第九話 生きている自殺者
保健室の校医には貧血で倒れたと言っておいた。
さすってみても風止の頭が非常に綺麗な形であること以外わからなかったので、まあ大事には至らないだろう。
おれは自分の所属クラスと名前を言い残して保健室をあとにした。
授業中の校舎を堂々と前進しながら、頭のなかは風止のことでいっぱいだった。
そしていったん校庭に出て、体育をやっているクラスの目を避けながら保健室の窓へと回り込んだ。
植え込みと校舎の白い壁に挟まれながら、そっと室内を覗き込む。
校医はなにか書き物をしている。
ベッドには風止が寝ていた。布団が静かに波打っている。
おれはくるぶしのホルスターから拳銃を抜き取った。
ずっしりと重い手ごたえが、これから起こることへの嫌な予感を呼び起こす。
おれは緊張していた。ためらってもいた。だが、やると決めたらやる男だ。
銃口を風止の額に照準した。
風止はときおり眉をひそめて、布団を身体に巻きつけようと身もだえしている。
悪夢でも見ているのかもしれない。
蒼葉に蹂躙される夢、そして大空への滑空の夢だ。
頭のなかの<テレビ>は沈黙したままだ。
<隣町>の連中はいま、おれのことを見ていない。
むしろこちらから連絡してこの光景を、風止が寝ている姿をやつらに見せるべきだろうか。
やつらはなにを見るのだろう。
おれは鼻の頭に汗をかいていた。不安だった。黒板の音くらいには。
おれはゆっくりと、風止に重なる自分の顔に向けて、引鉄を引いた。
弾丸は、聡志のものにしておいた。
耳をつんざく銃声と共に弾丸が発射された。
ガラスが割れた瞬間、なにもかもが一時停止したように凍てつき、そしてすぐにぐにゃぐにゃと溶け崩れた。
視界が曖昧になり、スープになってかき混ざる。白と灰と肌色のスープ。食欲が破壊される色合いだ。
おれの手に握った拳銃の感触が消えていく……。
木製の銃把の、あの生きているような不思議な暖かみが、誰かに奪われていった。
おれは倒れこみ、地面に激突する瞬間を引き伸ばしたような感覚に包まれた。
どこまで落ちていく。が、やがてはそれも終わる。
おれは、路上駐車されたワゴンにもたれかかっていた。
それこそ銃で撃ち殺されたみたいな無様な格好だ。
立ち上がって車のなかを覗くと誰もいない。
なかに鍵が刺さっているのが見えたが、ドアは開かなかった。
おれは辺りを見回し、<テレビ>と自転車を発見した。
連中はどこかへ出かけているらしい。集団トイレかもしれない。おれは<テレビ>をつけた。
聡志が見ている光景が、モノクロテレビにパッと広がった。
停電したように何度かブラックアウトするのは瞬きだろう。
聡志は急に召喚されて面食らったらしく、その場を動かなかった。
それもそうかもしれない。
誰もいない保健室の前に放り出されて、なにをすべきかわかるやつはそうそういない。
そう、誰もいなかった。
風止美衣子が寝ていたはずのベッドは、しわひとつなく綺麗に整っていた。朝から誰も使わなかったように。
おれは<テレビ>を消した。
そして夏の日差しをモロに浴びていることに気づいて、手でひさしを作った。
滝のような汗が流れる。溶けていくアイスクリームになったような気分がした。
想像はしていたし、だからこそ<交代>して確かめた。
裏を取った今、自分の考えが正しかったことを喜ぶべきか、それともこの事実に驚きおののくべきか、自分でもわからない。
おれは、どう対処すべきなのだろう。
風止美衣子は、間違いなく死んでいる。
だが、なぜか、おれの世界でだけ生きているのだ。
エーテルを貫いておれを焼き殺そうとする太陽を見上げながら、おれの脳裏によぎったのは、これで一日三時間仲間がひとり増えたな、なんて冴えない言葉だった。
厄介な仲間だった。
おれは考えた。動くのは考えてからだ。
風止美衣子がおれの世界だけで生きている。
それはなぜか。
どういうことかはわからないし、あんまりいい予感はしなかったが、やはりおれと出会ったせいだろう。
風止が死んだのは、おれがあの生首を見た日。
あいつはあのとき、死ぬ気だったのだ。
そしておれ以外の五人の世界では、やつはあのまま飛び、八階の高さから地上に叩きつけられバラバラにぶっ飛んだ。
おれがあのとき、屋上なんて見上げなければ、こんなことにはならなかったんだろう。
果たしてどっちがよかったのだろうか。
いま、風止は聡志の世界で死んでいる。
だがいまおれが<チャンネル>をいじるなり、聡志がおれの弾丸を撃つなりして、おれがまたあの世界に出現すれば、復活する。
それはいい。
じゃあ、いま、おれの世界で生きている風止はいったいどうなっているんだ?
