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第二十六話 鋼鉄のキスフレンド

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 夏の道、夕暮れ、蝉の声、世界がゆっくりと傾いでいく。なにかに引っ張られる。ひょっとすると死ぬのかと思った。それにしては冷静だ。おれは生きていたくないのか?
 まさかな、このおれが。
 乗り手の操作を失った自転車は勢いよく横に倒れた。ガシャアン、と子どもも泣き出す音を立てて、自転車は水平に滑っていく。
 おれはとっさに受身を取って、大の字に転がった。オレンジジュースみたいな空が広がっている。甘ったるくて、吐きそうだ。
 痛ぇ。
 受身は衝撃は殺せてもスレまでは無くせない。結局、痛みのない受身なんてありえない。転んだ瞬間に転んだ威力と同等の衝撃を、地面との接地面から受ける必要がある。
 なんだそれは? トランポリンか?
 だからおれはガキの頃から、痛いのは無くならないし、辛いのも、悲しいのも、減らせはしても無くせないって知ってた。
 今回も例外じゃない。
 おれは負けた。誰も助けられなかった。
 このまま、ここで、温い風を浴びながら、どうしようもなく負けていることしか、おれにはできない。
 後悔はない。おれは、そうしたいと思ったことをそうしただけだ。誰に文句を言われる筋合いもなければ、責任を取るつもりもない。
 卑怯だって罵るかい? それもいいかもな。
 殺人を犯してもおれの考え方は変わらなかったわけだ。
 そのおれを、どこかの誰かに変えられるとは思わない。
 おれはな。
 人の命の価値を、自分で勝手に決めちまうんだよ。
 だから、あの白スーツのいけすかねえ野郎は死んでよかったのさ。
 仮に誰かが泣いたって、そんなことはおれの知ったことじゃない。
 おれが泣いているとき、誰も助けてはくれないわけだからな。
 おれは、負けたが、心まで屈服するつもりはない。
 ざまあみやがれ。
 拳を握って、アスファルトに打ちつける。いい音さえしてくれない、鈍い重い痛み。
 くそっ……。



