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Epilogue...I'll B...

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 夏休みが始まったばかりの頃、私は奇妙な古書店を見つけた。
 薄暗い路地裏にポツンと木造の四角い建物があり、店の扉はいつも四十五度ほど開いている。風鈴がひとつ。
 日が射さない通りにあるため、真昼間にいっても外からでは中がよく見えない。なんだか店内が奥へ進むたびに光を食い殺しているようでもあって、私は高校一年という身分にも関わらず、好奇心よりも忌避する気持ちが強かった。
 けれども、なぜか毎日、やることもないのにその店の前を通ってしまう。理由はないわけではない。その路地を通ればその先にはアイス屋があり、そこでアイスを買って食べながら帰宅する、というのが私のそのときの楽しみだったのは確かだ。でも、べつにアイスなら安物でよければ家にもあった。チューペットが精神的外傷から食せない私の家の冷蔵庫にはスプーンですくって食べるタイプのアイスが母によって常備されているのだ。
 恋人を失った母が傷心しているというのもあって、家にいづらいということも私の行動に影響を与えていた。私の母には夏休みが始まる前まで、若くて金回りのいいスポンサーの彼氏がいた。その人が殺されてからまだ二週間も経っていない。
 犯人はいまだ捕まっていない。きっと一生捕まらないだろう。
 犯人たちは、あの晩、忽然と姿を消してしまったのだから。
 風止美衣子を犯人の一味とするのは正しくないかもしれないが、結局二人で逃げたのだ。共犯だ。
 では、私、蒼葉桃子は被害者かというと、どうなのだろう。あの男が死んで、母に金は注がれなくなったが、同時に私に汚物も振り撒かれることはなくなった。おまけに母の会社もようやっと軌道に乗ることができ生活は飛躍的に安定した。もう夜逃げの心配はしなくて済む。本当に、母の手腕はこのご時勢にあって大したものだと思う。私も体を張った甲斐があるというものだ。おかげさまですっかりお小遣いには困らない。
 だから、やはり私も共犯だろう。真実を知っていて、その中身を胸のうちに封じているのだから。
 壁叉駆郎は人を殺して姿を消した。風止美衣子もその後を追った。
 あの日以来、私の意識が一日三時間のみを残して他の部分が断絶する、という奇怪な現象は起こらなくなった。まるでなにもかもが悪い夢だったかのようだ。いまでも、あれは日射病かなにかで弱ったところに、頭のおかしい駆郎が吹き込んできた妄言を信じ込んだ末のパニックに過ぎなかったのではないかと思う時がある。駆郎が嘘をついていたとは思わない。その真偽に疑いを持っている。つまり駆郎は狂っていたのだ。私の脳みそは九割方、納得するしないに関わらずその記憶を消滅させようと奮闘している。だが残りの一割があの夏の断片が血みどろの真実であることを心の空洞の奥底から、私の意識へと訴え続けている。私は見事に挟み撃ちにされていた。
 そんなだから、炎天下へわざわざ繰り出して、恐ろしい雰囲気をかもし出す古書店の店先を通ってアイスを買いに行く、という不毛な週間を得てしまったのだろう。
 だが世の中なにが起こるかわからない。
 ある日、私は古書店にバイトとしてスカウトされた。
 古書店の店主夫婦はにこやかな老人たちで、出会ってみれば店の外装から想像したような奇奇怪怪な変人などでは決してなかった。おじいさんはやや小柄だがいまだ少年のように笑う好々爺で、眉毛が八の字から少しでも逆立つことは決してないように思われた。おばあさんの方は農家の出身なのか、背がだいぶ曲がっていたが、見上げてくる梅干のような目はきっとたぶん優しさでできていた。
 老夫婦は一週間ほど息子夫婦とエジプトにいくのだという。その間、店番を頼まれて欲しいのだとか。どうせなら信頼できそうで、しかもかわいい女の子に店番をやってもらえればかびの生えかけた本たちもたるみかけたページをぴしっとまっすぐに伸ばすだろう。
 老夫婦の言っている意味はよくわからなかったが、断る理由もなく、私でよければと働かせてもらうことにした。
 金髪を黒に戻した方がいいかと聞くとそのままの方が目立っていいという。老夫婦はいい人たちではあったが、私が恐れていた方向とは異なった変人ではあると思う。
 そういうわけで、私は埃とかびと蜘蛛の巣と、ひょっとしたら物好きには黄金よりも価値があるのかもしれない古書に塗れた時間を、夏の一幕として切り取ることにした。冷房こそないが、風鈴やらアイスの買い置きやら涼を得るための手段は機械細工だけではない。
 私は制服に(着慣れているし正装の方がいいかと思ったのだ)エプロンをして、時々やってくる変わり者たちに本を売り、時々彼らのために本を探してあげた。不思議と客の探している本はかならず店内のどこかにある。まるで一つの本が売れると、予め決められた次に売れる本が空いたスペースからにゅっと生えてくるようだった。実際に本はいくら売っても棚が空くことはなかった。元記憶断片症患者でなければ不気味で透明な気配に戦慄して逃げ出していたかもしれない。
 そうして、蝉に嬲られ風鈴に癒され本を売るだけの日々を過ごし、ようやく翌日老夫婦たちが帰国するという日に、その奇妙な客は我がかりそめの店を訪れたのだった。








