住宅街の怪女のケース
衛藤薫子は露出狂だ。
念のために断っておこう。べつにこれは告発文ではない。
ただ薫子という女が、夜な夜なコート一枚に顔を覆うマスクをつけ、通りがかりのうぶな少年諸君に赤裸々な肌色をぶちまけている、というただの事実にすぎない。
それ以上の意味はなにもないし、薫子もそう思っている。
女の露出狂なんて長生きできそうにないと自分でも思っていたが、いままで、逆襲されたことは一度もない。
薫子のたわわに実った乳房に日常を炸裂させられた少年たちは、ぽかんと口を開け、鞄が己の命であるかのように抱きしめ、額に汗をかいてビビる。なにもできない。そういういわゆる草食系を薫子は狙っているのだ。
薫子が広げたコートのすそは怒れる獅子のたてがみであり、少年たちは炸裂して死んだ日常を心の中で虚しく呼び戻すばかりだった。
もちろん、今日までは、だ。
深夜。
三日月がかかった夜空に、正体不明のヘリコプターが蛍のように赤い灯りをちらつかせて飛んでいる。もしいま、と薫子は太ももをすり合わせた。このコートを広げたら、あのヘリは落っこちるかしらん? でも賭ける気にはなれない。
住宅街は静まり返っている。机ひとつ置いたらパンクする庭とリムジンを止めたらはみ出す車庫を持つ似たような規格の家々。
中流階級の住民たちは、明くる日の憂鬱と自分たちより下の階層をケツにしく夢に浸っている。
薫子はハイヒールをコツコツ鳴らしながら、息を潜めて獲物の気配を空気中に求める。
大通りの車が行き交う音、クラクション、誰かの罵声が距離を経てこだまとなって薫子の耳に届く。
そのなかから、親に買ってもらったローファーが親に作ってもらったガキに履かれて地面を叩く音を探す。ファックする勇気がない男に裸体をさらすのは男には教えたくない快感だ、薫子ははだけかかるコートの裾をきつく身体に巻き付けなおした。
月明かりのスポットライトが、丁字路に細長い影を映した。
コツ、コツ、コツ。
ローファーの音。フニャチン野郎だ。薫子の耳はサラリーマンの革靴と学生のローファーを聞き分ける。ターゲット固定型の露出狂なら誰でもできることだ。赤く膨れた唇をピンクの舌でなめ、頭の中でイメージトレーニング。
学生服を着た小柄な人影が、ぬっと丁字路の郵便ポストの横を通りすぎた。
薫子は電柱の裏から爪先立ちで全力疾走、ためてためてためてためてから呆然とその場に釘付けになった学生の前に立ち塞がり、
コートを広げた。
最高だった。
欲しくて欲しくてたまらないくせに、指一本動かせないやつを見るのは、札束で乞食の頬を叩くのと同じくらい爽快で、それよりも格別に安上がりだ! どうしたのさチェリーボーイ、少しは根性見せてあたしの、
「そのハイヒールで、地団駄を踏むのはやめておいたほうがいい」
その夜、ぽかんとしたのは薫子の方だった。
ハイヒール?
確かに、と薫子は足元を見下ろす。豊かな丘陵と夜風を受けてそよぐ草原の果てに、確かに薫子はハイヒールを履いていた。会社に入って、最初の給料日に妹とお揃いで買ったハイヒール。薫子がリストラされても仕送りを送ってくれる妹の家のゲタ箱には、まだ同じハイヒールが収まっているだろうか。もっともそんなこと、露出狂の薫子には、
「それで?」
だった。
学生は、バカみたいにその場に突っ立っている。薫子は鼻で笑った。
「ははあん、なに、それってもしかして負け惜しみ?」
いったいなにを学生が負け惜しまなければならないのかは薫子自身にもよくわかっていない。学生は反論しないのか、できないのか、沈黙したまま。
ちょっとやばいかな、と薫子は思い始めた。なんだかあやしい。いや、たぶん横からこの構図を見たらあやしいのは絶対あたしの方に決まってるんだけど――このコ、なんかヘン。猫背で陰気で、眼に光がなくって、なんだか死んでるみたい。
薫子は心と身体が逆に動いた。
「――地団駄踏むなって言ったわね、ドーテーくん。ドーテーのくせにオトナのあたしに指図するわけ? ハン、そういうのは彼女いない暦年齢を卒業して観覧車のなかで彼女をファックしてからできることなの。あんたみたいな」
