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風呂は救いであるべきで

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 風呂に入るといくらでも被害者になれる。あいつは俺にこんな言い方をした、あのとき俺は間違ってなかった、そういったことが何年経っても忘れられずに自分の中で反響している。それだけ傷ついたということであり、それだけ他人を信頼しようとしていたのもあるんだろう。
 しかし、風呂が楽しくないのは考えものである。本来、風呂はリラックスして入るもの、そしてネタが湧きやすいゴールデンタイムでもある。そんな時間をかつて倒してきた出会ってきたゴミクズたちとの回想に使ってしまうのはもったいない。
 安全基地を持たない愛着障害の俺たちは、攻撃=死の危険性が高すぎるために過剰に防衛しようとする。かつて攻撃された経験を覚えているのは対策をして今度は相手を確実にスキあらばブチ殺してやろうという意思のあらわれである。文明社会でそんなことをしてはいけない。もし、自力救済の名のもとに自分が不要と判断した人間を削除できるのであれば、俺たちは優秀な執行官かもしれないしまじりっけなしのポルポト族かもしれない。いずれにせよ健康的な精神ではない。
 ゴミクズは何も生み出さない。それは確かだ。ゴミクズのことをいくら考えたって、ゴミクズはゴミクズなだけである。俺たちは本当は「あいつらがゴミクズだっただけで、あごまんは悪くないよ!」と言って欲しいだけである。でもそれを他人に求めるのは酷だから、俺たちは自分自身の責任と信念に基づいて、自分が出会ってきた人間はゴミクズだったと認めて上げるしかない。それが自分を大切にするということだ。
 人間なんかにはなんの値打ちもない。猫を見ているとそう思う。人間をブチ殺して猫たちに優しくする政治家がいれば俺は投票する。猿より猫が好きだから。チェンソーマン第二部でも猫がよく題材に挙げられているが、基本的にクリエーターは猫好きが多い。やっぱり猿が好きになれないからだと俺は勝手に想像している。
 会社でのストレスを猫にぶつけたりするニュースを見たことがあるけれども、そんなことをするくらいなら社会から背を向けていいと思う。猫をいじめたりしちゃいけない。だって猫は可愛いし、俺たちのことを否定したり肯定したりしないから。ほっといてくれるから。本来、関係性というのはそれで完結しているべきだ。「~ねばならない、べきである」などと言い出したらどれだけ正当性があっても本当は狂人の仲間入りなのだ。みんなそれを誤魔化しているだけだ。

 カクヨムで新作を書き始めた。「彼女が俺のアンチだった」みたいなタイトルのやつ。前からちょっと書きたいな~と思っていて、プロットがだいたいまとまったので書き始めてみた。例によって投げるかもしれないしプロットも破綻するかもしれない。
 今の俺はストレスを与えると書かなくなるので、自分を甘やかすことを優先してみることにした。だいたい疲れてても1500字くらいなら瞬間的に書けたりするので、のんびりやれたらな~と思う。
 今のところ2話でPV18くらいをカウントしているが、まあまあ悪くない数字だ。18回も閲覧されている。すごいことだ。
 隣の芝生はどこまでも青い。そんなことより、自分の芝生にある18PVというのを大切にしよう、というのが原始仏教の教えだ。たぶん。
 書いたから何かを得られるべきだ、という発想はかなりの疲労を生む。確かに俺もカクヨムリワードでお小遣い稼ぎをできるよう目指すべきじゃないか、と思ったこともある。ただカクヨムリワードの現金化を忘れるようなやつがそんなこと拘っても仕方ない気もする。

