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ドクターコトー映画論

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 最近映画を見れていない。そうは言いつつドクターコトーは見た。
 俺は原作ドラマを知らないからウィキで勉強したんだけれども、けっこう楽しめた。
 俺は面白いところさえちゃんと味わえれれば、設定とか前フリとかは軽く知っておけば想像で補えるところがあるから便利だ。
 いつもアニメの第一話を見逃していたから、途中から見始めて補うことがほとんどだった。まどマギなんかもそうだ。
 それでも話の軸がしっかりしていればどうにでもなる。あまり事情を知らなくたってあれだけブチキレていればクリリンが悟空の友達だったことくらいわかる。

 コトーに関しては、ネタバレになってしまうけれども、序盤のシーンでチャリンコを漕いでいるコトー先生が途中で立ち止まって水を飲むシーンがよかった。
 俺たち視聴者はコトー先生の世界から離れたけれども(俺は原作見てないけれども)、コトー先生はあれからもずっと休みながらもチャリンコ漕いできたんだな、ということが表現したいのかなと思った。
 のちにコトー先生の体調不良で喉の乾きとしての描写だったことが明かされたけれども、俺は別にそれはアザでなんとかなったんじゃないかなと思う。
 ダブルミーニングは効果的であっても、くどくなる可能性があるから必須ではない。俺はそう思う。

 話としては島医療がコトー先生のワンオペだよね、というところに焦点があたっていて、ドラゴン桜に出てきた瀬戸くん役の人がいい演技をしていた。
 新役でアクセントになるだけではなく話の主軸にしっかり収まっていたし、あの離島に訪れた異邦人という点で初めての視聴者、つまりにわかたる俺のガイドとしても役に立っていた。
 コトー映画は原作を見ていないと楽しめない、みたいなレビューがあり確かに柴咲コウの母ちゃんまわりの設定はよくわからなかったが、少なくとも瀬戸くん役の人を配置した時点で配慮はしていたはずである。ウィキぐらい見てこいという話でもある。

 話の終盤で、土砂災害があって大量の負傷者がありコトー先生が忙しすぎて倒れる、というシーンがあって、その直前くらいで瀬戸くんが「これはトリアージすべきじゃないか」と言い出すシーンがある。
 結果としてコトー先生はトリアージせずに全員助けるんだけれども、ネットを見ているとここを批判的にとらえている人が多かった。
 あんな場面でトリアージせずに全員無事に助かるなんてご都合主義だ、というのである。
 正直、俺も映画を見ながら「ここはトリアージだな……」と思っていた。しかし、よく考えるとこれはおかしな感想である。

 俺は医者じゃない。実際に医療に携わったことなんてない。
 だから、実際の現場でトリアージすべきかどうかなんて、素人以前に人の命をどう扱うべきかすら決断する心構えがない俺たちに決められるわけがないのである。
 所詮は映画じゃん、というかもしれないが、それならご都合主義だって映画じゃん、で返される。自分がやったことは相手もやると思わなければならない。自分だけ優位な位置からボコ殴りして都合が悪くなったら被害者ヅラをする、そんなのは卑劣である。そんなのは通らない。
 それにあとあとから考えてみると、この映画の主題は「諦めずにみんなを助ける」というところにある。ここでトリアージして「じいちゃんもばあちゃんも死んじゃったけど助かりそうな何人かは救えた!」じゃ話の主題が壊れる。シン・ゴジラみたいに内閣総辞職ビームを放って閑職の大臣が一瞬で総理大臣になる、とかそういう話のギミックとしてのシーンじゃない。
 ここでコトー先生が諦めてしまったら、医療として正しいかどうか以前に映画としての主題が崩壊する。
 そういうものを突き詰めていくと「やまなし、おちなし、いみなし」という格言のように、ただコトー先生が島医療に疲れて「都会でおいしい思いをしたかったなあ」とか言いながら適当な薬を処方して終わるみたいなクソ映画が出来上がる。それはクソはクソでも最低にすら到達していない、無味無臭のクソである。においのしないウンコなんてウンコですらない。

 だから、俺たちはつい「ここはトリアージだろ!」とか知ったようなことを言う。
 実際に俺自身が映画を見ているという一番大事な瞬間にそんなことを考えていたのだから、これは俺たちの中に巣食っている「なにか」なのである。
 トリアージという言葉を知っている、そしてその言葉の妥当性や利便性に寄りかかっている。便利な言葉で、そうそう反論されない言葉だから軽々しく使う。
 俺たちはトリアージすべきかどうかじゃなく、それが妥当に見えるから、自分は妥当な判断をしていると思われたいから、そんな言葉を使っているだけだ。
 実際に死にかけの人間を目の前にして自分が手を止めたら死ぬとわかっていて手を止めて次に向かえるやつがどれだけいる?
 たとえ形だけでも、駄目だとわかっていても「がんばりました! だって患者がいたから!」とあとで言うために患者の心臓マッサージをやめられない、次の患者へ向かうことを拒否した――そんな心の働きのほうが、軽々しくトリアージする医者の描写なんかよりもよほど心に来る。
 これは俺自身の問題でもある。実際に俺はトリアージすべきだと思ったんだから。
 劇場版コトーにかぎらず、こんなふうに自己防衛に走って、誰から責められているわけでもないのに、知ったような理論武装で自分を守る。
 そんな自分は好きになれない。

