友人の田辺が僕の部屋にやってきたのは約束の時間より三十分ほど遅れたとある日の事だった。
「……よっす」
当然のように玄関を開けて田辺はリビングに姿を現した。いつものことなので、僕も別に動じない。
「おお、どうしたよ、ずいぶん遅かったなぁ」ソファに腰掛けながら漫画を読みつつそう声をかける。しかし思ったような返事がない。
「いやぁごめんごめん家から出ようとしたらウンコがとまらなくなって そのまま脱肛しちゃってさぁ」ぐらいの返しを期待していたのでふと違和感を覚えて僕は彼を見る。
田辺は酷く憔悴した様子だった。うつろな目を決してこちらに合わせようとはしない。明らかに元気がなかった。
何かあったのだろうか。一週間オナ禁をし、二時間くらいオナネタを探し、最終的にすごい不細工おばさんで抜いてしまった。それくらいのことがあったに違いなかった。
室内には重苦しい空気が漂っていた。予期していなかった事態に僕は戸惑い、そういえばまだ吉田が来ていないことに気づいた。
「そ、そういえば吉田はどうしたよ? お前と一緒に来るって──」「こないよ」
僕の言葉にかぶせるようにして、田辺が静かに答える。
「え、来ない? 急に用事でも入ったとか」
田辺は静かにうつむくと、ゆっくりと首を振った。
「……だよ」
「えっ?」
「デートだよあいつは。クラスの御代川さんと」
「でーと?」
御代川さん。
絶世なる美女ではないが、クラスでも中の上くらいには位置する。
すこしポッチャリした女の子らしい体系と、短めのスカートが妙にムチッとしていて妙にエロい。性格は優しく、普通に良い。まさに中の上的な女の子だ。僕は彼女で何回か抜いたことがある。ちなみにここで言うポッチャリとは女子の言う自称ポッチャリ詐欺デブとは程遠い、本当に少しだけふくよかな男子的評価を無事潜り抜けた体系のことである。
そんな御代川さんと吉田がデート?
あのさえない野球部員でしかない奴が?
はっ、そんな馬鹿な。考えられない。
「悪い冗談はよせよ」
「冗談なものかよ!」
田辺のでっかい声は室内に響き渡る。安アパートだから隣近所から苦情が来ないと良いが。
「あいつは、数奇な縁で、というか御代川さんから言い寄られて、俺たちに内緒で、一ヶ月ほど前から、付き合ってたんだよ」
一言一言、噛み締めるように田辺は発した。重苦しい空気に、僕は場をとりなそうと明るい口調で言った。
「そ、そうなんだ。まぁいいじゃん。吉田に彼女ができたんだろ? おめでたい話じゃないか。祝ってやろうぜ」
「あいつもう童貞卒業したんだ」
「はっ?」
「卒業したんだ、あいつ。童貞」
卒業した? 何を? 童貞?
僕は壁を殴った。反射的にだった。聞き終わるより体の反応が早かった。ガッと、拳に鈍い痛みが走る。
「ばっっかやろう……」僕は唇をかみ締めた。「俺たちは、俺たちは、まだ高一だぞ……」
そう、当時の僕たちはまだ中学を卒業したばかりのアソコの毛も生えそろっているか怪しい思春期真っ盛りの青少年だった。
両親と別れて狭いワンルームマンションで生活している稀有な環境下に身を置いた僕の家がそんな青少年のたまり場になることなんて必然だったんだ。
彼女を連れ込んで一日中エッチできるかな、なんて僕の理想とは裏腹に集まったのは吉田と田辺という女の子とは無縁そうな男子生徒二人。
僕たちは、これからずっと童貞を守り続けるんだろうって、ずっとこのままなんだろうって、どこかで思っていた。
「なぁ、俺、彼女ほしいよ」田辺がボソッとつぶやく。
「作ればいいじゃん。吉田みたいに」
「俺に言い寄ってくる女なんて、いると思うか?」
「思わない」
「やだぁ! 俺も! ぼれも彼女ぼじいいいい!」
ごねた。
まるで子供みたいに、田辺はごねた。
鼻水を垂れ流して、よだれを飛び散らして、涙を流しながら。
「ぼれもぼじいぃぃ! がのじょ! がのじょがぼじいいのぉ! やだぁあ! どうていやだぁ!」