 小説はもうレッドオーシャンで、戦えば戦うほど消耗する総力戦になっている。そもそもみんなストレスまみれの社畜暮らしなのに、小説を読もうというやつはそんなにいない。だから読者を得られないのは仕方ないことだと諦めた方が精神衛生的にいいと思う。俺自身がなにかの読者になれていないのもあるし。
 だから、俺自身が書いていて心地いいか、というのを大切にしようかな~と思っている。もちろん俺特化型の造りになるから、読者は減る。とはいえ、俺自身がエロ小説を読むときに「作者自身がその作品の供給を求めているか」はすごく大事なポイントとして見ている。作者自身が求めていない作品に求心力なんて存在しない。本来は。
 だから、一昔前、なろうが流行る前の一般小説の応募作品は「うだつのあがらない中年サラリーマンが新入社員の女の子と会社の悪事を暴く話」みたいなのが多かったらしいが、別に構わんだろうと今では思う。作者のオナニー、結構なことだ。オナニーにだって作法もあれば流派もあって、学べることはあるはずだ。
 どうにもならない現実の中で、正気らしきものを保てるのであれば、それに越したことはない。追い詰められて猫をいじめるようなやつになるより、ずっといい。
 俺は自分が欲しいものを作ってきた。そのなかで、いいね!と言ってくれるやつもいれば、「おまえが書く話は天才ばかりでつまらん」と去っていった人もいる。それはそれでいい。否定はしない。それぞれがそれぞれの感性に忠実であること以外に大切なことなんて本当は存在しない。ぶつかり合うのが普通なんだ。

 なろうを見てみると、小説の需要には「安心」と「タブー」があるような気がしている。安心はもちろん異世界転生、俺たちが本来生まれるべきだった素晴らしい世界だ。現実になんかなんの値打ちもない。その安心のなかで、俺たちは夜ぐっすり眠ることができる。積立NISAを始めるべきかどうかなんて考えてたら眠れなくなる。
 とはいっても、心の何処かで「タブー」を求める気持ちもある。最近、ラブコメ小説で「彼女の妹とキスをした」とか「二番目の彼女でもいいんだけれど?」みたいな小説が増えていて、とても気になってるんだけども、これも本来は「安心小説」であれば不要な要素だ。安心小説は無双して気に入らないやつをブチ殺してひたすら腰を振るのが目的なのだから、二股が許されない世界観でそれをするのは「タブー」である。なのに、あえてそういった要素を含めるというのは、それが面白いからだ。興味を惹くから。そして、そういった危険な場面に飛び込んでみたいという欲求があるから。
 俺はどうせ書くなら「タブー」に触れたいな、と思ってはいる。いるけれども、タブーはさわると怒り出すやつもいるし、結構めんどくさい題材でもある。作者自身がイカレてないと臨場感が出ないというのもある。
 だからタブー小説というのは、一種のホラー小説なのかもしれない、と思って、角川ホラー文庫を漁ったりした時期もあるんだけれど(アマゾンで検索しただけ)、いまいちピンとこない。「恐怖」と「タブー」が必ずしも一致しないからかもしれない。二股小説がホラー小説かといえば違うし。
 だからみんながタブー小説を書くようになれば、俺が書かなくて済む!とも思ったんだけども、それはやっぱり無理だろうなと思う。秋山瑞人が「もう俺の時代じゃない」とボヤいていたけれども、たとえ時代であろうとなかろうと、「本人が求める小説」は本人にしか書けないのである。だから、それを欲してしまったら自分がやるしかないんである。だから秋山に必要なのは、周囲の環境でも、無限の金銭でも、自分のことを理解してくれる読者でもなく、「秋山が本当に書きたいと思えるもの」なんだろうと思う。それさえあれば、俺が恋しく思う消えていった作者たちは戻ってきてくれるんじゃなかろうか。そんなふうに思ったりもする。
 その蘇って欲しい作家の中には、俺自身も含まれている。

 だから俺自身をヨイショして、「まァまァプロットも用意してみたし、ちょっと書いてみなよ」とおだてている。「彼女アンチ」はちょっとどうなるのか不透明なんだけれども、もっと「自分が欲しいと思うもの」を刺激して、いろいろ書けたらいいなあと思う。
 俺は「俺ならこうする」と既存の作品に喧嘩を売ってきたタイプである。だから俺が触ると既存作品が好きなやつは怒り出す可能性があるし、逆にそういった作品に満足できないやつは「よっしゃついに俺の思った通りに走る馬が来た!」とばかりに乗っかってくる場合もある。「こいつならやってくれる」という作者に乗っかるのは死ぬほど楽しい。最近だと仮面ライダーギーツがそうである。

