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書けない

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 最近、俺の部屋に綾波が出る。
 理由はわかっている。
 書けないからだ。
 俺はいつものようにコタツ机の前に正座して、布団を膝にかけ、ノートパソコンのキーの上に両手をかざしている。
 書けない。
 それを、綾波が俺の隣でしなを作って、眺めている。ニタニタと俺を笑うそのさまはとてもぽかぽかしているようには見えない。嘲笑っているのだ、俺を。
 俺は立ち上がって本棚の前に立った。綾波もついてくる。俺はもうだいぶ前から見なくなっていたゲームの分厚い攻略本を手に取るやいなや綾波めがけて、ブンッと振り下ろした。当たり前だが、綾波は俺の幻覚なので、攻略本は虚空を切った。俺はたたらを踏んでその場でバランスを崩し万年床にへたりこんだ。弾みで積み上げていた本が崩れる。
 直す気にもならない。
 またぞろ、性懲りもなく俺はパソコンの前に戻る。書けもしないのに。画面にはほどよい馴染みのサイズでメモ帳が開かれている。白地だ。目が痛くなるほどの白地。俺はそれをつけたり消したりしては指を慰めた。
 綾波の白い手が俺の腿を撫でている。俺は左拳を自分の腿に撃ちおろした。拳骨が大腿骨を震わせ、俺はしばらく悶絶した。痛みがある内だけは、綾波を見ないで済む。だがそれも時間の問題、すぐに俺の視界に滲むように綾波レイが現れる。白いブラウス着た女の子、なぜいつも俺を笑うの、だ。胸糞悪い。
 書けばいいのだ。原因はわかっている。書けば、この幻覚は俺の脳髄へと融解して消え失せる。書けば、それを新都社へアップロードしてみんなに読んでもらえる。書けばいいのだ。ただ書けば。
 それができない。
 俺は何時間もコタツ机の前で凍死したように動かない。いや、動けない。
 書けなかった。
 なぜかはわからない。原因は探せばいくらでもあるのかもしれないが、そのどれもがそれらしいというだけで真実ではない気がした。バイトで嫌なことがあっても、逆にいいことがあっても、大学へいっていようがいまいが書けるときは書けるしそうでないときはそうでない。それだけのことだ。
 もう四年も繰り返してきたことだ。
 いつものことだ。この四年間、書けない時期などそれこそいつもだったような気がする。いつも動かない指を叱咤して、最初の数行をなんとかさばいて、後はそこから流れを汲んでいけばおのずおのずと形になっていく。今までずっとそうしてきた。馴染みのやり方、俺のやり方だ。
 だが、今はそれができない。
 もう、十日も書けていない。いや、最新の原稿は破棄することにしたからギリギリ決定稿にするつもりのものに最後に触れてから二週間か、三週間か。これだからスランプ期にはキチンと執筆日記をつけておくべきだったと毎回後悔する羽目になるのだ。テキストデータのタイムスタンプは細かい修正で常に変動するのでアテにならない。そしていくつかの埋没したデータのうち、一ヶ月二ヶ月前のタイムスタンプを見ると俺の残り時間はそれほど遠く長くはないんじゃないかという気がしてくる。時間が経つのが早かった。最近は特に。
 だから、頑張らないといけないのに。
 ――綾波が俺のキーボードから生首になって現れる。俺の手首が綾波の頬と耳をかすめて埋もれていた。指を軽く動かす。なんの感触もしない。
 滝川竜彦じゃあるまいし。
 こんな綾波、偽物なのに。
 俺は、前へ進めないでいる。幻覚を消すことも、原稿を作ることも、できていない。そして本当に恐ろしいのは、そんなことじゃなかった。
 俺は、フォルダを開いて、いくつかのテキストデータを引っ張り出した。
 初稿、とある。それが1から9まで続いて、そこから先はA、Bになっている。10とすると1と2の間に割り込みで入ってしまうからだ。そんなこと知っていたはずなのに初稿1と打ったときの俺は、きっと本文を書き始めるつもりではまだなかったのだろう。それが弾みがついて本文になる。そういうことは今までもよくあったし、そしてそういう風にして書き始められた作品は、自分で言うのもなんだが、そう悪いものにはならなかったように思う。少なくとも書き出しくらいは、なんとか。
 最新作の、初稿をクリック。
 原稿データを展開する。
 少し眺める。
 わからない。
 この話のどこが面白いのか、わからない。
 何度も読み返したからだろうか。それともずっとアタマの中でこねくり返したからだろうか。久々に聞くBUMP OF CHICKENの『天体観測』のように、いやべつに『天体観測』じゃなくてもいいのだが、とにかく聞き飽きた、けれども昔は何度聞いても懲りなかった大好きだった名曲を聴きなおしているような、
 そんな気分。
 まだ完成、していないのに。
 俺はキーボードに顔を伏せた。指先を乗せたまま、祈るようにこうべを垂れた。
 書けない。
 書けない。
 書けない――
 いるはずもない綾波に言う、
「黙れ」
 もちろん誰も何も喋っていない。
 喋りっぱなしなのは、俺の心のほうだ。
「うるさい、お前に何がわかる」
 お前なんてやつはどこにもいない。俺の部屋には、もう誰も呼べないくらいに本で埋め尽くされてしまった俺の部屋には俺しかいない。