僕は悔しくて涙が出てきた。部屋中、下手したらマンション中に響くかもしれない声で泣き喚く田辺を放置して、僕はひざを抱えて下唇を噛んで、静かに泣いた。刹那、僕たちは静と動になった。
こんなつらいことが人生で起こりうるなんて、想像もしなかったんだ。
それから数年経った。
……田辺に彼女が出来たのは、僕たちが二十二になった年のことだった。
僕はそのとき大学の四回生で、田辺は大学を中退し絶賛フリーター状態だった。
田辺はおしゃれに目覚めたと言い髪形をドレッドヘアーにし、B系の服を着てヒッピーみたいな格好をしていた。僕は大学からギターを始め、デニムやカーゴパンツにパーカーと言うスタイルだった。
「んでマジヤベェの。何回も求めてくるつーかぁ」
大学入学を期に移り住んだ学生アパートで、田辺は僕のノートパソコン東芝ダイナブックを操作しyoutubeからひたすらクラブミュージックを垂れ流し彼女との淫猥な生活を熱弁する。僕はギターの基礎練習を無心に行っていた。
「毎回生でやりまくり。マジ最高つーかぁ」
音楽のビートが細かくなる。
「お前もその年で童貞とかありえないっしょ、マジで」
曲のピークが近づく。
オー、オ、オ、オ、オ、オッオオッオッオッオオッオッオオゥ
Wow,Fantastic Baby
僕は叫んだ。壁に何度も頭を打ち付けて喉が枯れ果てるほどに。
人生にこれほどまでの屈辱があろうか。
そもそも人の部屋で彼女ほしいってあれだけぐずりまくってた情けなさの極地を行くこやつですら彼女が出来たってあり得なくないか。この世界はいったい何なんだ。
いや、まてよ。ギターを振りかぶり今まさに目の前の東芝ダイナブックを真っ二つにしようとした矢先に思い至る。
ひょっとして、この年まで彼女が出来たことないって本当にとんでもないことなんじゃないのか。
僕は人間的な欠陥でもあるんじゃないだろうか。
発狂した僕を見た田辺は一目散に逃げ帰り、机は吹っ飛び、窓は割れ、蛍光灯の破片がフローリング一杯に零れ落ち、日も暮れて暗くなってきた部屋の中で僕はネックの折れたギターを持って手を血だらけにして佇んでいた。
死にたかった。今なら勢いだけで手首を掻っ切って死ねる気がした。でも僕は死にたくなかった。矛盾した二つの感情が、確かに僕の中にうごめいていた。
生きてい良かったと言えることは何もなかった。
ギターは下手だと言われ、好きになった子は次から次へと彼氏が出来て、なんなら半端に仲のよかった自分が仲介役みたいになったこともあったし、汚いおっさんが清楚な子をペロペロしている動画を見ては夜中に歯がガチガチと鳴るほど泣いたこともあった。高校の同級生だった美少女島田さんは偶然服がこすれただけで般若みたいな顔になったし、女子の横に立つと舌打ちされたことも数多くある。
それでも僕は生きなければならなかった。例え人生のクライマックスまで独りだろうと、孤独死しようと、確かに生き抜かなければならなかった。
数十年後の未来。ひょっとしたら僕は寝たきりになって、ろくに動けず、食事を取ろうにも体が動かず、徐々に衰弱し、やがて汚らしい異臭を発した布団の上で衰弱して死ぬのかもしれない。
でも僕は確信していた。
死を目前にした未来の僕はきっとゆっくりと笑みを浮かべる。誰も見ていないだろうけれど、確かに笑みを浮かべると思う。
そして手を静かに掲げ、ピースするのだ。
どうだ、俺は自殺なんてしなかった。俺は俺の人生を生き抜いてやったぞって。
情けなさ過ぎる人生の中で、誉れ高く、自分の人生に敬意と自身を持って。
夕暮れに照らされたギターはへし折れていた。
足の裏に痛みが走る。蛍光灯の破片が突き刺さっているかもしれない。
目からあふれ出した涙は僕の顔をくしゃくしゃにしている。
今日は寝よう。美味いもんたらふく食って、爆死したみたいに寝よう。
それで明日目が覚めたらとりあえず掃除だ。
「ああ、明日もがんばるよくそがぁ……」
僕はくしゃくしゃになった顔のまま、笑った。