トップに戻る

次 >>

ジェイミー・ブラウン二世

単ページ   最大化   

◆ジェイミー・ブラウン二世

「すみません」 
 僕の部屋にまでよくその声は聞こえた。おかげで、目がすっかり覚めてしまった。
 一体全体なんだろう。こんな時間に何の用があるのだろう。 
 もう夜も遅いのは相手も分かっているようで
「夜分遅くすみません」
 言い直した台詞が僕の耳に再び聞こえた。窓からかすかに漏れる街灯のオレンジが、ずいぶんと暖かく感じる。
 なんだか、しわがれた声だな。と思いながら僕はベッドから身を起こした。足取りが重い。眠いからじゃない。
 ただ、数日前から風邪をひいたみたいで寝込んでいただけなのだ。
「すみません」
 階段を一段降りたら、また声が聞こえた。なんだろう。ずいぶんと焦っているような気がする。
 宅急便だろうか。いや、こんな時間にくることはないだろう。
 あぁ、でも万が一ということがあるか。
「すみません、待ってください」
「待ってます」
 階段の電気をつけ忘れたので、なんだか奈落の底に落ちていく心地がして気味が悪い。
 僕は丁寧に返してくれた返事の対して口の中でもごもごと何かを言うと、震える足で階段を降りた。
 やっぱりまだ、風邪は治っていないらしい。頭も心なしか痛くなってきた。
 お腹も痛い。どちらかというと、尻のあたりが痛い。いや、そこは風邪とは関係ないか。

「まだですか」
 相手の苛立った声で、僕は我に返る。
 そうだ、待たせていたのだ。すまない、そう思って僕はようやくドアを開けた。
 いつのまにか、なぜだか知らないがドアの前に立っていたのだ。
 怪しく光るガラスの向こうの人影が、ゆっくりと動いた。焦点が、少しづつ闇の中へ吸い込まれていく。
 なんだかずいぶんと人影が大きい。僕はどうにも恐れ多くなってしまって、無意識に頭を下げた。
「お待たせしました」
「どうも、こんばんわ」
「あ、はい。こんばんわ」
 僕は頭をあげた。そこには大きなサルが立っていた。
 なんだ、サルか。
 僕は近所の猫に対してあやすような気持ちで、ちょっと声色を桃色に染めながら笑った。
「どんなご用件で?」
「ええとですね」
 サルは、僕より頭二つぶん背が高かった。僕の身長が百六十センチだから、彼はいくつぐらいになるのだろう。
 背が高いからかどうかはわからないが、なぜか目の前のこのサルはどうも堂々としている。
 僕の視線が正面に飛ぶと、真っ先ぶつかるのは彼が身につけているスーツのネクタイだった。
 最初は暗くてよく分からなかったが、どうやら彼はサルのくせにいっちょまえに社会人らしい。
 僕は彼が人差し指を付き合わせて何か考え事をしてるのを横目に、そのパリッと整ったスーツに見とれていた。
「ちょっと、かくまってほしいんですよ」
 赤い、人によっては派手目に感じるネクタイを凝視していたら、彼が思いだしたように言った。
 なんだ、そんなことか。
 僕はちょっと拍子抜けした。
 このご時世、こんな夜中ならいきなり頭を撃ち抜かれてもおかしくない。
 突然刃物で切りつけられても、映画のように相手を蹴りとばすことさえできないのだ。
 もしこのサルが、針のように固そうな剛毛がジャングルのように生えている右腕で僕を殴ったらどうなるか。
 僕の頭はスイカのようにぱぁんと割れてしまうだろう。客観的に見ればコメディだが、僕にとってはトレジディだ。やめてもらいたい。
 だいぶ話がそれたが、早い話がよかったということなのだ。
 そういうわけで、僕は相変わらずの愛想笑いを顔に張り付けたまま、うなずいた。
「いいですよ」
 サルはずいぶんと喜んだ顔をした。
「本当ですか!?」
「うん。本当」
「いやぁ、うれしいなあ」
 たいそう嬉しいのだろう。サルはごわごわの手であたまをざわざわとかきむしった。
「いやね、おいら昨日動物園で飼育員殺しちゃって。いや、事故ですよ事故? おいらがたまたま食べてほうっておいたバナナの皮で、まつこが勝手に滑って転んで死んだんだから」
 急にまくしたてるようにそう言うので、僕はただうなずく。
「まつこはとてもかわいかったんですよ。そんなかわいい女の子をおいらが殺す? ふざけちゃいけませんよ。おいら、たとえ同じ同胞のマディ・キングストンにどんなにムカついたって殺しやしないのに」
 固有名詞がわんさか出てくるので、僕はうなずくのをいい加減にやめにして、ちょっと、と前置きをつけて台詞をはさむ。
「まつこが飼育員。えっと、キングストン君が君の友人?」
「そうです。まぁ、キングストンはおいらの友人とは言い難いけど」
「で、君の名前は?」
 僕が手のひらを返しつつ、人差し指で文字通り指差すと彼は咳払いをした。
「ジェイミー・ブラウン二世です」
「へぇ。ジェイミー君か」
 僕の名前は中野東(なかのあずま)と、言おうと口を開きかけたら、彼は突然土下座をはじめた。
「おねがいです。罪もないのに追われていて、ようやくこの辺りにやってこれたんです。元々あんな閉鎖的なところで暮らしてたから、方向感覚も弱っちゃってて……」
「その理屈はよくわかる。僕だって、こうして風邪に弱った今は階段すらおっくうなんだ」
 これからもう一度、寝室へと続くかの階段へと足を向けなければならないと考えると、今からでも気が重くなる。
 しょうがないんだけれど、なんだか腑に落ちない。
 けれど、ブラックチェリーのような瞳をちかちかと弱く輝かせているジェイミー君の頼みだ。
 なんだか彼の瞳を見ていると、そんなことがどうでもよくなる気がした。
「とりあえず、ジェイミー君」
「はい」
 大きな体をゆっくりと起こしながら、ジェイミー君は返事をした。やっぱり声が低い。
「家に入ってくれ。こんな薄暗くて気味悪い玄関じゃなんだろう。何か飲むかい?」
「あ、おいら結構なんでもいけるクチなんで」
「おぉ、そりゃいいや。じゃあ適当にあるもので、少し飲もうじゃないか」
 僕が弱々しく笑うと、ジェイミー君は黄色く染まった歯を、ずらりと見せつけて小さく笑った。
 なんだか面白くて、僕はさらに笑った。彼も、小さな笑いを大きな笑いへと変えていた。
 もちろん、サイレントに。
 僕は、ジェイミー君を先に家の中に入れると、ちょっとまわりを確認する。
 まだ、さっき起きたばかりに感じられる、オレンジのぬくもりが残っていた。
「おやすみなさい」
 寝静まった住宅街にそれだけ言って、僕はドアをやさしく閉めた。
 
1

後山桃介 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

次 >>

トップに戻る