第十二話 おれたちは主人公じゃない
カップ焼きそばをずるずる啜りながら、おれたち壁叉五人衆はテレビを穏やかに観覧している。
電池式ランタンはちょっとテレビを見るには暗いが、それも旅行の雰囲気が出ていい。
そう、これは旅行だ。べつに放浪しているわけじゃない。そう思おう。
テレビのなかに、夜の公園が広がっている。
日が落ちてからだいぶ経つため、ジャングルジムや砂場に子どもの影はない。
ペンキの剥げたベンチに、夏服の女が横顔を見せて座っている。
一ノ瀬だ。
カツミの世界の一ノ瀬は、髪を結ってポニーテイルにまとめているので、少しだけほかの一ノ瀬よりも大人っぽい。
「ちょっとみんな……やっぱりまずいよ……」
聡志がなよなよっとした声を出してみんながイラつく。
どうしてこういうときにいまさらやめるなんてセリフが出てくるんだ?
空気には色もあるし形も流れもあるんだ。それがわからないやつは嫌われてもいいって覚悟があるんだよな?
「あのね聡志」
おれたちが無視してテレビに食い入っているので、マナが聡志の相手を渋々引き受ける形となった。
「もしかしたら、あたしたちにも関係することになるかもしれないでしょ? あたしたちにはこの状況を把握しておく義務と権利があるのよ」
「でも……」
「おい黙れブスと眼鏡略してブスメガ」
「あァん!?」
マナが女とは思えない声を出した。
が、テレビのなかに進展があると見るや大人しくなった。
聡志もなんだかんだいってテントから出て行く気はないらしかった。
『あたしのこと、友達だって、思ってる?』
一ノ瀬が、膝の上で組んだ手を見つめながら言った。
きっとカツミは顔面を蒼白にしているだろう。銃口でも突きつけられているような顔つきをして。
だいたいあいつは本番に弱いから簡単に想像できる。
真剣に受け止めているのはわかるがそんな顔してたら女が傷つくとは考えないのか? バカのおれでもわかるがなァ。
『思ってる』
「ぎゃぁーっ、気取り屋め! ヘドがでらァ」
「クロうるさい」
女性陣が一斉に夜の猫みたいな目で睨んできた。おれはひとたまりもなく沈黙した。
『……あたしのこと、好き?』
おれたちの頭がぶつかりそうなくらいテレビに寄った。誰かが生唾を飲み込んだ。
『好き、だよ』
「うわっ、言った!」
テレビのなかで一ノ瀬の顔がパァっと明るくなる。
が、
『友達として、一ノ瀬は大事だ』
「ばっかじゃねえのこいつばっかじゃねえの!」
断っておくが暴れ喚き散らしているのはおれじゃない。
「マナ、落ち着け」
「そのパワーは帰ってきたあいつを絞め殺すまで取っておこうねー。いい子だから温存しとこうねー」
リカとエンに押さえつけられてマナがテントのなかに長く這う。
それでも足をばたつかせて必死に抵抗しているのが平行世界のおれらしい。
聡志はマナの食っていた焼きそばを顔にもろに被って悶え苦しんでいる。ざまあみやがれ。
「ぐがぁーっ! 思わせぶりなタメ作ってダメージ増大させてンじゃないわよっ! ミリオネアじゃないのよ人生は! このクズ! 人間のクズーッ!!!」
マナに初めて親近感が涌いた瞬間だった。
テレビのなかでは、一ノ瀬が目をうるうるさせておれを……カツミを見ている。
ツゥ――と一筋の涙が頬を伝った。
カツミもそれを見て震え上がったらしい、慌てふためいているのが声でわかった。
『い、いや、嫌いってわけじゃない、それだけは絶対に違う。でも、おれにはいまやらなくちゃいけないことがあって――』
『それは、あたしより大事なことなんだ』
『うん――あっ、いや』