 前にも書いたかもしれないが、ギーツで一番ヤバイなと思ったセリフは、「無謀とか、勇気とか、……そんなこと、どうだっていい!」というバッファのセリフである。
 勇気と無謀は違う、というのは市民権を得ているフレーズである。ちょっと相手に対してマウントを取りたいときに使う言葉で、仮面ライダーだとビルドで戦兎が万丈に言っていた。
 別に間違ったセリフじゃない。そうかもしれない。ただ、ギーツのやばいところは「そのセリフを間違っていないと信じて使っている人がたくさんいるのに、俺は違うと思う」と言ってしまっているところである。会社でありがたい社訓を唱和しているさなかに「こんなこと言ってるから新人が育たないんですよ」とか真実を言っちゃうやつに近い。
 言っちゃダメなんである。みんなが信じてることなんだから。
 それでなんの問題もないんだから。
 なのに、ギーツの脚本は「それでも俺は違うと思う」と言っちゃっている。世が世なら喧嘩を売っているに等しいし、消されていてもおかしくない。というのも、ギーツの脚本は個人攻撃をしているわけではなく、ビルドの脚本家に恨みがあるわけでもなく、「俺は違うと思う」と素直に言っちゃっているだけだから。個人攻撃なら引き下がることも、「言い過ぎた」と訂正することもできる。
 でも、「俺はこう思う」というセリフは消せないんである。そう思っちゃったという事実があるだけだから。
 生き方が違うというだけだから。
 俺はこのセリフにこそ、ギーツの作風が「タブー」にあるなあ、と思ったりする。普通は配慮する。遠慮する。もちろんギーツの脚本家がそれがビルドで使用されたフレーズであることを知らなかった可能性もあるけれども、それだって世の中は「勇気と無謀は違う!」というフレーズの使いやすさに酔っ払っているのだから、それに合わせておけばいいのである。
 そこで大人しくできないやつこそ、俺はクリエーターだと思う。
 別にビルドは悪くない。フレーズだって間違ってない。ビルドは1を10にするのが上手い作品だった。それは否定しない。だが、ギーツはゼロを1にすることができる脚本なのである。そして俺はゼロを1にする作品に強烈に惹かれる。前も言ったかもしれない。もう俺もボケ始めている。

 小説を書くのは難しい。
 たとえば仮面ライダー的な小説を書くのは難しい。変身前後のインパクトを小説では描写できないから。もしそれを発明できたら大したもんだが、それも何度も使えるようなものじゃない。一発勝負ならなんとかなるかもしれないが、安定供給に持っていくのは無理だ。
 どんな題材なら小説に向いていると言えるのだろう、と最近よく考える。
 劣等生や禁書が築いた設定の海を作る。これは一つの最適解であり、今後も使われていく手法だろう。作者に適正があれば無限に文章化できる。
 とはいえ、それがシナリオとしての面白さとマッチするか? と言えば疑問である。最新刊が設定の補強で終わる、というのはビジネスとしてはOKでも読者としてはつらいものがある。「もう引き伸ばさないで! ちゃんと終わらせて!」とアマゾンレビューで連呼されている長寿作品を見るたびに作者も読者も喜ばず、会社だけが喜ぶ経済活動には夢がないなと思ったりもする。もちろん会社はこう言う、「金がなければ映像化もできなければ出版もできない。金なくして作品なし」それは結構なことだ。だが、俺は興味がわかない。

