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雪の街

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 僕達は年を取らない。
 それが何故かはこの街に住んでいる誰も知らない。
 だけど人間は年を取り老いていくものだという事は知っている。自分達が異常なのだと言う理解を添えて。
 相原蛍君。
 そう声をかけられ僕は窓の外へと向けていた視線をそちらへと向けた。
 窓の外は朝からずっと静かに雪が降り続いていた。
 僕達の街は季節と言う概念から見放されたように一年中冬に包まれている。
 異常気象、とはきっと違うのだろう。
 きっと僕達と同じように空も時を刻む事を忘れてしまったのだと僕は思う。
「また雪を見てたの?」
「……不思議と見飽きないから」
「他の景色なんて知りもしないのに?」
 制服姿の工藤若葉がスカートを抑えながら僕の一つ前の席に腰を下ろした。
 彼女の長い黒髪が音もなく微かに揺れる。そこから覗く横顔は相変わらず白く儚さを感じさせた。
「多分」
「なに?」
「春や夏や秋を僕が過ごす事が出来たとしても、それでも僕は冬を気に入ったと思う」
「本当にそうかな」
「思い込みだと思う?」
「私は――」
 僕と同じ十六歳の彼女。
 僕は自分が十六歳としてこの世界に存在する事を幸運だと思うべきなのかもしれない。
 僕達には生まれた記憶がない。
 正確に言おうとするとそれは曖昧な言い方にならざるを得なくなる。
 僕達には確固とした過去がない。
 ふと気がついた時、僕は今もこうやって座っている高校の教室で椅子に座っていた。そうしている事に僕も、そして周りの生徒達も違和感を覚える事はなかった。
 ただ僕はまるでずっと以前からそうしていたかのように、腰掛けた窓際の席から窓の外で降り積もる雪景色を静かに見下ろしていた。
 だから僕が過去を手繰り寄せようとする時、出来るのはそこからしか思い返す事しか出来ない。
 時間としてそれを表現するなら一年ほど前と言う事になる。
「――そうね、私は」
 若葉は僕に対し九十度の姿勢のまま顔もそちらを向いたまま、ただ少し天井を見上げるように顎を持ち上げた。
 あの日も、こんな風に彼女に話しかけられた。
 そしてその時も、今と同じように白い雪を見つめていた僕に「そんなに雪を見てて楽しいの?」と尋ねた。
 彼女に尋ねた事はないが、きっと彼女は僕よりももっと過去の記憶を持っているような気がする。
 僕達は同じ十六歳だけど、刻んだ時計の針の回数はまるで違った。
 それでも僕達は「十六歳らしい人間」として今、ここにいる。
「春も夏も秋もそれぞれちゃんと見てからどれが一番いいか決めたいかな」
 彼女らしい返答。
 だけどそれはきっと叶わない。
 僕はもう一度窓の外を見やる。
 雪はまるで僕の視線を遮ろうとしているようにも思える。
 僕はそんな小さな粒達を交わし、そのずっと向こうに見える校舎よりも高く聳え立っている「壁」を見つめた。
 この街をぐるりと囲んでいるその無機質な壁は僕達を否定するかのように鎮座していた。
 あの壁の向こう。
 そこにはもしかすると春も夏も秋も存在しているのかもしれない。
 僕達とは違い、赤子として生まれ、年を重ね老人となり息を引き取っていく人間達がいるのかもしれない。


 もしそうなら。色んな。もしそうなら。
 あの壁の向こうに行ければ。
 この縛られた時の呪縛から放たれるのだろうか。
 なぜこのように生まれ存在しているかの理由を知る事が出来るのだろうか。
 君に冬以外の季節を見せてあげられる事が出来るのだろうか。