 雨が降っている。
 その音を全身で感じながら、動かない指先について考える。
 どうしてだろう。なにがいけなかったのだろう。俺がなにか悪いことをしたのか。それとも元々何もかも俺の勘違いでこんな話はカケラも面白くなかったのか。今まで誰も書いたことがない話なんて本当はなくて、あるとするならそれは先人たちが思いつきながらもやらなかったものだとかいうあの話は本当だったのか。そんな話に耳を傾ける俺じゃなかった。なのに今は心も身体も寒くてしかたなかった。冬とか雨とかそんなものは関係なく、骨の芯から、髄液がぴしぴしとひとりでに凍ってしまったような、そんな寂しさを感じた。
 そう、寂しい。
 俺は寂しいのだ。
 こんな夜更けに一人でパソコンに向かい合って、誰と喋るわけでもない、誰と分かり合うでもない、ただ埋まらない白地に恐怖して震えているこの俺はまぎれもなく孤独だったし、いいとこなんか全然なかったし、お先は真っ暗で不透明でやるせなく、ただただ茫漠としていた。いつの間にかキーボードに頬をつけていた。顔を上げれば白地を無意味なアルファベットが埋め尽くしているのが見えるだろう。だがそれでは白地を殺したことにはならないのだ。俺の心の白地を埋め尽くしたことにはならないのだ。俺の虚無を――
 何か、俺が悪いことをしたなら、はっきりそう言ってほしかった。吐き散らかした大言壮語のすべてを撤回して膝をつき、だれかれ構わず謝りたかった。許してほしかった。自分が何をしたのかもわかっていないこの俺を誰か許してほしかった。張ってきた意地のすべてがぱりぱりと音を立てて剥がれて行く気がした。心臓がしくしくと痛んで、いまにも止まるんじゃないかと思った。接着剤や油をまぜた生水がこの世界には満ち満ちているような気がするほど全身が重かった。立ち上がる理由も、立ち上がっていくべき場所も思い出せなかった。俺は泣いた。ぽたぽたと泣いた。キーボードの隙間に吸い込まれていく塩水を見て故障の原因にはなりはしないかと俗っぽいことを考えた。
 何が書きたかったんだろう。
 何か、書きたいと思えることがあったはずだった。それに向かって突き進んでいたはずだった。でも突き進むだけじゃ駄目なのだ。それ以外の何かが、神がかり的な何かが必要で、でもそれは何もかもが俺の勘違いなのかもしれなかった。本当はそんなものないのかもしれなかった。何もかもが夢だったのかもしれない。俺の存在のすべてが。
 何もかも上手くいかせることなんてできないのに。
 そんな完璧主義が一番自分の足を引っ張るのだとこの四年間で染み渡るほどわかっていたはずだったのに。
 俺の指は動かない。
 怖いのだ。
 結局とどのつまりは怖いのだ。
 つまらないと言われるのが怖い。気を使われるのが怖い。原稿を渡して、感想を催促するのが怖い。怖くて仕方なかった。弱い犬ほど吼えるというのは本当だ。俺は何もかもが怖いのだ。もういやだった。諦めたかった。何もかも投げ出して、投げ出して、
 何もない。
 投げ出しても、俺を待っているものは何もなかった。
 友達は、みんなどこかへいってしまった。
 俺一人だけが、自分の空想の中にもつれこんで、どこともわからない白い霧の中に留まっている。
 みんな大人になっていくのに。
 俺だけが聞き分けのないガキのまま、取り残されている。
 やり直せるのかどうか確かめる勇気も湧かず、ただ時間と機会だけをふいにして。
 何をやっているのか自分でもわからなくなる。
 逃げているだけだという当たり前の説諭ももう何度聞いたか覚束ない。
 俺は、何が書きたかったんだろう。
 晴れない睡魔が額の周りを旋回している。そいつにすべてを明け渡そうと何度も何度も電気を落として布団に潜るのだが冴えた目玉がどうしても暗闇に溶けてくれない。おかげで俺は何度も何度もパソコンをつけては消してつけては消して。本を読もうとしてはパタリと閉じて先の見えない自分の話に未練がましい思索を飛ばす。答えなんて出ないのに。
 結局は、書くしかない――
 俺は結局、電気を消して眠ることにした。
 やはり、書き直そうと思う。
 最初からは、もう無理だ。文庫一冊分は書いている。それをやり直していけば恐らくメビウスの輪を時間無制限で散歩するようなもので、終わりにはとても辿り着けそうにない。だからやっぱり、ここ最近の、少し浮ついた箇所を削ろうと思う。削って、じゃあ暗くするのか、と言われれば分からない。ただ何かが気に入らないのだ。本当は、冒頭からすべて一息に読み直して、俺が何を書いてきたのかを把握し直すのがいいのだろうが、それはできない。一部ならともかく全部となると、不思議なことにかえって混乱が生まれる。経験則だが、少なくとも俺の気分よりは信じられる。
 豆電球の、小さなオレンジの光を見上げながら、いつも考えている。
 俺の話について――
 どんな話にしたいんだろう。俺は、結局、この話を。
 どんな話に――


 朝日が染みるようにカーテンの隙間から入ってくる頃、家々から走り出していく車の音を聞きながら、俺はようやく眠った。孤独も恐怖も苦痛も消えずに、夢の中まで俺を追いかけてきたが、べつにいい。
 孤独も恐怖も苦痛も何もかも、とっくの昔に、俺そのものになっている。


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