もしいまおれが向こうに戻れば、風止の意識は死んでいた間をどう処理するのか。
いきなり意識が飛ぶのか?
それとも都合のいいようにつじつまあわせが起こるのか?
世界という機械を作ったのがどこの誰だか知らないが、とっとと説明書を持って来い。
おれは、いやだった。
すごくいやな感じがした。
おれの行動が風止に少なからぬ影響を与えている。
それが不愉快でたまらない。
声を大にして風止のこけし顔に言ってやりたかった。
おれは命の責任なんか持てないぞ、と。
このまま放っておくのが一番簡単だし、面倒でもない。
そう、ただなにも起こらなかったことにすれば。
風止なんてやつは知らないことにしてしまえば。
いますぐおれは楽になれる……。
「ねえ」
「ぎゃあっ!!」
心臓を吐き出しそうになりながら振り返った。
マナがぽかんとマヌケに口を開けておれを見下ろしている。
「なにやってんの? あんたまだ<番>じゃなかったっけ?」
マナはおれと<テレビ>を交互に見比べている。
訝しげにおれを見下ろすマナの視線を振り切って、おれは立ち上がった。
「うるせえ。気分が悪くなったんだ」
「夏バテ? ちょっとあんまムリしないでよね、看病とかめんどいし」
「誰も頼んでやせん」
ぶつくさ文句をぶつけてくるマナを押しのけて、おれはふらふらと歩き始めた。
報告も連絡も相談も、するつもりはなかった。
おれがしでかしたことだ。
おれがカタをつける。
そういうことだ。
それからのおれの生活は暗澹たるものになった。
無意識とはいえ、この世界に矛盾した生命体を作り出してしまった。
いつか誰かに弾劾され、地獄へ叩き落されそうな気がした。
背後がやたらと気になるし、注意力が散漫になった。
鈍感な一ノ瀬が「風邪?」と聞いてきたくらいだ。風邪だと答えておいた。頭痛はするし特効薬がないのも同じだ。
いっそ死んでもらえたら、ちょっと死ぬまでの時間が延びたということでおれもすっきり爽やかスカッとにこやかになれるのだが、風止美衣子はしぶとかった。
噂によると、蒼葉に相変わらず汚水をぶちまけられたり教科書や鞄を丁寧に分解されたりしているらしかったのだが、屋上からナマモノが飛び降りたときの「グシャッ」はなかなかおれの耳には届かなかった。
そしてそんなものを待ち受ける自分にヘドが出そうになった。
おれはとにかく、責任ってやつから逃れたかった。関係したくなかった。
これほどまでに意気地のない男だったとは自分でも意外だったが、おれの立場に立ったことのないやつにどうこう言われる筋合いはない。
つまり、おれに指図や文句が出せるのはこのおれだけということだ。
身銭切って自分を助けようとするのは自分だけだ。
視界に風止が入り込むたびに目が追いかけてしまう。
あいつはいつも俯いて歩くのでよく人にぶつかる。
蒼葉にぶつかったときはさすがのおれも目を覆った。
耳たぶをひっつかまれてどこかへ連行されていったが、まさか風止も「やめろ」の一言が欲しくて蒼葉にいじめられていると知ったら驚愕するだろう。
いっそ言ってやるか? だがたぶん、口先だけの拒絶では蒼葉は納得するまい。
やつは、リアリティを求めているのだ。
ばかげたことだが、言わされた言葉では蒼葉の歪んだ心には届かない。
顔を上げるときは自分の意思でやらなくてはならない。