 私はあまり本を読まない。
 でもそれは、子どもが本を好きなんてヘンだ、という先入観から意識的に嫌おうとしていただけで、実際にそれに触れてみるとまた違った印象を感じることは当然だった。
 客足が途絶えるととんでもなく暇になるので、わたしは二日目から店の本を読むようになっていた。内容はバラバラで、小説などもあれば、学術書のようなものも読んだ。手当たり次第というやつだ。
 読書好きの友達はいないが、もしいたら、読書というのは読み始めた頃が一番楽しいのだとのたまうのかもしれない。私もそう思うからだ。なぜだか、誰に強制されたのでもなく、自分から読もうと思った文字の連なりを追うこと、それだけが至極自然で心地いい。草原を渡る青い風を頬に受けているように爽やかな気持ちになるのだ。
 すっかり初級の文学少女になった私は、集中するあまり店内に客の姿があることにすぐ気づかなかった。
 ハッと顔をあげたときにはもう、その客は脚立に腰かけて、表紙がところどころ剥げたハードカバーを読んでいるところだった。レジに座っているわたしと、ちょうど視線の高さが同じだった。
 その客は私と変わらないぐらいの年の女子で、長い黒髪が背中のあたりまで流れていた。熱心にページを繰っているが、あまり本好きの雰囲気は出していない。ヘッドフォンを首にかけているので、静かな昼下がりの読書よりは音楽関係の趣味の方が似合いそうだ。うちの生徒だろうか、私と同じ制服だ。
 ついぼうっとして、じっと見つめてしまっていた。少女がそれに気づき、こちらを向いた。にいっと笑う。私はなぜか、凍りついたように彼女から視線を逸らせなかった。釘で打たれた昆虫の標本のように。
 少女は読んでいた本をしおりも挟まずにパタンと閉じた。古い本のあまり香りが漂う。
「神様でも楽しめる本ってありますか?」
 どこか霞がかった意識のなかで、私は、ああ、読んでいた本はあまりお気に召さなかったのかな、と思った。
 少女の手から離れた本が、すうっと浮かび上がって、脚立に登らなければ取れない高さの棚に収まった。
 もうおれは知らないよ、と言いたげに、古書はそのままぴくりとも動く気配を見せなかった。