「こいつホントにバカだな」
おれは思わず呟いていた。
背後ではマナが発狂したゴジラのごとく憤激している。当然といえば当然か。
そのとき、無線からカツミの声が届いた。
『誰か……どうせ見てるんだろ? おい』
そのとき返事ができそうだったのは、おれしかいなかった。
「あいよ、どうした色男」
『頼む……代わってくれ……これ以上は、辛い』
「辛いもくそもあるか。一ノ瀬のがよっぽど辛いんだぜ」
正論を振りかざすやつに正論をぶつけたときの快感といったらないね。ちなみにおれは、一ノ瀬にこれっぽっちも同情なんかしちゃいない。
カツミは苦しげに呻いた。
『わかってる……だが……』
「いまここでおれが代わって一ノ瀬の告白をなかったことにしてもだ……やつの気持ちはどうなる? せっかくミジンコみたいな勇気振り絞ったっていうのによ。おまえ最低だぜ?」
こうなったらトコトンいじめてやる。日頃の恨みを思い知れ。
だがカツミは強行手段に出た。
画面のなかの一ノ瀬に向かって、カツミは拳銃を引き抜いた。
無線とテレビから、二重の叫びがハウリングした。
「『それでも、おれにはもう耐えられんッ!』」
「ちょ、おま」
カツミは引鉄を引いた。
弾丸は泣き濡れる一ノ瀬のこめかみをかすめて、砂場に落ちていた近所のガキが忘れていったと思しき鏡に映るカツミの顔を砕いた。
世界が止まった。
変転。
不可視の糸に引っ張られ、おれはテレビのなかに吸い込まれた。
「えーと」
おれと一ノ瀬――髪型はショートボブになっていた。ずいぶん早い散髪だ――はぼけっと至近距離から見詰め合った。
「なに話してたんだっけ?」
「さあな。おっといけね、おれは帰るぜ。もうすぐ鋼鉄王子の再放送が始まるんだ。じゃあな!」
立ち上がって去りかけたのを、むんずっと襟首をつかまれて阻止された。首筋に拳が当たっている。
「思い出した」
一ノ瀬の声は正月の空気よりも冷え切っていた。
「あんた、よくもあたしをハメてくれたわね」
「一ノ瀬さんなんか性格違くないっすか。そんなドス効いた声は聡志の――」
「問答無用!」
おれは襟首を引っ張られて身体を後方へ流された。
一ノ瀬はさっとおれの前に回ると、そのまま大内刈りでおれを押し倒した。
視界が空転して背中を地面にしこたま打ちつける。
隣町までぶっ飛ぶかと思った。
「なにしやがっ」
「問・答・無・用」
必殺技みたいになってる。
一ノ瀬はおれに馬乗りになって首を絞めてきた。冗談じゃない力だ。こいつ握力何キロだ? 絶対リンゴ砕ける。おれは意識が遠のくのを感じた。
「体育教官室であたしが後藤に何されたかわかってんの!? あんな屈辱初めてだったよ!」
「し……らね……きゅっ」
「だいたいあいつはボディタッチが多すぎんのよ……昭和じゃないのよ平成は……ゆとりはもっとゆとって楽な暮らしをしなきゃいけないのよ!!」
完全に壊れてやがる。
優等生一ノ瀬は後藤のセクハラでお脳の大事な部分をツンツンされてしまったらしい。
なぜその報いをおれが受けねばならないのか。おれはなにもしてないのに!
このままだと殺されてしまう。
拳銃は足首のホルスターだ。足先はいま、一ノ瀬の股の遥か向こうという絶対的距離に隔てられているし、鏡像になりそうなものはこの近くには見当たらない。カツミが使った手鏡はこの角度からではおれの顔が映らない。
でもやっぱり、頼りになるのは足しかない!
おれは右足の靴をもがいて脱ぎ、一ノ瀬の股から右足を腹のあたりまで畳んで持ってきた。
そのまま腹部に靴下を履いた足を当て、両手でやつのブラウスの襟を掴み、蹴り上げる!