 勝ったとか、負けたとか。
 そんなことばかり書いていても疲れるだけだ。
 ラブコメでも「ヒロインレース! 勝つのは誰だ!?」みたいに最初からヒロイン競馬を推してくる作品が多少あったけれども、あそこまで全面的に押し出されたら読者は引いてしまう。やはりその後は続かなかった題材だ。安心小説でもなければタブー小説でもない、どっちつかずになってしまっている。
 ただ、異世界なろうよりは、ラブコメのほうがタブーに近い題材を扱えるだろうとは思う。現代という設定だけでもタブーの量は爆増するし。二股だって異世界にいけばおめかけさんでおしまいである。それが推奨されていたりする。
 異世界なろうでタブーを扱うのはかなり難しい。だから突破口があるならそこを突くことだろう。とはいっても現代モノには制約が多すぎる。
 だから、異世界でも現代でもなく、それなりに制約がある舞台を作れればいい。
 の、かもしれない。

 とはいっても、俺が思う「こうしたらいいと思う! みんなやりなよ!」はだいたい誰もやってくれない。俺はインフルエンサーとしては劣等であり、マネジメントをする人間としても下種である。俺はあくまでプレイヤーでしかない。最近よくそう思う。
 終末世界はロードムービーに適していて、話の流れは狼と香辛料を参考にすればいい!という考察もまったく伸びずに終わった。俺としてはよく考えてあるなあ、くらいは思うけれども、自分で使おうという気にはあんまりならない。『安心とタブー』の関係でいえば、安心に振りすぎると異世界なろうという最適解に辿り着いてしまうから、終末である必要性もさほどない。
 だからロードムービーにするなら悲恋にしておくといいのかなあ、とも思うけれども、最近は世相が暗いので悲恋はウケない。俺は好きだけども。めっためたに主人公とヒロインを不幸にしてもいいならやってみてもいいかもしれない。なに気にすることもない、みんなどうせ最後は死ぬ。

 ギャンブル小説はどうか。
 最近は書かなくなったし読まなくもなった。もともとああいうミステリーものは到達点が早すぎる。密室ミステリでさえ百年前にはネタが使いつくされたと言われていて、ギャンブルにいたってはほとんどカイジがやっちゃってるから打つ手がない。読者がギャンブル!ギャンブル!というだけでワクワクしてくれる、15年前の俺みたいなやつらには需要があるだろうけど、勝ち負けを題材にするのは現実を思い出させすぎる。
 ギャンブルにかぎらず、勝ち負けに拘る小説はウケない。また、書いたところで誰かが救われたりもしない。俺はそう感じる。
 勝ってどうする、と思う。それより、誰かを育てる方が難しいし偉大なことだ。
 そういう意味では「教官モノ」はいつかやってみたい。かわいい女の子たちを育成してどうこう、みたいな。
 教官モノなら成長した生徒がやがてまた教官になり……みたいなループもできるし、エンディングとしてもほっこりする。「安心とタブー」理論より少し逸れるが、たとえば「元犯罪者の教師」とか設定を入れてあげれば一気にタブー値が上がる。そのへんでバランスをとればなんとかなりそう。
 もともと、誰かにモノを教えるというのは頭の固い定型よりも発達障害気味のボーダーたる俺たちのほうが適正がある。どっちにもなれるからだ。だから俺は発達障害グレー者には変態性癖でもない限りは一発免除で教員免許を付与すべきだと思っている。ピアノが引けたって、野球がうまくたって、弱いやつの気持ちがわからんやつに人は育てられない。排除しようとするだけだ。定型はバカだから。
 そういった意味でも「教官モノ」はもしかすると鉱脈かもしれない。特に定型に書けないというのはポイントが高い。定型に踏み荒らされて体系化されると一発でレッドオーシャン化してしまうから。
 作品として参考にするのであれば、「EGコンバット」がいいだろう。
 やっぱり秋山瑞人は天才である。


 明日も仕事なのでこのへんにする。
 友達もいなく、家族にもわかってもらえず、誰にも思ったことを伝えられない。
 それでも文章にすれば形になる。
 滅びるには惜しいんだけどなあ、と思いつつ眠ることにする。
 とりあえず、異世界でかわいい女の子に守られて無双してサッカー部を殺すのだ。

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