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『恋愛小説家』ネタバレ感想

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「恋愛小説家」を見た。また映画。ネタバレする。
 前から気になってた話だったんだけど、なかなかクレイジーだった。すごく印象的な映画だった。
 普通はちゃんと作るんだけど、この映画の登場人物はみんな勝手に動く。シナリオに動かされていない。そんな気がした。だから実際に筋だけ追うと、別に何も起きてない。ケガした隣人の芸術家は金に困ってたけど親を頼らずに頑張ることを決意するし、ウェイトレスの母親の病気がちな息子は金の力で元気になる。小説家と母親は結ばれるけれども、それ以外に特に物語の動きはない。最初に芸術家を襲ったやつらも罰せられることはない。
 そんなことどうでもいい、何が起きたか、何の話だったかなんてどうでもいい。そんな映画だった。大切なのはワンシーンずつ切り取られていて、たとえば愛犬にいくら愛情を注いでも隣人のおっさんのほうに懐かれてしまう芸術家とか、義務感から手紙を書くんだけれどもジレンマに陥って(そのジレンマがなんなのか、俺にはよくわからなかったし、わからないからこそジレンマなのだと思う)スペルの間違いに囚われて泣き出す母親とか、そういうシーンに大切なことが詰まってるような映画だった。
 つまり、二度以上見れる映画。
 技巧的でハネとオトシをしっかりやった映画は一回見たらネタが割れる。割られたネタは戻らない。だから一度しか見る価値がない映画というのはたくさんあるんだけれども、こういうどうでもいいシーンに言葉にできないような味がある映画は何度でも見れる。そもそも話の筋がめちゃくちゃだから次の展開が読めない。主人公のメルヴィンがいい人なのか悪い人なのかよくわからないように(そもそも序盤で犬をダストシュートに捨てるクソ野郎である)、主人公がどう動くのかまったく読めない。本人にも読めていない。
 そもそも犬をダストシュートに捨てたやつが幸せになる「べき」かどうか、といったらそうじゃないだろうなァとは思う。だからこれは「べき」に縛られた映画じゃない。ヒロインの母親を見ていると、感情的に動いたあとで「あんなことを言うべきじゃなかった」とよく言っている。これは何回もあったシーンである。だから、最終的に母親は小説家を受け入れるんだけども、これは「べき」の囚われから離れていくというのが一つのテーマというか方向性にあるんだと思う。たとえば鳥山明はベジータを復活させたけれども、人気があったからとかそういうのは置いておいて、ベジータはたくさん人を殺したんだから神龍の悪人以外を生き返らせて欲しい、という願いで復活する「べき」じゃない。それは理性があれば、もっときつく言えば理性に縛られている作者は絶対に取らない選択肢である。だから鳥山明の展開とかセリフは先が読めない。「べき」に沿って作っていないから。もっと言えば、狂っているからである。
 この映画も「べき」に沿って作られていない。だから味があるし、面白いんだと思う。この手の作り方は再現ができない。だからいつの時代も「どっかの誰かが作ったけど、再現されずに残っている名作」として残っていくんだろう。
 主人公の小説家は恋愛小説家であり、恋愛を俯瞰した時に何が起きるかを把握している。「男から理性と責任感をとれば女になる」と理屈で小説を書いている。しかし実際に自分が当事者となった恋愛では一切の武器が通用しない、というのが面白いところだし、ここでも「理性では真実に届かない」というテーマが擦られている。
 最後のほうで母親の母親がいきなり横から出てきて、「キャロル、まともで普通の男性なんていないのよ。みんな探してるけど、どこにもそんな人いないのよ」と言ってくる。これも理性で許容できる相手なんて本当は存在しない、見せかけでしかないという表現に思える。
 芸術家が立ち直ったのも、キャロルの裸を見て創作意欲を取り戻したからであって、金銭的な困窮を脱したわけじゃない。理性から見たら何も変わっていないけれども、本人の中で変化があった。
 感情によって、それぞれが収束した世界にいたものが、扉が開き変化する。だからこの映画は感情をとても大切にしていて、序盤で「みんないつか死ぬ。俺もあんたもあんたの息子も死ぬ」と言われたキャロル(母親=病気がちの息子がいる)がひどく傷ついた無表情を浮かべたシーン。あれで一発で引き込まれた。技巧的なシナリオでは、あの無表情に数秒もかけて撮影できないだろうし、やったところで「練り込まなきゃいけないイロイロ」に潰されて消える。