 神様が私の元へやってきた、らしい。
 私はそれをあっさり信じた。本当に、あの夏の記憶の欠落は私の中からちょっとやそっとで驚くようなやわな神経をすべて取り除いてしまったのだ。
 少女はにこにこ、というには意地悪な感じの強い笑みを浮かべたまま、脚立に足を組んで腰かけている。
「わたしがここにやってきた理由は、わかってるかな、蒼葉桃子さん」
 わからなかった。けれど、神様に用がないわけではなかった。私にはずっと聞いてみたいことがあったのだ。誰に尋ねても満足のいく答えの返ってくるアテのない質問が。
「わからないけど、聞きたいことはある。駆郎と風止はどこへいったの? あの駆郎の話は、いったいなんだったの? 本当なの? それとも私が見た夢?」
「いっぺんに聞いてくるね。ま、それも当然だろうけど。駆郎たちなら、元気でやってるんじゃないかなァ」
「かなァ?」
 神様にしてはずいぶん曖昧な答えである。私が求めているのはもっと断固とした納得のいく完全回答であって部分点などを考慮しなければならない半端な答えは必要なかった。不満が顔に出たのか、少女は両手をあげてみせた。
「だってわからないんだもの。駆郎と風止は、もうわたしたちが干渉できる存在ではなくなってしまったから」
 私はどれほど意味のわかりにくい話をされても必死に喰らいつこうという覚悟を決めたが、それは多少杞憂だった。
「うん、もっと土台から説明しないとわからないよね。心配しなくていいよ、神様は三分間ではいなくならないから……」
 ヘッドフォンのコードを指にからめながら、少女は宙を見上げる。
「まず、駆郎が言っていたことも、君が体験した記憶の欠落も本当。欠落っていうか最初からないから断絶っていうべきかな。あれは決して夢なんかじゃない」
「じゃあ、あれはつまり、神様の仕業ってこと?」
「そうなるね。いや、怒らないでよ。わたしだって好きでやってるんじゃないんだからさ……ええと、話は変わるけど、蒼葉って運って信じてたっけ?」
 まるで知人のように振舞う少女に違和感を覚えつつも、私はあまり意識したことはないと答えた。小学校の頃に風水だの占いだのを信じるには、私はひねくれた性格を三回目の誕生日を迎えるまでに形勢し尽くしてしまっていた。
「あのね、世界にはいくつか目には見えない、人間が感知することも操作することもできない法則がいくつかあるんだ。そのひとつに『運は不幸からしか製造できない』というものがあってね」
 唐突に私の脳裏に、不幸な人をプレスマシンで押し潰し、ミキサーにかけ、絞り汁にした幸運を作る工場がイメージされた。醜悪だ。本を読むと想像力が鍛えられるのはいいが刹那の悪夢に悩まされるのはごめんだ。
「で、神様といえども、できることとできないことがあるんだ。君らが思ってるほど万能じゃなくってね、不本意ながら。世界の流儀を曲げることはできない。なにもないところから幸運を作ることはできないんだ。だから、わたし……神というよりは監督者のわたしは、定期的に人を不幸にしなければならない」
 その話しぶりは実にあっさりしていて、私は善悪の区別がすぐにはつけられなかった。そうなんだ、とのんきな相槌なんか打っていたくらいだ。
「人を不幸にするにはいろいろ方法がある」
「事故に遭わせたり病気にしたり?」
「それもあるね。でも効果的じゃないし、わたしがやらなくても人間は勝手にそうなっていく。一番、不幸が稼げるのはね」
 店内に誰がいるわけでもないのに、そこで少女は声を潜めた。
「人間を奇跡の中に放り込んでしまうことなんだよ」
 私はすぐに駆郎の話を思い出した。私が最後まで半信半疑でしかいられなかった話。
 自分は、平行世界の自分と入れ替わることができる――――。
 私は思わず拳を握っていた。
「あんたが? あんたが駆郎をあんな目に遭わせたっていうの?」
 少女はにいっと笑ったままだ。でもその目は決して笑っていない。穏やかに話しながら、突如豹変して襲い掛かってきても不思議ではない、そんな雰囲気。
「仕方ないんだよ。人間は奇跡に放り込まれればおのずと自滅していくものなんだ。そんなものを許容できるようにはできていないからね。遠からず駆郎以外の四人たちは破滅する。精神を壊すか、仲間割れか、いずれにしたって人間らしい死に方はできない」
 でもね、と少女は続けた。
「それが彼らなんだよ。壁叉と風止のような、最初から不幸になるために作られた人間の役割と義務なんだ。五つの平行世界と、わたし用の監督世界。それを繋げた輪廻に人間を放り込むだけで、凝縮された高純度の不幸が手に入るんだ。べつにそれだけが奇跡じゃないけど。君だって誰かが不幸になったおかげで暮らしてこれたんだぜ?」
 その言葉が私の中にある何かを瞬間沸騰させた。が、それはすぐに冷えてしまった。