 だけど僕達の今はあの壁と、そして降り続くこの雪に閉じ込められただけの毎日。
 僕達を挟む机の上に置かれたミュージックプレイヤーに若葉が手を伸ばした。
 刺されていたヘッドフォンのコードがだらしなく延びるのを僕は見つめ、彼女は僕に断る事もなく、ボタンを
操作する。
「最近、なに聞いてるの?」
「代わり映えしないね」
 彼女の細い指先が動くのをやめ、視線が僕と重なった。
 僕はその視線に応えるようにあるアーティストの名前を口にする。そうすると彼女は小さく笑った。
「随分古いの聞いてるんだね」
「いいものに古いも新しいもないんだよ」
「そうだね。私もそう思う」
 ちょっと聞かせて。
 そう言って彼女はヘッドフォンを耳に当てた。
 そうして僕は彼女が音楽を聞いている間、再び窓の外に視線をやっていた。
 音もなく舞い降りている雪を僕は無言で見つめる。
 そのようなやり取りで僕達は静かに放課後を過ごす。今までもそうだったし、きっとこれからもそうだろう。まるで音楽のように。時の流れと言う存在を必要とせず、僕達は、と言うよりも僕は、この心地よい空間をいつまでも求めるのだろう。
「蛍君は」
「ん?」
「変わらないものってあると思う?」
 僕達。
 この街そのもの。
 だけどそれはきっとそうではないのだろう。
 僕はいつからか、初めて彼女と出会った時とは違う感情をこの胸に宿している。
 僕が思うよりも早く、曲は終わってしまったようだった。
 彼女はヘッドフォンを外し、そのまま机に頬杖をつく。
 変わらないもの。
「あると思うよ」
「どんなもの?」
「……さぁ、うまく言葉には出来そうにない」
 恋。
 その一言で片付けられる事。
 だけどそれを言えば、この感情を含め、僕と彼女の中できっとなにかが変わっていくかもしれず、今の僕はまだその変化をうまく迎えられるような自信もなく、到底口にする事は出来そうにもなかった。
 だけどきっとそれだけは変わらないのだろう。
 僕が彼女に恋をしているという事。


「じゃあ行くね」
「うん。また」
 しばらくの会話の後、先輩に呼ばれているからと言い彼女が立ち上がった。
 教室から出て行った姿を見送る。
 グラウンドを見ると帰宅しようとしている二人が並んで歩いている。
 雪の上に四つの足跡が規則的に校門まで続いていた。右に折れた二人の姿が見えなくなると、僕も帰ろうと教室を後にする。
 校舎を出て、僕は駐輪場に止めてあった自転車の鍵を外し漕ぎ出すと先程とは違う一本の筋が僕の後に続いた。
 首に巻いたマフラーが風に煽られて揺れる。僕はそれを直しながら吐息を一つ零す。白い息が頬を撫でた。
 それの生温さが僕は余り好きではない。
 いつもより今日は冷えるようで、僕は信号につかまったところで、空けていたコートのボタンを閉じようとする。手袋をしていたため上手くいかなかったが再び信号が赤になる前になんとかその作業を終えると僕は再び足を動かし始める。
 車道を何台か車が通り過ぎていく。追突を避けるために広く車間距離を取った車はのろのろとした速度でその間隔を維持していた。それでもフロントガラスに舞い降りようとする雪達はワイパーに振り払われるよりも早く風圧によってその姿を後方へと追いやられていった。
 慣れ親しんだ光景。
 僕達は本当のところ「寒い」と言ったものがどんなものなのか分かっていないのかもしれない。
 だって「暑い」と言う事を知らないのだから。「熱さ」とは違う「暑さ」を。
 マフラーの隙間、コートの袖口、学生ズボンの裾。
 そんな小さな綻びを見つけ、肌を刺すような冷たい風が僕の体に時折進入してくる。
 だけどそれこそが僕達にとっての普段であり、正常なのだ。
 白い雪の下になにか転がっていたのか自転車が小さく揺れた。操作を見失うほどの揺れではなく、僕は慌てる事無くハンドルを安定させる。振り返っても白さの中にその正体を見つける事は出来なかった。
 きっと新しい雪にその姿をまた隠されてしまったのだろう。
3, 2

  

 自分がこのアパートに住んでいるのだという事を誰にも教わる事なく、僕は生まれた時既に知っていた。
 駐輪場の傍にある鉄製の階段は古く錆び付いていたが、雪に包まれているおかげで不出来な音を立てる事はなかった。滑り落ちないように僕は手すりを使いながら二階の部屋へと戻る。
 ポケットから鍵を取り出し中へと入るとエアコンを作動させた。さして広さもないこんな部屋でも、暖まるには少し時間がかかるのだが、僕はすぐにコートをハンガーにかけ、マフラーを椅子の背もたれに預けた。
 吐息を一つ零し、窓際のベッドに腰を下ろした。
 無意識の内に吐息が一つ零れた。その目に見えない重たさは部屋の中をぐるぐるとしばらくさ迷い、そして窓の隙間から外へと這い出ると、それ以上の沈鬱な空模様に押し潰され、ようやくその残滓のような形を消す。
(……多分、僕に意気地がないせいだ)
 教室から出て行こうとする若葉の後ろ姿を、自分を戒めるようにしながら思い返す。
 彼女に対する想いは日を追えば追うほど強くなっていくのに、それに対しての僕は正反対に臆病になっていくばかりだった。だから、ああやって彼女が先輩に会うからと、僕の前から立ち上がっても僕はそれに間抜けな顔をして頷く事しか出来ないでいる。
(……情けないね)
 傍にあったリモコンに手を伸ばし、テレビをつけた。始まったのは二十四時間アーティストのプロモーションビデオを流している番組だ。
 僕達の街にはチャンネルが三つしかない。この音楽番組と、同じように二十四時間地球上の――僕達が知らない壁の向こうの――自然を映し続けている番組、そして三つ目はこの街の中だけの事を伝えるためのニュース番組だけだ。時折学校の連中とどのチャンネルを見ているのが一番有意義かと話題になる事もあるけど、皆今見ている音楽番組が一番だと言う。自然なんて四六時中見ていても飽き飽きするものだし、この狭い街で起こる事件や事故などの話題なんて、僕達の間に用いられるようなものでは到底なかった。
 僕は映像を見る事はせず音楽だけを聞きながら、表紙が擦り切れた小説のページをめくっていた。