真っ赤なマニキュアを塗った長い爪を、薫子は侮蔑とともに学生にむかって突き出した。
「ぐずで、だめで、ごみなやつには一生ムリなわけ」
言ってやった――薫子は二度目の絶頂を迎えていた。ここまで言われても、なにもできない、それがこいつら草食系の生態系。笑ってごまかせば済むと思ってる。済むわけねーだろ、笑ったってあたしの首も保険も繋がらなかった。
「でも、あたしはやさしいの。やさしいお姉さん。わかる? うなずいてごらん?」
学生はのろのろと頷いた。薫子は満足して微笑む。
「そう、いい子ね。だから、特別にあたしをオカズにさせてあげる。さあ、いますぐパンツ脱いでそこに跪きなさい――」
これこそが”住宅地の怪女”衛藤薫子の最大目的だった。若い男が、自分の目の前で、ブタのように丸くなってうめく様こそが薫子の生き甲斐であり存在証明であり、
たったひとつの慰めだった。
「さあ、はやく!」
学生はしれっと答えた。
月明かりに照らされたその口元は、
笑ってさえいた。
「いまのあんたじゃ、起たねえよ」
薫子の眼球が内出血を起こした。もちろん原因は激昂による心拍数の急上昇だ。
背かれたのは、初めての体験だった。
身体が膨れ上がるような錯覚を起こし、それが怒りによるあてのない暴力衝動だと気づく前に、薫子はハイヒールのかかとをアスファルトに打ち下ろしていた。タブーを破った薫子に学生が冷たい眼差しを向けている。
パキッというお菓子じみた音を最後に、ハイヒールのかかとは闇の中へと滑っていった。
薫子の荒い息遣いが、にらみ合う二人の間をさまよう。薫子はじりっと学生の細い身体ににじりよった。そのときまでは絞め殺すつもりだった。あとさきなんて関係なかった。いまだけあればよかった。
このシマウマ、ぜったいぶっ殺す。
薫子はゾンビのように手を伸ばし、学生はひどく残念そうに、我が子の答案を差し出された親のように額に手をやった。
「まだわからないのか? いまなにが起こった? ハイヒールのかかとが折れたんだぜ?」
それがどうし
「待 ち 伏 せ さ れ た の は 、 ど っ ち だ か わ か る だ ろ ?」
生涯最速だった確信がある。
薫子は、いまだ両肩にひっかかっていたコートのすそを翻し、全速力で逃げ出した。
露出狂とて、薫子もいっぱしの犯罪者だ。
この世には、カモと、それを喰うもっと大きなカモ、それしかいない。
そして、カモはいま、自宅に気づかれないうちに侵入され素性と秘密をすべて調べられオキニのハイヒールに絶妙の亀裂を叩き込まれていた、
衛藤薫子をおいてほかにはいない。
事情なんてどうでもいい。理由なんかわからなくていい。
逃げなければ、明日はこない。
逃げなければ。
逃げなければ!
でも、どこに?
にゅうっと伸びてきた白い手が、薫子の髪を引っつかんだ。
薫子ちゃんと桜子ちゃんは、ほんとうに綺麗だねえ。
薫子は、近所のおばあちゃんが嫌いだった。
なにかにつけておすそわけをうちに持ってきてくれるのはいいが、そのどれもが狙い澄ましたように薫子の苦手なもののオンパレードなのだった。
温野菜のサラダにきゅうりとなすの漬物。
おばあちゃんに他意がなかったのは間違いないが、幼い薫子がくさくさしい食事に馴染めなかったのもまた無理はない。
近所のおばあちゃんは、薫子が内定を――すぐに失うことになる未来への切符を手に入れた日に、狙いすましたように亡くなった。
いま、薫子は、猛烈におばあちゃんに会いたかった。
薫子ちゃんと桜子ちゃんは、ほんとうに綺麗――
頬を打たれて、薫子は生ぬるい夢から眼を覚ました。
なぜ意識を失っていたのだろう。暗くて周りになにがあるのかよくわからない。わかっていることは、両手を冷たいなにかが縛って薫子を吊り下げているということ。たぶん、鎖が。
削岩機で掘られているような頭痛がする。ということは、なにか薬でも嗅がされて眠らされたのか。
誰に?
