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(タイトル未定)

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 眠れぬ夜に何を書けばいいものやら。今日あったことでも記そうか。しかし死なない私にとって今日というものに格別の意味はないのだ。今日が、百年前にも訪れたいつぞやの今日でなかったと誰が言い切れよう。日が暮れる頃合に起きて、そしてあの眠らぬ人びとの巣へと赴き、路銀を費やしたことが? 私はもう数多の夜を今日と同じく過ごしてきた。私は死なぬ身になってから、一度だって明日とかいう新参者に我が心の戸を叩かれたことはないのだ。
 しかし、どうも、こうして机脇のメモ帳にかじりつくようにしてペンを走らせていることから、私には書くべきことがあるらしい。そして、私は、自分がいま、この寂れた宿で誰と同室しているかを思い出すに至った。あまりに受け入れがたき現実であったので、幻影をまとわりつかせることが得意な我が脳味噌さまは、宿主である私から冷静さと分析力をいささか徴収していらしったようなのだ。私は振り返って、ベッドの中で、ネグリジェ姿になっている彼女を見る。
 彼女の名はD。
 このメモは特に破り捨てていくつもりもないので、ここでは彼女の正確な名前は伏せさせてもらおう。私は彼女に私にかかずらわったことによって生じるであろうあらゆる災厄をできるだけ縮小しておきたいのだ。そうしておくことで、この呪われた身が、いくらかの清らかさを取り戻せると愚かにも信じているのだ。信じたいのだ。何百年も夜を生きていると、何を信じていいのか、何を信じてはいけないのか、そんなことはどうでもよく、何を信じる気になれるか、という問題が常にまとわりついてくるようになる。その障壁さえ乗り越えてしまえば、その向こうに待ち受けているものが真実であれ虚偽であれ私にはなんら問題がない。私は人間をやめたときにそういったことに関する、一切の信仰を捨てたのだ。
 私は、彼女がベッド脇に畳んで置いている修道服を見た。青と白を基調にした、見るだけで清らかさを想起させる色彩に染め上げられた布の上に、銀のロザリオが置かれている。ロザリオ。小さな数珠で繋がれた銀のロザリオを見ているだけで私は胸に痛みを覚える。いつか彼女がこの穢れた身とその中に宿る腐臭に感づいて、その十字架を私にかざしこの私に清らかなる神の代言たる嘲罵を浴びせ、この心に二度と消えぬ深き言葉の爪痕を残すのではないかと考えると悪寒と吐き気と待ち遠しさで、とても眠れたものではない。
 そう、私は断罪されることを望んでいるのだ。断罪されるために生きてきた、と言ってもいい。死に場所を求めていたと言えば聞こえはいいが、その実、己で己を罰することができず、なおかつ罰を与えてくれる存在に高尚さを求めてしまったがために、おめおめと何百年もこのじめじめした黒い大陸を彷徨う羽目になったのだ。そして私は今日、正確には半日ほど前、宵の口、そして酔いの口でもあったその時に、彼女、Dと出会ったのだ。
 私は酔っていた。酒は一滴も飲んではいなかった。だが、確かに酔っていたのだ。しかも悪酔いだった。私は残り少ない路銀を、失えばまたこの手を罪に染めねばならなくなるであろう人間が生み出した幻想をまとわりつかせた金属の欠片を、神の指先と己の頭上にのみ降る天上の雨に委ねていた。路銀はみるみるうちになくなり、私はその快楽に溺れていた。私は追い詰められることで、おのが罪の正当性を打ちたてようとしていたのだ。それで罪がなくなるわけでもない、だが、そうせざるを得なかったのであれば、それは私とその現実そのもので罪を折半してもよさそうな事由になりそうだ――穢れた魂の持ち主にふさわしき卑しさで、私は己の罪が許される瞬間を待ち望み、路銀を制服を着た青年の手元へと流し続けた。
 私の隣に、いつの間にかひとりのシスターが座っていた。銀髪のシスターだった。最初見たときは、服飾屋が商売道具の人形でも忘れていったのかと思った。彼女には生気がなかったからだ。青白い肌、熱を感じさせぬ冷たい瞳、だが彼女はあまりに美しかった。だから私は、またぞろ盗賊あがりの――といっても私の『時の目』から見た場合のことだ――王侯貴族連中が精巧な人形を作らせることに凝り始めたのかと思った。それも違った。シスターは人形などではなかった。なぜ私がその真実に気づいたかといえば、彼女が珍しい紫色の瞳を動かし、私と、私の手元にある信頼を宿した小さなものの山を見たからだ。彼女は一言だけ呟いた。
 よこせ、と。
 無論、そのような言葉遣いはされなかった。彼女の言葉も声も、教会に属した人間のみが宿す美声と修飾に満ち満ちていて、たとえ死ねと言われても心地よかったろう。無論、神への負い目からいつも死にたがっている私などは一発で心を奪われ、まるで魔法使いの悪の眼を見つめてしまったかのように、残り少ない小さなものの一掴みを彼女の提供したのだ。彼女は嬉しそうでもなく、かえって不快そうでもなく、じっと泳ぐ魚やそよぐ葦でも眺めるように私の差し出した信頼を見下ろし、そしてそれを浪費し始めた。その浪費はすぐに貯蓄へと変貌していった。私はぽかんと口を開けてそれを眺めているばかりだった。順番待ちの老貴族に杖で突かれても、それを真っ二つに叩き折って振り返りもせずに入り口のドア付近まで投げ飛ばし、あとに続いた耳元でがなりたてられる一切の苦情と罵声さえほとんど聞こえていない有様だった。