 ――もう私はあの時のルコじゃないのよ。


 本多孝好のmissingの「瑠璃」と言う小説の中にそのような一言があった。
 僕はその行を読んでは、もう一度頭に戻り、もう一度その言葉を目に焼き付けるようにして追いかける。
 あの時。
 僕にとって「あの時」と言えるような過去はいつなのだろうか。僕達は彼女のように時の流れに押しやられる事もないのだ。僕達を形成している無数の細胞はどれだけ時を経ても衰える事がない。
 つまり、ずっと変わらないでいる事だって出来る。擦り切れていく事のないこの脳にずっと同じ感性を留めて置く事は難しい事じゃない。永遠に若気の至りを続けていく事も苦ではない。確かに生きていく中で起こる出来事や経験によって価値観や感性に変化をつけていく事もありえるのだけれど、きっと人間の「成長と老い」は似て非なるようなものであり、それに必要なものが欠けている僕達には垣間見る事ができない心理のようなものがあるのだろう。
 僕は小説の中で、自分を見失い、そして今の自分を認めざるを得ず、それでも受け入れきれずにいる彼女の苦悩に心焦がれた。
 きっと、それを正確に理解してあげる事は出来ないのだけれど。
 そしてようやく次のページをめくろうとしたところで、携帯電話が音を立てた。
 僕は制服にいれっぱなしにしていたそれを取り、ディスプレイを見て、悪気はないものの思わず顔をしかめていた。その相手が先輩だったから。
「はい」
『やぁ、今なにしてる?』
「小説読んでました」
『小説? 誰の?』
「本多孝好って言う人なんですけど」
『知らないな』
「二千年頃に出た古い小説ですから」
『二千年って、百年以上も前のものじゃないか』
「でも、面白いんですよ」
『ふうん。まぁ、いいや。今からちょっと出てこないか?』
「今からですか?」
 僕は眉根を寄せた。
 しばらく前に二人並んで学校から出て行く姿を見ていたから。
『そう、今から』
 社会。
 そういうものがなんのためにあるのかと問われるとどう答えるべきだろうか。
 安定した生活水準の維持の為にある。
 もし、そういう理由なら僕達の場合はそれが成り立たない。
 生まれた時から一定の年齢を持つ僕達は、その瞬間衣食住を手にしている。誰に習うでも教えてもらうでもなく、僕達は自分達が眠るための家がどこにあるか知っていて、例え――おかしな言い方だけど――道端で生れ落ちたところで、どうやってそこに帰ればいいのかをちゃんと理解している。
 そうして帰ればそこにはもう生活するための必要な家具が揃っていて、明日から自分がどうやってこの街で暮らしていくべきなのかも、なぜか僕達は理解して、まるで昨日から、ずっと前からそこで生活していたかのようにその部屋に溶け込んでいく。
「どちらまで?」
 だから僕がこうやって乗り込んだタクシーの三十代後半に見える運転手も、きっと生まれた次の日にはこうやってタクシーを運転していたのだろう。
 行き先を僕が告げると、彼は「はいはい」と多少砕けた態度でも穏やかにそう答えた。僕が口にしたのはこの街の中にある風俗街で、余り学生には好ましいと思える場所ではないのだけれど、果たして僕と彼のどちらがこの街で長く生きているのかは分からないので、いちいち目くじらを立てられる事もなかった。
「寒いね」
「そうですね」
「お兄さん、これから仕事?」
「いえ、友人に会いに」
「デート?」
「いえ」
 僕はそれに少し沈黙してから
「男ですよ」
 とだけ返した。
 その男の人はつい先程まで女の子といたはずですけど。
「学生かぁ、いいなぁ。俺も学生気分って奴を味わってみたいよ。まぁ、無理な話だけど」
「そんなたいしたものじゃないですよ」
 そんな風に他愛のない会話をしながら目的地へと辿り着き、僕はポケットからカードを取り出し、運転手に手渡した。彼はそのカードを備え付けられたリーダーに通すと「はい」と僕に戻してくれる。
 僕達の世界には「金」の概念がない。全てこのカードでやり取りは行われるのだが、だからと言ってこのカードの使用に制限などが課せられていると言う事もない。言うなればこの街にあるもの全ては「タダ」で、カードさえ――持っていない人間なんてこの街にはいない――持っていれば僕達はなんでも手に入れる事が出来る。
