第三話 <走り屋>
毎日、昼休みのチャイムが鳴ると滝園は目を覚まし、仕事を始める。
いつの間にそこにあったのか、自分の机に置かれた紙っぺらをつまむといまにも噛み付きそうな目つきでそれを読む。
――焼きそばパン一個、コロッケパン一個、午後ティー二つ。四組小島まで。よろしく!
代金は着払い。返品交換クレーム求愛その他もろもろ一切合財受け付けない。それが<走り屋>滝園の流儀である。
滝園は椅子を跳ね飛ばす勢いで立ち上がり、スカートの裾を翻して疾走する。
ざわめく教室をぶっちぎって廊下に出あちこちで広げられる弁当組のランチタイムを素通りして階段を三角蹴りでショートカットし二階の踊り場に着地ここまで七秒もかかっていない最近ますます速くなってきている出不精の強い味方の滝園に、聡志はすれ違いざま五百円玉を放り投げた。
滝園は走るときに手を振るのをやめないから硬貨をためらいもせずに歯で受け取り、
「メロンパン三つ! 頼んだ!」
聞こえたのかどうかフリスビーをキャッチしてご主人様へ届ける忠犬のように走り去っていった。
「ひゃあー。あいつケツからブースター噴射してんじゃねーの」溝口が手でバイザーを作って<走り屋>を見送りながら言った。「つむじ風が巻いてたぞ」
「でもあれかなり高いんでしょ? バックレたら半殺しにされるってバキが言ってた」
一ノ瀬が爪のマニキュアのてかり具合を確かめながら言う。聡志は笑って首を振った。
「半殺しだなんて大げさな」
「なによ」一ノ瀬が三白眼になった。
「じゃ、あんた、試したことあんの? そんなドキョーないくせに」
「や、僕はないけど、クロが……」おっと、と聡志はわざとらしく咳払いし、
「試したやつが言うには、どこまでも追いかけられて金を請求されるだけだったってさ」
「まさに現代に生きるターボ婆だな、うん」
「溝口、あんたちょっと轢かれてきなさいよ。殺傷能力があるんだったら、タキの進行方向に嫌いなやつ突き飛ばすから」
「死ぬだろ。ターボなんだぜターボ」
音が気に入ったのか溝口はしきりにターボターボ言ってはにゃははと笑う。溝口は面と向かってはっきりと「死ね」といわないと死にたくならないらしかった。
呆れた一ノ瀬はもう溝口への興味を失い、「あーヤニ吸いたい。ヤニヤニヤニ。タキって頼めばヤニでも買ってきてくれるかな」とぶつくさ言った。「ヤニ不足警報発令ちゅー」
その隙に、聡志はそおっと二人から離れた。
――まったくよ、何度見てもびっくりすらあ。あの一ノ瀬が、おまえんとこだと、あんなんになるのか。でもこっちのやつのがおれとは気が合いそうだな。
頭のなか、目の奥から聞こえてくるクロの声に、聡志は心の中で答える。
――それ、そっちの一ノ瀬には言わない方がいいよ。
――ばあか、言うわけねーだろ。言ってもすぐ<交代>してチャラにするさ。
――だといいけど。それよりクロ、授業は最後まで受けてからバトンを渡してくれよ。
いたずらっぽく笑う気配。
――悪い悪い、でもまあいいだろ? おまえ勉強好きじゃん。おれに感謝しな、青柳は政府に抹殺される危険を冒して授業を行っているのである。Kは大日本帝国の密偵なのである。よって日本は終わりなのである。ぷっ、くくく。もの知りになれてよかったじゃん?
――黒板アレルギー、ホントじゃなかったら怒るからな。
聡志はなにもない宙を怖い顔で睨みながら廊下を歩く。
それを不審そうに見ながら女子たちがすれ違っていく。
「ねえねえ壁叉くんなんかヤなことあったのかな」
「えーミキしらなーいわかんなーいでもちょっとかわいくてイイ」
――おまえもしつこいな、ホントだってば。あ、ちょ、なんだよ。おっ……
――どうかした?
クロの気配が遠のいていった。押し問答するような気配となにかをぶつ音がして、クロの気配は消滅した。べつの気配が、聡志の脳みそにするっと入り込んできた。
――お疲れ、聡志。
――マナ? なに? まだ時間じゃないよね?
――あー。うん、そうなんだけど、緊急事態だってカツミが言っててさぁ……
聡志の身体にさっと緊張が走った。
――緊急事態って、え、もしかして……誰か、いたの? 人が?
向こうでなにがあったのか、マナの声はしどろもどろで、動揺しているようだ。
――えと、うん、まあ、場合によっては、もしかすると、そうかも。
――たいへんだ! じゃあいますぐ交代する。カツミは?
――く、詳しいことはカツミに、じゃなかった、クロに聞いて!
聡志は返事する間も惜しかった。人がいた? もしそうならようやく、ようやく、この現象の答えが見つかるかもしれない。もう悩まなくてもよくなる。答えさえあれば、解決法さえ見つければ、もう。
一日が、三時間であることに苦悩しなくても、よくなるのだ。
聡志はしゃがんでくるぶしのホルスターからリボルヴァを抜き取った。親指でシリンダーを望む位置まで回す。
突然拳銃を取り出した聡志の奇行に周囲が固まっているまま、聡志は素早く窓ガラスに映る自分の額めがけて引鉄を引いた。
聡志の顔を、蜘蛛の巣が捉えた。
そして。
一階から、三角飛びで滝園が蹴りあがってきた。空中で前転し、リノリウムの床にすたっと着地。周囲から拍手が涌くと、滝園は無表情のまま頬をぽっと染めた。滝園は気分が顔色に出るタチだ。
目の前に、膨らんだレジ袋が差し出される。
「お待たせ。おつりは、手数料としてもらっておく」
「うん、ありがと、タキ」
「……お礼なんていいよ、マナ」
四組の小島めがけて三角飛びしていった滝園を見送りながら、マナは、レジ袋からメロンパンを取り出し包装を破って、その場でぱくっと噛みついた。
南部高校の購買のパンは近所の南部ベーカリーが出来上がりから三十分で持ってくる。
口の中いっぱいに広がる砂糖は、日常の味がした。
「あ、マナちゃん、先に食べてる……」
「おまえさ、そんなに腹減ってんならターボ婆になれるんじゃねーの?」
いつの間に戻ってきたのか、おかっぱ頭の一ノ瀬と坊主頭の溝口にあられもない姿を見られて、マナはイーッと歯をむき出しにした。
「あんたたちにはね、かったーいパンとウィダーインゼリーとカップ焼きそばの気持ちがわかんないのよ!」
「などと壁叉マナ容疑者は意味のわからない供述を繰り返しておりあ痛ぁっ!」
溝口くんって頭叩かれるといい音するよねえ、と一ノ瀬がのんきに微笑んだ。
溝口の坊主頭をぐりぐりと拳ですり潰しながら、マナは、ほっとして思わず泣きそうになった。そして、ほんのちょっとだけ罪悪感に心を縛られた。
――ごめんね、聡志。