 エンディングに関しても、コトー先生が生きていたことに批判的な意見はあった。これに関しては生きていてよかった、さすがに20年待って死なれるとちょっとね、という意見もあって、まァそうだろうなと思う。
 演出的にも数年後――みたいな感じで瀬戸くんがチャリ乗って帰ってきたり、わざとコトー先生がもういないような描写で進めていた。
 これはギリギリまで「コトー先生死亡におわせエンド」はいちおう検討していたんじゃないかと思う。もちろん最初からそんなことしちゃいけませんよ、とお上からお達しがあって「におわせるだけね」としていた可能性もある。
 これに関してははっきり生きていた、と描写しないと当然のように死亡説が流布される(ドラクエ4でエンディングのシンシアが幻だったのかも、と堀井ゆうじが言っただけでそれが真説のように流行してしまったのを見ると、その危険性を地肌に感じる)のを危険視して、はっきり描写したのだと思う。俺好みであれば、最後は顔を映さずに、せいぜいサンダル履いた足と赤ちゃんに手を伸ばすしわしわの手、までで打ち切ってスタッフロールにするとかがいいかなと思う。それでも十分だったような気がするが、それは俺の好みでしかない。

 総じて面白かった。
 離島の人間が台風が来るのにろくな準備もしていないとか(現実的に考えれば、台風が接近した時点で避難完了しているべきといえば確かにそう)、都合よく大量の負傷者を出すために台風を利用しすぎとか、そういうツッコミもあるにはあるが、別にいいじゃんと俺は思う。そんなのまで突っ込まれて考えていたらまず脚本家は動けなくなる。

 手品にはタネがある。
 タネのない手品をしろ、それも何十個も永遠としろというのは酷だし、かつてGKチェスタトンが嫌った「流れ者の魔術師(マジシャン)に難癖をつけて喜んでいる連中」と変わらない。そんなダサいやり口は、チェスタトンが生きていた百年前の頃から変わらず存在するゴミカスのやり口だ。なんの新規性もない。
「自分は思考の最先端をいっている、だから重箱の隅を突ける」と思っているやつが何百年も何千年も前から存在するただのつまらないやつというのは笑えない冗談である。俺の勤務先にも何人か心当たりがあるが、はやく自分のダサさを身にしみて死んで欲しい限りである。バカは死ねば終わる。

 大切なのは主題だ。この映画は「コトー先生は諦めるのを拒否する」というのが主題であり、その結果として失敗を置くのは難しい。
「コトー先生のやったことは意地を張っただけで、トリアージしなかったせいで犠牲者が出たじゃないか」となれば、それは一面の真実になってしまうからである。
 それでも突っ張るのは相当難しい。それでも諦めちゃいけなかったんだ、というのを表現しないといけない。
 たとえばよくあるのは遺族から「じいちゃんは死んじゃったけど、いつもコトー先生には感謝していました」とか慰めの言葉をもらったりとか。それだってありきたりである。ただ映画の後味が悪くなるだけだし、そもそもコトー先生はやりきって死んだ(ように見せかける)プロットがある。遺族から慰めてもらう尺などない。
 尺がない尺がないといって、八時間も十三時間もぶっ通しで見る集中力もなければそのぶんのチケット代も払わないやつが尺がないというのは俺は間違ってると思う。
 本当におまえはたかだか二千円のチケットで映画に対して貢献しているのかと思う。
 制作費が二千円なわけじゃない。全体の興行として総チケット数が売上なんだから、「俺はチケットを買ったんだから何を言ってもいいんだ」なんていうのは間違っている。作り手がナメた映画を出してきたら話は別だけども。

 話がとんでしまうんだけれども、特撮なんかで被害にあうのはいつも現場作業員とかブルーカラーが多い。
 なぜ政治家とか実業家が狙われないんだろう、と俺は疑問に思ったことがあるんだけども、たとえば怪人が政治家とかを殺してしまうと、
「あの政治家が死んだおかげでパパの会社が法人税の値上げで倒産せずに済んだ、ありがとう怪人さん!」
 となってしまうからかもしれない、と思ったことがある。つまり、政治家とか実業家みたいな影響力のあるやつを殺すと「それが一面の真実として正しい」という状況が出来上がってしまう。
 そんなのにいちいち対応していては面倒なので、殺されてもただ純粋な被害としてカウントされるブルーカラーが狙われるのかもしれない。もちろんブルーカラーにだって、売上や施工を偽装したりする悪は存在するんだけれども。
 仮面ライダーブラックサンでは、とうとう怪人が政治家を殺すシーンがあって、そういう「裏の事情」も考慮して政治家を殺してみたのかなあ、と思ったりもする。
 まあ、妄想といえば妄想なんだけれども。