「ありがとうございましたぁ」
 ドアが閉まりタクシーが走り去っていった。
 あの「無料奉仕」の運転手は最後まで接客業のお手本のような笑顔を浮かべたままだった。もしかするとそれが評価されて車内での立場がよくなる事があるかもしれないけれど、だけどそれで「生活水準を上げるためのなにか」をその仕事から得る事はない。
 それでもこの街では労働者は当然のように存在し、日々の職務を果たしている。
 それがなぜなのかと言う事を、少なくとも僕は考えた事はない。
 タクシーを見送り細やかな感触の雪の中に足を踏み入れた。夜の風俗街は人通りが多くて、僕や誰かの足跡はすぐに別の誰かの足跡に踏み潰され、地面には不恰好なおうとつが出来上がっていた。
「お兄さん、どうですか、可愛い子いますよー」
 一人で歩いている僕を見止めたスーツ姿の客引きの男が声をかけてきた。
「いや、いいです」
「そう言わずに。今だったら時間少し延長サービスしますよ」
「友達と会う予定があるから」
「男の友達? だったら彼も一緒に――」
 なかなかしつこい男だった。僕は辟易としながら断るものの彼もなかなか引き下がる素振りを見せない。
「ほら、どうすか。絶対後悔しないですよ」
「悪いんだけど、イブに怒られるから」
 面倒くさくなり、僕はある女性の名前をそう口にする。
 どうやら効果があったようで、彼は先程までの軽薄そうな様子から一転し狼狽してみせた。
「あ、お兄さん、イブさんの知り合いですか?」
「うん、そう」
「あぁ、悪かったよ。イブさんには言わないでくれ、な」
「大丈夫ですよ」
 僕だって客引きを引き剥がすために名前を出したという事を彼女に知られたくはなかった。すごすごと引き下がっていく彼をやり過ごすと、先輩が指定したバーへと辿り着き、ドアに至る細い階段を昇った。店は周りのごてごてした明るさに比べると若干質素で薄暗い作りで、僕は動かすと明らかに錆び付いていると言う事が分かるドアを少し力任せにこじ開けた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
 店内に足を踏み入れた僕にママがそう声をかけた。ママはわざとらしく僕に嫌そうな顔をする。それを見慣れている僕は小さくお辞儀しながら苦笑を返した。
 少し首筋に皺が目立ち、それを指摘されるとやたらに怒るママは年齢を三十三だと言っているけれど、僕達は絶対あの人は四十五位だよと影で話している。そんな彼女はここでもう十年以上店をやっていて、毎日やってくる誰かの話に耳を傾けては、少し耳が痛くなるような助言をくれる。時折度が過ぎる事もあるけれど、店内の客の入りを見ればそれに好意を覚えている人間は多いらしい。
「葛城だったらそっちにいるよ」
「あぁ、はい。えっと、ジントニックもらえます?」
「あんたまだ生まれて一年だろ。だったらまだ十七だ」
「すいません」
「あとで持ってくよ」
「すいません」
 いつものやりとり。
 僕は狭い店内で身を縮ませながら奥へと進んだ。
 カウンターが一杯だったからだろうか。彼にしては珍しく隅っこにあるテーブルに一人で座っていた。僕に気がつくと彼は足を組んだ姿勢のまま、顔だけをこちらに向けて手を軽く上げてみせた。
「よう」
「こんばんは」
「おう、座れよ」
 朗らかに笑いながら、先輩――葛城直人が対面の席を指差した。
 言われたとおりに僕はそこに腰を下ろす。
「どうしたんですか?」
「ん?」
「急に呼び出すからなにかあったかと思って」
「お前さ」
「はい」
「俺がお前を呼び出す時に今までそんな大げさな理由あった?」
「ないですね」
「だろ」
 なにを今更、と言うように笑われた。そうして笑い声が止むころテーブルにジントニックが運ばれてきた。バイトらしい女の子は「どうぞ」とだけ言うと忙しいのかさっさと離れていく。
「あの子、感じ悪いよ」
「そうですか?」
「ママに言ったんだ。もっと愛想よくさせろって。そしたらあんたよりは断然気が利くって逆に言われちゃったよ」