 たいしたことが起きないから、一つ一つの感情にフォーカスを当てられるのかもしれない。
 普通は、小説家の主人公に軸を置いて、ほかの役はその投影された影にするものなんだけれども(たとえば心の中の天使と悪魔、みたいな役割を代行する)、この話は小説家も芸術家も母親もみんな主人公といってもいい。バランスのとれた群像劇というのが一番近いかもしれない。
 恋愛ものというと、すぐ「死」を題材にする作品が多い。それは「死」によって「離別」が浮き彫りになるから便利なのである。だけどもこの映画には「死」は登場しない。それよりも、「生きながら失う」という描写のほうが多い。
 信じていたモデルに裏切られて強盗にあう芸術家。せっかく引っ掛けた男とセックスしようとしたら子供の具合が悪くなって中断する母親。自分の完全に封印された自室で小説を書いていたらいきなり不潔な犬の世話をする羽目になった小説家。
 作中の中盤で、それぞれの不幸話になったときに「ほかのやつらはみんな幸せさ、サラダ食ってボート遊びして幸せなんだ、不幸なのは俺たちだけだ」というシーンがあったけれども、映画として見ればそれは正しい。ここまでしょうもない不幸を背負っている人たちを直視したい人は少ない。そして三者三様に不幸だからこそ、わざわざ「死」を用意する必要がない。実際のところ、全員すでに「死んでいる」状態だから。これはその「死」を乗り越えて、再生する話なんだと思う。たとえばスクライドのカズマが落ちぶれたあとに「この俺が迷うなんてな」といって振り切るシーンがあるけど、全編通して方向性としてはそれが近い。だからジャンルとしては「恋愛」というより「再生」といったほうがいいかもしれない。一応、話の軸として小説家と母親は結ばれるけれども、そうでなくても別にいいのかもしれない。ダメに終わったとしても、人生が続いていくだけ。そんな終わり方にもできる。これはつまり、「恋愛映画なんだから最後はきれいに結ばれろよ」という制約を「拒否」できるということであって、物語の作り方としては凄まじく強い。エンディングが強制されないからである。エンディングが強制された瞬間、それは見るほうも作るほうもただの作業と化す。ハッピーエンドは心地よいけれども。
 そもそも、「恋愛小説家が自分の恋愛では大苦戦!?」なんてネットフリックスにありそうなあらすじがどうでもいいというのがよい。話の筋なんてどうでもよくて、シーン一つ一つがとても丁寧に作られている。それがいい。ジャンクなプロットを頼って作ってない。だから再現することはできない。プロットだけ同じにして配役をいじっても、「恋愛小説家」として出力されることはないと思う。AIがイラストは駆逐したみたいだけど、この作り方をAIが模倣する日は来ないと思う。
 主人公のことが好きなのか嫌いなのか、自分は感謝するべきなのか嫌悪するべきなのかわからなくなったヒロインが「コンフィデンスの綴りってこれであってる!? ねえ合ってる!?!?」って泣き出す話とか文章にしたら意味不明だしどんな汎用的なプロットにも合致したりしない。
 それでも、俺はこのシーンが好きである。
 これからもネットフリックスで面白そうな映画を探っていこうと思う。
 
 そういえば、芸術家が愛犬に懐かれなかった描写について、ちょっと考えた。
 小説家にダストシュートに捨てられた犬はゴミ捨て場でオムツのウンコ喰ったあとに芸術家のもとに帰るんだけれども、その事実を聞かされた芸術家は犬を抱っこすることに怯む。
 逆に小説家は犬を不潔だと嫌っていた(もともと潔癖症だった)けれども、愛情が湧くにつれて毛嫌いしなくなっていく。潔癖症にとって犬というのは常にオムツからウンコ喰った状態に近いはずなのに、である。
 だからこれは「すでに愛している状態であっても、相手の条件が悪くなれば離れていく」芸術家と「愛している状態に近づけば、相手の条件が悪くても克服して自分から近づこうとする」小説家を対比しているのかもしれない。
 実際に芸術家は小説家に懐いている愛犬に「そんなにあのおっさんがいいのか、そんなに僕を嫌うならモップにしてやろうか!」とキレる。これも条件が悪くなれば相手を嫌う=本当の愛情ではない、という描写ともとれる。
 そうはいっても小説家の毒舌は本当にひどいし(これは後半で逆に詰められてなんでそんなひどいこと言うんだ、と言い出すシーンを際立たせるためでもあるんだろうけれど)、俺としては自分の父親を思い出すから主人公は好きにはなりにくかった。言っていいことと悪いことはあるよなあ、と俺は理性で思ってしまったりもする。そんなもん。
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