 久しぶりにはまらん先生がニノベに日記?みたいなものを上げていたので読んでみたんだけれども、面白かった。
 俺もこうして日記のようなものをつけているけれども、本当にニノベに掲載していいんだろうか、と思ったりもしたけれども、やはり人の日記というものは面白い。ナマの感情が封入されたエッセイには小説にはない味がある。だから俺もいいか、と思ったりもする。
 お互いに古くからこの界隈をウロウロしているし、いなくなったやつも多いけど、はまらん先生は元気そうでよかったなあ、と思う。クリエイターになったということで、俺は異業種へ進んだから、人生いろいろである。
 はまらん先生は昔に黄金の黒をとても楽しんでくれていたような記憶がある。4W2Bがどうとかそんなん。あんなめんどっちい話を読んでくれて大変感謝だ。
 黄金の黒に関しては、リテイクしようと何度かチャレンジしているんだけれども、結局頓挫している。
 あの当時にしか書けない熱量があったのだから触らないほうがいい、という意見は挙がってきていて、俺個人としては熱量があったとしても読みにくいところとかスベったところは直したほうがいいんじゃないか、と思ったりもするんだけれども、答えが出ないままやる気も続かずなぁなぁになっている。
 たしかに黄金をもう一度触るよりは、なにか新作でもやったら、と自分に対しては感じる。

 文章に関しては、最近、メモ帳を開くのを怖がらないようにしてみようと思っている。
 昔はメモ帳を開くのが怖かった。メモ帳というか、いまはテキストエディタを使ってるんだけど、とにかく真っ白な画面を見るのが怖かった。
 なにより怖いのが、一文字も書けないまま30分近く経ったとき。
「ああ、俺は貴重な30分をこんな何もせず浪費してしまった」と思うと、胸が苦しくなった。エロ画像を探したり、ゲームやったり、純粋に寝たり、いろいろできる30分だったのに、と。
 でも、今は別にいいか、と思う。
 岡本太郎の読みすぎて脳がトチ狂ったのか、この真っ白な画面に向かうのだって楽しい、というような逆説的な感覚が生まれつつある。
 どうせ俺が暇を持て余したって、ネットフリックスで時間を潰すか、You Tubeを見るか、ポケモンでレンタルパーティでランクマに潜るか、ポーションクラフトをやるかぐらいである。ポーションクラフトに関しては本当に楽しい。
 それはともかく、どうせ俺の時間なんて、大事にとっておいたって何にも使われない。仕事と妥協の遊び、略して妥遊(だそび)に費やされるだけである。それは結局、俺の充実にはならない。
 頭の中に渦巻く、燃え上がる何かを形にする。それが小説だろうとエッセイだろうと詩だろうと。
 そういう中でしか、手応えを感じない俺がいる。
 とにかく書くことで、自分の中で終わらせる。終わりきっていないなら、何度でも同じことを書く。それが血肉になってしまうまで。
 たとえ労働者として搾取されていようとも、それしか俺にできることは何もない。この間はArkで友達のアルゲンタヴィスを死なせてしまって友達の恐竜の使用許可を取り消された。本当にゲームがヘタクソである。もう上手くなることはないだろう。

 岡本太郎に関しては、毒もてと楯つけと孤独もての3つを読んだ。すらすら読んでしまった。面白かった。
 ただ、岡本太郎はすぐ「人に媚びるな」とか、「ああいう媚びてる姿を見てるとケトバしたくなる」、とか言い出す。
 俺はこれは少し疑問であって、媚びているのは媚びているにしても、それは一つの工夫であり努力なのではないかと思う。
 たとえばホストが客からカネを巻き上げるとき、ホストはホストなりに努力して客の傾向を掴み、トイレに立つフリをして客の情報が詰め込まれたカンニングペーパーを読み込んでいる。
 俺はそれは戦う手段であって、媚びているとは思わない。というか俺はホストが書いた会話術の教本のおかげで助けられたから、実態はともかくその技能においては尊敬している。本当にくだらなくて堕落しているのは才能だけでやっている陽キャだろうと思う。陽キャは片っ端からブチ殺し、この世界を浄化すべきだ。

 岡本太郎の言うことを鵜呑みにするのはよくない。また、本人もそんなふうに崇められるのなんか毛嫌いするタチだろう。だから俺は岡本太郎を信じない。俺は俺が考えたやり方でやる。
 阿佐田哲也が言っていた言葉で一番好きなのは、「どう頑張っても、最後には自分で編んだ手作りのやり方でやるしかない」というのがある。やり方は自分で作るものであって、コピペじゃどうにもならない。実にも血にもならない。
 結局は何事も自分でやるしかない。
 最近読んだ「笑いの科学株式会社」という小説で
「おまえ、まさか魔法や必殺技を探してるんじゃないだろうな?」
 というセリフがある。すごく面白かったんだけども、このセリフは効いた。
 俺たちはすぐ必殺技とか、魔法とか、使いやすい言葉とかに頼る。
 そんなものは存在しない。

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