「ママが言うならそうなんでしょう」
「なんだよ、お前もママの肩持つのか?」
「直人さんがここで働いてる姿は想像出来ないです」
「なんでだよ」
 彼は大げさに肩をすくめてみせた。
 僕と違って感情表現がとても豊かな人だった。彼と知り合ってそれなりに時が経ったけど、彼のキャラクターがそうさせたのか、僕達が仲良くなる事にそれほど時間はかからなかった。行動的でもある彼はこんな風に学校が終わった後、よくぶらりと街に出てはこんな風に僕を呼び出したりするが、僕はそれを不快と思う事もなかったし、断る事もなかった。
「つかお前、部屋で一人で小説?」
「はい」
「暗いよ、お前。もっとさぁ、楽しい事しようぜ」
「先輩にはそりゃ敵いませんよ」
「別に俺になれって言ってないだろ」
 テーブルに身を乗り出し、水滴のついたグラスに手を伸ばした。そうしている彼を見ながら僕は思う。
 彼のようになれれば、一体どうなるだろう。
「まぁ、これでもそれなりに楽しいですよ」
「あ、そう。あ、そういえばさ、今日若葉と買い物に行ったんだけど」
 何気ないその一言。きっと先輩はその程度だったのだろう。
 だけど僕はその名前を聞いて、先程までの軽い調子を失ってしまう。
「あぁ、そうなんですか」
「そうそう。参考書を買いに行きたいって言うんでさ。先輩のほうが分かるでしょう、なんて言うんだけどさ。俺勉強とかしないし、分からないっつーんだよな」
 先輩はいい人だった。
 僕はそんな彼に好感を覚えている。
 彼女はどうなんだろう。
「だからさぁ、どれがいいかって、いざ棚の前で聞かれてもさぁ、悩んじまって参ったよ……なぁ、聞いてる?」
「……聞いてますよ」
「あぁ、そう。まぁ、適当に選んだけどあいつ真面目だよな。勉強なんかしたって意味なんかないのにな、こんな世界で」
「そうですね」
 先輩の言う事にも一理はあった。僕達はいつまでも学生で進学も就職もしないのだ。例えどれだけ勉強をして知識を得ても、それを活かす機会がどれほどあるのかなんて分かりもしない事だ。
 だけど僕は素直に頷く気にはならなかった。一理あるとは言っても、僕を含めクラスの生徒はそれなりに真面目に勉強をしてはいた。その理由を問われても「学生だから」としか言えないのだけど、どちらかと言うと先輩の方が珍しい考え方を持っていると言えた。
「俺さ」
「はい」
「たまに嫌になるんだよな」
「なにがですか?」
「俺達さ、おかしいんだよ。だってさ、あんな壁に閉じ込められて、しかも俺達は年を取らない。全然人間の生き方ってやつをしてないよな。正直狂ってるって思う。考えない? 壁の向こう、どうなってるんだろうって」
「……考えますよ」
「だよな。俺さ、思うんだよな」
「なにをですか」
「壁の向こうに行きたいよなぁ。俺、この街から出て行ってさ、冬以外の季節とか見てみたいな」
「……そうですか」
 時折、僕は彼の事を怖いと思ってしまう。
 僕だって壁の向こうがどんなものなのだろうと考える事がない訳ではなかった。
 だけど、この街に住む僕達にとって、それは決して許されない事だ。だから彼のようにいとも簡単にそれを口にしてしまう事など信じられなかったし、それ以上に僕が彼の事をそう思ってしまうのは、彼がそれを本気で言っているからだと言う事がありありと分かるからなのだった。
「……最近、雪止まないな」
「……そうですね」
「……そろそろ止むかな」
「……そうならなければいいですね」
「……まぁ、無理、だよな」
「……そう、ですね」
 僕達はそう言って、どこか諦めるように残った酒を口に運んだ。
 雪。
 雪が降らない日。
 それは時折やってくる。
 そんな日は、雲一つない晴れ間が広がり、白い太陽がその姿を覗かせ下界を照らすのだ。
 だけど、その真っ白な暖かい光が照らすのは、どうしようもない恐怖でしかないのだ。
 雪解けの中に広がる、赤。
5, 4

秋冬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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