「あっ」
一ノ瀬が宙を回った。
巴投げだ。
おれはうっかり――ついうっかり――やつの襟首から手を離してしまったので、やつは吹っ飛んで背中から固い地面に墜落した。
なぜおれは一ノ瀬と戦っているんだろう。運命とはよくわからないものである。
女子なら泣いてもおかしくないダメージを被りつつも、一ノ瀬なんと立ち上がり、おれを振り返った。
が、おれはすでに突進しており、一ノ瀬のブラウスを再び掴んでそのまま押し走った。
一ノ瀬が倒れこめばそのままマウントを取れる。体当たりはいつだって最強なのだ。
一ノ瀬ここでも機転が利き、後方に足をツッパっておれを押し戻そうとする。
だが、それこそがおれの狙い。
おれの方向へ踏ん張った一ノ瀬の力を丸ごと奪って、やつの身体を背中に背負う。あとは腰を上げるだけだった。
一ノ瀬の身体が再び宙を舞った。
我ながら、実に見事な背負い投げだった。
今度はわざとブラウスを離したりするつもりはなかった。そんなことしたら本当に頭を打って死にかねない。
でも住所不定の神様は、どうも一ノ瀬のことが嫌いらしかった。
びりっ。
嫌な音を立てて、一ノ瀬のブラウスが破れた。
おれの手には、ブラウスの切れ端だけが残り、一ノ瀬は地面に胴体着陸する羽目に陥った。
ボタンがすべて千切れ飛び、辺りに散らばった。
しばらく、沈黙の帳が夜風に揺れていた。
やがて起き直った一ノ瀬は、鼻水をすすりながら、暴行を受けたような半裸のまま、公園から走り去っていった。
一度もこっちを見なかった。
おれは背負い投げをした姿勢のまま、ブラウスの切れ端を握り締めて、立ち尽くしていた。
やってしまった。
さすがにやばい気がする。
一ノ瀬は家に帰って破れた服をどう説明するんだろう。少なくともおれがやつにしたことはたぶん暴行には違いない。
口を利いてもらえないのは確実だが、最悪訴訟モノになるかもしれない。そうなったらおれは五人にどんな仕打ちを受けるか。軟禁もありえる。
……………………。
ま。
いっかぁ。
おれは考えてもしょうがないことを、くよくよするのはやめることにした。
どうせ一ノ瀬は勉強はできるがオツムは残念な子だ。
明日になればヘラヘラ半裸のまま登校するかもしれない。
男子どもは女子の生ブラが見れるし一ノ瀬は夏を乗り切る新たなクールビズを謳歌できるしいいこと尽くめだ。
なんだか本当に善行を為したような気がしてきた。
今度一ノ瀬にはラーメンをおごらせよう。そうしよう。
ブラウスの切れ端をぽいっと打っちゃって、おれは自転車止めの柵を乗り越えて道路に出た。
このあたりは住宅街なので夜はゴーストタウンのように静まり返る。時々、どっちにいるのかわからなくなるくらいだ。
一ノ瀬の姿はない。
現実はこんなものだ。ちょっとした悪ふざけがトンデモないことになったりする。
おれたちは、神に許された主人公じゃないんだからな。
夜空を見上げる。星は見えない。ブ厚い雲が天国にフタをしていた。
帰ろう。
そう思ったときだった。
「あ、あのっ!」
振り返ると、開いた玄関から零れだす四角いスポットライトの真ん中に、パジャマ姿の風止美衣子が立っていた。
「なに?」
いまは風止のことなんて考えたい気分じゃなかった。こいつのツラァ見てると憂鬱になってくるんだ。
「えと……あの……あの……」
風止はもごもご口ごもって要領を得ない。おれはイライラしてきた。
「ハッキリ言えよ」
「は、はいっ!」
やつは、電流を浴びたように直立し、上ずった声を出した。
「ど、どうしたら」
「あ?」
「どうしたら、そんな風に、強くなれますか?」
おれは大股に風止に近づき、風止の胸倉を掴んだ。
どうやら理由はわからないがおれの逆鱗に触れたと感づいたらしい風止の顔は、出血多量気味に青くなった。
おれの腕が自分の胸を圧迫していることにも気づいていないようだった。
「おい、さっきの見てたのか」
「あ……あ……」
「おれが強く見えたって?」
「えと……いや……ちが……あの……」
「これのどこが強いっていうんだ? おれはただ、ちょっとふざけただけだった。そんな本気じゃなかった。冗談で済むと思った。その結果がこのザマだ。おれはもう口も利いちゃもらえねえよ。べつにいいけどな。そう、べつにいい。一ノ瀬のバカがおれを嫌いになりたいってんならそうなりゃいいんだ。許してもらおうなんて思わねえ。おれは許しだけは請わない」
おれはかなりきつくやつを睨んだと思う。
宙ぶらりんになって、爪先でアスファルトをかいている風止は、酸素を十分に吸ってから、言った。
「そういう……ところに……」
「あ?」
「憧れて……しまって……」