 神様という上位存在に恐れをなしたのではない。なんだか、やりたくもない仕事をするだけの彼女が可哀想になったのだ。
「そ。あたしも楽に生きてこれたつもりはないけど」
「いやいや、君は人からチヤホヤされて生きてきたのさ。今まではね。たとえ家庭の状況を君がどう捉えようと、いいかい、君は餓えたこともなければ醜くもなかったし、人と話していて何を言っているのか感じているのかわからないこともそうはなかったはずだ」
 少年のような口ぶりで少女は言う。
「だが残念なことに、君にもう幸福をわたしから供給することはできなくなった。君だけじゃない、この世界の誰もがだ。流儀にそむいてしまったから」
「どういうこと?」
 いつの間にか少女の笑みが消えていた。あるのは仮面のような無表情だけだ。
「君は死ぬはずだったんだよ、蒼葉桃子。他の平行世界では、といっても今回リンクさせた分では、ということだけれど、君は死んでいるんだ。なのに君は記憶の断絶もなく、こうして生きている。それは、この世界がわたしの管轄から断絶されたということなんだ」
 少女が言うには、世界と神の関係はいわば船と船頭のようなもので、私のいる世界は神の制御を受け付けなくなってしまったのだという。神の箱舟は、ただ河の流れに翻弄されるだけの頼りない泥船に堕ちた。あまり実感は涌かないけれど。
「どうして、そういうことになったの?」
「駆郎だよ駆郎」
 少女の顔に笑みが戻ってきた。頬には朱さえさしていて、恨み言をいうのはポジティブすぎる笑顔だった。
「世界は意外と脆くてね、ルールに反する行動を取るとバグが起こりやすいんだ。駆郎はルールを犯した。あの日、君が持ちかけられたのは、ルールを破って、世界とわたしが織り成す因果から抜け出そうということだったのさ。もっとも駆郎のバカがそんな仰々しいことを考えていたわけじゃないけどね」
 私は背筋が冷たくなっていくのを感じた。それは、いまさらになって私の中に巻き起こった焦りだった。後悔だった。
 私は駆郎を信じてあげられなかったのだ。
「駆郎と風止美衣子が、どこにいるのかわたしにももうわからない。平行世界同士を繋げている擬似空間からも出て行ってしまったし」
 そこまで話して、ふう暑いね、と少女は手うちわでパタパタと胸元を扇いだ。
 私は暑いも寒いも感じずに、面接で硬直してしまった受験生のように凍てついていた。それでも頭の中は絶えず回転していて、駆郎と自分の身になにが起こったのか、それは染みとおるように理解していくことができた。
 私は幼馴染の顔を思い出そうとした。けれど、なぜだかどう思い出そうとしても頭の中のキャンバスは色が滲んでしまって、まともな輪郭を描き出してはくれない。それが悲しかった。切なかった。
 確かなことはただひとつ。
「駆郎が、助けてくれたんだ」
 ぴた、と少女の手うちわが止まった。
「結果的にはそうなったね。まったく駆郎には驚かされたよ。あいつは、憎悪と怒りでできている人間だったんだ。これはわたしの目からは見える、その人の本質のようなものでわかるんだけれど、駆郎は、本当に根っからの悪人だった。人を思いやることも協調することもできなかった。殺人を犯した末に世界の壁に穴を開けて逃亡した逸脱者だ」
「――――それでも」
 それでも、最後に私を助けてくれた。
 最悪の奇跡の連鎖から私を切り離してくれたのだ。いや、難しい言葉はなにひとつだっていらない。
 助けようとしてくれた。
 壁叉駆郎という人が、この私を。
 それだけで十分。それだけで満足。
 たとえ、もう永遠に会えないのだとしても構わない。
 駆郎が起こした奇跡はまだ続いている。
 世界だの幸運だのそんなことは知らない。
 だって私は、世界で一番人助けがヘタな人に命を救ってもらったのだから。
 







 読んでいた本から顔を上げると、もうあの客の姿はなかった。脚立は畳まれて壁際に立てかけられていた。最初からそこにあったように。
 いつから私は本を読んでいたのだろう。判然としない。
 ただ、もうあの少女と会うことは永遠にないだろうということだけは確かだった。





 半開きになった扉にくっついた風鈴がちりんちりんと揺れていて、私はもうすぐ夏休みが終わることに気づいた。宿題もなにもまだ手をつけていない。
 八月三十一日までには、残った一割のこの気持ちにケリをつけてしまうつもりだが、うまくいく自信はあまりない。
 けれど、いつまでもこうしてくすぶってばかりはいられない。
 彼は終わらない夏へと去った。私は秋へ往く。そして冬を越して春を迎え、また夏に出て歳を取っていこう。
 私が幸福に生きていくことが、あの二人への少しだけ冴えた復讐なのだと思うから。















 FIN

33

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