目の前に、学生の顔があった。
突然、錯乱し喚き始めた薫子を再び燕のような平手打ちが見舞った。
それは、痛みがあるにも関わらず夢と現実の区別が判然としない薫子がしくしく泣き出しておとなしくなるまで続いた。
薫子は、乱れた髪の隙間から敵を窺い見る。
あの学生だった。
学生が手を伸ばし、暗闇でなにかに触れた気配がした。すぐにブゥン、と低い唸りと共にパソコンのディスプレイが青白い光を放ち始めた。ここは学生の自室らしい。つけたパソコンでなにをするのかと薫子は身構えたが、どうやら灯り代わりに点けただけのようだ。
唐突に学生が言い放ったセリフは、薫子をフリーズさせるに十分な破壊力を有していた。
「実は、あんたに惚れていたんだ」
「え?」
少女のように無垢な驚きをみせた薫子にまじまじと見返され、学生は照れくさそうに頬をかいた。
「いまでも覚えているよ。駅前のドーナツ屋あるだろ? あんた、あそこでアップル牌を頼んでた……」
ちなみにこれは誤字ではなく、アップル牌という麻雀牌型のパイなのだが、これは薫子の大好物だった。週に十三回は食べている。
いまや学生は身振りも交えて熱演している。締め切られた部屋で、少年と女の心臓と回転するHDDが温度を上げる。
「びびっときたんだ! ああ、おれ、この人を好きになるんだなって……で、あんたのことを調べていくうちに、その」
薫子は、生まれて初めて自分の趣味を恥ずかしく思った。誰にも見られることさえなかったが頬を赤く染めさえした。
自分の状況も忘れて。
「出会い方は悪かったかもしれない……でもおれたちうまくやっていけると思う。そうだろ? いま、あんたがここにいることが、つまり運命ってやつなのさ」
「うん……そう、かも……」
すっかり自分に舞い降りたドラマにめろめろになってしまった薫子はこくん、と頷いた。
この世に、薫子の性癖を知りつつ受け入れてくれる異性がはたして何人いるだろう?
薫子の脳はシナリオモードに移行し光の速さで薫子が三人の孫と最愛の夫に見守られて大往生するシーンまで展開した。
学生が、とびきり甘い声で、青白い後光をバックに囁いた。
「おれを受け入れてくれるか?」
薫子はおずおずと顎を引いた。心は少女のときの輝きに満ちたものに戻り、もう二度と熟れた身体とともに夜を疾走することはないだろう。
住宅街の怪女は死んだのだ。
うん……うん……と望んだ答えを得た学生はしきりに頷きながら、引き出しをガラッと開けた。
「それはよかった。本当によかった」
薫子は、少年が引っ張り出したものを見ても、彼を信じ続けた。
もし、ここで裏切られるのであれば、もう二度と衛藤薫子の人生に再起の瞬間は訪れないだろう。
だから、どっちに転ぼうと、薫子には信じるほかに道などなかった。
とっくの昔に。
「ちくっとするよ」
「うん……あたし、こわい」
「心配いらない。砂を詰めてるだけだ。もちろん、本物の砂じゃないけどね」
鎖に縛られた腕に、少年が針を突き刺し、そこから冷たい感覚が薫子に忍び込んできた。注射は苦手だったはずなのに、なぜかそのときだけは平気だった。神様もたまには気を利かせるのだ。
それから少年は無言になり、薫子も伴侶として彼に合わせた。ときどき身体がかゆくなったので、少年に頼んでかいてもらった。
やがて、ぱちりと少年が電気を点け、まばゆい光の炸裂に薫子は目を細めた。腕で庇いたがったが、つながれているのでできなかった。
満面の笑顔で、少年は手をすり合わせ、広報担当が自社の製品を褒めそやかすような手つきで薫子のラインをなでた。女性として当然、悪い気はしない薫子だった。
そして女の子なら誰でも一回は聞いてみたくなるセリフを吐いた。
「ねえ……あたし綺麗?」
学生は笑顔のまま、薫子はどきどきしながら答えを待ち、
「こいつを見た方が早いな」
部屋の隅から姿見が引っ張り出されて、薫子の前に置かれた。
豚が映っている。
足首から太ももは、均等な太さをキープしていた。蹴りを放てばブラウン管TVぐらいなら一撃でブッ壊せそうだがあいにくそんな機会はない。ぶるんぶるんになった腹の脂肪が傘のように垂れ下がっている。では乳房はというと空気を抜かれたようにぺったんこだ。ドラム缶のような首の上には、やはり傘のようになった顎と、つぶれた鼻、肌の色だけが瑞々しい桃色、小さな豆に似た目。
薫子は手をあげて、変わり果てた自分の頬に触れた。
その手は、人差し指と中指、薬指と小指が癒着していた。
蹄ということだろう。
薫子は絶叫した。絶叫し続けた……。