 彼女は祝詞を口ずさみながら、私のすくないものをたくさんのものへずらしていった。夜の街には欠かせない、あの魔的な人工の光が織り成す偽りの天国への階段に身を浸しながら、彼女は祝福され続けた。喜びも悲しみもなく、ただ静かに、手をテーブル上にさっと滑らして、祝福の結果が返ってくるたびに、それを一度も会ったことのない息子を見るように目をすうっとわずかに細めて見た。私には自信がある。あのわずかな時間で、まるで人形のような彼女にも表情があるのだと気づけたのは、この呪われた私だけであると。一度気づいてしまうと、かえって意識しないことが難しくなった。彼女には、淡く繊細な無数の表情があり、時を追うごとにそれが回転する万華鏡のように変わっていくのだ。私だけだ。私のこの呪われた両眼、その夜鷹をも凌ぐ視力をもってしてのみ、私は彼女の心のドアにはめ込まれた美しきステンドグラスの絵模様をおぼろげながら発見することに成功したのだ。
 呪われていてよかったと思い、思った瞬間に恥じた。私は死にたくなり、その場でぐずぐずと泣き出した。誰も私などには意識を振ってはいなかった。皆が見ていたのはただひとり、神の手さばきをしたかのシスターだ。私は誰よりも彼女のそばにいながら、誰よりも目立たず、ひとり涙を流した。嗚咽さえ零していたかもしれない。その涙の根源というやつは私にも言語化しづらいのだが、つまり、感動と畏怖、そして恐怖と安穏だったのだろうと思う。やはり言葉にしても意味はなかった。自分でもなにがなにやらわからないが、大切なことは、とにもかくにも私が突然泣き始め、かのシスターがそれにはたっと気づいて神の手さばきを止めたことだった。彼女は不思議そうに私を眺めた。そして私が提供した分のちいさなものを返してきた。私は首を振って、涙の雫と鼻水をたらしながらそれを固辞した。
 シスターは銀のまゆを寄せて、なにか思案しているようだった。そして言った。
 ――なぜ泣くのです。
 無論、言語化できるような優れた舌さばきを持たない私は、ただでさえ号泣していたので、まともな返事をしてさしあげることができなかった。シスターはそんな私を、周囲の野次馬から守り、夜の巣から連れ出してくれた。そしていま、無防備にも私と同室に泊まっている。彼女の寝息は規則正しく、呼吸のたびに安物のかけ布団がゆっくりと上下するのを見て、私はまた泣きそうになる。この世にこれほど美しいものがあっていいのだろうか。そして、私はこのいま書いたばかりの文字を書き潰したくなる。美しいなどというこの国の言葉では言い表せないというのに、数百年間、この大陸をさまよい各地のさまざまな言語を網羅して会得した数十の言語を持ってさえ、彼女の神秘性を語るには役立たずだ。
 性的に興奮するということはまったくない。むしろ彼女は破壊するにも、のしかかるにも、貧相すぎた。まだ十五、六であろう、少女なのだ。体重をかけてよりかかっただけで、くしゃりと潰れてしまいそうだ。そしていったいだれがそんな極悪な真似をするというのだ? 彼女を前にして? 万が一、そんなものがいるとしたらそやつは人ではない。悪魔だ。そして悪魔は、私の親戚のようなもので、私の眼が届く限りに彼女がいるのならば連中には一切の手出しはさせない。そう、まさに、私が焦がれていた言葉を使ってでも。神に誓ってでも。
 穢れを知らぬまま眠りの国を彷徨っている彼女の顔を見る。ようやく見つけた私の、私の――なんだろう? まだ彼女が私にとってなんなのか、それは私にだってわからない。いまはとにかく興奮していて、眠れないのだ、こんな夜明けにいたっても。まだ。ただ願わくば、私が彼女にとっての吉兆で、彼女が私にとっての凶兆であればいいと思う。彼女ならば私に終わりを与えてくれそうな気がする。だがそれはすべて、あの眩しすぎる太陽があと何度か夜の闇の向こうへと闘いに赴きそして帰還する不毛な日常を繰り返し、この物語、私と彼女の邂逅にひとあたりの方向性のようなものが見出されなければ予測することもできやしない。
 窓に引かれた薄いカーテンの向こうから光が差し込んで来る。私はこれからペンを置いて、カーテンを開け、東の空から昇ってきた太陽の祝福光を彼女の寝顔に当てるだろう。彼女の青白い横顔に、橙色の優しい光が当たって、そして私はまた涙することだろう。そしてその涙がいつか、私の永遠が解け始めた最初の一滴になることを願っている。願っているのだ、私はこんなにも。
 この穢れた身を嫌いあそばしになっているともう識っている神にさえ、乞うほどにだ。
 さあペンを置こう。ペンを置くのだ。でも、私がペンを置いて立ち上がって彼女に近づき、その首筋に噛みつかないと誰が保障してくれる? やめておこう。
 私は彼女が目覚めるまで、ここで取りとめもなく我が身を呪おう。彼女の横顔に光を当てるなどという大役は私のような化け物にはちと荷が重過ぎるようだ。
 眠れぬ夜が明ける。私の永遠はまだ続く。





To be continued.....
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