「――――らしくないね、泣くなんて」



 おれは顎をあげて喉仏をさらした。いて欲しくないときにばかり、おれの側にいるやつがそこにいる。
 リカは自慢のヘッドフォンを首に提げて、さかさまの笑顔を浮かべていた。
「さすがのクロ兄さんも、人を殺したショックで泣き濡れタイム? いまさら?」
 ハッとおれは息を巻いた。
「おれ以外のやつは死ねばいい」
「あっはは」
 あんまり楽しそうに笑うもんだから、おれは自分が言ったと思っているのとは違うセリフを吐いたのかと思った。やつには常識がないがおれも大概なの、どっちがおかしいのかよくわからない。
 リカは口を赤い弓月にして、友達を待っているかのように手をうしろで組んだ。
「それでこそ気狂い。あんたの正しいあり方ってやつだよ」
「知ったような口叩いてんじゃねえぞ糞女ァ。髪の毛引きずり出して殺してやろうか?」
「わあ、怖い怖い」
 この女は嘘つきだ。こいつは、おれが実際にそうしたってきっと、笑ってる。狂ってやがる。
 殺してやりてえ。
 こいつをここで殺したらおれは殺人罪か? 法律もないこの狭間の町で?
 一人殺ったら二人殺っても同じような気がしてきた。むっくり起き上がって、顔を手の平で拭う。べつに濡れてなんかいない。
「見てたよ、<テレビ>から一部始終。テンパってて気づかなかった? あっはは、いい音したねぇ! ビール瓶って一度でいいからあたしも割ってみたかった。人の頭で」
 リカはくすくす笑っている。それはどこか、水没していく蟻の家を見る童女のようでもあったし、自分の介護をして衰弱していく息子を見る老婆のようでもあった。
「ねえ、駆郎。もうわかったよね。あんたは、人助けなんてできっこないんだよ」
 唐突に、胸倉をつかまれた。手近な家の塀に身体を押しつけられる。カツアゲマウントだ。
 建物の切れ間を貫く太陽の残光が、リカを真っ黒こげのシルエットに変えた。においはしない。
 おれは目を細めて、強すぎる日差しを弱めた。
「こんなことになるなら、最初から手を出さなければよかったのに。あんたが普通に生活していたら、風止も蒼葉もただの神経損壊者で、どう封印しても脱走しては戻ってくる風変わりな隔離患者で生涯を慎ましく終えられたかもしれない。死んだって、元から死んでるんだから、べつに、どってことない。でしょ?」
 鼻先が触れ合いそうな距離から、リカは囁いてくる。長い黒髪が、おれの体にまとわりついてくるような錯覚。
「あんたがやったことはすべて無駄だったんだよ、駆郎。わかっていたはずなのに。あんたは、ヒーローにはなれない。それを誰よりも知っていたあんたが、たった一度の夢を見てしまうなんて、なんて――――救えない臆病さ」
 リカの白い手が、おれの額にかかった髪を持ち上げた。化石にくっついた砂を取って、もっとよく調べようとするかのように。
「してはいけない、と思ったら、してしまいたくなったの? 興味がないフリをして生きてきたのに。思うがままに生きてはきたけど、駆郎、あんたはなにかを思い通りにしたことなんてなかった。あんたは、なにもかも我慢して生きていた。いずれやってくる現実に消されるだけの、人生――――」
 おれの瞳にはなにか書いてあるに違いない、とおれは思った。だってリカのやつは、おれの顔を見ながら、読み上げているんだから。
 おれのこころを、一字一句も違わずに。
 ひどい気分だったが、おれは、リカの肩を押し返して距離を作った。
「てめえの言うことにどれだけの意味がある? 吼えるだけで何もしねえ負け犬のくせして、キャンキャンキャンキャン物ほしげにしてんじゃねーぞ」
「――――」
 リカの顔が人形のように生気をなくす。それもある意味当然だ。
「いいか、確かに、おれはもう向こうへ行けば犯罪者、こちらへ籠もれば二人が死ぬ、どうしようもねえ袋小路にいる。だがおまえよりはマシだ。おまえが何をした? ただ自分を慰めてくれるヘッドフォンでなにもかも誤魔化して、おれのことを観覧してただけだ。ぞっとするぜ、見ているだけの人生なんざな。始まりもしなかったおまえの物語と、終わるしかないおれの物語じゃ、一兆光年の差があんだよ」
 いつしかおれたちはお互いの胸倉をつかみ合って、睨み合っていた。リカのローファーの爪先が地面をゆらゆらこすっている。
「あたしにも、なにかしろっていうの?」
「ああ、そうだ。リスクを背負ってなにかひとつぐらいやってみせろ。いいか、見ているだけ、失敗するのが怖いからやめとこう、そんな生ぬるい生き方は神様だけで十分だ」
「神様が可哀想だって?」
「当たり前だ。バカかおまえは? 想像してみろ! 雲の上で杖片手にこの世を見下ろしてはおれたちのおろかさを笑っている時間を。虫唾が走るぜ! よく考えろ、それってなんだ? いるだけだろ? 自分がここにいるってことは、誰かに伝えなきゃ伝わらないものなんだ。受け取ってもらえなかったら、たとえその場にいたって、いることになんかならねえんだ!」
「――――」
「てめえもそういう神様の生き方がしたいっていうなら、止めない。その代わりここでぶっ殺してやる。生きていく価値がねえからだ。おれは他人の命に価値をつける、そのなかでも、トップクラスのガラクタは、神様ってやつの――」
 おれが言葉を止めたのは、自分の罰当たりさ加減に驚いたからでも、とうとう頭にきた天上からの裁きのいかづちを喰らったからでもない。
 柔らかくて、湿っているものがおれの口を塞いでいた。
 息ができなかった。
 夕焼けのなか、おれたち以外に動くものはない。風も光も止まっていた。
 リカは、とん、とうしろに下がって、唇を腕でぬぐって、いつもの悪笑を浮かべた。
「ふふん、どうだ、これで可哀想じゃなくなった」
 おれは質問に答えず、口の中に手を突っ込んで、異物を取り出した。
 見たことのない色をした弾丸が、どちらのものともわからない唾液まみれになって、おれの手の平を転がっている。
「冗談みてえなファーストキスだぜ。気持ち悪い、舌かと思ったら弾を入れられた。悪夢だ」
「ウブなやつ。照れてんの?」
 こっちがいくら睨んでもリカの余裕は崩れない。この自信はどこからくるのか。
「なんのつもりだ、これは」
「だから、行動してみたってわけ。それはあたしの世界からこっちに持ち込んだ、駆郎、あんたの弾丸」
 おれは、シャツで唾液をぬぐってからその弾丸をしげしげと眺めた。黒い、筒のようなそれは、笑うように鈍く光っていた。
「その弾丸をどうするかは、あんたの自由。忘れちゃってもいいし食べちゃってもいい。でもね、せっかくだから一つアドバイスしてあげるよ。特別にね」
 リカはヘッドフォンをつけた。こちらまでシャカシャカ音漏れが聞こえてくる。おれの声はもうリカには届かない。もう一人の自分との雑談は終わったのだ。
 リカはやはり、何かを読み上げているようだった。
「弾丸は撃つためにあって、あんたは、平気で、なんの責任も呵責もなく、その引き金を引ける。だってあんたはやっぱり、どう足掻いても悪者だから。でも」
 リカが振り返ると、長い黒髪がなびき、刷毛でさらったように赤い世界に黒い傷がつく。
 そして、こう言った。

「わたし、バッドエンドって、嫌いじゃない。神様が負けてみんなが笑って語れる希望がない、そんな終わり方も、たまにはいい」

 おれは何も言わなかった。リカはいつの間にか消えている。
 一人ぼっちの夕暮れで、おれはやつの言葉を反芻した。
 バッドエンドも悪くない?
 ああ、そうかい。
 なら望み通りにしてやるよ。
 おれはいつだって望まれなかった。なにひとつとして誰かのためには生きられなかった男だ。
 叶えられる願いはただひとつ。
 あるがままにある。
 おれには、それだけしかできない。
 そして




 それだけが、できたんだからな。
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