おれは一瞬、停止して、すぐ再起動した。
「憧れた? おれに?」
「は、い……」
おれは押し黙った。そうした方が、沈黙に耐え切れず、やつが喋りやすいと思ったから。案の定、そうなった。
「……も、もしわたしが……あなたの立場だったら……すごくへこんで……たぶんしゃがみこんだり、喚き散らしたりしちゃうと思う……。でもあなたは……よ、弱音ひとつ零さないで、泣いたりしないで、悲しいのに、すごく悲しくなってしまったのに……耐えていたから」
「――――」
「そんな強さが……わたしも欲しくて」
おれはやつのパジャマから手を離した。すっかりしわくちゃになっている。思っていたよりもかなり強く握り締めていたらしい。
おれはさっと拳を振り上げた。
「ひっ」
思った通り、反射的に風止は顔を両腕で庇った。おれの脳裏に蒼葉の美少女顔が浮かんだ。
「生意気言ってんじゃねえや、自分の身ひとつも守れないくせに」
「す、すみません……」
「いいか、おい、よく見ろ」
風止はおそるおそる両腕の防波堤を解いた。ちらちらと振り上げたままのおれの拳に視線を送っている。
「おれに殴られると思ったか?」
「…………」
「よく考えてみろ。考えりゃわかる。殴られたくなかったらどうすればいい?」
「えと……」
風止のくりくりした目玉がS字軌道を描いた。
「謝る……」
「はァ?」
「ど、土下座ですかっ?」
「違う! んな負け犬根性でどうすんだよ。明日の心得その一、死にたくなかったら謝るな」
「謝らない……?」
「おまえのなかのルールブックには載ってないかもしれないがな、世の中謝って許してくれるほど甘くねぇんだよ。そんなんだったらな、最初から謝らなければいいんだ。誇りを持てよ。謝るのは自分がそうしたいときだけでいいんだ」
「そ、そんな勝手な」
「勝手だよ。当たり前だ、生きてるんだからな。おまえはそこがわかっちゃいねえ。だからいじめられるんだ」
おれは話を戻した。
「殴られたくなければ、殴られなければいい」
風止は絶望的な表情になった。
「おい、人の話はちゃんと聞け。いいか、拳がこの位置にあったら、おれの懐はがら空きになるだろ。だから体当たりしちまえばいいんだよ。相手が男だったら膝立てて金的」
おれはゆっくりと風止に実践させてやりながらレクチャーした。
「おまえがおれの懐にいるときにだ、こんな拳振り上げたってどうがんばったって当たらないわけよ。バカだったら自分のイメージと違うことが起こった時点でフリーズするし、バカじゃなくてもまァこんな風にもぐりこまれたら肘打ちで背中を打つくらいしかできないわな」
「な、なるほど……!」
おれにぴったり身体を押しつけた状態で風止がうんうんと頷いた。
その瞳は罪悪感を覚えるほどにきらきらしている。
よそから見たら、パジャマ姿の彼女が、帰る彼氏にすがっているようにでも見えたかもしれない。
本当にそうだったらどれほどよかったか。
もちろん相手は風止なんかじゃなくって、蒼葉みたいな美少女に限るが。
「そういえばおまえ」
胸倉を掴んできた相手の腕をひしぐやり方を教えながら、おれは疑問に思っていたことを尋ねた。
「こないだ、おれに言ったよな。ありがとうとかなんとか。ありゃなんだ?」
風止はおっかなびっくりおれを封じながら、
「それは……貧血で倒れたわたしを保健室まで運んでくれたので……」
「ああ……そゆことね」
保健室の校医に名前は言っておいたから、そこから風止に伝わったのだろう。
それにしても自分が轢かれたとも気づかないとはニブイやつ。
「最近……よく貧血で倒れたり……夢遊病気味だったりするから……」
「鉄分が足りてねえんだよ。あ、いいもんある。ちょっと離せ」
おれはポケットに手を突っ込んで、かなりぬるくなった鉄分キャンディを取り出した。クラスのどっかに落ちていたのを拾ったやつだ。
なかば嫌がらせでそれを風止に押しつける。
「よくがんばったな、褒美をくれてやろう。感謝するがよい」
風止は呆然とそれを見つめていた。
嫌ならやらん、そう言おうとしたとき、小さな手がおれからキャンディを受け取った。
またやっちまったと思った。
風止はぽろぽろ泣いていた。
「おい、いらなかったらべつに無理には」
「ありがとう……」
風止は、ゆっくり包みを破いて、キャンディを口に入れた。
もごもごしながら、言った。
「ぬるい」
「あ、当たり前だ」
「ごめ……なさい……うれしく……て……人から……なにかもらうなんて……ひさしぶり……で……」
風止は止まらない涙をパジャマの袖で拭い続けた。
おれは泣かない。嬉しいときも悲しいときも。
だが、風止もそうあるべきだとは思わない。