慌てた女性はすぐに慌てて謝罪の言葉を口にした。
「すいません。不躾な質問をしてしまって…」
「…いえ」
早朝の墓地に流れる気まずい雰囲気。それに耐えかねたトマスは、勇気を振り絞って口を開く。
「…友人が、死んだんです。騒がしくて、行動力があって、お調子者の友人でした…」
「……」
「ただ、悲しかったのはそれじゃないんです」
「え?」
トマスは空を仰ぐ。悲しい顔を見られないために、涙がこぼれないように。
「勿論友人の死は、悲しい、です。でも、そんな友人が死んでも、何も変わらない。それが、無性に、悲しかったんです」
トマスは目を瞑る。
そう、何も変わらない。感情を別にすれば、ゲイルが居なくなっても、すぐに別の人間が任務に就く。それですべて元通りなのだ。
無論騎士と言う職業をしている以上、こういったことは覚悟していた。だが、それでも、自分達の小ささを理解するには十分だ。
「そう、ですね。自分の大切な人が忘れ去られてしまうのは、悲しい、です」
女性の声のトーンが下がる。トマスが女性の方へ視線を戻すと、女性は俯いてスカートを硬く握りしめていた。
「家族、ですか?」
「…いえ、私の乳母でした。3か月前に亡くなりましたが、私を実の娘のようにかわいがってくれて…」
墓地に静かな風が吹く。二人が沈黙する中、風の音だけが響き、同じ悲しみを抱えている二人の横を通り過ぎた。
「あの、もしよろしければ、あなたの友人と私の乳母の月命日に月2回ほど会って話をしませんか?一人で墓参りに来ると、なんだかよくないことばかり考えてしまうので…」
「…そう、ですね。一人でいるよりは――」
女性の提案を了承し、ふとトマスは気がつく。まだ互いに自己紹介すらしていなかったことに。
「あの、そう言えばあなたの名前は?」
「私…、私はレ―ヴェリアと言います」
「自分はトマス、トマス・フィールトンです。これからよろしくお願いします」
そう言いながら握手をする二人。
同じ悲しみ、同じ悩みを抱えた二人はこうして月に2回会うことになった。
ただ、ここでトマスは気にも留めなかったが、レ―ヴェリアと言う女性はファーストネームしか名乗っていない。
もう少しトマスが利口であったり、思慮深い人間だったならば、あんなことにはならなかったというのに…。